NBAバレエ団新制作『シンデレラ』2021

標記公演を見た(2月7日 東京文化会館 大ホール)。同団は新制作の『シンデレラ』振付・演出にヨハン・コボーを招聘。コロナ禍のなか、様々な困難を乗り越えて、世界初演に漕ぎ着けた。コボーは、デンマーク・ロイヤル・バレエ、英国ロイヤル・バレエでプリンシパルを務め、振付家として『ラ・シルフィード』を始めとする改訂作品を、世界各国で上演している。13年から16年には、パートナー アリーナ・コジョカルの故郷、ルーマニア国立バレエ団で芸術監督も務めた。優れたブルノンヴィル・ダンサーで、DVD『Bournonville Ballet Technique-Fifty Enchainements』の模範演技は有名。新国立劇場公演でも、切れ味鋭いジェイムズを披露している。

コボー版『シンデレラ』全2幕(音楽 プロコフィエフ)は、主人公のシンデレラを、バレリーナを夢見る少女に設定した。自ら踊ってきたアシュトン版の影響を窺わせつつも、第1幕のレッスン場では、デンマーク・ロイヤルの出自を存分に生かしている。ピアノとヴァイオリンによる伴奏、教師の膝下丈ワンピースなど、20世紀前半を思わせる古風な教場。シンデレラ、教師(実は仙女)、継母のピアニスト、義姉たち、ヴァイオリニスト、男子生徒(後に王子)が、細やかなマイムで、悲喜こもごものドラマを描き出す。センターでのブルノンヴィル・クラスと共に、19世紀バレエの伝統を引き継いだ名場面だった。

幕開けのシンデレラと仙女による鏡面の踊りは、ブルノンヴィルの『ラ・ヴェンターナ』に由来。教場のポスターからにょきりと出てくる緑の精は、アシュトンの『夏の夜の夢』、白の精はプティパ=イワノフの『白鳥の湖』、赤の精はバランシンの『ルビー』を表して、先人振付家たちへのオマージュとなっている(3人は四季の精に相当)。

第2幕は王子の舞踏会。赤い靴を手にして結婚相手を探す王子が、ようやくシンデレラと出会う。仙女が銀河の流れる星空を出現させると、金のチュチュを身に着けたシンデレラと王子が劇的なパ・ド・ドゥを踊る。ダイナミックなシンデレラ・ソロからグラン・ワルツ、そして継母の時間厳守を想起させる時計のテーマへ。夢から覚めると、元の教場。現実に引き戻されるシンデレラに、マフラーを取りにきたヴァイオリニストが、優しくトゥシューズを履かせる。二人は手に手を取って教場を後にする。華やかな王宮の幸せではなく、バレエへの夢を共にするパートナーとの未来は、いかにもコボーの選んだ結末だった。

初演ということもあり、教場から舞踏会に至るシーンはドラマの流れがやや弱いが、バレリーナを夢見る少女が勇気を持って生きるストーリーは、若い観客の琴線に触れるのではないか。バットリー多め、高難度の振付は、クラシックダンサーの究極の理想を提示し、ダンサー、観客の両方に啓蒙的な効果をもたらした。

主役のシンデレラには、若手の野久保奈央が抜擢された(初日は英国ロイヤル・バレエ プリンシパルの高田茜)。文字通りシンデレラ・ストーリーだが、とても初主演とは思えない堂々たる主役ぶりだった。持ち味の高い跳躍、バットリーの鋭い切れ味、変則フェッテの鮮やかさ、回転技の揺ぎなさなど、技術の高さ、確かさが、舞台に熱い旋風を巻き起こす。さらにチュチュ姿での迫力にも驚かされた。ラインに気が漲り、懐の深ささえ感じさせる。古典の様式性、ドラマティックな踊り、温かみのある自然な演技、コミカルな味わいが揃うバレリーナ。今後が大いに期待される。

両日王子を務めた宮内浩之は、持ち前のノーブルな味わいを十分に発揮、踊りにもさらに磨きがかかった。シンデレラの野久保を優しくサポートしている。一方、ヴァイオリニストで、舞踏会では道化となる新井悠汰は、力みのない軽やかな跳躍で、舞台に清涼な風をもたらす。ヴァイオリニスト時には、性根からの優しさを見せて、シンデレラと共に歩む地道で慎ましやかな日々を予感させた。

バレエ教師=仙女の浅井杏里は、厳しさ、暖かさ、品格ある佇まいが揃う、まさにバレエ教師(実際バレエミストレスでもある)。シンデレラに自立を促すところなど、演技とは思えないリアリティがあった。継母ピアニストの佐藤圭、義姉たちの鈴木恵里奈、阪本絵利奈、男子生徒の三船元維も、役どころを十二分に心得て、作品の演劇的側面を支えている。緑の精 須谷まきこの小気味よい踊り、白の精 吉川風音の優雅さ、赤の精 猪嶋沙織の情熱的な踊りなど、全体に個性を生かした配役が楽しい。男性アンサンブルの技量の高さ、女性アンサンブルの統一されたスタイルが、舞台に厚みを加えている。

NBAバレエ団オーケストラを率いる冨田実里が、力強く情熱的な指揮で、世界初演を成功に導いた。星空のパ・ド・ドゥでは、激烈なクレシェンドで、野久保の踊りを大きく盛り上げ、主役デビューを祝福している。

 

 

西村未奈・山崎広太 @ DaBY トライアウト[ダブルビル]2021

標記公演を見た(2月9日 Dance Base Yokohama)。ダブルビル1作目は、鈴木竜(DaBY アソシエイトコレオグラファーを中心としたコレクティブダンスプロジェクト『never thought it would』、2作目が西村未奈・山崎広太の『幽霊、他の、あるいは、あなた』。スタジオは暗幕が張り巡らされ、薄暗い照明。入口側三方に2列の客席が設置されている。天井には白木の木組みが吊られ、所々斜めに落ちている。鈴木作品の舞台美術だが、西村・山崎作品でも共有された。暗幕については、後者のために設えたのだろうか(前者とはそぐわず)。

『never thought it would』は、鈴木が演出・振付・ダンスを担当、池ヶ谷奏、藤村港平のダンス、タツキアマノの音楽、一色ヒロタカ、宮野健士郎の舞台美術、丹羽青人のドラマトゥルク、竹田久美子の衣裳、武部瑠人の照明に、畠中真濃(DaBY レジデンスダンサー)、田中希(DaBY / 制作)という布陣。トライアウトはこれが3回目だが、配信で見た前回とは美術が異なる。本番に向けて作品を練り上げるというよりも、毎回様々な角度から実験を行なってきたのだろう。12月には、愛知県芸術劇場小ホールで作品を上演予定とのこと。本格的な作品作りはこれからという印象を受けた。

天井に吊るされた木枠は、一つの横木を引くと、別の箇所が連動して動く仕組みになっている。ダンサーがその木の動きとユニゾンしたり、コンタクトするなど、舞台美術と関わる動きが大半を占めた。鈴木の肉厚な動き、池ヶ谷の振付意図を完全に理解した、切れ味鋭い動き、藤村の分節化されていない肉体の甘やかさ、自意識の強さなど、それぞれの個性は発揮されたが、ダンス自体の熱量には、やや物足りなさを覚える。鈴木の本来の体は、実存的なぶつかり合いを欲している(藤村と実際ぶつかっていたが、もっと本質的な)。統一的視点を作らず、それぞれのクリエーターがドラマトゥルクの言葉に沿って作品を持ち寄る、多視点のパフォーマンスなのだとは思うが、最終的には、演出する鈴木の世界観が核として必要ではないか。

『幽霊、他の、あるいは、あなた』は、西村、山崎の振付・テキスト・出演、菅谷昌弘の音楽による。薄闇の中、濃紺と黒の柔らかい上下を纏った西村が、舞台の中央に佇んでいる。意識の凝集されたその身一つで、空間、観客が一気に統一され、息づき始める。右腕長めのスレンダーな体に、様々な意識が入っては去る、その微細な肉体の動き。川に面したベンチに座るお婆さんの話をひと頻りして、西村はお婆さんになった。

カミテ床には、黒い上下の山崎が、うつ伏せになっている。頭を奥にし、動かない動きで徐々に前進。体は動かずとも、意識が行き渡っているので、肉体を凝視できる。カミテ奥壁に到達した山崎は、立ち上がり、動きながら前方へ来る。クネクネ動くだけで、華やかな色気が迸るのはいつも通り。今回はその体の重さに驚かされた。昨夏の軽快な体とは全く異なる、暗黒物質のような重厚な塊。やや湿り気を帯びた、吸い込まれそうな暗闇である。『暗黒計画1』に続く、土方巽へのオマージュだろうか。山崎は再び奥へと向かい、闇に消えた。

西村は、地衣類の好きな友人の話をする。あまりに好きなので、地衣類になって世界を見るのだという。地衣類は百年に1ミリしか成長しない。見えていない所にいるので、幽霊と似ている。西村は小さくなり、地面の底から世界を見る。奥壁には、山崎の後ろ姿が幽霊のように現れる。動かない動きでシモテへと漸進。山崎は地衣類、苔だったのか。頭を屈し、両手のみ見える場合、右手のみ踊る場合あり。両手を広げる動きは、背中合わせにもかかわらず、前方の西村と同期した。場を少しずつ変える山崎に対し、西村は舞台中央をほとんど動かず。西村が樹で、山崎は苔? 体の絡みはないが、気配を絡ませて、老婆、幽霊、地衣類、苔、と変態していく静かな時空を共に生きた。

菅谷昌弘の作る轟音、生体モニターのようなピッという微かな音(途中ピッピッピッピッと急変を告げることも)、音をモノ化させたようなピアノ音が、途切れ途切れの体、生死のあわいを、控えめに示唆する。ダンサー二人の老いて引いていく体に、慎ましく繊細に寄り添った。

かつて人形のような幼さを帯びていた西村は、ソーダ水のような透明無垢の資質はそのままに、成熟を通り過ぎて、老いを表象しうる体に到達している。体と踊りが一致し、意識の変遷を含め、全てを見ることができた。山崎の舞踏メソッドに沿っているが、発話、変態が自然で切れ目がない。西村固有の汗をかかない、死体に近い体だった。

山崎は、西村を中央に置き、自らは周縁に陣取る。『暗黒計画1』の明暗デュオと同じ、西村への深い愛情を感じさせる。自身は貫禄の舞踏。客席を確認する余裕あり(以前からそうだが)。「日本の体」を標榜しつつも、オリエンタリズムには迎合しない、現在の自分を追求する体だった。昨夏の軽みと今回の重みは、どのように体を変えているのだろうか。

笠井叡『櫻の樹の下には ― 笠井叡を踊る ―』2021

標記プレビュー公演を見た(2月3日 吉祥寺シアター)。笠井叡は2015年春、女性ダンサー6人(黒田育世、寺田みさこ、森下真樹、上村なおか、白河直子、山田せつ子)を集めて、『今晩は荒れ模様』を創った。この時は、笠井のテリトリーである舞踏、オイリュトミーの経験者が含まれていたが、今回集められた男性5人(大植真太郎、島地保武、辻本知彦、森山未來、柳本雅寛―五十音順、辻本のシンニョウは一つ点)は、バレエ、ジャズダンスを起点とするコンテンポラリーダンサーばかりである。いずれも3,40代の踊り盛り、荒武者のような彼らの体に「笠井さんのウィルス*」がどのように侵入したのか、昨秋の詳細発表以来、待ちわびた公演だった。

* 「笠井さんのウィルスが侵入してきて、私の細胞に振付しているようです。動きを与えるというより、呼び覚ますというような振付」(2020.11.28 島地保武 Twitter

標題通り、笠井は梶井基次郎の短編『櫻の樹の下には』を作品のモチーフとし、補助線に、戦後のニヒリズムを描いた三島由紀夫の『鏡子の家』を使用した。1人の女性に4人の男性が通う三島作品の構造を、櫻=日本をめぐる自作の導入に用いている。冒頭、黒スーツの男性5人がふらりと現れ、鬱々と佇む。そこに、輝くアイボリーのドレス姿、白とピンクの羽耳飾りを付けた白塗りの笠井が、風に吹かれるように登場する。「この国は櫻の国、この国は櫻の国」と謡いながら、中央奥の小部屋へ。桜の花びらがはらはらと散るなか、女王のように悠然と座り、男たちを見守る。

笠井=鏡子は櫻の樹、彼女に群がる黒スーツの男たちは、その樹の下に埋まる屍体である。黒スーツの中身、筋骨隆々とした屍体の背には刺青が施され、白褌が締められている。彼らの体から流れ出る「水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆ」き、笠井を潤すと、その笠井のエネルギーが男たちに放射され、狂乱へと駆り立てる。藤圭子『命預けます』をバックに踊られる日舞デュオや剣舞、上方に吊られた笠井が絢爛たる櫻となり、その花吹雪のなか屍体たちが乱舞する終幕。美を突き抜けるアナーキーな「日本」が、笠井の痩身から一息に吹き出された90分だった。

『今晩は荒れ模様』同様、今作でも、笠井のダンサー評を見る楽しさが横溢する。5人それぞれへの愛称。大植はユリアヌス、島地はカリオストロ、辻本はジニウス、森山はド・モレー、柳本はジャンヌ。

笠井と最も近い所にいたのは、ユリアヌス大植。最初から最後まで、まるで我が家のように超ハイテンションで動いていた。得意の鉄板ブリッジや、直立後方倒れ、肩首逆立ちを披露しつつ、笠井の振付も全力で遂行。笠井にドイツ語で操られるソロもハンブルク・バレエ在籍経験あり、ノイマイヤーがこれを見たらどう思うか)。最もバレエの技法が入っているのに、最も遠い精神性を持つ。終盤、笠井が、「ユリアヌス、スウェーデンに帰らないでー、日本にいておくれー」と叫ぶ一幕もあった。

カリオストロ島地は、唯一関西勢ではない。笠井の技法を分析、クールに習得しようとする。大きさと技術面から、柳本と相似形の振付も。島地のダイナミックな中盤ソロに、笠井が奥から加わり、激しくアナーキー踊りをする即興デュオには、笠井の島地への愛があふれた。77才と42才のバトルは互角のエネルギー。20年前、50代の笠井がいきなり青年将校になったことを思うと、内実は同い年バトルだったのかもしれない。

ジニウス、天才と名付けられた辻本は、中盤、薄羽かげろうのライトがちらつくなか、得体のしれない不定形のソロを見せる。かつてのストリート系を駆使した切れのよい踊りから、どのようにしてここまで来たのか。

ド・モレー森山は体躯と相貌から、女形を振り付けられた。白打掛に白袴で辻本、柳本と日舞デュオを踊る。内股も実行したが、動きよりも心根で女性となった。正座の涼やかさ、笠井ににじり寄る慎ましさ、露わになった太ももの品のよいエロティシズム。作品世界への入り方、身の投げ出し方に、俳優 森山を見た気がする。

ジャンヌ柳本のみ女性名。『瀕死の白鳥』のような腕遣いとパ・ド・ブレを見せたが、途中で日本刀の剣舞を舞い、男性と化した。柳本の美しいポール・ド・ブラで女性を思い、迎合しない気質を見て男に変えたのか。それともジャンヌ・ダルクか。

かつて土方巽にライバル視され、大野一雄に深い愛情を注がれた笠井*は、一世代下のダンサーたちに、繊細な愛のウィルスを降り注ぐ。彼らも笠井を胴上げすることで、その愛への返礼を行なった。公演が終わった後も、5人の体には、笠井叡の後遺症が目に見えない形で残るだろう。

* 笠井叡『未来の舞踊』(ダンスワーク舎, 2004年)―長谷川六による「あとがき」 + 山野博大(編著)『踊る人にきく』(三元社, 2014年)―笠井叡 × 木佐貫邦子「男のソロ、女のソロ、そしてデュオ」

付記:山野博大氏は、2月4日、本作初演に立ち会った後、翌5日に急逝された。享年84。

 

 

 

1月に見た振付家・ダンサー2021

島地保武日本バレエ協会全日本バレエ・コンクール ガラ・コンサート」(1月23日 新宿文化センター)

コロナ禍で開催されなかった「全日本バレエ・コンクール」に代わり(訂正 夏の予定が、延期された)同コンクールより輩出されたダンサーたちのガラ公演が開催された文化庁 次代の文化を創造する新進芸術家育成事業)。歴代入賞者の華やかなヴァリエーションや創作が並ぶなか、最後を飾ったのが、酒井はな(89年ジュニア部門入賞)とパートナー島地保武による『In other words』(振付:島地保武)。二人はこれまでも「アルトノイ」というユニット名で作品を上演してきたが、今回はバレエ協会という場所柄か、酒井を生かす振付となっている。

小品ながら3場に分かれ、1場は脱力自然派の日本語女声歌(音源記載なし)に乗せて、二人の出会いを描く。原始人(未開人?)風オカッパ頭、肌色オールタイツの島地が、シモテから直立でギコギコと滞る動きを見せる。中央奥から、お下げ髪、カラフルな上着の酒井が、後すざりしながら手前へ。互いにぶつかると、なぜか四つん這いになった島地の背に酒井が立つ。バランスを取りながら上着とズボンを脱ぎ、肌色オールタイツに。酒井も島地レベルの原始人になったということか。島地は四つ足歩行でカミテへ入る。

音楽はバッハ(?)に切り替わり、酒井が中央でフォーサイス崩しを伸びやかに踊る。マルコ・ゲッケを踊る時のような、開放的な喜びが体に広がり、バレエとコンテを両立させてきた 酒井の来し方を思わせる。直立歩行に戻った島地との大小ユニゾンは、パートナーであることの喜びにあふれていた。島地の太いしなやかさ、酒井の引き絞られた繊細な切れ味が、音楽と同期し、同じラインを描き出す。二人のユニゾンを、初めて見た気がした。

甘いアメリカン・スタンダード(女声)が流れると、二人はハッと驚く。今度は向かい合っての愛のパ・ド・ドゥ。抱っこ回転で、酒井のお下げが飛び跳ねる可愛らしさ。最後はヒコーキぶん回し回転で、二人共うつ伏せに。島地の「ブタイ?」という発語で、終幕となった。島地の作りたい世界は明確である。屈折した照れ隠しを含みながらも、酒井との原始的な愛の形を初めて踊りにした。

舞台を見ながらの妄想。金森穣振付で、酒井と島地が踊り、島地振付で、井関佐和子と金森が踊る。こうすれば、島地は照れずにパ・ド・ドゥを踊れるし、井関と金森は、別次元の関係を結べるのではないか

 

吉﨑裕哉日本バレエ協会全日本バレエ・コンクール ガラ・コンサート」(1月23日 新宿文化センター)+ 現代舞踊協会「新進舞踊家海外研修員による現代舞踊公演」(1月26日 新国立劇場小劇場)

吉﨑裕哉は島地同様、演劇学科出身で、Noism 在籍経験がある。大きさとスター性は共通するが、資質は対照的。島地は即興・振付をするのに対し、吉﨑は振付家の意図に沿う踊り手である。驚いたことに吉﨑は、日本バレエ協会現代舞踊協会文化庁 次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」公演の両方に、二日を挟んで出演した。

日本バレエ協会では、キミホ・ハルバート振付『INBETWEEN REALITIES』。ペルトの音楽によるスタイリッシュなコンテンポラリーダンスを、女性二人を相手に踊る。「その場にいる」強烈な存在感、女性と自然に絡む開かれた身体、真摯な振付遂行で、作品に暖かな血を通わせた。

現代舞踊協会では、土田貴好・小倉藍歌振付『giving』。「3月満月」の自然派音楽(生演奏)をバックに踊る6人の一人。切り株の上に立ったり座ったり、男性同士ハグしたり。土田・小倉の創るユートピアの中で、吉﨑はこれまた自然に存在する。ただし土田と相対するエッジの効いた振付では、共に Noism での蓄積を思わせる切れ味があった。真っ直ぐに振付を遂行する姿勢は、ハルバート作品と同じ。さらには、山田うん演出・振付『NIPPON・CHA! CHA! CHA! 』での、熱い演技と踊りを思い出させた。

東京シティ・バレエ団「ウヴェ・ショルツ・セレクションⅡ」2021

標記公演を見た(1月24日 ティアラこうとう大ホール)。演目は、日本初演の『Air !』(82年 シュツットガルト・バレエ団)、団初演の『天地創造』よりパ・ド・ドゥ(85年 チューリッヒ・バレエ団)、再演の『オクテット』(87年 チューリッヒ・バレエ団)の3作。ウヴェ・ショルツ(58~04年)初期作品群である。指導は、ライプツィヒ・バレエ団でショルツの薫陶を受けた ジョヴァンニ・ディ・パルマ、木村規予香による。

東京シティ・バレエ団が最初にショルツ作品を導入したのは、13年の『ベートーヴェン交響曲第7番』(91年 シュツットガルト・バレエ団)だった。「音楽性の優れたバレエ団」を目指す 安達悦子芸術監督の希望による。同作は14年「NHK バレエの饗宴」で再演、16年都民芸術フェスティバル参加公演で再々演された。17年には『オクテット』団初演。18年「ウヴェ・ショルツ・セレクション」で『ベト7』と『オクテット』をダブル上演、19年に再び「NHK バレエの饗宴」で『オクテット』を再々演し、今回の「セレクションⅡ」に至る。

幕開きの『Air !』は、バッハの「管弦楽組曲第3番」に振り付けられたシンフォニック・バレエ。第2楽章の有名な「アリア(エア)」を含む。ショルツ24才の作品だが、若書きの印象はなく、すでに独自のスタイルが確立されている。左右に移動する二次元美の追求(アラベスクへの執着)、カノンの楽しさ、繰り返しの懐かしい喜び、モダンの語彙を含む動きの自在さ(前後に開いたポアント立ちの両脚をブルブルさせて、トリルを表す)など。バランシンの音楽性が視覚に訴えるのに対し、ショルツの音楽性は胸、肚、皮膚を直撃する。音楽の腑分けが、ショルツの体全体を通して行われ、動きが快楽と共に生み出されているからだろう。

白、黄土色、海老茶それぞれのオールタイツを、男女が身にまとい、総勢14名のダンサーが踊る。ショルツ・ダンサーの佐合萌香、華やかな中森理恵、献身的にサポートする土橋冬夢、ノーブルな濱本泰然による第2楽章エアは、シルエットから始まり、女性の浮遊するラインの美しい軌跡を描き出す。第4楽章ブーレでは、土橋が全てを出し切る情熱的な踊りを見せた。アンサンブルを率いる玉浦誠の技量と優れた音楽性が、ショルツ振付のニュアンスを実現している。

続いて上演された『天地創造』からパ・ド・ドゥは、ハイドンの同名オラトリオを舞踊化した全幕作品からの抜粋。第3部のアダムとイヴによる愛の二重唱(バスとソプラノ)が踊られる。アダムの力強さ、イヴの嫋やかさを、キム・セジョンと佐合が体現。キムはこれまでにない逞しさを見せたが、さらなる情熱を期待したい。佐合は「するするする」(小山久美 スタダン総監督)と独特の踊り方で、ショルツ振付の切れを滑らかに見せる。しっとりとした中に、何があっても受け止める芯の強さを感じさせた。

4回目の『オクテット』は、メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」に振り付けられた作品。バッハの『Air !』と似たような構成(総踊り、アダージョ、男性ソロ、総踊り)ながら、動きの面白さが際立っている。音楽が要請するのだろうか。急にポアント立ち、急にアラベスク、急に直立倒れ、急に女性の膝を抱える、など。思わず頬が緩む。もちろん心を温める繰り返しの喜びも。第2楽章では、美しい肢体の清水愛恵とノーブルな濱本による、情感あふれるアダージョを見ることができた。第3楽章の福田建太(初日は吉留諒)によるアレグロ・ソロは、溌溂と美しい。動きの溜めが面白く、音楽を楽しんでいるように見えた。女性ダンサーの伸びやかなライン、男性ダンサーの切れの良さが、作品に生き生きとした躍動感を与えている。

バッハ、ハイドンメンデルスゾーンと、バロック、古典派、ロマン派の音楽を続けて聴く(見る)喜びがあった。バッハとメンデルスゾーンライプツィヒに縁が深く、後者は前者の死後初の『マタイ受難曲』復活上演を果たした関係にある。選曲の妙を感じさせる「ショルツ・セレクション」だった。

谷桃子バレエ団『海賊』2021

標記公演を見た(1月16日 東京文化会館大ホール)。監修はイリーナ・コルパコワ、台本・演出・振付はエルダー・アリーエフ、2015年団初演の全2幕版である。昨年の「NHKバレエの饗宴」、同じく日生劇場バレエ公演で上演予定だったが、コロナ禍で中止に。改めて新春公演での再演となった(アリーエフの指導は昨年2、3月に終えているとのこと、今回は来日できず)。本作は、創立者 谷桃子が総監督として携わった最後の作品である。コルパコワとも直接会談し、バレエ団の特徴、方向性を伝えた上で、『海賊』上演が決まったという。谷は3月21、22日の初演を見届け、翌月26日に逝去した。16年には谷自身が上演を待ち望んでいた『眠れる森の美女』が、同じコルパコワ監修、アリーエフ演出・振付で初演されている。

アリーエフ版『海賊』は、男性ダンサーの活躍する冒険活劇、ではなく、海賊の首領とギリシャ女性によるロマンティックな愛の物語である。19世紀バレエに必須のマイムは使用されないが、伝統的踊りがドラマトゥルギーに則って配置され、一貫した物語を堪能できる。踊りの多いブルラーカ=ラトマンスキー復活版と比べると、「余計なところがない」(齊藤拓 前芸術監督)点が大きな特徴と言える。

主役のメドーラとコンラッドは、4つのパ・ド・ドゥで愛の軌跡を描く。一瞬の出会いを永遠化した 市場のパ・ド・ドゥ、コンラッドの夢の中のアダージョ、ハーレム再会の劇的デュエット、結婚のパ・ド・ドゥ(海賊のパ・ド・ドゥ)。コンラッドの夢に見立てられた「活ける花園」には、当然ながらギュリナーラの姿はなく、そのヴァリエーションはハーレムの余興で踊られる。また結婚のパ・ド・ドゥでは、アリのヴァリエーションをコンラッドが踊り、水入らずで愛の成就を歌い上げる。フォルバンの発砲が結婚の祝砲と化すのが面白い。

主役メドーラの初日は佐藤麻利香、コンラッドは福岡雄大新国立劇場バレエ団プリンシパル)、二日目は馳麻弥と檜山和久、その初日を見た。

佐藤と福岡は共に、アリーエフが主席バレエマスターを務めるマリインスキー劇場プリモルスキー分館バレエ団で、オーロラ姫とコンラッドを踊った経験がある。初顔合わせながら、強靭なテクニックとクリーンなスタイルが一致し、阿吽のパートナーシップを築き上げた。佐藤の楚々とした美しさ、内に秘めた情熱、果敢な振付遂行が、バレエ団の伝統を体現する。磨き抜かれた体の作る、リフト時の絶対的フォルムも、素晴らしかった。

対する福岡は、ソロルと共に究極のはまり役。万全のテクニックは円熟味を帯びて、ソビエトバレエ特有の重みが加わっている(重心を低くして踊るとのこと―プログラム)。覇気あふれるアクロバティックな踊り、舞台を統率する気の漲り、楷書のようなサポートが揃い、凛々しく美しいコンラッドを造形した。洞窟で手下に「一人にしてくれ」と告げ、眠りにつくと、「活ける花園」が一面に広がる。ロマンティックな逢瀬を経て、パ・ド・ブレで離れるメドーラを遠くへと見やる姿からは、デジレやソロルの面影が濃厚に立ち上った。

ギュリナーラの齊藤耀(二日目は竹内菜那子)は、明るく溌溂とした踊りに大きさが加わり、持ち前の芝居心で、物語の流れに大きく貢献した。サイード・パシャ齊藤拓とのハーレムでの駆け引きには、メドーラたちを助けたいという熱い思いが根底にある。踊りで物語を表現できる演技派ダンサーである。対する齊藤パシャは、コミカルな振付の中にも、ノーブルな味わいが滲み出る。足技も切れ味鋭く、初演時の岩上純、近藤徹志とはまた異なるパシャ像を作り上げた。今後のキャラクター造形に期待が高まる。

ランケデムには牧村直紀(二日目は市橋万樹)。奴隷商人の酷薄さにはやや欠けるが、齊藤ギュリナーラと共に晴れやかなパ・ド・ドゥを披露した。オダリスク山口緋奈子、山田沙織、永井裕美は、伸びやかで大きな踊り。若手の多い花園アンサンブル(ポアント音なし)は、おっとりした娘らしさでバレエ団のスタイルを継承している。

谷桃子バレエ団のもう一つの伝統、濃厚なキャラクターダンスは、海賊たちが体現した。フォルバン・ソリスト吉田邑那、種井祥子のダイナミックなマズルカを始め、市橋万樹、田村幸弘等が、エネルギッシュな踊りで祝宴を盛り上げた。

大きく踊るキーロフ・スタイルは、1幕1場での佐藤のソロに最も残されている。全体的には、心で踊るバレエ団のスタイルに落ち着き、順調なレパートリー化を辿っている。音楽は録音音源ながら、高音質で臨場感にあふれた。

 

新国立劇場バレエ団「ニューイヤー・バレエ」配信2021

標記公演の配信を見た(1月11日 新国立劇場オペラパレス―無観客)。当初演目は、『パキータ』、バランシン作『デュオ・コンチェルタント』、ビントレー作『ペンギン・カフェ』のトリプル・ビル。コロナ禍で指導者の来日が困難となり、バランシン作品を、国内振付家(含団員)による3つの小品に変更した(10.22)。演目・配役共に今公演が、吉田都監督の実質デビューとなるはずだったが、残念なことに直前の1月4日、関係者1名のコロナ陽性が判明し、公演中止の判断を余儀なくされる。その後、再検査で他の全員が陰性と分かり、リハーサルを再開、最終日の11日に、無観客上演を無料ライブ配信することになった。是が非でもダンサーを踊らせたいという、吉田監督の強烈な意志を感じさせる。当日配布予定だった無料リーフレット(インターネット上で期限付き公開)には、充実した作品解説が掲載され、吉田監督の公演に賭ける意気込みを伝えている。

配信には2万8千人がアクセスし、通常 劇場に足を運べない人々もバレエ団の舞台に触れることができた。記録映像も残り、ダンサーの体にも作品が刻印されたが、無観客での舞台は、ダンサーにとって心もとなかっただろう。「体がびっくり」(吉田監督冒頭挨拶)した直後のリハーサル再開ということもあり、本来の仕上がりよりはややマイルドな印象を受けた。

第1部『パキータ』の団初演は2003年、18年ぶりの再演は不思議な気もする。初演時にはマリインスキー劇場からワジーエフ芸術監督とクナコーワが来日し、伝統版を伝えた。女性ソリストのヴァリエーションは、ミンクス追加作曲『ナイアードと漁夫』、プーニ『カンダウル王』、チェレプニン『アルミードの館』、ゲルベル『トリルビィ』より、が選ばれている。(2008年ブルラーカ復活版では15曲の楽譜を揃えたという)。

主役は米沢唯、渡邊峻郁(二日目は木村優里、井澤駿―中止)、パ・ド・トロワは池田理沙子、柴山紗帆、速水渉悟、ソリストは寺田亜沙子、細田千晶、益田裕子、奥田花純、いずれも適役である。米沢は舞台を率いる気概十分、精緻な回転技が冴えわたる。渡邊はダイナミックな跳躍で見せ場を作ったが、米沢と張り合う二枚目の色気を出すには至らず。公演チラシの写真(米沢)でも明らかなように、吉田監督の理想は、最終的には、観客を抱え込む舞台人の色気を備えることだろう。観客の感情を受け止める器となるには、自分を捨てるしかない。米沢と渡邊なら実現できるような気がする。トロワの速水は、芯からバレエの伝統と繋がっている。体幹の強いシンメトリーの体から、19世紀バレエの清潔な香りが漂う。トゥール・アン・レールは両回転できるはずだが、なぜか実行せず。

第2部は国内振付家の3作品。木下嘉人作『Contact』は、昨年3月に中止となった「DANCE to the Future 2020」で初演されるはずだった(記録映像あり)。その後各地で再演を重ね、今回の上演に至る。初演時キャストは米沢と木下だが、今回は小野絢子と木下、二日目に米沢と渡邊(中止)という配役。ミニマルなオーラブル・アルナルズ『Happine Does Not Wait』が生演奏されるのは画期的だろう。小野は、昨秋の中村恩恵作品同様、クラシックの蓄積を生かし、音楽的で艶やかなコンテンポラリーダンスを見せる。新境地を拓くというよりも、持っていた才能を開花させた印象だった。コロナ禍を反映し、「触れる」、「触れないで触れる」を追究した作品だが、コンサートピースとしてはやや短く、コンセプトの展開が望まれる。

昨年逝去した深川秀夫の『ソワレ・ド・バレエ』(83年)からパ・ド・ドゥは、17年に米沢唯と奥村康祐、池田理沙子と井澤駿がバレエ団初演し、その後、池田と井澤により再演された。今回は池田と中家正博という組み合わせ。池田の甘さ可愛らしさを、中家の研ぎ澄まされたノーブルスタイルが包み込む。テンポのせいか、深川のニュアンスがやや薄れたが、星空に青紫のチュチュが生える、爽やかなグラズノフ・パ・ド・ドゥだった。

貝川鐡夫の『カンパネラ』は、リストの同名ピアノ曲に振り付けられた男性ソロ。2016年宇賀大将、貝川のWキャストで初演、19年に福岡雄大、貝川で再演された。いずれも素晴らしい出来栄えだったが、今回は福岡が山中敦史の生演奏と渡り合う(二日目は速水―中止)。福岡は貝川の日本的ニュアンスを最もよく伝える。重心の低い 地をさらうような動きに、重みがあり、フォルムの力強さにベテランの円熟味を見せる。ピンポイントの音感だが、ピアノを待つところもあり、一騎打ちというよりも、福岡の音楽を読む懐の深さが印象に残った。日本のバレエ団にふさわしいコンテンポラリー・ソロである。

ビントレーの『ペンギン・カフェ』(1988年 英国ロイヤル・バレエ)は、2010年 ビントレーが新国立劇場バレエ団芸術監督に就任した開幕公演で上演された。その後13年に再演、8年ぶりの上演である。以下は当時の公演評。

 最終演目『ペンギン・カフェ』は、民族音楽の要素を多く含むサイモン・ジェフスの曲を創作の端緒とする。振付も多彩だった。ボールルームダンスやモリスダンスなど、種々の踊りを動物たちが賑やかに踊る。終盤は一転してカフェの入口が「ノアの箱船」の入口となり、動物と人間が二人一組で入っていく。夕闇迫る中、ペンギンが遠ざかる箱船を背に一人佇んで幕となる。

動物は全て絶滅危惧種であり、このペンギン種が既に滅んでいる事実を知らなくとも、生と死についての深い洞察が作品に隠されていることは明白である。シマウマが射殺される時の崇高な痙攣、消え入るように立ち去るネズミの小さな魂。動物たちの楽しげに踊る姿は、束の間の生、種のはかなさと表裏である。原題にある Still Life の二重の意味、「人生は続く」と「静かな生(静物画)」が、振付家の詩的で繊細な演出を通して静かに伝わってくる。

ダブルキャスト全員が献身的な演技を見せるなか、シマウマ 古川和則の高密度のフォルム、ノミ 西山裕子の的確で音楽的な動き、ネズミ 福田圭吾のペーソスと役への同化が素晴らしかった。またペンギン さいとう美帆の細やかなフットワーク、ヒツジ 湯川麻美子とパートナー マイレン・トレウバエフの洒脱な踊り、モンキー 福岡雄大の華やかさ、熱帯雨林家族の貝川鐵夫、本島美和の無意識の哀しみも印象深い。

入口は入り易く、出るときは思索家となる優れた作品。恐らく子供の目と頭は深い理解を示すだろう。ポール・マーフィ指揮、東京フィル。(2010年10月27、28、30日、11月3日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2835(H23.2.21号)初出

  ビントレー初期の傑作『ペンギン・カフェ』(88年)は、サイモン・ジェフ率いるペンギン・カフェ・オーケストラの「世界音楽」を用いた被り物バレエ。ヒツジ、サル、ネズミ、ノミ等が民族音楽に乗って楽しげに踊るが、彼らは実は絶滅危惧種であり、狂言回しのペンギンは既に絶滅していることが、最後に分かる。

終幕、黒い不吉な雨を逃れ、動物と人間が対になってノアの箱船に乗り込む。しかしペンギンの前で扉は閉ざされ、あとに一人ポツンと残される。残されたことさえ分からないその無防備な立ち姿は、死そのもの、我々の行き着く先である。

さらに今回は3・11以前の前回と比べ、住むところを追われた熱帯雨林家族の哀しみが、他人事ではないリアリティを持って胸に迫ってきた。生の喜び(踊り)を味わううちに、いつの間にか死の影に捉えられる。緻密に計算された重層的な作品である。

久々復帰のさいとう美帆が嬉々としてペンギンを演じている。ウーリーモンキーの福岡雄大、オオツノヒツジの湯川麻美子、カンガルーネズミの八幡顕光、福田圭吾、ケープヤマシマウマの奥村康祐、古川和則もはまり役だった。最大の見せ場は貝川鐵夫、本島美和と子供が演じる熱帯雨林の家族。その無意識の哀しみ、無垢な魂が緩やかな動きとなって流れ出す。本当の家族に思われた。

演奏はポール・マーフィ指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。(2013年4月28、29日、5月4日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2900(H25・6・11号)初出

 今回の配役は、ペンギン:広瀬碧、オオツノヒツジ:米沢唯、カンガルーネズミ:福田圭吾、ノミ:五月女遥(二日目は奥田花純―中止)、ケープヤマシマウマ:奥村康祐、熱帯雨林の家族:本島美和、貝川鐡夫、岩井夏凛〈子役〉(二日目は小野絢子、中家正博―中止)、ウーリーモンキー:福岡雄大。久しぶりにビントレーの超ハードかつ音楽的な振付を、ダンサーたちが喜びと共に踊っている。初演時からの福田、本島、貝川、福岡(出演順)が作品を牽引、福田の変わらぬ愛らしさが印象深い。二回目の奥村は成熟した肉体美を見せて、ビントレーの本質を突いた数々の配役を思い出させた。米沢は『パキータ』でポアント、ヒツジでハイヒール、さらにシマウマ・モデルでもハイヒール、終幕は裸足、とタフ。バレエ団オリジナル作品ビントレー版『パゴダの王子』と共に、再演を期待する。

東京フィルハーモニー交響楽団を率いるのは、冨田実里。ミンクス、オーラブル・アルナルズ、グラズノフ、サイモン・ジェフスを鮮やかに振り分ける。通常録音音源で踊られるコンテンポラリーダンスを含め、全て生演奏にこだわった吉田監督の気概に、気概で応えた。『ペンギン・カフェ』のカーテンコールは、サンバと共にだったのか。