小林紀子バレエ・シアター『マノン』2013

標記公演評をアップする。

小林紀子バレエ・シアターが二年ぶりに『マノン』を再演した。昨年の『アナスタシア』を挟んで、3年連続マクミランの大作を上演したことになる。
『マノン』は振付家のムーヴメントに対する意識が最も研ぎ澄まされた最高傑作である。4つのパ・ド・ドゥ、各キャラクターのソロ、群舞を、スピーディなマイムで繋ぐいわゆる物語バレエだが、踊りが物語を超えて、異次元を生み出す瞬間がある。その最たる場面が、複雑なリフトを多用する「出会いのパ・ド・ドゥ」。同じ超絶リフトでも、クランコの場合は運動的快感が追求されるのに対し、マクミランは無意識の奥底にある感情の塊を、視覚と皮膚感覚を融合した形で現前させる。踊り手にアーティスティックな感覚を要求する現代パ・ド・ドゥの極北である。


今回はデ・グリュー以外ほとんど初演と同じメンバー。再演の成果はレスコーの奥村康祐と愛人喜入依里の演技に顕著だった。舞台で役になって生きている。奥村の溌剌とした踊り、妹への想い、死ぬ間際の哀感、喜入の太っ腹でゴージャスな踊り。もちろん演技を深める余地は残されているが、はまり役だと思わせた。


マノンは島添亮子。その美点は、抜きん出た音楽性が繊細で美しい姿形に隈なく反映されること、完璧を追求する勇気を持ち合わせていることである。演技部分のやや引っ込み思案な様子は、舞踊部分になると一掃され、本来の輝かしい姿が顕現する。
今回は初日冒頭から淑やかなマノンだった。「出会いのパ・ド・ドゥ」ですでに前回ロバート・テューズリーとの間で到達した境地に達していたが、残念ながら今回のデ・グリュー、エドワード・ワトソン(英国ロイヤル・バレエ・プリンシパル)の不調で、盤石のデュエットとはならなかった。
ワトソンはルドルフ皇太子等をはまり役とする演技派。先頃のロイヤル来日公演でも、ルイス・キャロルと白うさぎという難役を見事に演じている。デ・グリューも持ち役だが、ひたすら恋人に尽くす柄ではないのだろうか。パートナリングの調整時間不足を差し引いても、献身的なパートナーとは言い難かった。あるいは体調不良だったのかも知れないが。
島添の再演ならではの余裕は、ワトソンへの配慮に費やされた。パ・ド・ドゥでは自分のラインよりも相手のラインを優先。島添の美しいラインがサポートによって崩されるのを何度見たことか。今回の真のパートナーは看守の冨川祐樹である。いつもは目を背けたい流刑地でのレイプシーンが、こんなに愛情深く見えたことはない。看守として適切な演技とは言えないが、島添の踊りやすいようにサポートを重ね、島添も思いきり動いていた。本来の意味でのパ・ド・ドゥである。


ムッシュG.M.の後藤和雄は初演時に引き続き、重厚な存在感で場をまとめる。マダムの大塚礼子、高級娼婦の高橋怜子以下、賑やかで健康的な娼館の雰囲気は健在だった。演出は元ロイヤル・バレエ・プリンシパルアントニー・ダウスン。前回のジュリー・リンコンによる愛情深い舞台作りとは異なる演出法だった。演奏はアラン・バーカー指揮、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団ソリストを揃えていたがオーボエにアクシデントがあり、「寝室のパ・ド・ドゥ」が台無しになったのが残念。(8月24日 新国立劇場オペラ劇場) 『音楽舞踊新聞』N0.2910(H25.10.11号)初出