小林紀子バレエ・シアター『アナスタシア』

小林紀子バレエ・シアターがケネス・マクミランの『アナスタシア』(全3幕)を上演した。本邦初。『アナスタシア』は1967年にベルリン・ドイツ・オペラで1幕物として作られた。音楽はマルティヌー交響曲6番と電子音楽。その後チャイコフスキー交響曲1番と3番を加えて、ロイヤル・バレエで3幕版が上演された(71年)。自らをロマノフ王朝の生き残り、アナスタシア皇女と名乗ったポーランドの女性、アナ・アンダーソンが主人公である。
マクミランの生前時にはDNA鑑定がされておらず、マクミランはアンダーソンをアナスタシア皇女だと信じていた節がある。そのため、3幕のアナの回想として、1幕の少女時代、2幕の社交界デビューが描かれたが、現在では事実と異なることになり、整合性を欠く。のみならず、振付のスタイルも1、2幕はクラシック、3幕は表現主義的なモダンの動きで、劇場で隣り合わせた年配紳士の言を借りれば『変なバレエだねえ』ということになる。しかし世界が瓦解する前と後と考えれば、おかしくはなく、今からでは遅いが、1、2幕を圧縮すれば、面白い作品になったかもしれない(前段が長すぎる)。
今回の上演の意義は、第3幕が見られたこと。テューダーを思わせる硬直した身振りの数々。マクミランの興味は、いわゆる物語バレエにあるのではなく、人間が自らの置かれた状況にどのように反応するかにしかないのだと、改めて思った。ドラマを繋いでいく演出術には、長けていない、と言うか、興味がないのだろう。
島添亮子のアナスタシアは3幕になってようやく、農民の夫、中尾充宏とパ・ド・ドゥを踊ることが出来た(1、2幕はほとんどソロ)。リフトされた脚の素晴らしさ。ドラマティックなバレリーナである。その音楽性は、コジョカルのように音と戯れるのでも、小野絢子のようにピンポイントで音を捉えるのでも、長田佳世のように体全体で音楽に入り込むのでも、西山裕子のように繊細な音の流れに分け入るのでもない。パトスと手に手を携えて、音楽そのものと化すのである。島添の、体を投げ出す無意識の大きさと、受苦する能力が、音楽性にも深く関わっていると思われる。
『コンチェルト』で組んだ中村誠、『二羽の鳩』で組んだ山本隆之、『インヴィテーション』(少年)や『マノン』(G.M.)で組んだ後藤和雄、そして今回の中尾充宏が、島添の良きパートナーとして思い浮かぶ。彼らと組むと、地味な外見が徐々に熱を帯びて、破天荒なパトスを放出する。テューズリーとは少し恥ずかしそうな、人見知りする感触が残る。