先週見たダンサーたち2016

9月28日〜10月2日の公演で見たダンサーについて、メモしておきたい。


●木原浩太@現代舞踊協会「時代を創る」(9月28日 さくらホール)
ダンサー木原の魅力は、圧倒的な身体能力と的確な作品理解にある。今回の自作ソロでも、頭が付くかと思わせるぎりぎりのブリッジ、ドゥミ・ポアントでゆっくりしゃがむなど、体の柔らかさ、強さに加え、一手で踊りとなる細分化された体を見せつけた。ミニマルミュージックをフレーズで切り取るところにも非凡さが。作品のモダニズムに通じる雰囲気は、出演したアーカイヴ公演の影響だろうか。


●山村友五郎@西川箕乃助の会『彼の岸の花』(9月29日 国立劇場小劇場)
箕乃助は『二人椀久』と、『身替座禅』の後日譚である標記作品を、会の演目に選んだ。二作共に過剰な演技に走らず、品格ある踊りで二枚目と三枚目を演じ分けている。7月の五耀會公演で、山村流の振付を5人で踊る趣向があったが、山村の分かりにくい、振りともつかぬ、存在感で見せる踊りを、箕乃助と花柳寿楽が、エポールマンありの古典舞踊に見事に変換させたことを思い出す(藤間蘭黄と花柳基は演技から入るアプローチ)。中央に陣取った友五郎は、なめらかな中腰で、悠然と芯を舞った。今回は怖い奥方役。ぬーっと座る鵺のような存在感。踊りの妙味、演技の凄みが、飄々としたおかしみに変わるのは、上方の技?


片桐はいり+藤田桃子@『あの大鴉、さえも』(9月30日 東京芸術劇場シアターイースト)
小林聡美も出演したが、どちらかと言えば映像の女優。アップに慣れていて、きれいに見せることから逃れていない。片桐は献身的な舞台。劇団時代を全く見ていないので想像でしか言えないが、こういう少年だか何だか分からない過剰なヒトだったのでは。自分をその場に突き出す速度・強度は、常に狂気に達している。訳の分からないヘンテコ踊りを、もっと見たかった。と言うか、それこそを見たい。対する藤田ももこんは、台詞を喋らなかったかのような集中した身体(丹田に意識あり)。台詞が意味を伝えるのではなく、音のかたまりとしてある(台詞の身体化?)。何事にも動じない強い肚の持ち主だが、ポジティブな存在感はなく、対象との間に常に一定の距離がある(観客とも)。マイム役者としての矜持、節度なのだろう。


カミーユ・ボワテル@『ヨブの話―善き人のいわれなき受難』(10月1日 東京芸術劇場プレイハウス)
コンテンポラリー・サーカスから生まれた作品。ボワテルはサーカス学校出身。ヨブ記を題材にしているので、不条理な場面が続出する。それをクラウン芸でやってのける。途中、サーカス芸人(アーティスト?)らしい、宙返り等を駆使した躍動感あふれるダンスの見せ場があったが、その直前の、「突っ立ったまま後頭部から倒れる」という室伏鴻ばりのアクションが面白かった。室伏を見ているのだろうか。同じ不条理組でも演劇派のジョセフ・ナジとは違い、こちらはクラウン芸とダンスシーンに温度差がある。クラウン芸は観客との交渉が不可欠。ダンスシーンは見せるのみ。芸劇の観客は、ヌーボー・シルクに慣れているのか、反応はよかったが、それでもクラウン芸の場面は、文化の機微に触れる難しさを感じさせた(フランス語台詞の壁もある)。


首藤康之中村恩恵@DEDICATED2016『“DEATH”HAMLET』(10月2日 KAAT神奈川芸術劇場ホール)
首藤の本質は、被虐的なエロティシズムにある。だが、中村との間でそれが発揮されることはない。中村の地母神のような巨大な母性が、首藤を支配してしまうから。事によると、カマキリのメスでもあるから。中村の演出は円熟味を増している。本人はオフィーリアとガートルードを演じたが、後者は気品と色気、可愛らしさもあり、はまり役だった。オフィーリアをもし他の誰か(新国立の小野絢子とか)が演じたら、あるいはハムレット首藤の演技に火が付いたかもしれない。ダンサー中村の凄みは、自らの強固な自我を揺るがす他者の振付で発揮されると思う。自分の振付では、自分を越えられない。