鈴木ユキオ・川村美紀子・ケイタケイ@「ダンスがみたい! 17 〜春の祭典〜」2015

標記ダンサーによる公演を見た(それぞれ 7月31日、8月21日、8月23日 d-倉庫)。12人のダンサーがストラヴィンスキーの『春の祭典』で作品を作る途方もない企画。『春の祭典』を舞踊化する場合(元々舞踊音楽だが)、リズムと、物語性(生贄選び)を重視する傾向が強い。例外は平山素子。音楽を俯瞰的に捉え、振付によって音楽の構造を感じさせた。音楽分析もさることながら、音楽を深く感受する資質によるものだろう。
鈴木は、第1部で『春の祭典』にまつわる様々な映像をクリップ。無数のボール紙のファイルを積み重ね、そこに映写した。映像をカットするリズムは音楽とシンクロする。鈴木自身は積み重ねたファイルを、煉瓦を運ぶように、両脇に置いていく。スカートから見える脹脛の充実。1部と2部の間で、作品の解説を自らマイクで喋る。慣れていて、面白い。第2部、ようやく踊りが始まる。安次嶺菜緒とのデュオ。裸になったり、見得を切ったり。だが身体を感じさせたのは、1部のファイル運びの方。2部では思考が前に出て、体が消えてしまった。踊りながらモノになる、無意識になることと、知的な演出や社会性とは、相容れないのだろうか。鈴木の脹脛を信用する。
川村は、客席を車座にして、中央で踊った。つまり生贄として。裸で始まり、裸で終わる。服を着て踊る本編の前後に「川村」がいた。踊りは音楽に合わせて、何か習得言語のような、「川村」とは乖離したやり方。服の間から覗く下っ腹のぷるぷる、太ももの脂肪分が、ダンサーらしからぬ野放図な生活を想像させる。踊り自体は、行儀のよい、初々しい踊りだった。
ケイタケイは弟子達と共に。本編前後に儀式を付け加えた。ストラヴィンスキーとは関係なく、ボーっと心地よく見ていられる。ダンサーたちが心と体によいことをしているので、こちらも体がほぐれるのだろう。ケイタケイはいつものように、田舎の妖精。田んぼや畑にいて、お百姓さんを助けるかわいい妖精。終演後、ラズ・ブレザーがケイの手を掲げると、本気で怒って手を下げた。帰路、秋風の吹くなか、盆踊りの音を聞きながら、日暮里の裏通りを気持ちよく歩いた。