7月に見たコンテンポラリーダンス公演 2021

中村恩恵 @ TRIAD DANCE PROJECT「ダンスの系譜学」横浜トライアウト公演(7月4日 Dance Base Yokohama)

ソロ20分、トーク40分という公演。中村恩恵、串野真也(衣裳)、司会の宮久保真紀(制作)によるトークが、前半のソロを照らし出す構成である。中村のソロは、自身の新作『BLACK ROOM』にキリアンの『BLACK BIRD』(抜粋)を組み合わせたもの。暗転による切り替えがあり、事前に2つの作品を踊ると知っていたにもかかわらず、一つの作品として見てしまった。

中村はカーキのパンツに柔らかい黒コートの衣裳、パイプオルガンとヴァイオリンをバックに、繊細な手の動きに導かれながら、床面を舐めるように踊る。緊密な精神、息を詰めた体が、宗教曲風の音楽と相俟って屹立。世界から隔絶された自分、ではなく、世界を隔絶する個の趣があった。舞台に立つ4本の白い柱が、巫女のような中村を護る。Box in Box 空間の密やかさも、踊り(舞?)の儀式性を高めた。暗転で黒コートを脱ぐと、袖なしの黒 T シャツ。躍動感あふれる息遣い、切れのよい動きでキリアン語彙を踊る。男声合唱の力強さに前半の重苦しさが解放され、浄化された印象。バレエベース、腰高の踊りだった。

トークで中村は、自身の振付を踊る時と、他者の振付を踊る時の意識の違いを語る。自分の振付だと「(これで)いいのかしら、いいのかしら」と思いながら踊るので、自意識が優って解放されない。他人の振付だと、自分を差し出して、「捧げ物」にできるので、解放される。自分の踊った振付を他人が踊って、再び踊ると、別の感触になるとも。ダンサー中村は深い孤独を抱えて手放さないが、素に戻るとユーモアを含んだ軽やかな精神が躍動する。そのままダンスに移ることはできないものか。にこやかに微笑みながら、雲のように揺蕩う姿が目に浮かぶのだが。

衣裳の串野は、黒コートと翼の着いた黒ブーツ(展示用?)を制作した。最初に中村の話を聞いて、ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』を連想し、黒いコートを作ったとのこと。「触れるとその人がハッピーになるような天使」が、串野の中村イメージなのだろう。串野は靴を創る時、既視感を大切にすると言う。思った通りに作ると理解されないから、その手前で止めるのだそう。通常アーティストは既視感を避けると思うが、串野の逆ベクトルの言葉は謎。コミュニケーションを優先させるということか。プロフィールには出身県のみならず、出身地の記載もある。

 

水中めがね ∞ × 日本舞踊家コラボレーション企画「しき」(7月9日昼 神奈川県立青少年センタースタジオ HIKARI)

主宰の中川絢音を初めて見たのは、現代舞踊協会の「夏期舞踊大学」。西川箕乃助をゲスト講師に迎えての日本舞踊ワークショップだった。一際 動きが大きく、声も大きく、グループ創作をぐいぐい先導する。日舞の技法がすでに入った体(坂東流)だが、西川箕乃助の指導を受けたかったのか。今回の公演は、中川の舞踊技法への興味と試行が結実している。

3演目の最初は、日舞作品『青朱白玄』。春夏秋冬を表す4つの踊りから構成される。格調高い「連獅子」、軽快な「善玉・悪玉」、しっとりとした「虫の音」、創作舞踊風「白鷺」を、藤間涼太朗(振付・構成も)、花柳寿紗保美が踊る 。4つのスタイルを踊り分ける面白さ、日舞の技法そのものを見る楽しさ(至近距離ゆえ)を味わうことができた。藤間の方がすっきり、花柳はしっとりという違い、また地唄舞の難しさが実感される。

2つ目は水中めがね ∞ のレパートリー『my choice, my body,』(18年)。中川の演出・振付、楽曲提供 LIEAT、出演は 根本紳平、松隈加奈子、浅野郁哉。能面を付けた3人が並んで踊る。日舞の技法とコンテのアマルガム。両技法(+ バレエ)が体に入った人でなければできない振付である。ムーブメントへの意識の刻みが鋭く、動きを見るだけで面白い。能面は必要だろうか。照明をもう少しフラットにすれば、ムーブメントの普遍性が際立つような気がする。

最後はコラボ作品『しき』。葬式、弔うことをモチーフに、中川が演出・振付を担当。作曲・作調・太棹三味線はやまみちやえ。金属ロッカーを横倒しにし、棺桶に見立てる。藤間と花柳が両脇に陣取り、別れの盃を飲み、両肩を払い、両腕を天に押し上げる儀式を行う。中川はパニエ入りの白いドレス下にセグウェイを隠し、棺桶の周りを逆時計方向に高速で走る。亡霊なのだろう。途中からドレスを脱いで、儀式に加わった。3人ユニゾンすることで踊りの質の違い、技法の混入の違いが分かる。花柳の方が日舞から離れがたいように見えた。中川はパトスの強い激しい踊り。「よさこい」にならないのは技法が付け焼刃ではないから。指の美しさに目を奪われた。終演後のトークで中川曰く「最初、振付を日舞の体のままやってもらって、途中から加えて(変えて?)いった」。中川は構成・振付とも、自分の感覚に忠実に行なっている。嘘のない作品作りは清々しい。トークで「日舞の古典を振り付けたい」とも。藤間から「『娘道成寺』はどうか」との応酬あり。今後のコラボが期待される。

 

【番外】新国立劇場オペラ新制作『カルメン(7月11日 新国立劇場 オペラパレス)

カルメンをロックシンガー、舞台を日本のロックステージに変え、ホセはその警備にあたる警察官という設定。冒頭に日本の警官たちが現れて、ホッとした(警官を見てホッとしたのは初めて)。猫背で膝を曲げ、腰を落として歩く日本人の緩い身体性が、丸ごと肯定されるからだ。次々に現れる日本人たち。これほどの地続き感を古典オペラで感じたことはない。制服の小学生を引率する女性教師の佇まいは、演出が入っているのか。肩にカバンをかけ、首を突き出して心配そうに子供たち(合唱)を見守る姿。演出のオリエがここまで日本人の身体性を見抜いているとしたら、並外れた観察力の持ち主と言える。因みに、合唱はソーシャル・ディスタンスを取るため、離れて歌う。ヴィジュアルとしても面白かった。全ての演出に意味のある心地よさ、全ての歌が役の歌だった。声では当然ながら、カルメンのドゥストラック(フランス・オペラなのにフランス人のカルメンを生で聴くのは初めて)、ホセの村上敏明、フラスキータの森谷真理、レメンタードの糸賀修平、役作りとしては、ダンカイロ 町英和の宇崎竜童振りが素晴らしかった(以前マゼットでも好演)。

指揮:大野和士、演出:アレックス・オリエ、美術:アルフォンス・フローレス、衣裳:リュック・カステーイス、照明:マルコ・フィリベック、合唱:新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル、TOKYO FM 少年合唱団、管弦楽:東京フィルハーモーニー交響楽団

 

正田千鶴 +上原尚美 @ 東京新聞 第48回「現代舞踊展」(7月11日 メルパルクホール

上原尚美振付『光澄む地にて』は、二日目の後半最初に上演された。酒本恭輔の電子ピアノ演奏をバックに、緻密に構成された自然体舞踊である。7人のダンサーが踊り合うなか、上原と母 藤井利子が、正面手前から奥に向かってゆっくりと歩いていく。時折ぼんやりと空を見上げながら。藤井の洗練されたアン・ドゥオール歩き、上原の幅広6番歩き(少し蟹股)の対照的面白さ、共に情景を浮かび上がらせる円熟の佇まいが、悠久の時を感じさせる。ダンサーたちは体がほぐれたままでフォルムを作る熟練揃い。上原の体もほぐれているが、藤井をサポートしつつ、空間全体を作る妙な包容力があった。最後は高橋純一が無音でソロを踊り、ピアノの「ボーン」という単音で幕。

正田千鶴振付『ヴィブラート』は、同日後半最後に上演された。恒例の剥き出しの奥壁、幕を取り払った両袖から裸ライトが煌々と舞台を照らす。音楽はヘンデルの『水上の音楽』。黒一点の中西飛希は、古代戦士のようなグレーの短パン姿、正田手兵の女性6人はカラフルなレスリングウェアを身に着けて、やはりオリンピックを連想させる。冒頭 暗闇の中から何かを叩く音。明るくなると、男性(中西)が渾身の力で床を叩いている。終盤にも、女性ダンサーたちが同じ動きを繰り返す。動きの理由は分からないが、その必然性のみが腑に落ちる強度の高さがある。中西は5番ポジション、グラン・バットマンの掌打ち、奇怪なフォルムの連続ジャンプなど、バレエ技法を見事に決める。体操選手のようなアスレティックな味わいが加わり、正田好みのアポロン的な美しさを体現していた。女性陣の肩クニクニ、バレエポジション由来のスポーティなフォルムなど、全ての動き、フォーメーションに正田の絶対的な美意識が息づいている。他者の価値観に惑わされず、思った通りに作品を作る最強の自我。カーテンコールでの正田にもそれが実感される。いつも正田とカップリングで書いてきた柳下規夫は、今回初日のため見ることができなかった。

 

Noism Company Niigata『春の祭典』『FratresⅢ』『夏の名残のバラ』他(7月23日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

NCN芸術監督 金森穣による新旧4作品。幕開けはNoism0 所属の井関佐和子、山田勇気出演『夏の名残のバラ』(19年)。映像、生映像、舞踊を組み合わせた「シネマトダンス」の一作だった。バラのドライフラワーが吊るされた楽屋、床一面の枯れ葉、幕切れの無人の客席(映像)が、ダンサーの円熟期を迎えた井関の今後を照射する。同名曲のトマス・ムーア詩からインスパイアされているが、3連目を読むと、名残のバラを慈しむ詩人の姿が浮かび上がる。つまり詩人(金森)のバラ(井関)に対する愛が作品の起点だった。井関は初演時よりも緊密な体で深い境地を示した。舞踏、日舞に似た密度の高さは、Noism メソッドの結実だろうか。山田は黒子のような付き人のような役割が肚に入っている。サポートしつつカメラで井関の顔を舐めるように映し出す、そのサディスティックな執拗さが何を意味するのかも。初演時よりも超越的な価値観が身体化されている。作品中 ソプラノの歌が断続的に繰り返されるが、2度目のせいかその繰り返しが気になった。

『BOLERO 2020』はオンライン配信中の映像作品(編集:遠藤龍)。井関のソロに始まり、Noism1 の面々が次々と個別のリモート画面に現れる。洋風の洒落たインテリアとカジュアルな衣裳が新鮮。ダンサーたちの生身を想像させ、無名性を強いられる舞台とは異なる魅力を醸し出す。音楽と同期する画面分割の面白さ。画面縁取りの白赤変化、カラーから白黒映像への変換など、遠藤と連携した金森の優れた音楽性が露わになった。最後は全員がスタジオに集まり、リモートと同じ衣装でユニゾン(少しベジャール風)。ダンサーたちの自由奔放な踊りが素晴らしかった。

『Fratres Ⅲ』は『FratresⅠ』『Fratres Ⅱ』(共に19年)に続く最終作品(だろうか)。A. ペルトによる楽器編成を変えた3つの同名曲を使用する。Fratres は親族、兄弟、同士の意とのことで、Ⅰ は金森とダンサーたちのユニゾン、Ⅱ は金森のソロ、Ⅲ は金森を中心とするダンサーたちのユニゾンという構成になっている。全体に振付は蹲踞を含む東洋的動きを主軸とする。今回の Ⅲ では、金森を中心に円を描く構造が立体曼荼羅を思わせて、宗教的儀式性が否応なく強調される。ただし、最後に金森が抜けて空白になるとは言え、振付家とダンサーの権力関係とフォーメーションが二重写しになり、やや息苦しさを感じさせた。金森の持つスター性、圧倒的肉体美もそれに拍車をかける。3作を続けて見た場合、また、別のダンサーが中心の場合には、違った光景になるのかもしれない。

最後は『春の祭典』。金森の恩師ベジャールピナ・バウシュ、もちろんニジンスキーの力強い先行振付があり、それらへのオマージュを含んでいるが、冒頭の椅子1列のシークエンスに、金森の鋭い音楽性を反映した強烈なオリジナリティがある。楽器とダンサーを一致させるアプローチは、通常リズムと動きの一致に留まりがちだが、曲想と動きの一致にまで至っている。ムーヴメントの微細な面白さに目を奪われた。ニジンスキー風 内向き・内股でおびえる人々の身体性も、金森作品では珍しい。猫背でトボトボと歩く面白さ、コミカルな味わいさえある。囲いの中に入ると、反対に伸びやかな動きに変わったが、おびえたままで男女対立、生贄選びが実行されるとどうだったか。最後は全員が手を繋いで緑の野原へと歩いていく。井関の華やかなスター性、山田の振付に対する献身性、体でダンサーを統率する指導性が際立つ。カーテンコールではダンサーたちの自然な笑顔を見ることができた。

 

★ 子どものためのダンス公演

新国立劇場ダンス『オバケッタ』(7月2日 新国立劇場 小劇場)

 作・演出・振付:山田うん 美術:ザ・キャビンカンパニー 音楽:ヲノサトル

② KAAT キッズ・プログラム『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』(7月14日 KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)

 振付・演出、美術:北村明子 美術:大小島真木 音楽:横山裕章

共に子どもと死の世界を扱っているにもかかわらず、図ったように対照的な作品だった。①は自室に巣食う友達のようなオバケたち、親密な霊界。②は精霊の森と、臓器が分解され、無機物へと至る死の秘密。振付家の資質が、じんわりとした温かさを感じて帰る子どもたちと、この世の神秘に慄きながら帰る子どもたちを生み出す。衣裳はなぜか2作とも池田木綿子。主人公の少年(①西山友貴、②岡村樹)の衣裳は似通っているが、全体的には①はほのぼの系で可愛らしく、②はアジア系でスタイリッシュと、作品に沿っていた。

山田振付は自らの身体感覚に誠実に作られ、越境することはない。手兵のダンサーたちが、自分たちも共有する共同体の温かみを醸し出す。ただしユニゾンのムーヴメントは緩めで、独立したダンス作品としての強度にはやや欠ける。むしろ、山田の歌詞と動きが呼応する演劇作品と考えた方がよいのかもしれない。ヲノの面白暖かい音楽、絵本のような美術が楽しかった。

一方、北村振付は東洋武術とコンテの融合。ムーヴメントの緻密さ、ダンサーの技量の高さを誇る。北村は自らの身体感覚を越えて、語彙を習得するタイプ。作品自体も学習的、啓蒙的だった。日本の夏の森ではなく、より普遍的な夏の森(死と直結する)を幻視する。途中、すぐ前の子どもがお母さんの膝によじ登り、前方からは「怖いよう」という声も。もし北村が自らの身体感覚、子ども時代に寄り沿っていたら、もっと親密な子ども作品になっただろう。