チェルフィッチュ 『部屋に流れる時間の旅』 2017

標記公演を見た(6月22日 シアタートラム)。作・演出は岡田利規。ジャンルとしては演劇だが、ダンスを見たような感触が残った。身体に注視させられたこと(特に吉田庸)、ピエタのようなフォルムが形成されたこと(立ち位置は男女逆)、光るものと回るものの呼吸(音・舞台美術:久門剛史)と役者の位置取りの緻密な演出が、その理由だと思う。つまり振付のような演出が施されているということ。役者は、台詞の内容を指し示さない微細な動きをしながら台詞を言うため、感情ではなく、言葉の物質性に目が(耳が?)行く。ベケットの系譜だが、特に今回は、13年と15年に見た ARICA+山崎広太によるベケット作品『Ne ANTA』を想起させた。白いレースのカーテン、点滅する裸電球、「ねえ」と呼びかける死霊の女が共通するからである。
登場するのは、青柳いづみ扮するダークブルーのドレスの女、長い髪に裸足、赤いマニキュアとペディキュアが目立つ。吉田庸扮する男の妻で、震災4日後に喘息で亡くなったことが、作品半ばに男の口から語られる。男は前半、客席に背中を向けて椅子に座り、絶えず右手を引き攣らせ、両足を浮かせる。後半、安藤真理扮する新しい恋人が現れてからは、立ち上がり、徐々に客席向きになる。安藤は冒頭、狂言回し風に観客を作品世界へと誘う役割も果たす。服装は男と同じ、アースカラーの日常的なもの。ただし靴は洒落ている(岡田作品の特徴)。青柳のドレス・裸足姿との対照が際立つ。
前半は、震災後の互いを思いやる開かれたコミュニケーションについて、妻が「ねえ、覚えてる?」と夫に問いかける。「震災があってよかった、私たちが生まれ変われたから」という、倒錯的な、まさにチェルフィッチュな言葉も。それに対し、男は無言のまま。ただ、小さい裸電球が点滅し、床に置かれた白い換気扇が回転し、カーテンが揺れ、石の置かれたターンテーブルが回り、銅鑼のような円盤が光り、筒の中の電話が点滅する。男が訪れた恋人に「この部屋をどう思う?」と2回尋ねるほど、部屋は何かに乗っ取られている。
後半、男は「弱く卑怯である」ことを恋人に肯定されて、新しい未来への希望を語る、恋人の左手の上部を握りながら。恋人は椅子に座り、机に左肘をついて、男に手を預けている。その姿は聖母のごとく、辛うじて繋がった手と手は、男の命を救う一本の糸のようだった。妻の亡霊は男を震災直後の世界へと引き戻そうとするが、男は必死に拒む。この辺りから、死霊と戦う男という冥界譚のプロトタイプが見え隠れする。妻が望む世界、開かれたコミュニケーションは、男にとっては死の世界を意味する。男は卑小な現実を選択し、生き延びるのである。東日本大震災の衝撃から自己回復する過程を描いた作品だが、岡田自身の肉声が身体化された点に、作品の強度があった。