片桐はいり@『赤い靴』Dance New Air 2014

標記公演評をアップする。本日(2016.7.2)放映された、NHKEテレのスイッチインタビュー「片桐はいりVS甲野善紀」に感動したため。甲野は片桐を「五指に入るほど、誠実な人」と語った。

「ダンストリエンナーレトーキョー」を引き継いだ「Dance New Air」の開幕公演。マイム出身の小野寺修二(おのでらん)が演出を手掛ける。出演は小野寺、片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子(ももこん)。小野寺は不条理劇と接近する自作に加え、数々の文芸作品を舞台化してきた。カミュの『異邦人』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』等。手法は小説・戯曲の重要な場面を抜き出し、ロベール・ルパージュと共有するローテク趣味を駆使して、詩的に再構成するというもの。元役者のホンの読み込みは鋭く、勘所がえぐり取られて抽象化=永遠化される。ロミオがマキューシオの敵を討つシーンは、プラスチックの桶に入ったキャベツをグシャグシャにする行為に置き換えられた。


今回はアンデルセンの『赤い靴』が原作。憧れの赤い靴を手に入れたが、勝手に踊るようになった赤い靴を、自分の足ごと切る決意をする少女カーレンが主人公である。踊ることの恍惚と、その反倫理性、反社会性が、キリスト教の教訓的童話に昇華されている。舞台人になろうとしたアンデルセン自身の内面が、色濃く反映しているものと思われる。


小野寺の演出は、テキストの引用や靴工房の登場はあるが、原作のキリスト教色は排除され、「赤い靴」を巡るファンタジーが発話と身体運動によって展開される。赤い制服を着た小野寺は妖精(座敷童)のような存在。女性3人が原作の登場人物や靴工房の職人に、入れ代わり立ち代わり扮して、赤い靴への想いを募らせる。


舞台の要となったのは片桐はいりだった。その動きの鋭さは、小野寺作品『異邦人』ですでに証明済みである。一本欠けた三本脚のテーブルに片手をついて、ブルブルと痙攣する怪演が強烈に目に焼き付いている。円形劇場の客席は舞台を少し見上げる格好。目の先には片桐のふくらはぎがあった。ずっしりと筋肉の付いた、なぜか懐かしい脚。Brechはダンサー脚、ももこんは可愛い脚だが、片桐のは生活者の脚である。少しひんやりした、木の廊下とアッパッパの似合う脚だ。


それに比べて手の繊細さは、並みの舞踊家をはるかに凌ぐ。靴工房で靴を検品するときの、しなやかで知的な手つき。そしてその眼差しの鋭さ。片桐は自著『もぎりよ今夜も有難う』(2010年、キネマ旬報社)で、映画館のもぎりをしていた頃のことをエッセイに書いている。当時、銭湯の番台のような受付台を「たかば」と呼んでいたが、片桐は、その番台からもぎりが「鷹のように眼光鋭く映画館の平和を見張る」ので、「鷹場」だと思っていたらしい(実際は高場とのこと)。靴を矯めつ眇めつする眼光の鋭さは、このもぎり時代のエピソードを思い出させる。


「平和」も片桐のキーワードである。今回の作品の中で「あなたにとって一番大切なものは?」と問われた時の片桐の答えが、「平和・・・皆が心穏やか〜に暮らしている、と言うか」だった。前掲の「鷹のように眼光鋭く平和を見張る」と、この答えを突き合わせてみると、片桐の精神の形が明らかになる。つまり動きの尋常ならざる強度が、「平和」というラディカルで身近な目標を常に指し示しているのである。生活者の脚と知的な手と鷹の目の合体。世界と対峙する時の奇矯なまでのラディカルさは、おそらく幼少時のキリスト教環境に由来するものだろう。アンデルセン原作の踊ることの恍惚と反社会性を、誰よりも理解しているのではないか。初めて『白鳥の湖』を生で見たあと、グルグル回りっぱなしだった片桐。子ども時代の夢は「バレリーナ」で、生まれ変わったら「笠智衆」になりたいというアンケートの答え(『日本経済新聞』2014.9.11)は、まさに『赤い靴』のカーレンそのものである。


動き自体はもちろん、足指、ふくらはぎ、手、顔の表情に至るまで、片桐の嘘のない体に魅了され、圧倒された舞台だった。



2014年9月12〜15日 青山円形劇場(12日所見)
演出・出演:小野寺修二 出演:片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子 美術:Nicolas Buffe テキスト:山口茜 照明:吉本有輝子 音響:井上直裕 衣裳アドバイザー:堂本教子 舞台監督:シロサキユウジ
*『ダンスワーク』68(2014冬号)初出