大和シティー・バレエ『美女と野獣』2020

標記公演を見た(12月27日 大和市文化創造拠点 シリウス芸術文化ホール メインホール)。演出・振付は宝満直也、美術は長谷川匠、衣裳デザインはプロデューサーの佐々木三夏、音楽はショスタコーヴィチ曲による全2幕の物語バレエである。ヴィルヌーヴ夫人の原作を基に、登場人物を野獣、ベル、父、近衛隊長、求婚者3名に絞り、悪い仙女によって野獣共々 動物に変えられた配下が、ソリスト、アンサンブルを形成する。原作通り、ベルの夢に元の王子が現れるため、単なるフェアリーテイルに留まらない文学的厚みが加わった。ベルの求婚者3名が悪役として活躍するのは、コクトー映画の影響だろうか(ディズニー映画は未見)。

野獣と王子が交互に現れ、ベルと対する演出を見るうちに、ビントレー版『シルヴィア』を思い出した。言わばオライオンとアミンタが一人の人間に合体した印象。野獣が城壁にぶらさがる場面は、ビントレー版オライオンへのオマージュだろう。また、子役のベルと現在のベルが交錯するノスタルジックな情景は、ビントレー版『パゴダの王子』の援用である。ビントレーのダンサー育成企画「NBJ Choreographic Group」を端緒に振付を始めた宝満にとって、ビントレーはメンターのような存在。師と同様、ダンサーの才能と個性を見抜き、それにふさわしい振付を施し、感情の流れが作れるようになった現在の宝満を見て、ビントレーはどう思うだろうか。ビントレーが大切に育てた主役の小野絢子と福岡雄大は、当時と同じように生き生きと踊り、創作を基盤とするアルカディアを幻視させた。

硬軟取り混ぜたショスタコーヴィチの選曲は、物語を的確に導いている。動物ディヴェルティスマンのある1幕は、あくまで明るく、野獣と求婚者たちの戦いがある2幕は、悲劇的でドラマティックな曲が多い。振付は緻密な音楽解釈を反映、キャラクター描写に優れる。特に1幕は、複雑なパ・ド・ドゥはもちろん、得意とする動物の踊りに見応えがあった(小鳥アンサンブルのアクセント!)。物語を立ち上げる力、そこはかとないユーモアのセンス、コミカルな場面を演出する手腕、といった宝満の才能が、総合された全幕初演だったと言える。ただし、終幕にかけて野獣とベルの物語が後退する点は疑問。ショスタコーヴィチの音楽に触発されたのか、村人蜂起が加わり、野獣と求婚者たちの戦いが前面に出る。野獣の死にかける理由が、ベルを失った孤独ゆえではなく、ナイフで刺され、銃で撃たれたため、は、ややドライに思われる。野獣から王子に戻る契機にも、分かりにくさが残った(本来はベルが結婚を承諾したため)。

長谷川匠の美術はすっきりとしたセンスのよさ。上下する赤バラの花綱カーテン、終幕に降り注ぐ花びらに、どこか日本的な情緒を漂わせる。佐々木三夏の衣装デザインも品の良さが特徴。ベルのグレーと薄ピンクのワンピース、ブルーグレーのドレス(ダイヤの髪留め付き)、野獣の茶のぼかし入り白ズボン、小鳥たちの羽毛を思わせるチュールが素晴らしい。プログラム、チラシに至るまで、統一された美意識を感じさせた。

主役ベルの小野は、はまり役。凛とした可愛らしさ、ピンポイントのユーモア、抒情的な愛の表現、と小野の美質が遺憾なく発揮されている。これまで踊ってきたジゼル、ジュリエット、シルヴィア、さくら姫、妹ぶた(宝満作)を思い出しながら見た。対する野獣の福岡も、同じくはまり役。野獣の荒々しい激情(食器を払いのける)、不器用な感情表現と深い苦悩、王子の健康的な凛々しさを、奥行きある演技と力感あふれる踊りで演じている。マイムも雄弁で、古典を踊り続けてきた年月を思わせた。小野との呼吸も当然ながらぴったり。二人の資質の細部を穿つ宝満の宛て書きを、最大限形にした、ベテラン・コンビならではの緻密な造形だった。

小野の兄ぶただった八幡顕光は、今回は愛情深い父。夏の伴蔵(牡丹灯篭)に続き、芸達者なところを見せる。同じ兄ぶたの福田圭吾は、今回はおサルの近衛隊長。舞台人の原点とも言える猿役を、鮮やかな踊りと共に披露した。野獣の福岡を励ます熱さも福田らしい。子ザルを含む猿一党の場面は、妙におかしかった。

求婚者には、中家正博、木下嘉人、池田武志が揃い、切れの良い踊りに悪のオーラを発散させる。ゴリラ時のヤンキー座りが様になっていた。中家と野獣福岡の激しい一騎打ちも見もの。カナリヤの奥田花純、オオルリの五月女遥、ローズフィンチの野久保奈央には超絶技巧、クジャクの相原舞には優雅な踊りと、それぞれの個性を生かした振付も楽しい。動物、村人アンサンブルが生き生きとした踊りで、振付家のダンサー愛に応えている。

2020年公演総括【追記】

2020年の洋舞公演を振り返る(含2019年12月)。

コロナ禍のため、今年は昨年12月から3月までと、7月から11月までの実質9ヵ月の総括になる。自粛期間中は映像配信が充実し、世界のダンス事情を知ることができたが、パフォーミング・アーツの本質、「演者と観客が同時にその場にいる」ことによる全身体験は叶うべくもなかった。生身のダンサー、そして観客にとっても、コロナ以前は遠い昔のことに思われるだろう。ステイホーム中に経験した、常にバックグラウンドタスクが体の中で行われているような緊張と疲れは、東日本大震災の衝撃とは異なるものだった。震災直後は放射能の不安がありながらも、劇場を開けることで観客を慰め、勇気づけることができた。今回は劇場を開けることにリスクを伴う点が、大きく異なる。万全の感染予防対策を施した上、開場してからは、演者、観客、劇場が一つになってコロナ禍を乗り切ろうとする、運命共同体のような感覚が芽生えているように思われる。

新国立劇場バレエ団では、大原永子芸術監督から吉田都芸術監督に交代した。コロナ禍のため、大原監督企画の3演目は中止となり(『マノン』は後半2公演中止)、監督は英国に一時帰国したが、ロックダウンで足止めされる。残りの任期中には、公演の代替企画「巣ごもりシアター」で、『マノン』、『ドン・キホーテ』、『ロメオとジュリエット』の記録映像を配信した。芸術参与だった吉田現監督もバレエ団の指導に加わり、こどものためのバレエ劇場『竜宮』でも助言を行なっている。大原監督についてはコチラ

吉田監督就任後初のシーズン開幕公演は、自らのメンターであるピーター・ライトの『白鳥の湖』を予定していた。だが、コロナ禍で指導者の来日に見通しが立たず、前季中止となった『ドン・キホーテ』に振り替えられた。さらに、大原前監督にとってダンサー育成の集大成となるはずだった主役6組を、そのまま踏襲する。吉田監督らしい情に厚い選択と言える。一方 NHK 番組と組んだ配信には、米沢唯と主役デビューの速水渉悟を選び、芸術面での妥協のなさを示した。

今季ラインアップ配役に見られる新機軸は、パートナーの固定化を解消したことである。ダンサーが個として自立しなければ、舞台での化学反応は起きない。舞台は稽古場での成果を発表する場ではなく、アーティストが魂を燃やす場、そのエネルギーを観客に与える場である。ダンサーとしてこれらを実行してきた吉田監督らしい決断と言える。監督就任前から就任以後も、その知名度を生かし、テレビを含む様々な媒体でバレエ団の現状を発信してきたが、特に、ダンサーの環境改善(含経済)がパフォーマンスの向上に必須であるとの発言に、芸術監督としての強い覚悟を見ることができる。すでにトレーニングマシンの導入や、ウォームアップスペース、休憩所の設置など、実現できるものは行なっているという。また、バレエ団にはこれまでの芸術監督の蓄積があり、自分は「最後の味付け」をするだけとの言葉は、いかにも吉田監督らしい。現在3公演を経て、すでに若手の有望株が出現し、主役級にも変化が起きている。劇場側には環境面の向上を、ダンサーには吉田監督の指導の下、自らの才能を開花させることを期待したい。

コンテンポラリーダンス界にとっての朗報は、6月 横浜市に Dance Base Yokohama(DaBY)がオープンしたことだろう。 運営は一般社団法人セガサミー文化芸術財団、芸術監督は、愛知県芸術劇場シニアプロデューサーの唐津絵理が務める。旧横浜生糸検査所生糸絹物倉庫・事務所を復元・改築した建物のため(3階に入所)、4本の柱が立つボックスインボックス型のスタジオとなった。今はない神楽坂 die pradze や Bank ART Studio NYK 、またセッションハウス同様、柱が規定するクリエイティブな空間は貴重である。コロナ禍のため、他劇場同様、数々の企画が中止になったが、急遽リモート企画に変更、配信も行うなど、順調にスタートを切った。国内外のコンテンポラリー・ダンサーが常時集える母港、さらに、スタジオの三方を取り囲む回廊から自由に創作現場を見学できる、社会に開かれたダンスハウスの誕生である。

同じ横浜市には、2011年開館の KAAT 神奈川芸術劇場(運営:公益財団法人神奈川芸術文化財団)がある。観劇以外でも立ち寄れる劇場を目指すことで、「観客を創造」することに加え、アーティストの育成も活動の柱に据える。KAAT DANCE SERIES で国内振付家に新作を依頼するほか、演劇作品にもダンサーを多く起用し、国内コンテンポラリーダンス界の活性化を図る。昨年末の秋元松代作、長塚圭史演出『常陸海尊』では、平原慎太郎が重要な役どころを演じ、新年の如月小春作『NIPPON CHA! CAH! CHA!』では山田うんが、自らのカンパニーと俳優陣を演出・振付した(本来は DANCE SERIES)。また10月の谷賢一作・演出『人類史』では、エラ・ホチルドを振付に起用し、俳優・ダンサーの混成チームに、四つん這い時代から宗教の発生までを体で表現させた。ダンス・演技のどちらにおいても、俳優・ダンサーの区別は分からず、「舞台人」がいるのみだった。

【追記】[上記方針は、白井晃芸術監督(今年度で退任)によるものだったのだろうか。白井監督と言えば、2017年9月24日に行われた KAAT de CINEMA『Back to the 80's』のポストパフォーマンストークを思い出す。山崎広太をゲストにヌーヴェル・ダンスについて語ったのだが、山崎がトークにおいてもダンスを実施したため、著しく嚙み合わない対話となった。もう一つ、山崎は渡米前だったか、シアタートラムの PPトーク平田オリザとも対談している。平田曰く「広太さんはよく失神してましたねぇ」。その愛情深い口振りが今でも忘れられない。]

余談だが、6月に KAAT で上演予定だった岡田利規作・演出『未練の幽霊と怪物』は、リモートでリハーサルを行い、一部をリーディング形式でオンライン配信された。道路に面した部屋に机が一つ、それを劇場に見立て、俳優を映すスマホが出入りする(女性が操作)。外の音も聞こえ、スマホが生きて動いているような可愛らしさがあった。

地方では、愛知県芸術劇場の芸術監督に、勅使川原三郎が就任した。記念公演『調べ―笙とダンスによる』を12月に上演、来夏上演予定のファミリー・プログラム ダンス公演『風の又三郎』では、愛知及び近隣県のバレエダンサーを起用し、地元のダンス活性化を図る。公共劇場芸術監督(舞踊部門)としては先輩の金森穣も、カンパニーを Noism Company Niigata と改名し、さらに地域密着型を目指す。学校へのアウトリーチ活動や、地元舞踊団体への振付、視覚障害者へのワークショップなど、公共劇場専属舞踊団としてあるべき姿を追求する。この経験はカンパニー及び振付家の金森自身にとっても、新たな実りをもたらすのではないか。

 

【バレエ振付家

上演順に、松崎すみ子『くるみ割り人形』(バレエ団ピッコロ)、鈴木稔『くるみ割り人形』(スターダンサーズ・バレエ団)、ワイノーネン=斎藤友佳理改訂『くるみ割り人形』(東京バレエ団)、バランシン『セレナーデ』(新国立劇場バレエ団)、ウィールドン『DGV』(新国立)、伊藤範子『Fiorito』(谷桃子バレエ団)、V・ヤレメンコ『海賊』(日本バレエ協会)、宝満直也『狼男』(NBA バレエ団)、安達悦子改訂『眠れる森の美女』(東京シティ・バレエ団)、マクミラン『マノン』(新国立)、パリ・オペラ座『ジゼル』、牧阿佐美『トリプティーク(青春三章)』(牧阿佐美バレヱ団)、中原麻里『雪女』(大和シティー・バレエ)、堀内充『シンフォニック・ダンス』(堀内充バレエコレクション)、中島伸欣『檻の中で』(東京シティ)

 

【モダン&コンテンポラリーダンス振付家

上演順に、勅使川原三郎『忘れっぽい天使』(KARAS)、井上恵美子『かもめ食堂』(井上恵美子ダンスカンパニー)、山田うん『NIPPON CHA! CHA! CHA!』(神奈川芸術劇場)、金森穣『シネマトダンス―3つの小品』(Noism)、森優貴『Farben』(Noism)、安藤洋子『ARUKU』(象の鼻テラス)、山崎広太『ダンス・スプリント』(Body Arts Laboratory)、森山開次『竜宮』(新国立劇場)、木下嘉人『CONTACT』(大和シティー)、福田紘也『死神』(大和シティー)、大島早紀子オペラ『トゥーランドット』(神奈川県民ホール)、松崎えり『その空のあおさに友は目を潤す』(セッションハウス)、貝川鐡夫『ロマンス』(新国立劇場バレエ研修所)、伊藤キム+森下真樹『マキム』(東京芸術劇場)、岩渕貞太『Gold Experience』(岩渕貞太身体地図)、中村恩恵Shakespeare THE SONNETS』(新国立)

 

【女性ダンサー】

上演順に、一人一役で、塩谷綾菜のクララ、沖香菜子のマーシャ、井関佐和子(金森穣)、永橋あゆみ(伊藤範子)、佐藤麻利香(伊藤)、安藤洋子(安藤)、酒井はなのメドーラ、加治屋百合子のメドーラ、湯浅永麻(ヒーリー)、竹田仁美(宝満直也)、米沢唯のマノン、本島美和の娼館のマダム、池田理沙子の亀の姫(竜宮)、成田紗弥のメドーラ、青山季可のオーロラ姫、白河直子(大島早紀子)、小野絢子(中村恩恵

 

【男性ダンサー】

上演順に、一人一役で、秋元康臣のくるみ割り王子、元吉優哉のくるみ割り王子、吉﨑裕哉(山田うん)、金森穣(金森)、奥村康祐のコンラッド、浅井信好(ヒーリー)、刑部星矢(宝満直也)、ムンタギロフのデ・グリュー、木下嘉人のレスコー、中家正博のムッシュー G.M. 、渡邊峻郁の浦島太郎、山崎広太(山崎)、福田圭吾の巳之吉(雪女)、渡邊拓朗の和尚(牡丹灯篭)、清瀧千晴のフロリモンド王子、藤島光太のフランツ、正木亮のコッペリウス、西口直弥のビルバント、キム・セジョン(松崎えり)、松本大樹(松崎)、福岡雄大のバジル、井澤駿のバジル、速水渉悟のバジル、島地保武(森山開次)、伊藤キム(伊藤)、岩渕貞太(岩渕)、首藤康之中村恩恵

新国立劇場ダンス『Shakespeare The Sonnets』2020

標記公演を見た(11月28, 29日 新国立劇場中劇場)。構成・演出・美術原案・振付は中村恩恵、音楽はディルク・P・ハウブリッヒ。シェイクスピアの『ソネット』に登場する詩人(私)、青年、ダークレディを軸に、『R&J』、『オセロ』、『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』のそれぞれ一場面を引用、3場にまとめている(70分)。変幻自在な役振り、出入りの絶妙な間合い、的確な振付など、円熟味のある演出である。ただ全体に照明が暗く、なぜ人生の闇(夜)にばかり焦点を当てるのか、疑問が残る。

初演は、東日本大震災が起きた2011年、ビントレーの『パゴダの王子』初演の1ヵ月前、シーズン幕開けの公演だった(13年再演は未見)。そしてコロナ禍での再々演。未曽有の体験が、キリスト教をバックボーンとし、人間の苦境を注視する中村の志向に拍車をかけたのだろうか。初演は中村自身と首藤康之。当時はペダントリーが勝ち過ぎている印象だった。ダンサー中村の過剰な意味性に反応したのだと思う。

余談だが、中村がキリアンについてのライブ配信トーク(9/24 DaBY)を行った際、「以前NDT にお勤めしていたとき」と表現したことに驚かされた。プロなのでカンパニーが職場という感覚は当然かもしれない。だが「お勤め」という時代を感じさせる言葉と、上半身裸も辞さない仕事とのあまりの乖離に、中村の浮世離れした超俗感覚を思わされた。

今回の再々演では、新国立劇場バレエ団プリンシパルの小野絢子と渡邊峻郁、同じく米沢唯と初演者の首藤という2キャストが組まれ、作品に新たな様相が加わった。

初日の小野と渡邊は、本作のバレエ団レパートリー化へ糸口をつけた。小野の緻密な音楽解釈と、クラシック技法による振付の腑分けは、今後 後輩ダンサーにとっての指標になると思われる。さらに初演時にはさほど明確でなかったそれぞれの役解釈が、小野のこれまでの蓄積により、繊細な陰影を帯びるようになった。美青年の無垢な可愛らしさ、ジュリエットの初々しさ、オディールを洗練させたようなダークレディの芳香、デズデモーナの貞淑、タイターニアの無邪気な愛らしさ。特にダークレディの香気は素晴らしい。対する渡邊は、恋する詩人、美青年、ロメオ、オテロシャイロックを真っ直ぐに表現(パックは馴染まず)、小野の優れたパートナーとなった。ダークレディのパ・ド・ドゥは、コンサートピースになりうる感情の応酬がある(『マノン』を幻視)。また、二人がオカッパ頭に黒の上下でユニゾンを踊るシーンは、両性具有のエロティシズムが漂い、作品の持つセクシュアリティの幻惑を実現させた。

2日目の米沢と首藤は、初日のバレリーナ中心ではなく、首藤の特権的肉体が主軸となった。冒頭の頁をめくる動作から、すでに神事である。かつてベジャールの『ボレロ』や、『M』の聖セバスチャンで見せた エロスそのものの体を思い出させた。当時はアポロン的だったが、現在は陰のアポロンディオニソスではない)。美しく鮮やかな腕遣いに暗い情念が纏わりつく。特にシャイロックのソロは、自らの闇の奥を焙り出すような気迫に満ちていた。米沢に対しては女性というよりも、娘を慈しむような愛情を注ぐ。その米沢は、中村の動きと役作りのニュアンスを丹念に辿り、首藤のよきパートナーたらんと務めた。美青年の凛とした清潔な佇まいは、中村版『火の鳥』でも見せたもの。ダークレディは相手が変われば、米沢本来の解釈が見られただろう。カーテンコールでは、地母神のような中村、首藤と共に、芸術を神とする聖家族の絵姿を現出させた。二人と精神世界を共有する稀有なダンサーである。

10月、11月に見た振付家・ダンサー2020

松崎えり @ 松本大樹監修ダンスブリッジ「ダンスは時代とともに」(10月24日 セッションハウス+配信)

標題は『その空のあおさに友は目を潤す』。同時上演は柿崎麻莉子作・出演、中村蓉演出『drug』。観客の作品理解を深めるため、公演配信前に、平田友子による「ダンス歴史講座」(10/12)、同じく平田の司会で、松崎、柿崎、松本が、自らのダンスメソッド遍歴を実演を交えながら語り合う「デモンストレーション」(10/13)が無料配信された。

公演当日、配信現場に居合わせる機会を得る。ダンサーの息遣い、体の状態は皮膚感覚で迫るが、カメラ中心の完全な映像作品のため、モニターと実演を交互に見ることになった(作品の全体像はアーカイヴ配信で確認)。

松崎作品は前作と同じ標題で、出演も松本、松崎、キム・セジョン、坂田尚也、と同じだが、ほとんど新作である。終演後トークでの松崎の弁、「今日来たら、振付が変わっていた、ダンサーたちも振付している」。松崎の大きく切り取られた空間構成、音楽と無音を駆使する緻密な時間構成、呼吸と脱力を含む自然派振付という大枠の中で、ダンサーたちが自由に泳いでいる印象である。ダンサーの内側から生み出される新鮮な動き、観客も深く呼吸できる自由な空間は、松崎の懐の深さに起因するのだろう。

松崎のみが女性だが、全員人間同士という感じ。松崎とキムのデュオも互角の対決である(同時上演の柿崎も、本来はこのタイプなのでは?)。キムは所属団体(東京シティ・バレエ団)でのノーブルスタイルをかなぐり捨てて、荒々しいパトスを爆発させた。途中、母語でのしみじみとした述懐も。バレエ技法からくる体の大きさ、空間掌握が、作品の熱い核となった。坂田はキムの通訳係を心を寄り添わせて演じる。踊りにも周囲と体で対話する楽しさが滲み出た。長年 松崎と踊ってきた松本は、変幻自在の動き。深い呼吸を伴うしなやかな動きには、ベテランの滋味も。体でその場を俯瞰し、座をまとめ上げる。終演後に見せた赤い眼には驚かされた。コロナ禍の下、監修者として、ダンサーとしての思いがあふれたのだろうか。

 

中島伸欣 @「シティ・バレエ・サロン vol.9~ TOKYO CITY BALLET LIVE 2020 』(11月17日 豊洲シビックセンターホール)

標題は『檻の中で』。冒頭 薄闇のなか、手前から白いガスが噴霧される。よく見ると防護服にマスクのダンサーたちが、あちこちに佇んでいる。親子3人、男女4人、恋人同士、黒い防護服にゴーグルの男2人と女性が、コロナ禍の、あるいは放射能禍の現在を踊る。演技ではなく動きのみで、それぞれの関係と苦悩を描き出す中島の円熟の振付。バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」に呼応して、両腕を振り子のように上下させる動きが通奏低音となった。

中島の愛のパ・ド・ドゥは、防護服でも変わりはなかった。向かい合う男の左腰に女が右足を置く官能性、女の床での錐もみ回転を足首をもってサポートする男、肩乗せリフトを通り越して前転する女。意想外の動きを駆使し、現代的な男女の関係を防護服の中から浮かび上がらせる。直後の黒い男たちに責められる女性ソロも、苦しみや叫びが動きを通して伝わってきた。全員が揃う終幕では、死者が生前を振り返るように 冒頭と同じ振付が繰り返されて、それぞれの人生が濃厚に立ち現れた。両袖から消毒ガスが噴霧されて幕となる。中島の振付細胞が全開した新作。バッハと登場人物の感情を緊密に結びつける音楽解釈が素晴らしい。コロナ禍と向き合う創作を初めて見た。

同時上演はジョン・ヒョンイル振付『Two feathers』、草間華奈振付『Life is . . .』、石井清子振付『ノスタルジー』。ジョン作品はリモートで振り移された。昨年同様、バーを使った二者の対立、ポアント無しながらフォーサイスを思わせる強烈なバレエ・ポジション、音取りの早さと、パ数の多さ、動きの力強さが特徴である。白鳥と黒鳥が片手を繋いでユニゾンする表裏一体の振付も。場面が重なるにつれてダンサーのアドレナリンが放出する、踊り応えのある作品だった。

草間作品は、石黒善大の踊る苦悩のソロが核。もう少し明確なコンセプト、フォーメイションの工夫が望まれるが、クラシカルなソロやジャズダンス風のショーアップに自らの引き出しをのぞかせた。石井作品は、東京シティ・バレエ団が踊り継ぐ財産。音楽に導かれた女性らしい情感を、若い世代(スタジオ・カンパニー)が踊りこなしている点に、創作をレパートリーに持つバレエ団の強みが感じられた。公演監督はキム・ボヨン。

 

島地保武 @『星の王子さまサン=テグジュペリからの手紙ー』(11月13日 KATT神奈川芸術劇 ホール)

演出・振付・出演:森山開次、美術:日比野克彦、衣裳:ひびのこづえ、音楽:阿部海太郎、演奏:佐藤公哉、中村大史、歌唱:坂本美雨、出演:森山、アオイヤマダ、小㞍健太、酒井はな、島地保武、坂本、池田美佳、碓井菜央、大宮大奨、梶田留以、引間文佳、水島晃太郎、宮川愛一郎(チラシ掲載順)。

星の王子さま』とサン=テグジュペリの人生をだぶらせて描く森山の意欲作。阿部のエスニックな音楽を、その場で熟練の奏者が演奏、坂本が声でダンスと呼応する贅沢な座組である。楽器は、ヴァイオリン、ギター、鉄琴、口琴、ホーミー声、ハープ、ブズーキ、アコーディオン。日比野夫妻の美術・衣裳も遊び心にあふれ、目を楽しませる(女性衣装が少しエロティックだが)。

第1部(45分)は、サン=テグジュペリ(小㞍)の夜間飛行、王子(アオイ)との出会い、ヒツジたち、王子とバラ(酒井)のエピソード、王子の出発まで。第2部(55分)は王子の星めぐり、地球到着、蛇(森山)、バラたち、キツネ(島地)との出会い、王子の帰還(死)まで。前半登場する酒井のポアント遣い、華やかな衣裳は、少し我儘で可愛げのあるバラのキャラクターによく合っている。生演奏との掛け合い、バルーンを使った衣裳など、盛沢山の演出も楽しめる。一方で、物語の流れに乗りづらい感触が残った。飛行士サン=テグジュペリの人生、王子と出会う「現在」、王子の語る「過去」が、地続きに展開されたからかもしれない。

後半は時系列で進み、物語がよく分かった。様々な星の住人、蛇、キツネの振付も的確で、王子への感情移入が可能になる。ただ、終幕にバラ(酒井)を再登場させ、飛行士(小㞍)が物思いにふける情景で終わったため、サン=テグジュペリ夫妻の物語に収斂した印象を受ける(バラはサン=テグジュペリの奔放な妻コンスエロを指す)。作品自体のふくらみは増したが、原作の 死と孤独とかすかな希望をめぐる余情は残らなかった。

練達のダンサーが揃う中で、キツネの島地が原作通りに作品の要となった。黄色い大きな尻尾を掲げた誇り高いキツネが、「仲よくなる」ことの意味、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」(内藤濯訳)の真理を、体で王子に伝える。アオイ王子への働きかけは、存在と存在がぶつかり合う強度の高いパ・ド・ドゥとなった。島地にとっては『犬人』に続く動物ものだが、犬、キツネ、それぞれの実存を感じさせる深い役作りが共通する。踊りの美しさ、体の強さ、生きる上での信念が揃い、ダンサーとしての成熟度を増している。

 

伊藤キム×森下真樹 @『マキム!』(11月14日 東京芸術劇場プレイハウス)

メンターと教え子が、それぞれのカンパニーを率いて集う合同公演。第1部では、伊藤と森下のデュオ作品が上演された。無音のまま、シモテから伊藤、カミテから森下が、赤い綱をもって後ろ向きに出てくる。中央でぶつかり、綱を結んで舞台の境界に。それぞれが左右の定位置につくと、パガニーニの『24のカプリース』が流れる。交互に音楽を踊り、終わるとそれぞれ袖に入る。少しして奥から口三味線の同曲が聞こえる。伊藤が「パーパパラパラ」とか言いながら出てきて(森下も)、さっきと同じ振付を踊る。伊藤の軽妙繊細な内向きの踊り、森下の筋骨たくましいガブル踊り(以前は娘ムスメしていたが)、そして二人の的確な口三味線が面白い。メソッドが体に入っているので、体で音楽を奏でることができる。それぞれ固有の音楽性を、目と耳で楽しむことができた。と言うか、口三味線がツボにはまり、ずっと「はははは」と笑ってしまった。その後 色々あって、最後は、伊藤が森下に赤い綱をぐるぐる巻きつける。森下は「お姫様抱っこしてハケテください。」と師匠に告げる。伊藤は中途半端に森下を抱え、引きずるようにシモテへ。森下は「腰が、腰が、まだ明日もある」とか言いつつ幕。

第2部は、伊藤主宰のカンパニー「GERO」(6名)と、森下主宰のカンパニー「森下スタンド」(5名)の合同公演。どちらがどちらか判別できないが、男女の大小様々な肉体が誂えたように揃った。前半は伊藤の「生きたまま死んでいるのか、死んだまま生きているのか」分からない体の実践。森下も経験した振付を直弟子、孫弟子が踊る。後半は『BE MY BABY』に合わせて、森下振付ユニゾン踊り。マオリのハカのように、地に足の着いた力強いエネルギーが発散された。懐かしさを喚起させると同時に、たすき掛けの新たな化学反応も見られた不思議な公演だった。

 

岩渕貞太 @『Gold Experience』(11月20日 吉祥寺シアター

「岩渕貞太 身体地図」の新作公演。振付・演出:岩渕貞太、音楽・生演奏:額田大志、美術:杉山至、出演:入手杏奈、北川結、涌田悠、岩渕(チラシ掲載順)。

美術の杉山は、シモテ奥の床に直径1mほどの穴を切り、その上部に5本の金属製ポールを上下ずらして吊るした。穴の危険性と、天井まで支配する金属ポールの強い存在感が、強度の高い舞台空間を生み出す。正面奥にはドラム等楽器を設置、額田がレコードをかけたり、演奏をしたりする。途中で分かったが、ドラムの前に長方形の浅いプールがあり、足首まで水が張られていた。遠近法の消失点に額田が存在し、世界に介入する第5の演者となった。

ソロ、トリオ、デュオを的確に配し、ダンサーに踊りどころを十分に与えた緻密な構成が素晴らしい。これを基盤に、ダンスの誘い水となった額田の音(石を積む音が印象的)、金属ポールを次々に叩く音(一度のみ)がダンスと切り結び、思いがけない時空が出現する。ダンスを面白がる額田がいることで、作品に風通しのよさが加わった。岩渕の振付は、室伏鴻の流れをくむ舞踏(脳天背面落ちはないが)、ニジンスキーの『牧神の午後』、ヨガや東洋武術が「網状」に組み合わされている。終始 体を見る喜びがあった。

岩渕の高貴な踊りは、なぜか見られることに慣れない気恥ずかしさを纏っている。美貌、細かく分割された修行僧のような肉体は、当然野蛮なエロスを立ち上げるはずだが、慎ましく留まっている。見られるよりも、見る人、修行する人、なのか。3人の女性は南アジアの神像のように立ち並び、牧神のニンフのように2次元動きを見せる。振付を遂行するのではなく、自分の体に動きを落とし込み、新たに生成していることに驚かされた。北川は序盤の舞踏ソロから穴落ちまでを緊密な踊りで、入手は LED 棒を二本、剣のように持ち、パトスを内に秘めたまま中国武術風に動く。無意識が大きく、終幕の咆哮は体が裏返るようだった。少女性を帯びる涌田は、棒で金属ポール、バルコニー手摺を叩く。空を切る棒の音も楽しむように。岩渕に棒を叩きつけ、岩渕がガッと受け止め、棒で繋がるデュオを踊り始める。動物が戯れるような無垢なデュオだった。終盤の全員水遊びは、やはり牧神とニンフのごとく。舞踏にありがちな生々しいエロスの立ち上げはなく、あくまで禁欲的な進化系の舞踏だった。

 

 

新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』2020

標記公演を見た(10月23日、24日昼、25日、31日昼夜、11月1日 新国立劇場オペラパレス)。今季より就任した吉田都芸術監督初のシーズン開幕公演である。当初はピーター・ライト版『白鳥の湖』を予定していたが、コロナ禍により、前季ラインナップの『ドン・キホーテ』(5月に公演中止)に変更された。主要キャストは大原永子前監督の配役を引き継ぐ。英国バレエを規範とする演劇性重視の指導方針も継続され、吉田監督によってさらに強化される模様だ。

アレクセイ・ファジェーチェフ(当時ボリショイ劇場バレエ芸術監督)による版は、1999年新国立劇場に導入された(今回で9回目)。ボリショイ・バレエ伝統版を基に、後世の挿入部を一部削除したシンプルな名版である。オークネフの晴れやかな美術に加え、舞踊を生かす梶孝三の明快な照明が、遺産として残されている。今回は「密」を避けるため、アンサンブルの数を減らし、子役の出番も省略された。

初演時には、当時英国ロイヤル・バレエ プリンシパルの吉田監督が初日を飾り、現バレエミストレスの遠藤睦子、湯川麻美子がキトリ友人、バレエ教師の西川貴子が街の踊り子、同じくイルギス・ガリムーリンがエスパーダを踊った。湯川、西川はメルセデスも。また、今回標題役の貝川鐡夫、公爵・役人の内藤博がセギディーリャに名を連ねて、一世代回ったバレエ団の歴史に思いを至らせる(因みに現バレエマスターの陳秀介はトレアドール、バレエ教師の吉本泰久はジプシーとサンチョ・パンサを演じてきた。3幕小キューピッドの落とした矢を拾う吉本の機転は、後輩サンチョにも受け継がれている)。

キトリとバジルは6組。初日の米沢唯と井澤駿は、艶やかな写真でリーフレットとチラシを飾り、バレエ団の新たなフェーズ突入を予感させた。何よりも米沢の踊りが一変したことが、吉田監督の方向性を物語る。一つの振りに幾つもの手を加え、上体を大きく使いながらも、体を立体的かつ求心的にまとめている。結果、パひとつに複雑なニュアンスが宿り、踊りそのものが画然と屹立する。ロシア派(現行)というよりも、英国の古典解釈を見るようだった。

米沢は磨き抜かれた体、艶っぽい美しさで、プリマとしての成熟に拍車をかけている。速くて数えられないグラン・フェッテは、もちろん技巧を見せるためではなく、バレエ、舞台への捧げもの、観客への祝福である。対する井澤はゆったりと大きく構え、米沢を包む。踊りも同じくゆったり。片手リフトを含むサポートも万全だった。互いに無意識下でコンタクトを取りあっているのか、不思議なカップルである。

二日目昼は木村優里と渡邊峻郁。木村はおきゃんな娘を伸び伸びと演じている。アダージョではパートナーとの対話をもう少し期待したいところだが、雄弁な脚線で空間を掌握した。対する渡邊は匂い立つような二枚目。決めのアクセントを細かく付けて、スタイリッシュなバルセロナの若者となった。

二日目夜と最終日は小野絢子と福岡雄大(最終日所見)。ファジェーチェフ版のニュアンスを最もよく伝える。長年組んだパートナーシップは揺ぎ無く、阿吽の呼吸。1幕の細やかな演技では滋味さえ感じさせた。小野は持ち前の音楽性を発揮、何とも品のよい可愛いキトリである。対する福岡は、はまり役。隅々まで血が通い、詰めに詰めた造形で、しかも気張りがない。万全の踊りに鮮やかなポーズで、ベテランの落ち着き、懐の深さを垣間見せた。今後は別々のパートナーと新たな展開が期待される(『くるみ割り人形』は同じ)。

三日目は柴山紗帆と中家正博。共に正確なポジションが描き出す正統派ラインが美しく、バレエの醍醐味を感じさせる。柴山はやや控えめな演技だが、その真髄は音楽と一体化するドラマティックな踊りにある。特に短調に親和性があり、1幕セレナーデでは、メロディに深く分け入る濃い情感が醸し出された。対する中家は美しいサポート、大きな踊りに、これまで敵役で発揮してきた演劇性が喜劇に転換、茶目っ気のある芝居を見せる。音楽性豊かな、息の合うコンビだった。

四日目昼は池田理沙子と奥村康祐。池田は作品を俯瞰的に理解し、それを舞台での自然な演技に還元できる。バジル、ドン・キホーテ、ガマーシュへの誠実な反応が、観客をドラマの没入へと導いている。1幕メヌエットで、ガマーシュを(ついでに)誘う際の表情と手つきが忘れられない。踊り方も米沢に続いて様変わりし、上体を使う大きな踊りに変わった。対する奥村は、明るくやんちゃなバジル。池田キトリを見守る風もあり、二人揃ってポジティブなメッセージを観客に伝えている。

四日目夜は、再び米沢と、主役デビューの速水渉悟。米沢は初日よりも自然で初々しい。特に2幕夢の場の匂やかな踊りが素晴らしかった。存在そのもので空気を和らげ、体の透明感も際立っている。居酒屋の踊り見物は、テーブルの上に腰かけて、バジルと語らいながら。速水とのアイコンタクトは体と体のぶつかり合いに等しく、濃厚だった。

対する速水は主役デビューとは思えない落ち着き。肩乗せリフトで米沢が上がり切れないアクシデントに見舞われたものの、盤石のサポートで米沢を支え続けた。入団当時から瞠目させられた踊りの技術と質の高さは、全幕主役という場を得て全開に。ただし、アクロバティックな振付を選択しながら、なぜかこれ見よがしにならない。バレエの技法・見せ方を日々追究しているからだろう。持ち前の分析的批評精神が、作品解釈、同僚理解、舞台の状況把握に生きて、着実な主役の道が予想される。質を保ちつつ限界に挑戦する跳躍、回転は、米沢のグラン・フェッテと共に、観客への祝福となった。

6組の主役は、ビントレー時代のダンサーを含みつつ、そのほとんどが大原前監督が一から育てたダンサーである。才能と個性を見抜き、適役に配し、叱咤激励しながら主役へと育て上げた。その成果を直に見て確かめることができなかったのは、心残りだろう。吉田新監督の「最後の味付け」に期待する。

バレエ団はベテラン勢と若手抜擢組が共に活躍した。立ち役初日組、貝川鐡夫のドン・キホーテ、福田圭吾のサンチョ・パンサ、福田紘也のロレンツォ、奥村康祐のガマーシュは、たがが外れた破天荒な組み合わせ、二日目の趙載範、髙橋一輝、中島駿野、小柴富久修は、様式性があり、趙、小柴(美脚)は、あちらの世界の住人である。宿屋テーブルでそれぞれが好きな方向に向いているのがおかしかった。狂気の貝川キホーテと活きの良い福田サンチョ(空中2回横転!)、真っ直ぐ突き進む趙キホーテと献身的な髙橋サンチョは、ともに好一対。初日組サンチョとロレンツォの苛烈な兄弟喧嘩も見ものだった。

公爵・役人の内藤博は、役を心得た風格ある演じ分け、公爵夫人の本島美和も、優雅な佇まいにわずかな手の振りで情景を立ち上げ、舞台に厚みを加えている。ジプシーの王 菅野英男の気怠い演技も秀逸だった。

キトリ友人は2キャスト。上体を使った美しい踊りの奥田花純、芝居心のある飯野萌子は持ち役を楽し気に、初役の廣田奈々と横山柊子は、それぞれ繊細な踊りと、豪快な踊りで持ち味を発揮した。エスパーダは切れ味鋭い渋めの木下嘉人、荒々しく女関係に事欠かない井澤、と対照的。対する街の踊り子には、婀娜っぽい寺田亜沙子、体の美しい柴山、ダイナミックな木村、メルセデスには気の漲る渡辺与布、鋭く気迫のこもった益田裕子、カスタネットの踊りには、ラインの美しい細田千晶、情感豊かな朝枝尚子が揃った。特に朝枝は音楽と一体化した踊りで、新境地を拓いている。

森の女王は伸びやかな木村と繊細な細田。アンサンブルとの関係では細田に一日の長がある。キューピッド五月女遥と広瀬碧も、それぞれ音楽性、柔和な佇まいと個性を発揮した。ボレロはスレンダーな益田と川口藍に対し、バジル役ダンサーをぶつける。渡邊の情熱的なパートナー振り、中家の美しいライン、速水の巧さと、それぞれに華があった。また3幕ヴァリエーションでは、奥田、五月女、池田に並んで、廣川みくりが香りのある踊りで抜擢に応えている。

アンサンブルは揃えることよりも生き生きとした体の表情を重視、広場、居酒屋での小芝居も、これまで通り各自が考え、工夫を凝らしている。夢の場の妖精アンサンブルでは、柔らかい質感が強調されていた。

充実の東京フィルハーモニー交響楽団を率いるのは、冨田実里。『ドン・キホーテ』(日本バレエ協会関東支部神奈川ブロック)で指揮者デビューした冨田は、新国立ではアレクセイ・バクランとマーティン・イエーツの同作副指揮者を務めた。そのどちらとも似ていない、ずっしりと構えた骨格の明確な指揮で、東京フィルの弦と管を十全に使い切った。ビントレー時代に確立された副指揮者の制度、指導者育成の「キャリア・ディヴェロップメント」(『SPICE』2020.10.29)、振付家育成の「DANCE to the Future」が、現在花開き、実を付けつつある。

 

 

 

バレエシャンブルウエスト『コッペリア』2020

標記公演を見た(10月10日 オリンパスホール八王子)。本来は6月7日に公演予定だったが、新型コロナウイルス感染症拡大のため延期となり、仕切り直しての上演である。観客の体温検査、手の消毒、来場者カード、市松模様の座席配置など、念入りなコロナ対策が採られた。

振付・演出は今村博明と川口ゆり子。マイムを重視し、音楽性、演劇性がバランスよく組み合わさった正統派のヴァージョンである。マズルカ、チャルダシュは肩を組み、共同体の祝祭性を表現する。八王子という地元に密着したバレエ団の在り方と、二重写しになった。

主役スワニルダには、1幕の演劇性、2幕の人形振り・民族舞踊、3幕の古典舞踊と、プリマの技量が要求される。今回は若手の川口まりが挑戦、恋人のフランツには、海外経験を基に、着実にバレエ団での地歩を固める藤島光太が配された。

川口を見たのは14年の『フェアリー・テイルズ』が初めて。画家の孫役で行儀のよい踊りを披露する。同年『くるみ割り人形』の音楽的な葦笛、2年後には『くるみ』のフリッツを踊り、美しい脚捌きでトラヴェスティの魅力を発散させた。17年には田中祐子作品で瑞々しい踊りを、同年『くるみ』では金平糖の女王を踊り、主役の器を印象付ける。翌年『新おやゆび姫』標題役では、繊細な腕遣い、清潔なパ・ド・ドゥに、古典の香気が立ち上った(清里フィールドバレエは、17年『シンデレラ』標題役、19年『ドン・キホーテ』キトリ、20年『白鳥の湖』オディールを踊る〈共に未見〉)。

今回の『コッペリア』でも古典舞踊に美点がある。1幕はやや芝居が硬く、表情も作りすぎに思われたが、キトリ(清里)ではどうだったのだろうか。フランツとの生きた対話で、観客を楽しませるには至らなかった。だが2幕になると、溌溂とした民族舞踊に踊りのエネルギーが現れ始める。3幕では、繊細な音取り、伸びやかで大きな踊り、美しい脚線で、香り高いパ・ド・ドゥを作り上げた。古典へのストイックな姿勢に、主役の器・責任感を感じさせる。

師匠の川口ゆり子は、2幕のコッペリア(実はスワニルダ)に血が通い始める瞬間、演技ではなく、体の質(意識)を変えて、奇跡的時空を現出させた。その技、または古典解釈を継承して欲しい。

対するフランツの藤島光太は、エネルギーにあふれる。主役経験も豊富で、優れた技術、確かなサポート、舞台での自然な佇まいがそれを物語る。演技相手との呼吸もさらりとコントロール、「いい加減」を演じることができる。2幕コッペリウスとのやりとりが物凄く面白かった(酔っぱらって、普通はうつ伏せだが、仰向けに座っていたのはなぜ?)。やんちゃだがノーブルな味を失わない、貴重な主役ダンサー。3幕ソロも素晴らしかった。

コッペリウスには正木亮。ローラン・プティを思わせる粋でダンディな造形である。演技は隅々まで解釈が行き渡っていながら、あっさりと。マイムは音楽的で気品にあふれる(今村を彷彿)。そこに正木の真っ直ぐな愛情が加味されて、3幕の市長と共に踊りを観覧する姿からは、暖かいエネルギーが舞台に放出された。その市長には、逸見智彦。女性に引きずられても鷹揚に対し、3幕では正木コッペリウスと並んで、後輩の踊りを嬉しそうに見守っていた。

今回は中堅・若手中心のキャスティング。「時のワルツ」ソリストでは、新進 柴田実樹の伸びやかな踊りを、クラシック教師 江本拓が手厚くサポート。「夜明け」石原朱莉の確かな技術、「祈り」伊藤可南の美しいライン、キューピッド 近藤かえでの切れの良い踊りが印象深い。また「戦い」では、押し出しの良い土田明日香、パトスあふれる村井鼓古蕗、エネルギッシュな染谷野委、音楽性豊かな土方一生の踊りを見ることができた。

同じスクールから生まれたアンサンブルの美点は、「時のワルツ」で発揮された。長い手足、伸びやかな踊り、ゆったりとした音取りが見事に揃っている。バレエ団の伝統をよく伝えていた。

今回はダイワハウス特別協賛により、磯部省吾指揮、大阪交響楽団が、堺市から駆け付けた。フルオーケストラの地響きのする重厚な音が、ホールを貫き、生演奏の醍醐味を観客にアピールする。ドリーブ・ファンとしては、もう少し軽やかな色彩を期待するところだが、オーケストラの個性と情熱の伝わる熱演だった。

 

 

 

 

牧阿佐美バレヱ団『眠れる森の美女』2020

標記公演を見た(10月3日 文京シビックホール 大ホール)。同団では1982年にウェストモーランド版を導入。以来、再演を重ねる重要なレパートリーの一つとなった(今回は12回目)。振付のテリー・ウェストモーランドは、1958年に英国ロイヤル・バレエに入団し、10年間 主役、ソリストとして活躍している。セルゲイエフの舞踊譜に端を発し、様々な英国らしい振付が加味された当時のロイヤル版『眠れる森の美女』を、移植された牧阿佐美バレヱ団が保存しているのである。

今回は新型コロナウイルス感染拡大予防のため、時間を短縮しての上演となった(1幕編み物女性たち、2幕ファランドール、パノラマ、目覚めのパ・ド・ドゥ等を省略)。また2幕と3幕を続けて上演し、3幕行進曲を間奏曲としている。

主役はWキャスト。オーロラ姫初日は青山季可、二日目は中川郁、フロリモンド王子にはそれぞれ、清瀧千晴、水井駿介(共に初役)が配された。その初日を見た。

青山は07年、10年、15年と踊り、今回が4回目のオーロラである。若手時代は、体全体が微笑んでいるような暖かい舞台が特徴だった。リーズ、シルフィード、キトリを見ては、幸福を感じていたが、15年のジゼルでは、実存と絡んだ深い造形に衝撃を受けた。その後『飛鳥』金竜の力強いソロ、『ア ビアント』パ・ド・ドゥで見せた音楽と劇的感情の一致に、青山の別の側面を見る思いがした。因みに15年のオーロラ評は以下の通り。

青山は物語性を重視。古典バレエの演劇的側面を読み込み、一挙手一投足に心を込める。常に相手との、さらには観客とのコミュニケーションを目指すので、観客は青山と共に旅をし、その身体から微笑まれたような心持ちになる。

今回のオーロラ姫は打って変わり、青山の古典解釈が花開いている。最も演劇的な1幕も、音楽とともにすっきりと踊り、品格を重視。2幕ヴァリエーションは、本来の資質であるロマンティックな幻想性が遺憾なく発揮された。空気と交わり溶け込むような密やかさがある。水色チュチュがよく似合っていた。3幕は気品そのもの。踊りというよりも所作に見える。周囲、観客を祝福する澄み切ったオーラが拡がり、劇場を静かにまとめ上げた。体感としては、バレエのいわゆる温泉効果はなく、日本舞踊の佳いものを見た時のような、浄化される感触に近い。水のような踊りだった。

これは牧の伝統なのだろうか。それとも青山の解釈と資質の混淆なのか。少し川口ゆり子を思わせる日本的ニュアンスもあるが、踊り方は全く異なる。青山の『ア ビアント』や『飛鳥』全幕を見てみたい。

王子の清瀧は、ノーブルな雰囲気をよく身につけていた。3幕ヴァリエーションの品格ある美しさは、ダウエルを手本としたバレエマスター 森田健太郎の伝授によるものだろうか。コーダのグランド・ピルエットはやや王子から逸脱したが、清瀧らしさが横溢した。

リラの精 茂田絵美子は、伸びやかなライン、確かな技術に、包容力が加わり、善の象徴たり得ている。対するカラボスは、はまり役の保坂アントン慶。女装の妖しさに一層磨きがかかり、悪を楽し気に演じている。フロレスタン24世王の逸見智彦、王妃の坂西麻美、カタラブット 依田俊之のベテラン勢が、的確な演技で脇を固めた。

フロリン王女 米澤真弓の匂やかさ、ブルーバード 山本達史の高い跳躍、また宝石の精(織山万梨子、上中穂香、細野生、濱田雄冴)が、溌溂とした踊りで同版の美点を体現した。古典全幕ゆえ、残念ながらコロナ自粛期間の影響は拭えない印象だったが、ベテラン主要キャストが相変わらぬ実力を見せて、舞台を大きく牽引した。

指揮は当初デヴィッド・ガーフォースが予定されていたが、コロナ禍で来日が不可能となり、代わって冨田実里が東京オーケストラ MIRAI を率いた。当然ながら大ベテラン ガーフォースのようなとろみはないが、明快でエネルギッシュな指揮により、躍動感あふれる引き締まった舞台を作り上げた。