山崎広太『ふるはらひれふれれる』@井上バレエ団

標記公演のゲネプロを見た(3月18日 メルパルクホール)。井上バレエ団「アネックスシアター 次世代への架け橋 vol.4」(芸術監督:石井竜一)で上演された4作品のうちの一つ。他は、関直人『星座』、佐多達枝『a fig leaf』、石井竜一『ケーナ』。ゲネプロのため本番とは違うと思うが、山崎が初めてバレエ団に振りつけた作品なので、感想を書いておきたい(バレエダンサー自体には数多く振り付けている)。
舞台には熱帯風植物の籠が3つ、中空に浮かんで酸素を供給する。白い膝丈ワンピースの女性ダンサー9人が、頭に大きなリボンを付け、ポアントで踊る。衣裳は山崎、音楽は女性の自然な歌を前後に挟んで、ミニマルな電子音、最後はレクイエム風の曲で終わる。ダンサー達は少女の可愛らしさを標榜するが、わざとらしさはなく、無垢な少女性を体現するまで追い込まれている(ダンサーの自意識は剥奪されている)。9人は4対5または3対3対3で、風に吹かれるように波に揺られるように動いて、有機的な空間を作る。中盤から後半にかけて、ダンサー達は喋りながら踊る。その言葉は山崎に降りてきた単語の塊で、意味を成すものもあれば、意味が分からないものもある。しかし山崎の肉片に違いはなく、振付の一部である。ダンサーは分からないまま、言葉を発しなければならない。そこに言葉の身体性が現れる。中盤の電子音の場面は、通常の感覚で想像するよりも長く続き、ダンサー達も困惑しているように見えた。山崎の意図としては、ダンサー間で何らかのコミュニケーションが生まれ、身体の純粋なコミュニティを出現させたい、ということだっただろう。ダンサーにとっては、踊ることでどこかに行ってしまうような作品。またどこかに行ってしまわなければならない作品なのだ。こんな作品を一体誰が作れるだろう。
ポアント使用は、バレエ語彙を採用するというよりも、一つのダンス・メソッドとして選択されていた。山崎言うところの身体の拡張として。以前、同じ井上のダンサー、島田衣子にポアントを履かせた時は、ポアントが地中に突き刺さる、言わばポアントでの舞踏が実現された。島田の、日本的な哀しみ(山崎)を纏った幼い体が、点滴のシャンデリアの下、儚く震えていたのを思い出す。今回はもっと自由。パ・ド・ブレ、アチチュード・ターンを、一つの運動のように実行している。