新国『ゴドーを待ちながら』を見る +マラーホフのこと

 今まで見たなかで、一番面白かった(三つだけだけど)。新訳ということもあるのか、一から洗い直されている気がする。衣裳はいわゆるだが、装置の抽象性と噛み合って、違和感はなかった。役者はエストラゴンの石倉三郎が圧倒的にすばらしい。腕を広げて項垂れるだけで、キリストのような受苦が示される。肉体そのものが悲しみの表象。最後のせりふ「うん、行こう」の一声には無垢な魂が宿り、ゆっくりとフェイドアウトする舞台と客席(そしてそこにいる人々の人生)を浄化した。希望と諦念が入り混じった複雑な一声だった。
 もう一人はラッキーの石井愃一。「踊れー」の踊りがすごい。自分の振付だろうか。いずれにしても石井にしか踊れない、肉体と密着した踊りだった。倒れ方も抜きん出ている。偽りのない肉体。こうやって見ると、喜劇系と新劇系の違いが分かる気がする。ウラジミールの橋爪功は運動神経に優れ、動きの切れもすばらしいが、演技と身体は切り離されている。セリフ主導の演技ということ。喜劇系は体から入る。自分の体を作っている。
 最後にポッゾの山野史人にびっくりした。自在なセリフはともかく、あんなに華麗な役者だったとは!(4月22日 新国立劇場小劇場) 

 全然別の舞台で、書いておきたかったこと。
 ベルリン国立バレエ団1月公演のマラーホフについて。なぜ何を踊ってもマラーホフなのか。『チャイコフスキー』で思ったのは、何よりも芸術愛好家だということ。つまり舞台の虚構に入ることが、マラーホフの至上の喜びなのだと思う。チャイコフスキーの苦悩にひたる喜び、白鳥群舞の中に入る喜び。役になりきるのではなく、役を踊ることそのものが喜びなのだ。芸術監督という社会的な仕事をこなしながら、同時に現実は悲惨であると感じ続けられる能力がその根元にあるのだろう。芸術愛好家である以上、芸術家としての深まりは期待できないが、ダンサーとしては誰も侵すことのできない奇跡のような人である。