東京バレエ団×ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット』

標記公演を見た(2月7、8、9日 東京文化会館大ホール)。
3公演を見て最も心に残ったのは、ベンジャミン・ポープ指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏だった。在京主要オケの一軍が、本気で全力を尽くしたらこうなるという演奏。これまで指揮者はよくてもオケの技量不足、または本気なしの演奏に諦め半分だったが、バレエ公演でもやればできるのだ。弦、金管木管とも素晴らしく、トランペットの輝かしさ(最終日は疲れが出たが)に惚れ惚れした。秘密結婚のホルンもメロディが聞こえる。なぜ? ポープの腕? NBS主催だから? 2010年パリ・オペラ座来日公演の『ジゼル』(NBS主催)でも、東京フィルが国内バレエ団公演では聴いたことのないようなヴィオラ・ソロを弾いて、なぜ? と思ったことがある。せめて新国立のピットでは同じレヴェルであって欲しい。ついでに言うと、東京フィルの定期で聴いた『R&J』組曲版では、素晴らしいトランペットの咆哮があったのに、直後の新国立『R&J』公演では無残だったことがある。
もう一つ思ったことは、ゲストを含め3キャスト(エレーヌ・ブシェ=ディアゴ・ボアディン、沖香菜子=柄本弾、岸本夏未=後藤晴雄)を見たが、技量や資質の差はあってもあまり印象が変わらないということ。ノイマイヤーが全ての動きに細かい意味付けをしているので、個々の解釈の余地がないのだろう。ジュリエットもマクミラン版ほど成長しないし、運命に飲み込まれた若い二人がそのまま死んだという感じ(悲劇的でない、と言うかノイマイヤーにとっては生きること自体が悲劇なのかも)なので、ダンサーの腕の見せどころは他版よりも少ない気がする。他の作品同様、ノイマイヤーの演出振付が主役なのだ。
振付はモダンダンスの力強いフォルムと、クラシックの素朴なアンシェヌマンを使い分ける。前者はキャピュレット家の舞踏会、後者はロミオとジュリエットの恋の場面。ジュリエットはモダン系の動きをなかなか習得できないが、ロミオに恋した途端に、内面から湧き出る踊りをクラシックの語彙で踊る。つまりクラシックの方が自然ということ。若い二人のデュエットの特徴はユニゾン。近くで、または遠く離れて子供のように同じパを踊る。ブルノンヴィル作品に通じる素朴な喜びがある。離れたパ・ド・ドゥの後、ジュリエットが左右の袖に向かって互い違いに走る場面は、この版の表徴。二人とも躓き、転び、でんぐり返る。生(なま)の若さが要求される版である。ロレンス(托鉢修道士)も従来より若くロマンティックな造形だった。
ジュリエットはみずみずしく、ロミオは肉厚で体温が高いダンサーが配役されている。普通は松野乃知のようなタイプがロミオだと思うが(ベンヴォーリオに配役)。3組のなかでは、沖の音楽性豊かなジュリエット、後藤晴雄の無謀なロミオが印象深い(サポートは相変わらず荒い)。が最も強烈な存在感を放ったのは、キャピュレットの高岸直樹。舞踏会のエネルギッシュな踊り、妻や娘を抱っこするときの大きな包容力。バレエ団全体が高岸の支配下にあるようだった。今後もマッチョなバレエ団であり続けるのだろう。


以下は2009年に来日したデンマーク・ロイヤル・バレエ団の公演評。

デンマーク・ロイヤル・バレエ団が新芸術監督ニコライ・ヒュッベの指揮の下、9年ぶりに来日した。演目はブルノンヴィルの『ナポリ』とノイマイヤーの『ロミオとジュリエット』(以下『R&J』)である。デンマーク・ロマンティックバレエとモダンバレエの組み合わせは絶妙だった。両作ともイタリア(ナポリヴェローナ)を舞台とする若い二人の恋愛物語であり、聖人(聖母マリア、聖ゼーノ)の日を中心に托鉢僧(フラ・アンブロシオ、ローレンス)が活躍する。『R&J』の聖ゼーノの日は歴史好きのノイマイヤーが採り入れた設定だが、そのおかげで、両作とも老若男女の跪いて祈るシーンを見ることができた。祈る姿にこれほど真実味を感じさせるバレエ団は他にはないだろう。キリスト教信仰に裏打ちされたブルノンヴィル作品を、絶えることなく踊り続けてきたデンマーク・ロイヤルならではの名場面である。


二作のうちデンマーク・ロイヤル色を強く感じさせたのは、意外にもノイマイヤー作品だった。通常の版よりも多くの子役が投入されていること、30年踊り継がれたことで、演技の様式性がノイマイヤーのニュアンスを完全に払拭するほどデンマーク化されていることが原因だろう。『R&J』は振付家が29歳の時の作品。自分のスタイルを確立しようともがく若々しいエネルギーに満ちあふれている。ドラマの枠組や演出はクランコなどの先行作品に準じるが、聖ゼーノの祭日や、僧ローレンスの薬草摘み、『ハムレット』を思わせる旅芸人、疫病から逃れる人々など、ノイマイヤーらしい細かいリアリティが随所に埋め込まれている。


振付は音楽に自然に寄り添いつつもモダンダンスのグロテスクな語彙を取り入れて、独自の動きを追求している。ジュリエットとパリス、キャピュレット夫妻によるパ・ド・カトルは、リモンの『ムーア人パヴァーヌ』を想起させた。マイムがなく全て踊りで表現されているにもかかわらず、舞踊というより演劇に近い感触を得るのは、子役を含めたダンサーの全員がすみずみまで演技しており、踊り自体に感情の裏付けがあるからだろう。技巧や造形美のみを見せる部分は皆無。片手をくの字に曲げる独特の挨拶も、極めて自然な身振りへと消化されている。


デンマーク独自の強いパトスを含む切り詰められた演技様式は、ヴェローナ大公ポール=エリック・ヘセルキルが体現した。立ち姿のみで役を表現、稲妻のような一振りで世界を瓦解させることができる。こうした円熟のキャラクター・ダンサーはもちろん、子役に至るまで、彼らにはバレエダンサーよりも「舞踊に秀でた舞台人」という名称がふさわしい。十九世紀劇場文化の残り香がこのバレエ団にはある。


同団は優れた男性ダンサーを世界に供給してきたが、ヨハン・コボー(英国ロイヤルバレエ団)を最後に途絶えている。その中で、『ナポリ』ではジェンナロのトマス・ルンドが正統的ブルノンヴィル・スタイルを披露、タランテラのモーテン・エガトがジャン=リュシアン・マソに似た劇場人としての色気を漂わせた。またテレシーナ役ティナ・ホイルンドの真っ直ぐな演技、レモネード売りフレミング・リベアを始めとするキャラクター・ダンサーの伝統芸も健在だった。『R&J』では第二キャストながら、クリスティーナ・ミシャネックの生々しいジュリエット、グレゴリー・ディーンの絵から抜け出たようなパリス、クリスチャン・ハメケンの若々しい托鉢僧が印象的だった。


グラハム・ボンドが東京シティ・フィルを率いて素晴らしいプロコフィエフを聴かせている。ただし、カーテンコールでオーケストラの団員が観客に顔を見せないまま指揮者やダンサーに拍手するのは、演奏家のあり方として疑問である。(5月15、23日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2788(H21.7.1号)初出

なお東京シティ・フィルは現在、カーテンコールにおける観客の拍手に正面から応えている。