Noism01 『Liebestod』2017

標記公演を見た(6月2日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。金森穣の新作『愛の死』と、山田勇気振付のNoism2レパートリー作品『Painted Desert』(14年)によるダブル・ビル。
金森の新作『愛の死』は、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲と、終曲「愛の死」を用いた20分の作品。前奏曲は井関佐和子と吉粼裕哉のデュオ、終曲は井関のソロで構成される。美術(金森)は、両ソデにダークグレーの衝立を並べ、バックの黒幕が音楽と共に黄金のドロップカーテンに移行、最後はドロップが落ちて、その下が黄泉の国となる。衣裳(宮前義之)は、井関が立体的網目状の膝丈チュチュに、一枚の布で作った短い袖なし上衣(腹と背中が見える)、吉崎は直線を生かしたギリシア風(?)上下で、共に白色だった。
演出・振付の素晴らしさに驚きはなかった。金森が鎧を脱ぎ捨て、リラックスした体で作れば、つまり自らの音楽性とロマン主義的感性を生かせば、自然とこの結果に至る。コンテンポラリーダンスの語彙で、愛のパ・ド・ドゥを作れるのは、国内では金森しかいない。パ−トナー(井関)について訊かれ、「芸術活動の同志であり、人生の伴侶であり、魂の一部です」(『Noism Supporters』#31)と答えられる振付家・ダンサーが他にいるだろうか。
歓喜の女 井関は、アナ・ラグーナのように生命力にあふれ、ジュリエッタ・マシーナのように純真無垢だった。末期の男(吉粼)の顔を覗き込み、男の顔の下に自分の顔を置いて倒れるのを支え、男を生の方に引っ張っていく。男の不在を目前にした井関は、狂乱のジゼル。デュエットの振りを繰り返し、ドロップを叩き(襞が水紋のように美しく広がる)、無音の叫び声を上げる。ドロップが落ちると、いいことを思いついたとでも言うように笑顔になり、その下にもぐり込んで、向こうから来る男と黄泉の国で抱き合うのである。客席からはしゃっくりのような声が。恐らくむせび泣いていたのだろう。
井関にとってはライフワークのような作品。「愛の死」は踊る年代によって様々な局面を見せると思われる。50代、60代でどのように踊るのか、見てみたい。
末期の男 吉粼は、サポートの手が目立ってはいたが、優れたパートナーだった。井関を注視し、受け止め、共に踊っている。存在から醸し出される文学的厚み、フォルムから滲み出るロマン派の香りは、金森という枠組みがあって初めて生かされるような種類の資質である。井関に引っ張られ、すぐにその腕から抜け落ちる末期の男。ゴロゴロところがってドロップの奥へと消える死の振付を、まっすぐに遂行していた。

最初に上演された山田作品は50分の中編。シモテに白い揺り椅子、カミテに白いキャンバスを思わせるモニター、三方は白い壁で、暗転とライトの色で場面転換をする。轟音、犬の遠吠え、ポップスを低速度にした様々な効果音がバックに流れる。前半は、バレエの語彙と武術の組み合わせに新鮮な面白さがあった。バレエの伸びと武術の引き、動きとポーズの絶妙なメリハリで、独自のリズムと空間を作る。後半はやや動きが流れて、意味を優先した印象だった。初演時には35分だったようだが、どの時点で拡大したのだろうか。
作品を見る前に、山田自身の言葉が脳に刷り込まれていた。「幸せなときも悲しいときも同じように練り込まれる、天然色の潮の音と、極彩色の記憶のすり身、つまりは情念の『カマボコ』であり、愛と夢の断面文字を持つ『千歳飴』なのです」(初演時演出ノートより)。ここからイメージしていたのは、情念を上から眺めるユーモア、カラッとした奇想にあふれた作品で、本来の山田はそうなのではと想像する。ダンサー山田も、美的というよりは人間的なタイプ。懐が深く、健全な包容力を備えている。
金森の影響を感じさせる美術と演出には、やや違和感があったが、ダンサーの生かし方には山田の個性が感じられた。ハンカチを咥えて歩き回る石原悠子の存在感(白石加代子を想起)、池ヶ谷奏の女のパトス、浅海侑加の日舞的感触、井本星那のダイナミズム、男性では、美しいアラベスクのリン・シーピンと京劇風チャン・シャンユーが濃密なデュオを形成、中川賢の硬質な存在感、坂田尚也の人間味あふれるサポートも印象深い。ダンサー達は生かされ、追い込まれて、目一杯踊っている。時間をかけて作品を育み、それを観客が見守る環境にあることが伝わる作品だった。