11月に見た公演 2018

11月に見た公演について短くメモする。


●伊藤郁女・森山未来 『Is it worth to save us?』 (11月1日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)
伊藤が実父と踊る作品『私は言葉を信じないので踊る』を見ることができなかったので、同じ彩の国さいたま芸術劇場で制作された伊藤と山崎広太のデュオと比較することに(その時は女性ダンサーがもう一人加わった)。パートナー選択の時点で作品は決まる。山崎とは破天荒なエネルギーの応酬、踊り狂いの炸裂だった。今回はより演劇的で、伊藤が攻撃、森山が受ける形。子供の頃、マイケル・ジャクソンにホテルのトイレで会ったと話す森山に、伊藤が「うそでしょ、うそでしょ」と言いながらまとわりつく。森山は「ほんと、ほんとなんだけど」と受けるが、徐々に受け身から攻撃に転じ、伊藤を千切っては投げ、千切っては投げ、最後には首を絞めるに至る。作品のハイライトだった。終盤、スタンダード・ナンバーを歌う森山の巧さ、ショーダンスの巧さ。伊藤はリズムに乗れない。不思議だ。フランス公演を控えているせいか、狂言の動き、舞踏系の動き(白目剝きも)を入れている。どうかと思ったが、後から考えるとジョークだったのかもしれない。


シュツットガルト・バレエ団 『白鳥の湖』 (11月9日 東京文化会館 大ホール)
1963年初演。ジョン・クランコの演出・振付は、ロマンティック・バレエ仕様だった。特に一幕。
①村人達は『ジゼル』風で、同じフォーメイションを踊る。
②王子は『ラ・シルフィード』のマッジ風に登場、手相見のマイムをする。
③王子は家庭教師の曲でブルノンヴィル風ソロを踊る。
④王子の女友達5人は『コッペリア』の友人風。
いずれも『白鳥の湖』のロマンティックな側面を強調するための引用と言える。古風な趣がある一方で、伝統的マイムは使用せず、踊りと演技は自然に繋がっている。一幕選曲(?)が激しい。ワルツはなく、一寸法師の曲で男友達5人が踊り、パ・ド・シスとパ・ド・トロワ曲の組み合わせで王子と女友達5人が踊る。自然な演劇性の重視、パ・ド・シスの使用は、1953年初演のブルメイステル版を思わせる。結末は異なるが(クランコは悲劇)、両者ともいわゆる「プティパ以前」を探究したということだろうか。


さわひらき×島地保武 『silts - シルツ -』 (11月25日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)
「KAAT EXHIBITION 2018 - 潜像 -」は、映像作家さわひらきの個展(同劇場 中スタジオ)。その映像作品『silts』他と共に、島地保武、酒井はなが踊る企画である。映像は完成・固定されているが、あたかも二人の踊りに応えているように見える。さわの映像がダンスと共通するミニマルな運動性を帯びていること、演出・振付の島地が周囲に開かれた肉体と思考を持っていることが、インタラクティブな共同作業を可能にした。
舞台には大きな衝立(映像はここに映写)、折り返しに丸い大きな穴が開いている。シモテにはターンテーブルが乗った丸テーブル、カミテには角笛のような複数のライトに裸電球が吊るされている。レコードの針を暗示する人差し指突っ込み運動、裸電球のフリフリ動き、柱時計振り子の高速運動、棒の回転など、温かみのあるミニマル映像に目が吸い込まれる。星空、川底、燈台、海岸、砂漠、ドールハウス、そこにヤギ、鳥が通り過ぎ、脚の生えたやかん、ポット、コーヒーカップ、鋏がトコトコと歩いていく。終演後にさわの個展も見たが、重なる作品も多く、パフォーマンスの続きのような懐かしさを覚えた。
音楽は主に映像に付されていたものを使用。ピアノとチェロ、アコーデオン、歯車の音、メトロノーム、ピチピチ音など、とぼけた脱力系ミニマル。前後には、レコードから流れるという設定で『コッペリア』のワルツが掛かる。島地が silts =沈泥 から連想した『砂男』(ホフマン作、『コッペリア』の原作)に因んだ選曲。酒井との絡みもあるのだろう。小道具の段ボール砲(スモークを充満させ両脇を叩くと、丸い穴から煙が発射される)がいかにも島地らしかった。
島地が円盤とレコードを持って顔を隠しながら登場。軽妙な腰つきで歩き、バレエの3番で向こう向きになる。終幕は反対に、酒井が同じシークエンスを演じて終わる。島地のストリート、モダン、コンテンポラリー、バレエを通過した肉体は、その片鱗を見せながらも、ただ「いる」ことのできる零度の体。バレエのポジションを含んだ伸びやかな踊り、ヒョコヒョコ、クキクキ踊り、コマネチなど、環境(映像・音楽)を感じ、それに体で応えている。一方の酒井は、バレエ、コンテンポラリー、能の入った体。『バヤデール』風のソロではポアントの威力を見せつける(島地の口からベールが、愛の形としての)。島地とのデュオもあり、可愛らしい存在感を発揮した。だが、本来の酒井は「いる」ことのできる野性味のあるダンサーである。振付を体に入れて存在の底まで落とし込んでいく実存派である。酒井の呼吸、気が感じられなかったのは、何か遠慮があったのだろうか。あるいは身体的に移行する時期なのだろうか。ギエムは瞑想にまで至っているようだが、酒井も見せることから解き放たれてもよいのかもしれない。

10月に見た公演 2018

10月に見た公演について短くメモする。


北村明子 『土の脈』 (10月14日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)
『土の脈』という題名だが、スタイリッシュでいかにも北村らしい作品。東南〜南アジアの土地からインスピレーションを得たにもかかわらず、雪のツリーが立ち、終盤には雪が降る。インド人のマヤンランバム・マンガンサナがドラマトゥルグで、音楽も提供(出演)。お経のような、ケチャのような歌を歌う。高音の美しい歌だが、増幅されているためオーガニックな匂いがしない。北村の無機的な美意識の反映なのか。アジアの武術を取り入れた振付、発話を伴った動きも、コンテンポラリー・ダンスの枠組みの中で作られている。
ダンサーでは、カンボジアのチー・ラタナの振付解釈(解体?)が素晴しかった。北村が武術をどのように組み込んでいるのか、チーの呼吸、回転の質、意味を伴った動きを見るとよく分かる。呼吸の振幅が大きく、動きのみで空気を動かせるダンサー。男性仮面舞踊の猿役専門とのことで、伝統芸能特有の色気もあった(ニュートラルに踊ることができないとも言えるが)。北村自身の踊りは相変わらず鋭く、武術と密に溶けあっている。他に加賀田フェレナの人間味のある踊りが印象的だった。


●正田千鶴 『空間の詩学』 @ 現代舞踊協会 「時代を創る」 (10年14日 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール)
84年初演作の抜粋。フィリップ・グラスのミニマルな音楽に、劇的な要素を汲み取る鋭い音楽性に驚かされた。幾何学的フォーメイション、フォルムの強度といった抽象性と並行して、中心を踊る男女には濃厚なドラマが生じる。ドゥミ・ポアント歩行、グラン・バットマン風の蹴りなど、バレエ技法への傾倒も。カニンガムのモダニズムを思い出させた。34年たっても全く古びないのは、動きそのものを創り出しているから。これほど自己が明確な振付家がいるだろうか。バレエ団のレパートリーに入るべき作品。


ジョージア国立民族合唱舞踊団 『ルスタビ』 (10月18日 中野サンプラザ
女性舞踊、男性舞踊、パ・ド・ドゥに、驚異的な男性合唱が加わる。舞踊技法はかかとを上げるつま先立ちが基本。男性はポアントのように、ブーツの先端で踊る超絶技巧を見せる(膝は曲げ気味)。男らしさに通じる技なのだろうか。膝での回転マネージュ、前屈ジャンプを膝で着地するなど勇壮な技もある。女性は長いスカートで天使のように滑って移動する。ドゥミ・ポアント風パ・ド・ブレか。
合唱は基本的にアカペラ。時に笛や琵琶のような弦楽器が加わる。二千年続くポリフォニーは、讃美歌のような荘厳なものから、土着的でリズミカルなものまで。ただし増幅されている。地声ならさらに胸を打っただろう。笛は斜めの構え。その理由は、2本同時にハの字にくわえた時に分かった。笛で足技をやるような超絶技巧、しかも平然と。ブルノンヴィル作品(19世紀作品)に伝統芸能の匂いがあるのは、難しい技をいとも容易く見せているからかもしれない。


イスラエル・ガルバン 『黄金時代』 (10月28日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)
前情報から、フラメンコ・ダンサーがコンテンポラリーダンスを踊る、と思っていたが、演奏家を含め、ほとんどがフラメンコだった。サパテアードの鋭さが素晴しい。ただし腕はニジンスキー風のフォルム等を描くので、フラメンコ本来の情念、空間の拡がりとは無縁だった。やや三枚目風の愛らしさは地だろうか。

日本バレエ協会「バレエクレアシオン」 2018

標記公演を見た(11月17日 メルパルクホール)。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。フリーの振付家にとって、バレエダンサーに振り付けられる絶好の機会。これまで協会員だけでなく、様々な分野で活躍する振付家が参加してきた。ただし舞踏系振付家はまだ見ることができない。山崎広太と井上バレエ団、伊藤キムNBAバレエ団、鈴木ユキオと東京シティ・バレエ団が生み出した作品を考えると、バレエと舞踏の親和性は高く、今後の参加を期待したい。今回は山本康介振付『ホルベアの時代から』、柳本雅寛振付『ピーポーピーポー』、キミホ・ハルバート振付『Le Sacre du Printemps 〜春の祭典〜』のバレエ1作、コンテンポラリー2作が選ばれている。
幕開けの山本作品は、グリーグの同名組曲と他2曲を使用。抒情的なアリエッタを前後に、女性主人公が夢に誘われ、男性とのアダージョ、若い男女や女性アンサンブルを交えた踊りを経験した後、元の世界に戻ってくるロマンティックな構成。シモテ奥にはピアノ(演奏:佐藤美和)、カミテ奥に一本の木、最後に枯葉が降り注ぐ。冒頭 女性が一人、両腕をふわりと前方になびかせドゥミ・ポアントになった瞬間から、音楽と動きの密やかな一致に魅了された。音楽が聞こえる振付家もいるが、山本の場合は、音楽と戯れるような動きの創出に才能がある。自然で、ほんのりユーモアとペーソスの滲み出る振付。バランシンのエコー(セレナーデ・腕繋ぎあり)が、水色のロマンティック・チュチュ、ポアント音なしのアンサンブルによって、水彩画のように繊細な世界にこっそり嵌め込まれている。6番で踏み切り6番で終わるトゥール・アン・レールも可愛らしい。
主人公を踊った長田佳世は、高比良洋と組んで、大人のそこはかとない情感を醸し出す。その音楽性、美しい脚遣い、誠実さが作品の磁場となった。うつ伏せになり、皆が去った後、一人目覚めて木に向かう一足一足に、人生の機微を知った穏やかな境地を感じさせた。盆子原美奈と八幡顕光は、若々しいデュオ。華やかなリフトに、八幡はチャルダッシュ風の踊りも披露した。14人の女性アンサンブルは英国系の慎ましいスタイルを身に付けて、山本の指導者としての力量を明らかにしている。
二作目はプロレス技に似たコンタクトが特徴の柳本の作品。すでに谷桃子バレエ団にも振り付けているが、今回は女性20人が対象のため、どのような作品になるのか想像できず。結果は、持ち味を生かした女子プロレスのようなマニッシュで美的な作品だった。客席に背を向けた石神ちあきに向かって、ダンサーが次々と登場、左右に分かれて踊る冒頭から、全員が舞台奥に向かって少しずつ前進する終幕まで、ブルースのような渋さ。西部劇風の乾いたギター、ピアノと女声の二重唱、メトロノーム風の刻みといった井上裕二の音楽も、同じくやり過ぎない寸止めのかっこよさがある。振付はハードなコンテンポラリー、時に痙攣気味の体割り、そして十八番のコンタクト。中心の石神、梶田留以は、振付家の意を汲んで野蛮、津田ゆず香は意外にもきれいな踊りだった。マイクを持った女性ダンサーのコミカルな痙攣体割りが面白い。野戦病院のようなカオスも、柳本の鉄壁の美意識で統一されている。バレエを基礎とする正統派のコンテンポラリー作品だった。
最後はハルバート振付『春の祭典』。ストラヴィンスキーの音楽に魅了され、15年に自らのユニットで初演、今回はその再演である。多数の女性ダンサーが客席から登場するダイナミックな幕開け。男性ダンサーも加わり、男女が組んで、また男女グループに分かれて、様々なフォーメイションを形成する。プログラムの言葉通り、エネルギーの飛沫が舞台上に飛び交う。振付は音楽に即しているが、同時に原典版の生贄物語も反映する。内股や俯いての足踏みなどもニジンスキーの影響だろう。生贄はハルバート自身が務めたが、シモテに陣取る女性と、要所で現れる少女も重要な役割を果たす。相対するのは一種異様な肉体美を誇る佐藤洋介。特に少女との間に、危険とも思われる密度の高い異空間が出現した。生贄に至る道筋には分かりにくさが残るが、女性28人、男性7人、総勢35人をエネルギッシュに踊らせた渾身の意欲作だった。

Kバレエカンパニー 『ロミオとジュリエット』 & 『ドン・キホーテ』 2018

標記公演を見た(10月13日, 11月16日 東京文化会館大ホール)。
ロミオとジュリエット』は2009年初演、演出・振付は熊川哲也である。熊川版の特徴は、ジュリエットの従姉ロザラインが活躍すること。ロミオを手玉に取り、モンタギューの女たちとカルメンまがいの喧嘩をする。ティボルトの死に際してはキャピュレット夫人に代り、激しい愁嘆場を見せる。その男勝りの人物造形に当初は驚かされたが、現行ではややおとなしくなり、物語によく馴染んでいた。作品自体も若々しい破天荒なエネルギーから、きめ細やかな演出に基づいた格調の高さへと移行、レパートリーとしての成熟を感じさせる。
感情の流れに沿った演出もさることながら、振付の充実も際立つ。パ・ド・ドゥは語り合いのよう、アンサンブルには熊川の音楽性が横溢する。特に二幕広場の男女群舞は熊川印のステップ満載で、フォークダンスのような楽しさだった。甲冑に身を包んだ騎士の踊り、百合の花の踊りも素晴らしい。男性ダンサーには、振付家の技量を反映したアン・ドゥダン多用の高度な振付が施され、作品の密度を高めている。ジュリエットはロザラインとキャラクターを分けたのか、感情を内に秘めた慎ましさが特徴で、パリスへの拒絶も礼節をわきまえていた。ソナベンドによる美術の深み、ロレンスの庵を立ち上げる足立恒の照明も印象深い。
ロミオの堀内將平は役を生きるタイプ。陰影を帯びたロマンティックなロミオ像だった。高難度の振付を美しく踊れる技量、パートナーへの密やかな包容力がある。ジュリエットの矢内千夏は、清潔で句読点を押さえた張りのある踊り。アラベスクの伸びやかさ、疾風のように鋭い回転が素晴しい。優れた音楽性と自在な技術の全てが役に捧げられている。やや和風の慎ましいジュリエットだった。酒匂麗の目の覚めるようなマキューシオ、杉野慧のダークなティボルト、西口直弥の優雅なパリス、山田蘭の淑やかで情愛にあふれたキャピュレット夫人、渡辺レイの原作を彷彿とさせるエネルギッシュな乳母。そしてスチュアート・キャシディの重厚なキャピュレット卿。パリスへの敬意、娘への愛が自然に体から滲み出る。カーテンコールでは矢内に対して、父親の眼差しを注いでいた。
ドン・キホーテ』は2004年初演。演出・再振付のみならず、舞台美術・衣装デザインも熊川の手による。アーチのある石造りの家並、風車を背景とする星空の夢の場、色鮮やかな衣装、特にキトリの白地に黒レースのチュチュが美しい。ドルシネアがプロローグから終幕までドン・キホーテを誘う演出。ガマーシュとの決闘もあり、キホーテの感情の流れが途切れず続く。踊りの充実は言うまでもないが、芝居のバランスもよく、特に4人組(ドン・キホーテ、ガマーシュ、サンチョ・パンサ、ロレンツォ)の細やかなやりとりが、舞台を温めている。
音楽面では、ジプシー野営地のバジルとキトリのパ・ド・ドゥに使用したモスクワ初演版の曲に、独自性があった。牧歌的なマズルカで、振りにもマズルカ・ステップが入る。エスパーダ・ソロの明るく粋な曲、またキューピッドの音楽を間奏曲に転用するなど、編曲も担当した福田一音楽監督の熱い想いが詰まった選曲。初演者である熊川の個性にも合致している。
キトリの矢内は登場の瞬間、跳躍の高さで度肝を抜く。芝居は作り込まず自然、年齢相応だが、クラシック・チュチュになってからの大きさが素晴しかった。抜きんでた音楽性、技術の高さ、パを遂行する余裕が、古典のオーラを醸し出す。矢内の美点である観客を包み込む晴れやかな存在感を、十二分に味わうことができた。対する堀内はロマンティックな造形。繊細な踊り、明確なアクセントで細密画のようなバジルを描き出す。回転、跳躍も美しく鮮やかだった。
ドン・キホーテのキャシディは狂気よりも父性が優る。バジルとキトリの状況をよく理解し、二人を結婚に至らしめる。愛情深い眼差しのキホーテだった。サンチョの酒匂は動きの切れと献身的愛らしさ、ガマーシュのビャンバ・バットボルト、ロレンツォのニコライ・ヴィュウジャーニンも役どころをよく飲み込んで、網の目のように細かい演劇空間を支えた。メルセデスの山田はもう少し激しさが欲しいが、伸びやかなライン、エスパーダの杉野は濃厚な伊達男だった。新加入の実力派 成田紗弥が、花売り娘で艶のある演技、グラン・パ第一ヴァリエーションで大きく確実な踊りを披露、今後に期待を抱かせる。アンサンブルは音楽性、スタイル共に統一されていた。
指揮は両作とも井田勝大。舞台をよく見る端正な棒だが、かつて福田が『R&J』において、たった一音で劇的空間を作り出し、『ドン・キホーテ』全編に熱い祝祭性を注入したことを思い出す。演奏はシアター オーケストラ トーキョー。

新国立劇場バレエ団 『不思議の国のアリス』 新制作 2018 ①

標記公演を見た(11月2,4,7,11日 新国立劇場オペラパレス)。バレエ団にとっての2018-19シーズン開幕公演である。クリストファー・ウィールドン振付の『不思議の国のアリス』は、2011年英国ロイヤル・バレエで初演された(主演:カスバートソン、ポルーニン、ワトソン)。今回はオーストラリア・バレエとの共同制作。昨シーズンに上演済みの同団からは、二人のゲストが招かれている。
ウィールドン版の特徴は、原作者ルイス・キャロルの人生が作品に組み込まれていること。さらにアリスを思春期の少女に設定し、庭師=トランプのジャックとの恋物語を主軸としたことが挙げられる。原作のおませなアリスよりも感情豊かで自然な造形は、初演のカスバートソン由来だろう。幕開けはヴィクトリア朝のオックスフォード。クライスト・チャーチ学寮長のリデル氏と妻が主催するガーデン・パーティに、同カレッジ数学教師のキャロルも招かれ、アリスたち三姉妹の写真を撮っている。夫妻、個性的な招待客は不思議の国でも活躍。キャロルは白ウサギに変身し、アリスも誘われて穴の中へ。お馴染みの不思議な出来事が続き、目醒めると今度は現代に。学寮長公邸はカフェに、庭は公園に変わっている。キャロル=白ウサギの生まれ変わり男に、スマホで写真を撮ってもらうアリスとジャック。二人が去った後、生まれ変わり男がアリスの残した本『不思議の国のアリス』を手に取るという、粋な終幕である(台本:ニコラス・ライト)。
演出・振付のウィールドンは英国ロイヤル・バレエ学校から同団に入団。その後NYCBに移籍し、ダンサー兼振付家となる。NYCBの常任振付家を経て、英国ロイヤル・バレエのアーティスティック・アソシエイトというブーメランのような経歴。『アリス』では、英国人らしいウィットとディタッチメントに富む語り口、バランシンの大胆とアシュトンのスピードをミックスしたような群舞など、自らの才能と蓄積を遺憾なく発揮している。自分の内なる物語を作品に反映させるのではなく、外にある物語を様々な語彙を用いて的確に身体化する、言わば職人肌の振付家。アシュトン、チューダー、ダレル、マクミラン、イーグリング、ビントレーという、新国立劇場バレエ団英国バレエ導入の系譜に連なる。
ローテク色豊かなボブ・クローリー美術の楽しさ。カメラがくるくる回る、鞄が入り口になる、赤バラが一瞬にして白バラに変わる、ハートの女王の巨大スカートの中に王様が座っている。その度に客席から声が上がる。バックドロップに雲のようにたなびく「Where are you?」「 How are you?」「 Who are you?」の文字。最後に「?」が出て、イモ虫の煙管から立ち昇る煙だったことが分かる。イモ虫の脇腹にも「?」の刺青。またマッドハッタ―劇場のバックドロップはなぜかリデル邸で、屋根には黒烏(?)が息づいている。ハートのマークが至る所に刻印されるなど(現代のジャックの胸にも)、原作を反映した遊び心満載のため、その全てを見ることは困難だった。
ジョビー・タルボットの音楽が素晴しい。多彩な打楽器、鍵盤楽器金管楽器をフルに使用、音楽のみで『アリス』の世界を現出させる。一瞬ブリテンのエコーが聞こえたりするが、すぐに霧の彼方に。陰影に富んだメロディとリズムが、いつまでも耳に残って離れない。時計の針を刻む白ウサギのテーマ、空を飛ぶようなアリスとジャックの愛のテーマ、公爵夫人の怖ろしいテーマ、華やかな花のワルツ、トランプのハードな2拍子、クロッケーの5拍子ラテン、象の鳴き声のようなウサギの角笛など。リデル邸カフェの前で、現代のアリスとジャックが踊るパ・ド・ドゥの時空を超えた懐かしさは、音楽の持つ魔術的な力そのものだった(その直前、ジャックはイモ虫ベリーダンスのリズムをラジカセで聞いているのだが)。 ②はこちら

新国立劇場バレエ団 『不思議の国のアリス』 新制作 2018 ②

主役は2キャストが組まれた。初日アリスの米沢唯は、目前に現れる不思議に対して、生き生きとした好奇心を見せる。体が大きくなったり縮んだりする飲み物・食べ物への思い切りのよさ、動物たちとのにぎやかな駆けっこ、ジャックとのみずみずしいデュエット。毎回アリスの冒険が新たに生きられている。対するジャックの渡邊峻郁も役を生きるタイプ。アリスへの優しさ、解雇された時の失望、そして裁判での必死の申し開きソロ。悲しみや苦しみが踊るにつれて徐々にエネルギーへと変わっていく。最後は自分の潔白を胸を張って主張、アリスとの勇気に満ちたパ・ド・ドゥへとなだれ込む。アリスを体で受け止める優れたパートナーでもあった。
二日目の小野絢子は、英国的ウィットを忍ばせる造形。持ち味の少女らしい可愛らしさと、状況のおかしさを批評するディタッチメントがあるため、原作のおしゃまなアリスを連想させる。振付のパをきちんと見せるのはいつも通り。もう少しコメディに振れると、小野のとんでもない面白さが出るかもしれない。対する福岡雄大は自然体。庭師からハートのジャックまでを悠然と演じる。裁判でのソロは勇壮で熱く、ビントレー版『シルヴィア』のアミンタを思い出した。古典とは異なり、地に沿った造形。「漢(おとこ)」だろうか(2018/2019シーズンバレエプログラム参照)。
ルイス・キャロル/白ウサギの奥村康祐は、キャロルの陰影よりも白ウサギの愛らしさに持ち味を発揮、じわじわと広がる不思議な存在感がある。同役の木下嘉人は、キャロルの複雑さ、白ウサギの一歩引いた批評性に持ち前の俯瞰力が生きた。清潔なバットリーも見応えあり。アリスの母/ハートの女王は3キャスト。ゲストのエイミー・ハリスはダイナミック、本島美和はツボを押さえた演技と踊りの美しさ、益田裕子はコミカルで直情的、と実力を発揮した。アリスの父/ハートの王は、初日の輪島拓也が英国伝統の弱い王を好演、ウィスキーを飲む、新聞を読む仕草が様になっている。妻への微妙な態度も巧みだった。二日目の貝川鐵夫は、やや亭主関白でエネルギッシュ(飲み過ぎか?)。下ネタは品よく控えめに。
手品師/マッドハッターは3キャストだが、ゲストのジャレッド・マドゥン、菅野英男しか見られなかった(他日は福岡雄大)。初演者マクレーのタップダンス技術を生かした振付を、経験者のマドゥンはよりショーアップして、菅野はクラシカルな美しさを武器に踊っている。ラジャ/イモ虫初日の井澤駿は、無意識を纏った肉体の色気と柔らかな踊りが女達を吸い寄せる。「?」そのものだった。二日目の宇賀大将は持ち味の男らしさを発揮し切れず、再演に期待する。侯爵夫人の吉本泰久は和風で実直、輪島は大胆、英国らしい破天荒な女装役で、芸の磨き甲斐がある。
その他ソリストたちも順当な配役。中でも、料理女の本島はマッジを思わせる突き抜けぶり、カエルの福田圭吾はカエルに見えた。3人の庭師 小野寺雄の音楽性、同 渡邊拓朗のノーブルな大きさ、また執事/首切り役人の貝川と中家正博がダークな存在感を見せる。中家はアンサンブルでも踊りの正確な美しさを誇った。トランプ・アンサンブルの切れのよさは(初演映像を見る限り)、本家を凌いだのではないか。
指揮のネイサン・ブロックはタルボットの音楽を余すところなく実現。休憩中もお浚いに余念のない東京フィルと共に、真っ直ぐなエネルギーを劇場内に充満させた。 ①はこちら

谷桃子バレエ団「創作バレエ・15」 2018

標記公演を見た(11月3日昼 新国立劇場中劇場)。伊藤範子振付作品のダブル・ビルで、新作『HOKUSAI』と、『道化師―パリアッチ』(13年)というプログラム。ミラノ・スカラ座での研修経験(16年文化庁特別研修員)を生かした、言わば帰朝報告である。
幕開きの『HOKUSAI』は、伊藤がミラノ研修中に見た「北斎展」にインスピレーションを得ている。北斎と花魁の叶わぬ恋を物語の軸に、江戸の様々な風俗が廻り舞台に載ってスピーディに展開する。音楽はゾルタン・コダーイを使用。神社横の絵にまみれた北斎の部屋、紅殻格子の遊郭、富士山の見える街並み、「ビッグ・ウェーヴ」と巨大な満月などの舞台美術は、鈴木俊朗・佐藤みどり、照明は足立恒、衣裳デザインにはサンティ・リンチャーリを起用した(衣裳製作:大井昌子)。コダーイの民族色豊かな音楽と江戸文化が、バレエを要に違和感なく融合している。
アーティストの苦悩を主題に据えるのは、伊藤作品の特徴。道化役者カニオ、詩人ホフマン、そして今回の画家北斎。男性ダンサーの苦悶するソロが作品を貫いている。祝祭的な群舞の楽しさ、キャラクター造形も的確だった。江戸風俗を見せることに力点があったのは、日伊の文化交流を意識したせいか。
北斎の檜山和久は、切れのよい踊りに絵描きとしての苦悩を滲ませる。花魁との恋も画業の肥しの一つ。対象を観察する鋭い視線が絵描きの業を示す。終幕に現れる「ビッグ・ウェーヴ」と満月に向かい合い、絵のみに精進する姿を観客の目に焼き付けた。花魁の永橋あゆみは垢抜けた佇まいが持ち味。格子窓にもたれかかる姿には、涼やかな色気と遊女の哀しみが漂う。檜山相手の精緻な踊りは、情愛の深さと気品を纏っていた。
ソリスト竹内奈那子、馳麻弥率いる女郎アンサンブルの濃厚な踊り、町人男女アンサンブルの闊達な踊り、そして何より、齊藤拓のノーブルな遊郭番頭(踊りの美しさ!)、赤城圭のそのままで生臭な僧侶、吉田邑那の熱血侍、岩上純のそのままで面白い商人が、バレエ団の美点を強調する。赤城はカーテンコールでも、小坊主を帰して遊郭に上がり込んだ申し訳なさを全身で表していた。
再演の『道化師』は、ネッダに酒井はな、トニオに藤野暢央をゲストに迎え、作品スケールの拡大を目指す。酒井は気性の激しさとシルヴィオへの恋心を豊かに表現、藤野は屈折した男の愛憎を見事に身体化した。主役のカニオは初演と同じ、三木雄馬。一本気でやや直情的な性格を研ぎ澄まされた動きと踊りで体現する。道化役者の悲しみを出すにはまだ若いが、「衣裳を付けろ」のソロでは、表現主義的な踊りで裏切られた男の嘆きと苦しみを見せつけた。ペッペ 牧村直紀の可愛らしいアルレッキーノ、シルヴィオ 安村圭太のノーブルな二枚目ぶりも嵌っている。
ただし全体のバランスを考えると、カニオの存在が初演時よりも後退した印象。様々な音源の使用も、やや統一感を損ねるように思われるが、コメディア・デラルテ様式の道化役者たち、牧歌的な村人アンサンブルの醸し出すヴェリズモ・オペラの雰囲気は素晴らしく、バレエ団の貴重な財産である。練り上げての再演を期待する。