8月に見た振付家 2021

福田紘也『Life - Line』@ 大和シティ・バレエ「想像✕創造 vol.2」(8月14日 大和市文化創造拠点シリウス芸術文化ホール メインホール)

公演の副題は「追う者と追われる者 」。5人の振付家が新旧作を出品し、最後に福田作品が上演された。アンドロイドと人間が混在する近未来。音楽は平本正弘とストラヴィンスキーを使用。3人のアンドロイドと、彼らを取り仕切る車椅子の老人を『ペトルーシュカ』の登場人物に擬える。看護師ロボットの川口藍はバレリーナ、やんちゃな少年 八幡顕光はペトルーシュカ、黒メタルコートにサングラスの殺し屋 福岡雄大ムーア人、車椅子老人 福田圭吾は人形使いの親方といった具合。題名の「ライフライン」とは電源コードのことで、常時何本も天井からぶら下がっている。途中、川口や八幡がバッテリー切れを起こし、直立のまま動かなくなるが、コードを腰に付けると回復する。八幡と川口のパ・ド・ドゥは赤い電源コードを互いに結び付けて。最後は福岡が椅子に座り、おもむろに電源コードを腰に付けて幕となる。川口のスレンダーなライン、八幡の運動的音楽性、福岡のスタイリッシュな色気、福田(圭)の老獪な存在感と、いずれも適役だった。

福岡が巨大な青ビニール袋を相手に被せる場面はベケット風。川口が瞬時に八幡の帽子をかぶり、ビニール袋捕獲の身代わりになるくだりには、胸を突かれた。親方の福田(圭)がペトルーシュカの音楽でソロを踊るのは、かつての姿をイメージさせるためか。銀色衣裳のアンサンブルは、アンドロイド風ではなく むしろ人間的。振付は矢上恵子を思わせる切れ味鋭い動きの連続である。ただしどこか取って付けたような感触が。アンサンブルを使うことにあまり興味がないのかもしれない。全体的にはいつもと同じ、真正のクリエーションの妙味があった。全て福田(紘)の体から生み出されている。ムーヴメントはもちろん、演出も自らの美意識と照らし合わせて嘘がない。これまでもそうだが、福田作品には遠い宇宙へと突き放された振付家の孤独が滲む。理解されないことを怖れない、創造者の孤独である。ダンサーへの愛情も豊か。特に同門の福岡に対しては、年下の叔母のような理解と愛情を注いでいる。

他作品のブラウリオ・アルヴァレス振付『ララの詩』では、五月女遥、大塚卓の美しい踊り、竹内春美振付『最後の晩餐前』では、小出顕太朗の振付理解、池上直子振付『オペラ座の怪人』では、木村優里、渡邊拓朗のパトスのこもった熱い踊りが印象的だった。

 

貝川鐡夫 新国立劇場『Super Angels』(8月21日 新国立劇場 オペラパレス)

昨年初演予定だったが、コロナ禍で今年に延期された 同劇場三部門連携企画オペラ。昨年初演された同劇場バレエ団『竜宮』と同じ、東京オリ/パラリンピックに向けた「日本博主催・共催型プロジェクト」の一環である。

総合プロデュース・指揮:大野和士、台本:島田雅彦、作曲:渋谷慶一郎、演出監修:小川絵梨子、装置・衣裳・照明・映像監督:針生康、映像:WEiRDCORE、振付:貝川鐡夫、舞踊監修:大原永子、オルタ3プログラミング:今井慎太郎。

出演:オルタ3、藤木大地、三宅理恵、成田博之、世田谷ジュニア合唱団、ホワイトハンドコーラス NIPPON、新国立劇場合唱団、渡邊峻郁、木村優里、渡辺与布、中島瑞生、渡邊拓朗。管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

全知全能の AI 「マザー」が支配する未来。子供たちは15歳になると選別される。アキラは異端と判定され、ナノチップを注入、開拓地に送られる。仲良しのエリカは学者の道へ。開拓地でアキラは教育係のアンドロイド ゴーレム3と出会う。カオスマシーンの創出、エリカとの再会、マザーの崩壊。『魔笛』を思わせる「マザー」の存在、笛と土偶(?)の交換あり。ナノチップを注入するフォーメーションが面白い。

劇場合唱団に加え、アンドロイド、ジュニア合唱団、聴覚障害視覚障害の子供たちを中心とする合唱と手歌(手話ベース)のグループ、さらにバレエダンサーが登場するため、演出は困難を極めただろう。しかもコロナ禍のため、全員が前を向いて歌わざるを得ない状況である。だがこれらを差し引いても、全体を統括する演出家の視点が感じられなかった。「渋谷慶一郎作品」ということなのだろうか(客席は子供よりも大人が多かった)。子供たちの歌う島田歌詞「五人の天使」はよいと思うが、最後に歌う「孤独な人はいない」は、あまりに島田本人とかけ離れている。子供のためのオペラだからよしとしたのか(副題は「子どもたちとアンドロイドが創る新しいオペラ」)。

貝川鐡夫の振付は、優れた音楽性とタガの外れた動きがよく生かされていた。最初のダンサー登場は、木村優里と渡邊峻郁によるエリカとアキラの対話。バレエ寄りの踊りで、渡邊は回転技を披露。次は渡辺与布と渡邊(峻)によるゴーレム3とアキラのパ・ド・ドゥ。初めはゴーレム3が、何となく男性か中性と思っていたので混乱したが、渡辺のグレー・オールタイツやアンドロイド的動きから、彼女がゴーレム3だと分かる。途中から人間らしい動きになり、ユニゾンを経て、組んでのデュエットに至った。ただ渡邊(峻)とアキラ歌手の藤木大地が似たタイプではなく、藤木とゴーレム3の間にドラマが生じないため(藤木の歌唱に問題)、相乗効果には至らず。続いて木村が支配者「マザー」となって登場。蝙蝠のような二本の角、目玉お面、黒い翼に黒ポアントで「夜の女王」を思わせるゴージャスなゴッドマザーを体現した。黒い触角に悪魔のような黒衣裳の中島瑞生と渡邊拓朗が、木村のリフト役を務める。終盤「マザー」が壊れていくと、木村も狂った踊りに。タガが外れたクキクキ踊り、鋭いシェネが大きく撓んでグキグキと減速する。木村は昂然と立つ力強さと、あっけなく壊れていく脆さのあわいを巧みに踊り切った。

貝川の振付は、バレエベース、壊れたダンス共に音楽と一致している。意味が突出することなく、音楽的快楽が常に並走する点で、オペラと親和性のある振付家と言える。ダンサーたちは最後にカラフルなタイツを履き、大きく丸いベージュの提灯を被らされる。あまり動くこともできず、カミテにおとなしく座って、総歌いを見守った。カーテンコールでは渡辺が提灯から両手を出して、観客に向かって手を振り、共同クリエーションの喜びを表出。今回見せ場を作った木村、渡辺は共に美脚だが、木村はドラマティック、渡辺はスタイリッシュという 個性の違いがあった。

 

酒井はな✕岡田利規 @ TRIAD DANCE PROJECT「ダンスの系譜学」横浜トライアウト公演(8月22日 Dance Base Yokohama)

ミハイル・フォーキン原型、酒井はな改訂『瀕死の白鳥』と、岡田利規演出・振付『瀕死の白鳥 その死の真相』を見て、酒井、岡田、四家卯大(チェロ演奏)、島地保武(ゲスト)のトークを聴くはずだったが、関係者の当日一斉抗原検査で、1名の感染可能性者が確認されたため、公演中止となった(同日午後のPCR検査で陰性と判明)。10月1, 2, 3日に愛知県芸術劇場 小ホールで、安藤洋子、酒井はな、中村恩恵による本公演が開催されるが、見ることができない。トライアウト公演のトークで岡田に質問したかったこと。「これまではコンテンポラリー・ダンサーに振り付けていたが、古典ダンサーが出発点の酒井には、何か特別な違いがあったか。」

「全国合同バレエの夕べ」2021

標記公演を見た(8月6, 8日 新国立劇場 オペラパレス)。「文化庁 次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。昨年はコロナ禍で中止せざるを得なかったが、今年は現状変わらないまま、市松配席、マスク着用、時差退席等、感染予防対策を講じた上で、2日にわたり開催された。全国から6支部、1地区が10作品を発表、最後は両日とも恒例の本部作品『卒業舞踏会』で締めくくられた。

オペラ劇場での生演奏公演は、若手ダンサーにとって得難い経験である。今回は6日に井田勝大、8日に福田一雄が指揮を担当、『卒業舞踏会』の師弟競演が期待されたが、8日当日、演奏のシアターオーケストラ・トーキョーにコロナ陽性者が出たため、急遽 録音音源での上演となった。音質は素晴らしく、臨場感あふれる音楽を楽しめたものの、地方のダンサーにとって生の音とぶつかる体験は貴重。致し方ないこととは言え、残念だった。

出品内容は、プティパ作品(含改訂)の抜粋5作、シンフォニック・バレエ4作、ネオクラシック作品1作という内訳。珍しくモダン=コンテンポラリーダンス系が見られない、バレエ主体の2日間だった。プティパ作品では、四国支部『騎兵隊の休止』よりパ・ド・ドゥ(振付指導:安達哲治)、九州北支部『イワンの仔馬』よりフレスコ、『ナイアードと漁夫』より村娘たちの踊り(振付指導:坂本順子)が、プティパ作品について再考する手立てを与えている。特に加瀬裕梨と佐野和輝が踊った牧歌的な『騎兵隊の休止』(96年)は、振付語彙にブルノンヴィルとの共通性があり、19世紀バレエへの認識を新たにさせた。ペロー版改訂の『ナイアード』も、当然ながらフランス派のスタイル(ツィスカリーゼ演出を参照とのこと)。柔らかい腕遣い、細かい足技、アン・ドゥダン、左右両回転を多用するスタイルは、『騎兵隊』と同じく、ブルノンヴィル作品を思わせる。九州北支部のダンサーたちは「フレスコ」では調和のとれた気品、『ナイアード』では牧歌的な瑞々しさをよく表していた。

中部支部『眠れる森の美女』より「森の情景」(再振付:エレーナ・レレンコワ、監修:岡田純奈)は、古典バレエの様式性を重視。幻影の場面ながら、オーロラ姫とデジレ王子がしっかり組んで、華やかな見せ場とする。石黒優美と水谷仁が誠実な踊りを披露、リラの精 黒沢優子は、美しい腕遣いに気品ある佇まいで場を引き締めた。森の精アンサンブルは、音取り、スタイル共によく揃っている。一方、関東支部『パキータ』(振付指導:井澤諒)は、渡辺恭子の華やかなパキータ、井澤駿のノーブルなリュシアンを中心に、パ・ド・トロワ、2つの女性ヴァリエーションで構成される。主役の充実、トロワ(金子紗也、百田朱里、井澤諒)の確かな技術もさることながら、はち切れるように元気なアンサンブルに驚かされた。スペイン(群馬?)の草木の匂いがする。渡辺パキータはその頂点にふさわしかったが、井澤兄弟はもう少し溌溂としてもよかったかもしれない。

シンフォニック・バレエは上演順に、東京地区『12人の踊る姫君』(振付:髙部尚子)。シューベルト交響曲、舞曲(ガヴォット?、マズルカ、タランテラ)を用いて、グリムの同名童話を舞踊化した。12人の王女が夜な夜な部屋を抜け出して舞踏会へと赴くさまが、メイドたちの持つシーツで表され、舞踏会では6人の王子が待ち構える。その秘密を探るのがマイケル。見えない体で王女たちを追跡する。第1王女の馳麻弥、第1王子の浅田良和、マイケルの清水豊弘は、それぞれタイターニア、オーベロン、パックを思わせる造形。浅田には美脚を強調する高難度のソロが用意された。髙部振付は時に狂気の果てまで行ってしまうことがあるが、今回はよく留まっている(最後のポアント投げは髙部らしいが)。抜きん出た音楽性は相変わらず。全体にクラシック技法を細かく詰め込んだ密度の高い振付で、特にタランテラのきびきびと浮き立つ踊りが素晴らしかった。

関東支部グラズノフ・スイート』(振付:堀内充)は、『ライモンダ』や『バレエの情景』等を使用。星空の下、詩人が妖精たちの世界に入り込み、共に踊る光景が描かれる。詩人の浅井永希は、堀内のロマンティシズムをよく体現、2人の女性ソリストとトロワ、デュオを繰り広げた。20人の女性ダンサーは、堀内のモダンで運動性の高い振付を生き生きと踊り、千変万化するフォーメーションを次々に築いていく。音楽に乗って踊る喜びを十分に感じさせた。今回は堀内の振付家としての自己を見せるのではなく、指導者としての側面を示す上演だったと言える。

東京地区『カラーシンフォニー』(振付:佐藤崇有貴)は、チャイコフスキーのドラマティックな音楽を大人に、グラズノフの可愛らしいメロディを子供に使用。大人と子供の男女カップルを二重写しにして、両者を繋いでいる。佐藤のカラーは当然ながら大人に顕著だった。主役に細田千晶と小柴富久修を迎えて、バランシン風の構成(『セレナーデ』の次々サポートなど)、クールなノーブル・スタイルを実現させた。細田の磨き抜かれた美しいライン、音楽をたっぷり使うしっとりとした情感、やや和風が滲むと思えたのは、先日の竜田姫と重ねたせいかもしれない。ブルーグレーのドレスがよく似合う、集大成のような踊りだった(カーテンコールではブラボー禁止の中、こらえきれない男性が2度声を発してしまった)。対する小柴も、本来のノーブルなカヴァリエ精神を発揮、細田を見守る美しい二枚目となる。佐藤のスタイルへのこだわりが十全に発揮された作品だった。

中国支部『スラブ舞曲』(振付:早川惠美子)は、ドヴォルザークの同名曲を使用。黒ドレスのソリスト(片山恵、水野晶、矢原葉月)に、赤ドレスのアンサンブル10人が、古典舞踊とスラブ民族舞踊(手繋ぎあり)を融合させた振付を踊る。早川の粒だった音楽性が素晴らしい。フォーメーション、ダンサーの出入りも全て音楽を反映。今回唯一の 完全なシンフォニック・バレエだった。スタイルはフランス派。ポアント音なしの柔らかい足技、調和のとれた全身フォルム、これ見よがしのない慎ましさが全員に行き渡り、早川の指導力を改めて知らしめる。ソリスト3人の技術の高さも際立っていた。終盤は早川のパワーに見る方も押されがちだったが、久々に清潔なスタイルを堪能した。

関西地区『La forêt』(振付:玄玲奈)は、チャイコフスキー(ローズアダージョ)やビーバー等の音楽を用いて、森の情景を描いたネオクラシック作品。森の女王(藤本瑞紀)と8人の森の精たち、娘(林田まりや)と母(竹中優花)が、様々な情景を紡ぎ出す。娘は白いドレス、母は薄紫のロングドレス、森の女王・精たちは薄緑のシースルー布がビキニを覆い、裸足ポアントというセンシュアルな衣裳。娘を森にとられて嘆く母が、終盤 白ベールをなびかせて娘を取り戻す流れが見える。物語を立ち上げるというよりも、その場の情感を描くことを重視しているように思われた。関西ダンサーのレヴェルは高い。パの正確さは当然として、磨き抜かれた美しいライン、濃厚な表現が、バレエ身体の魅力を強力に打ち出している。

最後は恒例の『卒業舞踏会』(原振付:ダヴィッド・リシーン、改訂振付:デヴィッド・ロング、指導:早川惠美子、監修:橋浦勇 –  初日カーテンコールでは珍しく早川、橋浦が登場し、ダンサーたちを労った)。いつもながら配役の楽しみがある。前回 女学院長だった小林貫太は今回 老将軍。コミカル味は抑えて相手を包容するふくよかな造形である。対する女学院長は、長年アシュトン作品の女形を演じてきた保坂アントン慶。英国パントマイム様式をベースに、橋浦指導を加えて、骨格の大きい女学院長を作り上げている。シルフィード・シーンで小林に寄り添う無防備な愛らしさがおかしかった。もう一人の女学院長は16年にも同役を務めた樫野隆幸。前回の母性的でグラマラスな造形に、楚々とした和風の味わいを加えている。佇まいのみで妙な味わいを出すのは小林恭の流れだろうか。

吉川留衣の繊細なラ・シルフィード、ダンス―ル・ノーブル 齊藤拓のスコットランド人、白タイツの似合う網干慎太郎の鼓手、技巧派 細井佑季の第1ソロ、同じく演技派 齊藤耀とパートナー佐藤祐基のピンポイント芝居など。6日は保坂が圧倒的存在感で道場破りの趣。8日は谷桃子系列による調和の取れた一幕だった。井田勝大のシュトラウスは、細やかですっきりとした味わい。終幕ワルツは物悲しさが滲み出た。井田は 髙部作品では王冠を被り、父王の役目も果たしている。 

 

 

関直人氏を偲ぶ 2021

井上バレエ団7月公演『コッペリア』を見た(7月31日 新宿文化センター 大ホール)。振付は関直人、再構成・振付を石井竜一が担当、森の詩人 P・ファーマーのけぶるような美術が幻想性を加える。「祈り」とフランツのソロを除いて関の振付が保存されているが、残念ながら関作品の趣は薄れていた。芝居の扱い、舞踊スタイルの違いが原因だろう。

再構成の石井は、全幕『シルヴィア』(19年)や、つい先日の『モーツァルティアーナ』(Iwaki Ballet Company)など、自身も優れた音楽性と美しいノーブルスタイルを誇る。ただ今回は関の振付を残す折衷的な舞台のせいか、美点を発揮するには至らなかったようだ。昨秋の今村博明・川口ゆり子版(バレエシャンブルウエスト)、今年に入ってからは R・プティ版(新国立劇場バレエ団)、P・ライト版(スターダンサーズ・バレエ団)と、このところベテラン勢の確立された『コッペリア』上演が続いている。石井改訂には、コッペリウス(森田健太郎)をノーブルでエネルギッシュな性格とする独自の工夫が見られたものの、先行版と比べると、古典解釈、演技指導の点で、やや物足りなさが残った。

1幕、2幕、そして3幕の鐘のディヴェルティスマンになって、ようやく関作品が失われることの意味、伝統の切断に思いが至る。フランス=デンマーク派を基盤とするシンプルな腕遣いと真っ直ぐな脚、きりっと粒だった音楽性、これ見よがしのない19世紀的職人気質。創立者 井上博文の美意識と、関の祝祭的な音楽性が融合した、他団では見られない固有の舞踊スタイルだった。関の喜びに駆り立てられる熱狂的なフィナーレを、無償の愛・贈り物として与えられ、帰り道は3cmほど浮いた気分になったものだ。

観客に自分を見せるのではなく、自分を捧げる姿勢、美的ではなく倫理的な態度が、井上バレエ団の身上だった。創立者 井上博文が選んだ最後のプリマ、藤井直子は、自分を脇に置いて、舞台を優先させた。「客席のお客さんを全部かかえるようにして踊りなさい」という井上のアドヴァイスを、終始実践したプリマである。井上のプリマ道、関の職人気質と古風なノーブルスタイルは、経験者がいる限り、継承可能ではないか。あの祝祭的音楽性も。もう一度あのシンプルで清潔なアンサンブルを見てみたい。

 

 

 

7月に見たコンテンポラリーダンス公演 2021

中村恩恵 @ TRIAD DANCE PROJECT「ダンスの系譜学」横浜トライアウト公演(7月4日 Dance Base Yokohama)

ソロ20分、トーク40分という公演。中村恩恵、串野真也(衣裳)、司会の宮久保真紀(制作)によるトークが、前半のソロを照らし出す構成である。中村のソロは、自身の新作『BLACK ROOM』にキリアンの『BLACK BIRD』(抜粋)を組み合わせたもの。暗転による切り替えがあり、事前に2つの作品を踊ると知っていたにもかかわらず、一つの作品として見てしまった。

中村はカーキのパンツに柔らかい黒コートの衣裳、パイプオルガンとヴァイオリンをバックに、繊細な手の動きに導かれながら、床面を舐めるように踊る。緊密な精神、息を詰めた体が、宗教曲風の音楽と相俟って屹立。世界から隔絶された自分、ではなく、世界を隔絶する個の趣があった。舞台に立つ4本の白い柱が、巫女のような中村を護る。Box in Box 空間の密やかさも、踊り(舞?)の儀式性を高めた。暗転で黒コートを脱ぐと、袖なしの黒 T シャツ。躍動感あふれる息遣い、切れのよい動きでキリアン語彙を踊る。男声合唱の力強さに前半の重苦しさが解放され、浄化された印象。バレエベース、腰高の踊りだった。

トークで中村は、自身の振付を踊る時と、他者の振付を踊る時の意識の違いを語る。自分の振付だと「(これで)いいのかしら、いいのかしら」と思いながら踊るので、自意識が優って解放されない。他人の振付だと、自分を差し出して、「捧げ物」にできるので、解放される。自分の踊った振付を他人が踊って、再び踊ると、別の感触になるとも。ダンサー中村は深い孤独を抱えて手放さないが、素に戻るとユーモアを含んだ軽やかな精神が躍動する。そのままダンスに移ることはできないものか。にこやかに微笑みながら、雲のように揺蕩う姿が目に浮かぶのだが。

衣裳の串野は、黒コートと翼の着いた黒ブーツ(展示用?)を制作した。最初に中村の話を聞いて、ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』を連想し、黒いコートを作ったとのこと。「触れるとその人がハッピーになるような天使」が、串野の中村イメージなのだろう。串野は靴を創る時、既視感を大切にすると言う。思った通りに作ると理解されないから、その手前で止めるのだそう。通常アーティストは既視感を避けると思うが、串野の逆ベクトルの言葉は謎。コミュニケーションを優先させるということか。プロフィールには出身県のみならず、出身地の記載もある。

 

水中めがね ∞ × 日本舞踊家コラボレーション企画「しき」(7月9日昼 神奈川県立青少年センタースタジオ HIKARI)

主宰の中川絢音を初めて見たのは、現代舞踊協会の「夏期舞踊大学」。西川箕乃助をゲスト講師に迎えての日本舞踊ワークショップだった。一際 動きが大きく、声も大きく、グループ創作をぐいぐい先導する。日舞の技法がすでに入った体(坂東流)だが、西川箕乃助の指導を受けたかったのか。今回の公演は、中川の舞踊技法への興味と試行が結実している。

3演目の最初は、日舞作品『青朱白玄』。春夏秋冬を表す4つの踊りから構成される。格調高い「連獅子」、軽快な「善玉・悪玉」、しっとりとした「虫の音」、創作舞踊風「白鷺」を、藤間涼太朗(振付・構成も)、花柳寿紗保美が踊る 。4つのスタイルを踊り分ける面白さ、日舞の技法そのものを見る楽しさ(至近距離ゆえ)を味わうことができた。藤間の方がすっきり、花柳はしっとりという違い、また地唄舞の難しさが実感される。

2つ目は水中めがね ∞ のレパートリー『my choice, my body,』(18年)。中川の演出・振付、楽曲提供 LIEAT、出演は 根本紳平、松隈加奈子、浅野郁哉。能面を付けた3人が並んで踊る。日舞の技法とコンテのアマルガム。両技法(+ バレエ)が体に入った人でなければできない振付である。ムーブメントへの意識の刻みが鋭く、動きを見るだけで面白い。能面は必要だろうか。照明をもう少しフラットにすれば、ムーブメントの普遍性が際立つような気がする。

最後はコラボ作品『しき』。葬式、弔うことをモチーフに、中川が演出・振付を担当。作曲・作調・太棹三味線はやまみちやえ。金属ロッカーを横倒しにし、棺桶に見立てる。藤間と花柳が両脇に陣取り、別れの盃を飲み、両肩を払い、両腕を天に押し上げる儀式を行う。中川はパニエ入りの白いドレス下にセグウェイを隠し、棺桶の周りを逆時計方向に高速で走る。亡霊なのだろう。途中からドレスを脱いで、儀式に加わった。3人ユニゾンすることで踊りの質の違い、技法の混入の違いが分かる。花柳の方が日舞から離れがたいように見えた。中川はパトスの強い激しい踊り。「よさこい」にならないのは技法が付け焼刃ではないから。指の美しさに目を奪われた。終演後のトークで中川曰く「最初、振付を日舞の体のままやってもらって、途中から加えて(変えて?)いった」。中川は構成・振付とも、自分の感覚に忠実に行なっている。嘘のない作品作りは清々しい。トークで「日舞の古典を振り付けたい」とも。藤間から「『娘道成寺』はどうか」との応酬あり。今後のコラボが期待される。

 

【番外】新国立劇場オペラ新制作『カルメン(7月11日 新国立劇場 オペラパレス)

カルメンをロックシンガー、舞台を日本のロックステージに変え、ホセはその警備にあたる警察官という設定。冒頭に日本の警官たちが現れて、ホッとした(警官を見てホッとしたのは初めて)。猫背で膝を曲げ、腰を落として歩く日本人の緩い身体性が、丸ごと肯定されるからだ。次々に現れる日本人たち。これほどの地続き感を古典オペラで感じたことはない。制服の小学生を引率する女性教師の佇まいは、演出が入っているのか。肩にカバンをかけ、首を突き出して心配そうに子供たち(合唱)を見守る姿。演出のオリエがここまで日本人の身体性を見抜いているとしたら、並外れた観察力の持ち主と言える。因みに、合唱はソーシャル・ディスタンスを取るため、離れて歌う。ヴィジュアルとしても面白かった。全ての演出に意味のある心地よさ、全ての歌が役の歌だった。声では当然ながら、カルメンのドゥストラック(フランス・オペラなのにフランス人のカルメンを生で聴くのは初めて)、ホセの村上敏明、フラスキータの森谷真理、レメンタードの糸賀修平、役作りとしては、ダンカイロ 町英和の宇崎竜童振りが素晴らしかった(以前マゼットでも好演)。

指揮:大野和士、演出:アレックス・オリエ、美術:アルフォンス・フローレス、衣裳:リュック・カステーイス、照明:マルコ・フィリベック、合唱:新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル、TOKYO FM 少年合唱団、管弦楽:東京フィルハーモーニー交響楽団

 

正田千鶴 +上原尚美 @ 東京新聞 第48回「現代舞踊展」(7月11日 メルパルクホール

上原尚美振付『光澄む地にて』は、二日目の後半最初に上演された。酒本恭輔の電子ピアノ演奏をバックに、緻密に構成された自然体舞踊である。7人のダンサーが踊り合うなか、上原と母 藤井利子が、正面手前から奥に向かってゆっくりと歩いていく。時折ぼんやりと空を見上げながら。藤井の洗練されたアン・ドゥオール歩き、上原の幅広6番歩き(少し蟹股)の対照的面白さ、共に情景を浮かび上がらせる円熟の佇まいが、悠久の時を感じさせる。ダンサーたちは体がほぐれたままでフォルムを作る熟練揃い。上原の体もほぐれているが、藤井をサポートしつつ、空間全体を作る妙な包容力があった。最後は高橋純一が無音でソロを踊り、ピアノの「ボーン」という単音で幕。

正田千鶴振付『ヴィブラート』は、同日後半最後に上演された。恒例の剥き出しの奥壁、幕を取り払った両袖から裸ライトが煌々と舞台を照らす。音楽はヘンデルの『水上の音楽』。黒一点の中西飛希は、古代戦士のようなグレーの短パン姿、正田手兵の女性6人はカラフルなレスリングウェアを身に着けて、やはりオリンピックを連想させる。冒頭 暗闇の中から何かを叩く音。明るくなると、男性(中西)が渾身の力で床を叩いている。終盤にも、女性ダンサーたちが同じ動きを繰り返す。動きの理由は分からないが、その必然性のみが腑に落ちる強度の高さがある。中西は5番ポジション、グラン・バットマンの掌打ち、奇怪なフォルムの連続ジャンプなど、バレエ技法を見事に決める。体操選手のようなアスレティックな味わいが加わり、正田好みのアポロン的な美しさを体現していた。女性陣の肩クニクニ、バレエポジション由来のスポーティなフォルムなど、全ての動き、フォーメーションに正田の絶対的な美意識が息づいている。他者の価値観に惑わされず、思った通りに作品を作る最強の自我。カーテンコールでの正田にもそれが実感される。いつも正田とカップリングで書いてきた柳下規夫は、今回初日のため見ることができなかった。

 

Noism Company Niigata『春の祭典』『FratresⅢ』『夏の名残のバラ』他(7月23日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

NCN芸術監督 金森穣による新旧4作品。幕開けはNoism0 所属の井関佐和子、山田勇気出演『夏の名残のバラ』(19年)。映像、生映像、舞踊を組み合わせた「シネマトダンス」の一作だった。バラのドライフラワーが吊るされた楽屋、床一面の枯れ葉、幕切れの無人の客席(映像)が、ダンサーの円熟期を迎えた井関の今後を照射する。同名曲のトマス・ムーア詩からインスパイアされているが、3連目を読むと、名残のバラを慈しむ詩人の姿が浮かび上がる。つまり詩人(金森)のバラ(井関)に対する愛が作品の起点だった。井関は初演時よりも緊密な体で深い境地を示した。舞踏、日舞に似た密度の高さは、Noism メソッドの結実だろうか。山田は黒子のような付き人のような役割が肚に入っている。サポートしつつカメラで井関の顔を舐めるように映し出す、そのサディスティックな執拗さが何を意味するのかも。初演時よりも超越的な価値観が身体化されている。作品中 ソプラノの歌が断続的に繰り返されるが、2度目のせいかその繰り返しが気になった。

『BOLERO 2020』はオンライン配信中の映像作品(編集:遠藤龍)。井関のソロに始まり、Noism1 の面々が次々と個別のリモート画面に現れる。洋風の洒落たインテリアとカジュアルな衣裳が新鮮。ダンサーたちの生身を想像させ、無名性を強いられる舞台とは異なる魅力を醸し出す。音楽と同期する画面分割の面白さ。画面縁取りの白赤変化、カラーから白黒映像への変換など、遠藤と連携した金森の優れた音楽性が露わになった。最後は全員がスタジオに集まり、リモートと同じ衣装でユニゾン(少しベジャール風)。ダンサーたちの自由奔放な踊りが素晴らしかった。

『Fratres Ⅲ』は『FratresⅠ』『Fratres Ⅱ』(共に19年)に続く最終作品(だろうか)。A. ペルトによる楽器編成を変えた3つの同名曲を使用する。Fratres は親族、兄弟、同士の意とのことで、Ⅰ は金森とダンサーたちのユニゾン、Ⅱ は金森のソロ、Ⅲ は金森を中心とするダンサーたちのユニゾンという構成になっている。全体に振付は蹲踞を含む東洋的動きを主軸とする。今回の Ⅲ では、金森を中心に円を描く構造が立体曼荼羅を思わせて、宗教的儀式性が否応なく強調される。ただし、最後に金森が抜けて空白になるとは言え、振付家とダンサーの権力関係とフォーメーションが二重写しになり、やや息苦しさを感じさせた。金森の持つスター性、圧倒的肉体美もそれに拍車をかける。3作を続けて見た場合、また、別のダンサーが中心の場合には、違った光景になるのかもしれない。

最後は『春の祭典』。金森の恩師ベジャールピナ・バウシュ、もちろんニジンスキーの力強い先行振付があり、それらへのオマージュを含んでいるが、冒頭の椅子1列のシークエンスに、金森の鋭い音楽性を反映した強烈なオリジナリティがある。楽器とダンサーを一致させるアプローチは、通常リズムと動きの一致に留まりがちだが、曲想と動きの一致にまで至っている。ムーヴメントの微細な面白さに目を奪われた。ニジンスキー風 内向き・内股でおびえる人々の身体性も、金森作品では珍しい。猫背でトボトボと歩く面白さ、コミカルな味わいさえある。囲いの中に入ると、反対に伸びやかな動きに変わったが、おびえたままで男女対立、生贄選びが実行されるとどうだったか。最後は全員が手を繋いで緑の野原へと歩いていく。井関の華やかなスター性、山田の振付に対する献身性、体でダンサーを統率する指導性が際立つ。カーテンコールではダンサーたちの自然な笑顔を見ることができた。

 

★ 子どものためのダンス公演

新国立劇場ダンス『オバケッタ』(7月2日 新国立劇場 小劇場)

 作・演出・振付:山田うん 美術:ザ・キャビンカンパニー 音楽:ヲノサトル

② KAAT キッズ・プログラム『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』(7月14日 KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)

 振付・演出、美術:北村明子 美術:大小島真木 音楽:横山裕章

共に子どもと死の世界を扱っているにもかかわらず、図ったように対照的な作品だった。①は自室に巣食う友達のようなオバケたち、親密な霊界。②は精霊の森と、臓器が分解され、無機物へと至る死の秘密。振付家の資質が、じんわりとした温かさを感じて帰る子どもたちと、この世の神秘に慄きながら帰る子どもたちを生み出す。衣裳はなぜか2作とも池田木綿子。主人公の少年(①西山友貴、②岡村樹)の衣裳は似通っているが、全体的には①はほのぼの系で可愛らしく、②はアジア系でスタイリッシュと、作品に沿っていた。

山田振付は自らの身体感覚に誠実に作られ、越境することはない。手兵のダンサーたちが、自分たちも共有する共同体の温かみを醸し出す。ただしユニゾンのムーヴメントは緩めで、独立したダンス作品としての強度にはやや欠ける。むしろ、山田の歌詞と動きが呼応する演劇作品と考えた方がよいのかもしれない。ヲノの面白暖かい音楽、絵本のような美術が楽しかった。

一方、北村振付は東洋武術とコンテの融合。ムーヴメントの緻密さ、ダンサーの技量の高さを誇る。北村は自らの身体感覚を越えて、語彙を習得するタイプ。作品自体も学習的、啓蒙的だった。日本の夏の森ではなく、より普遍的な夏の森(死と直結する)を幻視する。途中、すぐ前の子どもがお母さんの膝によじ登り、前方からは「怖いよう」という声も。もし北村が自らの身体感覚、子ども時代に寄り沿っていたら、もっと親密な子ども作品になっただろう。

 

 

東京シティ・バレエ団『白鳥の湖』2021

標記公演を見た(7月18日 ティアラこうとう 大ホール)。バレエ団の主要なレパートリーである石田種生版『白鳥の湖』は、セルゲーエフ版、ブルメイステル版を参考にしつつ、4幕の石庭にヒントを得た独自のフォーメーションで、日本的美意識を主張する。また全編に及ぶクールで研ぎ澄まされた様式性は、石田の古典解釈の一端を示すものだった。現在 演出を担当する金井利久は、石田のドラマトゥルギー重視を継承しながら、人間的な温かみを作品に導入した。登場人物のその場で起こる生き生きとした感情が、名作古典を彩る。男性ダンサーのノーブルスタイルは団の伝統だが、これにも柔らかさが加わり、女性ダンサー(1幕)はより細やかな踊りを見せるようになった。ポアント音の無さ、繊細な足技、上体の柔らかな表現は、安達悦子監督の指導の賜物だろう。定評の白鳥群舞は若手が多く、熟成の途上にあるが、感情面への指導がよく伝わってくる。3幕の民族舞踊はダイナミック(指導:小林春恵)。ベテラン・若手ダンサーが一丸となって熱血指導に応えている。

主役はWキャスト。初日のオデット=オディールは清水愛恵、二日目はオデットに中森理恵、オディールに飯塚絵莉(当初配役の佐合萌香は怪我で降板)、ジークフリード王子にはそれぞれキム・セジョン、福田建太が配された。その二日目を見た。

オデットの中森はすでに『白鳥』全幕を経験済みだが、1月のショルツ・セレクション『Air!』で佐合とWアダージョを踊り、今回の配役となったようだ。中森の美しく伸びやかなラインは健在。持ち味の明るい華やかさは、王女としての毅然とした佇まいに取って代わり、引き締まったバレエ・ブランを作り上げた。王子が若手ということもあり、感情のやりとりが見えにくかったのは残念だが、よく考えられたオデット造形だった。対する飯塚は、落語バレエ『鶴の池』、「ニッセイ名作シリーズ2021」ですでにオディールを踊っているとのこと。華やかで求心的な踊り、鮮やかなライン、切れ味鋭いフォルムで、一気に王子を誘惑する。フェッテもダイナミックで情熱的。陽性のはじけるオディールだった。

対する福田は設定通りの若い王子。1幕の立ち居振る舞い、2幕のサポートはまだ慣れていないが、3幕では飯塚オディールにあおられて、持ち前の輝かしい踊りが出現した。ヴァリエーションでの恋の喜び、コーダでの躍動感あふれる踊り合いが舞台を熱くさせる。体温の高そうな王子だった。道化の岡田晃明は、若い王子に献身的に仕える。規範に則った正確で美しい踊りも、あくまで役の踊り。舞台を愛情深く取りまとめている。王子を陥れるロートバルトには妖しい雰囲気の内村和真、貫禄の王妃には若生加世子、ヴォルフガングには受けの芝居に秀でる青田しげるが配された。

1幕パ・ド・トロワは、松本佳織、斉藤ジュンの高レヴェルの競い合いに、沖田貴士のダイナミックな大きさが加わり、華やかな場面となった。初日トロワの平田沙織、上田穂乃香は、三羽の白鳥、スペインで、美しいラインを披露。同じく三羽の且股治奈は、踊りのダイナミズムで先輩に伍している。スペインの濱本泰然は はまり役。踊りの美しさ、大きさにさらに磨きが掛かった。

指揮は井田勝大、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。グラン・アダージョはややダンサーを見過ぎるきらいもあったが、骨格の大きいシティ・フィルを駆使し、躍動感あふれる音楽で舞台を牽引した。

6月に見た英国バレエ2021

2つのバレエ団による英国バレエの競演。スターダンサーズ・バレエ団のピーター・ライト版『コッペリア』(95年 BRB)と、牧阿佐美バレヱ団のフレデリック・アシュトン版『リーズの結婚(ラ・フィユ・マル・ガルデ)』(60年 RB)である。『コッペリア』は昨年上演予定だったが、コロナ禍で今年5月への延期を余儀なくされた。さらに、3月のスエズ運河座礁事故で舞台美術・衣裳の到着が遅れ、6月に再延期という、艱難を乗り越えての上演である。両者共に牧歌的なフランス・バレエ(含ロシア経由)へのオマージュだが、ライトの緻密な演劇性、アシュトンのクリスピーなムーブメントと、多様な舞踊スタイル導入など、英国バレエの豊穣さを再確認することができた。

 

スターダンサーズ・バレエ団『コッペリア(6月13日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

森の詩人 P・ファーマーのけぶるような美術を背景に、スワニルダとフランツの恋模様が闊達に描かれる。ライトの「ロジカルな演出」(吉田都)は、特に1幕で顕著だった。ドラマトゥルギーに則った細やかなマイムは演劇そのもの。コミカルなツボもピンポイントで押さえられ、肩や脚を見せるスワニルダのコケットリーも加わる。ジプシーの女からフランツを取り戻し、その両腕を自分の体に巻き付ける仕草には驚かされた。3幕は本来アレゴリカルなディヴェルティスマンだが、村人たちの踊りという設定のため、共同体の温かさを帯びている。人形のコッペリアが人間に変身し、コッペリウスと踊りながら去る結末には、ライトのロジックよりもロマンティシズムが滲み出た。

2日目当日はスワニルダに塩谷綾菜、フランツに林田翔平という配役(初日は渡辺恭子、池田武志)。パートナーシップも熟しつつあり、演技、踊り共に阿吽の呼吸を感じさせる。塩谷は正確な技術と優れた音楽性を併せ持つバレリーナ。繊細な足技、柔らかな腕遣い、ふっくらとした踊りのニュアンスがスワニルダにふさわしい。3幕パ・ド・ドゥも力みがなく、対話のように自然だった。演技は控えめながら的確。2幕では可愛らしさの中に小悪魔的な要素を滲ませた。コッペリウスとの丁々発止には、客席から子供の笑い声も。よほどテンポが良かったのだろう。終始一貫したスワニルダ造形に、ドラマティック・バレリーナとしての未来が予感される。対する林田ははまり役。いい加減な二枚目浮気男の芝居が板に付いている。1幕の 演技を伴うダイナミックなソロ、民族舞踊からは、情熱的なエネルギーが発散された。ジプシー役フルフォード佳林との相似形の踊りも楽しい。フルフォードは相変わらずの芝居巧者だった。

コッペリウス博士の鴻巣明史もはまり役。明快なマイムで舞台に流れを与える。痙攣的な動きにもわざとらしさがなく、奇矯さを巧みに避けている。最後がハッピーエンド(夢であろうと)だからだろう。奥行きと重みのあるコッペリウスだった。村長の福原大介、宿屋主人の比嘉正、領主の東秀明、夫人の周防サユル、時の父の鈴木稔といった立ち役連が、心得た演技で舞台を支えている。

スワニルダ友人たちの音楽性、柔らかなポアントワーク、自然な芝居はバレエ団の美点を象徴。「スラブ民謡の主題によるヴァリエーション」は幸福感に包まれた。重厚な両民族舞踊も素晴らしい。3幕では石山沙央理の暁、喜入依里の祈りが印象深い(タイプとしては喜入の暁、石山の祈りに思われるが)。

指揮は田中良和、管弦楽はテアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ。牧歌的で温かみのある音楽作りがライト版の演劇性とよく合っていた。

 

牧阿佐美バレヱ団『リーズの結婚』(6月26日夜 新国立劇場 中劇場)

バレヱ団初演は91年。2年ぶり16回目の上演である。無料配布プログラムには歴代キャストのリストや、振付指導のアレクサンダー・グラント(初演時アラン)、メール・パークとの記念写真が掲載され、バレヱ団の歴史の一端を偲ばせる。さらに前回に続き、D・ヴォーン、I・ゲスト、J・ランチベリーによる詳しい解説文が、作品理解を深める手助けとなった。特に 1幕2場のリーズの爪先伸ばし小刻み速歩が、ジョージア国立舞踊団(?)の踊りから生まれたとは。カルサヴィナから受け継いだマイムと共に、アシュトンのムーヴメント(英国民族舞踊、リボン綾取り)への好奇心、意識の高さが、作品に強度を与えている。

主役のリーズには中川郁、コーラスは元吉優哉(初日昼は阿部裕恵、清瀧千晴、二日目は西山珠里、水井駿介)、シモーヌは保坂アントン慶(二日目は菊地研)、トーマスは京當侑一籠、アランは細野生(二日目は濱田雄冴)。中川と元吉は前回と同じ組み合わせである。二人の自然な演技と相性の好さから、喜劇性よりも愛の物語が前面に出る舞台となった。

中川は明るくおっとりとしたリーズ。自分の持ち味を生かしたアプローチである。パキパキとはじけるアシュトン・スタイルはあまり強調せず、物語の流れを重視、コーラスとの愛をゆっくりと育む。2幕の自然な「夢見るマイム」から、突然現れたコーラスとの恥じらいを含む愛の確認、さらに結婚パ・ド・ドゥの薫風漂うリリシズムが素晴らしい。しっとりした味わいも加わり、元吉コーラスを受け止める懐の深ささえ感じさせた。その元吉は内側から感情が湧き出るタイプ。幕が進むにつれてゆっくりと愛情が滲み出て、麦束から現れる所で頂点に達した。リーズの腕に口づけするその真実味。見る者の胸を熱くさせる。ダンサーとしての美質(背中の柔らかさ、美しい爪先、柔軟な開脚)も無意識のうちに発揮。2幕コーダのグランド・ピルエットは鮮やかだった。中川の少し浮世離れした感触と、元吉の無意識が組み合わさった舞台に、束の間 現実から浮遊することができた。

シモーヌの保坂は完成形。パントマイム様式が板に付き(アシュトン版『シンデレラ』の義姉を思い出す)、全く違和感がない。引きの演技も味わい深い。トーマスの京當も前回に引き続き、のどかな大きさがある。王子役からいきなり喜劇的立ち役に至れるのが謎。アランの細野は前回よりも可愛らしく、周囲とのコミュニケーションも自然になった。納まりはよいが、その分ペーソスは減じた印象。公証人の塚田渉、書記の依田俊之はベテランの味わい。おんどりの中島哲也、フルートボーイの坂爪智来を始め、農夫アンサンブルが充実の踊りを見せる。一方、リーズ友人、村娘アンサンブルはバレヱ団の優れた音楽性を体現した。

東京オーケストラMIRAI 率いる冨田実里は、ランチベリー作編曲の音楽群を的確に指揮。個々の楽曲をその性格に応じて振り分ける。2幕の愛の場面では主役二人と共に、情熱的なクライマックスを実現した。新国立の『ライモンダ』以降、グラズノフが占拠していた耳に、ランチベリーが割って入るようになった。現在も混在中。バクランに負けないバレエ愛を冨田に見た。

 

新国立劇場バレエ団『ライモンダ』2021【追記】

標記公演を見た(6月5, 6, 11, 12日 新国立劇場オペラパレス)。2004年バレエ団初演、12年ぶり4回目の上演である。改訂振付・演出は元芸術監督の牧阿佐美、舞台装置・衣裳はルイザ・スピナテッリ、照明は沢田祐二による。牧版の特徴はマイムを舞踊に変換し、物語よりも音楽性を重視する点にある。群舞振付はプティパのシンプルなパの連続から、モダンなフォーメーション、難度の高い振付へと改訂。牧の優れた音楽性がよく生かされている。またウェストモーランド版と共通する1幕の歴史舞踊は貴重である。一方、白い貴婦人が省略され、夢にアブデラクマン(薄井憲二氏によればアブドゥルラクマンが初演時表記とのこと)が登場しないため、物語の重層性が損なわれる可能性がある。ただ今回の印象では、肌理細やかな演技がバレエ団に浸透しており、舞踊のみが突出することはなかった。この12年の間に物語バレエの経験が蓄積されたことに加え、吉田監督による演技指導、アレクセイ・バクランの熱血指揮が奏功しているのだろう。大ディヴェルティスマンに陥ることなく、有機的な古典作品に仕上がっている。

ライモンダ、ジャン・ド・ブリエンヌは4組。いずれの組も技術、演技共に申し分なく、プロ集団としての矜持を見せる。初日の米沢唯と福岡雄大は、技量の高さ、モダンなスタイルが一致し、充実の組み合わせとなった。踊りの質が似通っている。中村恩恵版『火の鳥』での双子のようなユニゾンが思い出された。米沢のライモンダはアリーエフ版(18年 日本バレエ協会)ですでに完成の域に達していたが、今回はまた一から役を作り直している。現在の自分と掛け合わせるためだろう。初日を見る限りでは まだ研究途上に思われたが、3幕アダージョでは圧倒的な存在感、磨き抜かれた踊りで、現在の高い境地を明らかにした。対する福岡は、牧のノーブル・スタイルとは肌が合わないものの、凛々しい十字軍騎士ははまり役。アブデラクマンとの決闘も勇壮、万全のサポートで米沢ライモンダを支えた。2幕最後から終盤にかけて見せた米沢との身体的呼応は、二人にしか起こりえないケミストリーである。

2日目の小野絢子と奥村康祐は初顔合わせながら、ぴったり息の合った舞台を作り上げた。小野の繊細な踊りを、奥村がゆったりと受け止めている。小野は出だしこそやや緊張気味だったが、1幕3場の夢の場面からは美質が花開いた。体全体で音を奏でるような優美なアダージョ、ヴァイオリン・ソロ【近藤薫】と完全に一致している。久しぶりに小野の伸びやかなアダージョを見た。また同場ヴァリエーションで見せた爪先の美しい軌跡も忘れ難い。佇まい、パのみでバレエの美を体現できるレヴェルにある。3幕を透明なリリシズムで彩るなど、踊りと役が緊密に結びついた原点回帰のアプローチだった。対する奥村は宮廷愛の騎士。1幕 別れの場面の情熱、2幕 決闘の猛々しさと婚約者を護る逞しさ、アダージョの献身的なサポートが揃い、至高の愛を捧げる騎士を出現させた。女性群舞に囲まれて絵になる男でもある。

三日目の柴山紗帆と渡邊峻郁は爽やかな組み合わせ。柴山の体の美しさ、パの正確さ、優れた音楽性が、すっきりと水のように流れる舞台を作り上げる。ヴァリエーションも安定、バレエの技法に対する潔癖さを随所に感じさせた。3幕はやや硬さが見られたが、1, 2幕同様、音楽と一体化すれば柴山らしさが出せたのではないか。本来はニキヤ、オデット=オディールで見せたドラマティックな音楽性が持ち味。秋の『白鳥の湖』が期待される。対する渡邊は柴山をふわりと支える。絵から登場する時の格好良さは、いかにも凛々しい騎士。礼儀正しくノーブルなジャン・ド・ブリエンヌだった。

四日目は木村優里と井澤駿。体のエネルギーの強さが見合う よい組み合わせである。伸び伸びと気持ちをぶつけ合う清々しさも。木村はザハロワを想起させるが、もっと繊細に動きのダイナミズムを生かしている。パートナーとの笑顔も自然になった。一方、井澤は荒事系の大きさ、力強さが出た。2幕 帰還の凛々しさ、同幕最後の儀式性が素晴らしい。3幕コーダでは迫力ある踊りを見ることができた。ギャロップの二人の息もぴったり。『白鳥の湖』では別パートナーとなるが。

第3の主役 アブデラクマンには中家正博、速水渉悟が配された。前公演『コッペリア』のコッペリウス同様、配役の妙がある。中家はこれまで数々の敵役を演じてきた。プティ版『ノートルダム・ド・パリ』のフロロ(牧阿佐美バレヱ団)、『ホフマン物語』のリンドルフ、『ジゼル』のハンス、敵役ではないが『くるみ割り人形』のドロッセルマイヤー、『R&J』のティボルト、『マノン』のムッシューG. M. 。エスパーダ(牧)、バジルのスペイン物も加え、これらの蓄積を全投入してアブデラクマンを造形した。

これまで牧版の同役は、ジャンと同等に渡り合うノーブル・タイプが配されてきた。プティパ版初演者がダンス―ル・ノーブルのP・ゲルトであること、中世においてはイスラム世界が文化・文明の先進国であったことを考慮したのだろう。ただ肌塗りもなく、ノーブルな立ち居振る舞いに終始したため、役の肚が分かりにくい難があった。中家はワガノワ系のノーブル・スタイルに、敵役の濃厚なニュアンス、異教の女を愛するロマンティシズム、配下を率いる胆力を融合させた。贈り物を捧げる1幕の体さばき(マントの扱い!)、2幕の「くの字」に折れる跳躍とヴァリエーションの優れた解釈、膝をついた瞬間に斬られる間合いの素晴らしさ。よく鍛えられた褐色の肉体からは、やはり官能が滲み出るが、振付家はどう見るか。肌塗りはヴィハレフ復元版でも行われているが、造形としては中家の方がはるかに気品がある。一方、速水は若手らしいアプローチ。体も柔らかく、年上の配下を引き連れるやんちゃ王子に見える。踊りの素晴らしさは言うまでもないが、さらなる役の彫り込みが期待される。

ドリ伯爵夫人には本島美和。登場するだけで舞台に華やかさをもたらす。本来は律修修女だが、牧版同役の可能性を最大限生かしている。美しさ、慈愛、気品にあふれ、若手を暖かく見守る舞台の要となった。1幕から登場するアンドリュー2世王、鷹揚な貝川鐡夫とは、『カルメン』に始まり、様々な役を共に演じてきた。夫婦のような安定感がある。場をまとめる儀典長には内藤博。慎ましくノーブルな佇まい、役を心得た演技で舞台を牽引した。ドリ伯爵夫人との阿吽の呼吸が素晴らしい。

バレエ団は主役は言うまでもなく、ソリスト、アンサンブルに至るまで、踊りに柔らかいニュアンスと繊細さが加わった。『眠り』に続き、ソリストとして初めて見るダンサーも。パ・ド・カトルの中島瑞生、渡邊拓朗、浜崎恵二朗、マズルカ吉田明花など。細田千晶(クレメンス)、寺田亜沙子(チャルダッシュ・スペイン人)、福田圭吾(サラセン人)のベテラン勢、飯野萌子、五月女遥、奥田花純、山田歌子の中堅組、若手では廣川みくり、廣田奈々が個性を発揮。バレエ団全体が底上げされた印象だった。

東京フィルハーモニー交響楽団を率いるのは、久方ぶりのアレクセイ・バクラン。流麗なグラズノフに熱い血潮を吹き込み、踊りの喜びと劇的力感を際立たせた。公演終了後、2週間以上経つが、未だに『ライモンダ』が耳に鳴り響く。