新国立劇場バレエ団『アラジン』2016 (1)

牧阿佐美芸術監督時代、デヴィッド・ビントレー前監督が、同団に初めて振り付けた作品。2008年初演時には、カール・ディヴィスのカラフルな音楽(宝石組曲、5音音階の懐かしいメロディなど)と、それを完璧に視覚化し、精緻でウイットに富んだ演出を施したビントレーの才能に驚かされた。(予算の関係で?)やや尻すぼみになりはしたが、ディック・バードのクリエイティヴな美術も。成熟した才能がぶつかり合うマグマのようなエネルギーを感じた。
2011年再演時は 3.11 の一ヶ月半後。劇場が再開されて初めてのバレエ公演だった。老若男女が東日本大震災の衝撃で窒息しそうな体を、束の間忘れることができた。当時、劇場で配られたビントレー監督のメッセージを抜粋する。"Those who have lost homes and loved one's must feel many years away from the solace and healing that only time can bring, but the prayers and thoughts of all of us, safely delivered from the earthquakes worst, are with them....The dancers and I have been longing to get back on stage and dance for you and we hope that the charming and humorous story of Aladdin and his Princess, and their triumph over dark and sinister forces, has brought a much needed revival of your spirits after the recent tragedy."
3度目の今回は、作品に流れるシンプルな愛(アラジンとプリンセス、親子の愛)と、移民の子が姫と結ばれるプロットに、ビントレーの信念、信仰を見た気がした。『パゴダの王子』でも、男女の愛ではなく、兄妹の愛を描いたように、ビントレーの愛は、エロスよりもアガペが上位にあるように思われる。アラジンとプリンセスのパ・ド・ドゥは、初々しい恋の始まり、晴れやかな結婚式、途中にアクロバティックな再会のデュエットを挟んで、最後は満ち足りた平安の踊りで終わる。奪い合う愛ではなく、慈しみ合う愛が最後に描かれるのだ。
アラジンとプリンセスの出会いの場面には、一つの謎がある。アラジンが持っていたリンゴをプリンセスに投げると、姫は臣民の女性から捧げられた花束を落として、リンゴを受け止める。女性からすると悲しい行為だが、ビントレーはなぜこのような演出を施したのだろう。姫としての心得を捨てさせるほどの衝撃だったのか。裏目読みかもしれないが、エロスを選択すると、臣民への愛が疎かになることを冷徹に描いたのか。当の姫達の解釈を聴いてみたい。
親子の愛情は、一幕、洗濯板(!)で洗濯をする母のもとに、突然アラジンが帰還する場面によく表れている。二人はアラジンの冒険を、振り真似を交えて追体験する。ダイヤモンドの女踊りをアラジンが踊り、母も続いて踊る楽しさ。『パゴダの王子』の皇帝と道化のパ・ド・ドゥ(親子ではないが)に匹敵する、名場面だと思う。
アラジンを移民にしたのは、中国色の強い音楽と、日本人の描くアラジン像との整合性を図った結果だが、現在の世界状況を予見したような設定だった。ビントレー監督の英国での本拠地、バーミンガムも移民が多く、当地での上演を考慮に入れて、アラビア国の中国人移民としたのではないか(違うと言われそうだが)。移民の子がその国の姫と恋仲になり、魔神の力を借りて皇帝を説得し、二人はめでたく結婚に至る。その後、二人は自力で試練を乗り越え、最後は魔神を解放して、平和な国を築く。そこには、移民側の文化であるライオン・ダンスやドラゴン・ダンス、真紅の幡が翻る。ビントレーの世界平和への祈りを象徴する奇跡的な場面と言える。
演出面で改めて素晴らしいと思ったのは、砂丘が一瞬にして消え(19世紀的トリック)、洞窟の入り口が上方に見える場面。その中でプリンセス・バドル・アルブダル(満月の中の満月)がアラベスクするのを、マグリブ人とアラジンは、「客席に向かって」眺める。アラジンが洞窟の穴へとよじ登り、後姿のシルエットを見せて、こちらに振り向いた瞬間、財宝の洞窟が目前に広がる。劇場を熟知した緻密な想像力の賜物。