チャコット 『バレエ・プリンセス』 2017

標記公演を見た(7月20日 新宿文化センター)。主催のチャコットは、バレエ・ダンス用品の製造販売、ダンススタジオの運営を基盤に、舞踊公演の後援、舞踊史講座の開催、ウェブ・マガジン等でダンス文化の一翼を担ってきた。企画・制作した『バレエ・プリンセス』は、幅広い世代に対するバレエ鑑賞普及啓発を目的とした公演である。昨年の東京初演に続き、今年は金沢でも上演、今回の東京再演を迎えている。
演出・振付は、谷桃子バレエ団附属アカデミー芸術監督の伊藤範子。子役を含め、所属団体の異なるダンサーたちが一堂に会し、統一的アンサンブルを形成、さらにドラマを立ち上げることに成功したのは、伊藤の一貫した美意識に基づく的確な指導によるものである。主役のプリンセスたち、オーロラ姫の米沢唯、シンデレラの池田理沙子、白雪姫の木村優里は、所属の新国立劇場バレエ団公演とは一味違った演技を見せて、演出の強力な一刷けを覗わせた。また、初めて女装役を経験した美しいヴィラン(王妃、継母、カラボス)の逸見智彦も、新たな演劇的境地を切り開いている。
作品は少女たちのバレエレッスンで始まる。母のお迎えが遅くなった少女アン(大谷莉々)は、稽古場に置いてあった『白雪姫』、『シンデレラ』、『眠れる森の美女』の絵本を次々に読んで、想像の世界に羽ばたく。最後は、迎えにきた母の前で初めてピルエットを成功させ(ここで客席から拍手)、手を繋いて家路につくという、児童に親しみやすい導入設定である。アンの想像する物語、『白雪姫』の最後は、アンが絵本を開くと継母の怖い王妃が現れ、閉じると消える演出、『シンデレラ』の最後では、絵本を開いたアンの立ち姿が浮かび上がる。『眠り』の終幕にはオーロラとデジレが舞台から抜け出して、アンの目の前でアダージョを踊る演出が入り、夢見がちな少女の姿が強調される。音楽はそれぞれ、チェレプニンの『アルミードの館』、プロコフィエフチャイコフスキーを使用。プロローグと合間は『眠り』のパノラマ、エピローグはチェレプニンで構成され、伊藤の音楽的でドラマティックな振付のベースとなった。
プログラムには、森瑠依子氏による舞踊史を織り交ぜた分かりやすい作品解説が掲載されている。脚注を読むだけでも面白く、啓蒙される喜びがある。また、『バレエ・プリンセス』のイメージ・イラストを描いた萩尾望都のインタビューでは、萩尾の芸術に対する認識が、考え抜かれた誠実な言葉で語られている。
バレエ・プリンセスの一人目、白雪姫の木村は、ミリ単位の演技が素晴らしかった。扉を開けて現れる、小人たちに挨拶する、窓辺に現れる、毒りんごを食べて倒れる、その一つ一つの動作がフォルムにまで昇華されている。そして白雪姫の慟哭するソロ。誰が白雪姫にこのような音楽と振付を与えるだろう。また誰がこのように踊るだろう。踊りが示す動的・感情的強度は、小さな観客の胸に、訳が分からないまま刻まれるに違いない。
二人目はシンデレラの池田。持ち前の真っ直ぐで明るいエネルギーを発散する。演技はあっさりめだが、常に前に進んで、その場その場に跳びこむ気迫(の連続)に驚かされた。王子の橋本直樹も陽性。二人して難度の高いリフトを次々とこなし、光が駆け抜けるようなパ・ド・ドゥを作り出した。
オーロラ姫の米沢は、成熟した肉体に研ぎ澄まされたラインを見せる。矢を引き絞るような凛としたアラベスクは和風。オーラを放射するのではなく、空間を引き寄せる求心力があり、丹田への意識を感じさせる(そんなはずはないのだが)。動きは完璧にコントロールされ、しかも流れるように自然。伝統芸能の粋がそこにある。感触としては、やはり能の体に近い。水のような雑味のない所作と踊りだった。王子の浅田良和は、パートナーを感じて無意識に寄り添うことができる。サポートも万全。ソロでは持ち前のエネルギーを抑え気味に、エレガンスを優先させた。
逸見のゴージャスな王妃とカラボス、さらにコミカルな中にもノーブルな味わいのある継母、西田佑子の母性的なリラの精(エピローグではアンの優しい母になる)、樋口ゆり&みのり姉妹によるダイナミックな義姉、田村幸弘の闊達な道化など適材適所の配役に、アンの友達、小人、時計の精の子役たち、マズルカ・アンサンブルが加わり、3つの物語が立体的に立ち上がった。