小林紀子バレエ・シアター『マノン』

日本で初めて(世界では三番目)マーティン・イエーツの新編曲版を使用した公演だったので、時期は遅いがアップしてみた。

 小林紀子バレエ・シアター定期公演が100回目を迎えた。祝賀記念公演はケネス・マクミランの『マノン』(全三幕)。74年の第一回からおよそ四十年、前半は古典と創作、後半は英国バレエを上演してきたバレエ団の、言わば集大成である。
『マノン』(74年)はアモラルな少女マノンと、それに魅入られた学生デ・グリューの恋を軸に、人間の欲望の在処を描き尽くしたマクミラン円熟の作品である。ソビエト・バレエの影響著しいアクロバティックなリフトが、ここにきて初めて内的必然性を備え、アダージョにおける男性ダンサーが女性同様、クラシックのラインで精神性を表すようになった画期的作品でもある。
 プライヴェート・カンパニーがこの大作を取り上げた勇気にまず驚かされたが、今回の上演は図らずも、マーティン・イエーツによる新編曲版を本邦初演する貴重な機会となった。イエーツ編曲は、マクミラン自身が原編曲版を必ずしも理想的と考えていなかったことから、英国ロイヤル・バレエの依頼で実現した(N. Wheen)。本年三月フィンランド国立バレエで初演、六月には本家ロイヤル・バレエでも上演されている。
 全体的な印象としては場面ごとの繋がりが自然になり、以前はぶつ切れだったものが一つの纏まった作品に感じられるようになった。序曲、間奏曲(挿入あり)、パ・ド・ドゥ曲はより叙情的になり、音楽が振付を牽引するのではなく、振付に寄り添った感触がある。
 さらに加えて、ぼろ布を象徴として使用したジョージアディスによる初演美術が、P・ファーマーの森を配したロマンティックな美術(オーストラリア・バレエ提供)に取って代わり、作品の猥雑な印象がすっかり消えてしまった。ジュリー・リンコンの演出も、ダンサーの能力を引き出しながらアンサンブルをまとめ、ドラマの大きな流れを作り出す方向にある。編曲、美術、演出の傾向が揃い、言語矛盾のようだが、後味のよい『マノン』上演となった。
 マノン役の島添亮子は一幕前半こそ役に馴染んでいないようだったが、ムッシュG.M.、レスコーとのトロワになると俄然本領を発揮し始めた。自己放棄する能力、受苦する能力が全開する。スペイン風二幕ソロの強烈な自己顕示、男達の手で空中遊泳する艶やかな官能、会話が聞こえるような腕輪のパ・ド・ドゥ、そして全てが剥ぎ取られた三幕トロワと沼地のパ・ド・ドゥ。仰向けに倒れたデ・グリューに支えられたアラベスクの鮮烈さ、ぼろ布のように脱力した肉体の崇高な輝きは、音楽、ドラマ、肉体の気が一致して初めて可能な高い境地を示している。
 デ・グリュー役ロバート・テューズリーは、マクミランアラベスクを体現できる世界でも数少ないダンサーである。一幕ではお手本のようなソロと優れたサポートを見せながら、まだドラマの外にいる感じだったが、島添が役と一致した辺りから情熱的なデ・グリューとなった。二幕の徐々にマノンに近づいていく熱気、腕輪のパ・ド・ドゥでの激しい怒り、三幕ではマノンに付きっきりの献身と苦悩、最後は体全体を使って防波堤のようなサポートを見せた。『インヴィテーション』から芽吹いた、島添との優れたマクミラン・パートナーシップである。
 レスコーには若手の奥村康祐。マノンの兄というよりもやんちゃな弟に見えるが、演技に踊りに難しい役をよく健闘した。レスコーの愛人には同じく若手の喜入依里。ソロ、パ・ド・ドゥはまだこれからだが、舞台度胸がよく華やか。G.M.の後藤和雄は存在感があり、島添との息もぴったりだった。
 マダムの大塚礼子、看守の冨川祐樹、ベガーチーフの恵谷彰を始め、アンサンブル一人一人が役どころを押さえた演技。二幕娼館のディヴェルティスマンは明るく健康的で楽しかった。
 練達の指揮者アラン・バーカーが、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団から瑞々しい叙情性を引き出している。(8月27日 新国立劇場オペラ劇場)
——『音楽舞踊新聞』2011年10月1日号,No. 2852