小林紀子バレエ・シアター『ソリテイル』『二羽の鳩』2016

標記公演を見た(7月3日 新国立劇場中劇場)。二作とも、ステージングがジュリー・リンコンからアントニー・ダウスンに変わって初めての再演。『ソリテイル』(56年)は、一人ぼっちの少女が友達と遊ぶことを夢見て、想像の世界に浸るが、最後は再び一人ぼっちになり、孤独の淵に沈むという、マクミランの自画像とでも呼ぶべき初期作品(マクミラン自身は91年、「この作品はハッピーエンディング」と語っているが)。今回、孤独があまり強調されず、作品全体が少女の楽しい一人遊びに終わったのは、主演の高橋玲子の資質によるものだろう。
一方、『二羽の鳩』(61年)の印象が前回と大きく異なったのは、明らかにダウスンの演出に起因する。アシュトンの牧歌的なロマンティシズムよりも、人間の暗部をえぐり出すマクミラン風リアリズム、青年と少女の和解のパ・ド・ドゥよりもジプシーの濃厚な踊りが前面に出る。ダウスンが『マイヤリンク』のルドルフを当たり役としていたことと、こうした演出傾向は、どこかで繋がっているのではないか。青年の裏切りへと至るざわついた感情のやりとりと、ジプシー達の青年に対する暴力的な翻弄は、アシュトン・スタイルの域を超えたリアリティがあった。
主演の島添は、リンコンによって『ソリテイル』主役に抜擢され、『インヴィテーション』、『マノン』と、マクミラン・ダンサーのステップを歩んできた。リンコンによって育まれ、自らの緻密な音楽性と結びついた深い情感は、美しい踊りと共に、島添の美点である。こうした島添の美質を引き出すには、ダウスンの演出はあまりにドライでシニカルに思われる。今回はアシュトン・バレエであった分だけ余計に、二者の齟齬が感じられた。
前回2005年の『二羽の鳩』評を、アップしてみる。青年はロバート・テューズリーだったが、故障降板。当日初めて代役を知らされた。

小林紀子バレエ・シアター秋公演は、アシュトン作品『レ・パティヌール』(37年)と『二羽の鳩』(61年)のダブル・ビル。音楽的で小気味のよいアシュトンのスタイルが、その魅力を全開にした。


アシュトンの振付は音楽と不可分の関係にある。今回の成功の大きな要因は、渡邊一正の指揮にあると言っても過言ではない。マイヤベーアとメサジェの音楽の隅々まで、渡邊独得の暖かみのある息吹が吹き込まれ、踊りとともに疾駆する。渡邊の音楽によって、アシュトンが極東の地で蘇ったと言える。


二つ目の要因は、所属ダンサーの好演もさることながら、新国立劇場バレエのダンサーを始めとする客演陣の力である。一週間前には、イギリスの中堅振付家ビントレーによる現代的な振付を踊っていたとは思えないほど、スタイルを強く意識した踊りを見せた。


三つ目は、『二羽の鳩』の若者で急遽代役に立った新国立劇場ソリストの山本隆之だろう。山本は日常(ボヘミアンではあるが)と異界(ジプシーキャンプ)を行き来するロマン主義的ヒーローを、アルブレヒトジークフリート、ヨハン(こうもり)といった蓄積を全て注ぎ込み、なおかつ軽やかに演じている。この作品の主役が実は若者であることを、山本の肉体は明らかにした。アシュトンも喜んだのではないか。


黒鳥のシーンを思わせる、ジプシーの女(斉藤美絵子)とその恋人(中尾充宏)とのパ・ド・トロワや、グラン・アダージョに相当する、少女(島添亮子)との清らかな和解のパ・ド・ドゥで、山本は優れたパートナーぶりを見せる。仲直りの象徴である白鳩とのコミュニケーションも抜群。白鳩を肩に階段を下りてくる姿には、絵画から抜け出たような古典的な美しさがあった。当日まで代役告知がなかったのが残念なほどのはまり役である。


少女の島添は一幕のコケティッシュな演技ももちろんよかったが、本領はやはり二幕の悲しみのソロと、和解のアダージョだろう。繊細で高貴なラインに、豊かな感情が息づいている。ドメスティックな鳩を踊る島添を見ながら、この人の白鳥を見たいと強く思った。寓話ではなく、真のドラマをその肉体は要求している。


『レ・パティヌール』でのスケートの身振り(二十世紀初期の時代性を感じさせる)や、『二羽の鳩』での鳩の身振りといったカリカチュアは、極めてイギリス的なディタッチメント(感情超越)を作品に与えている。『二羽の鳩』一幕最後の愁嘆場でも、アンサンブルが両肘を鳩の羽のように後ろに引きつけて、悲しみの中にも上質のユーモアを醸し出していた。


ジプシーアンサンブルを率いる大森結城のダイナミズムと、佐々木淳史の鮮烈な踊りが印象に残る。管弦楽は、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。(11月13日 ゆうぽうと簡易保険ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2683(H18.1.21号)初出