現代舞踊協会夏期舞踊大学講座2017「モダンダンスの巨星 マーサ・グレアム」②

二日目の午後は、グレアム舞踊団最後の来日公演映像『春の祭典』(1984)を鑑賞(映像は前日同様、NHKの放映を録画したもので、竹屋講師が提供)。スペシャルゲスト 折原美樹の踊る姿も確認できる。黒いマワシを付けた筋骨隆々のハンサムな男性陣、白のキャミソールに腰蓑のような黒スカートの女性陣。神官はネイティヴ・アメリカンのような雄叫びを上げる。生贄の女性を捕える男性二人は、まさに仁王像。動きの激しさもさることながら、肉体の存在そのものに圧倒された。鑑賞後、隣に座っていた折原に「男性は筋トレしているのか」と尋ねると、「特にはしていない、グレアムのクラスでああなる」とのことだった。


映像鑑賞に続き、舞踊評論家 山野博大氏の講演『グレアム舞踊団、初来日について』を聴くことができた。山野氏は、江戸情緒を滲ませた当意即妙な語り口で自己紹介。資料として配布された年表には、グレアム舞踊団が初来日した1954年前後の日本、及び、世界の舞踊文化状況が書き込まれている。講演では、当時の日本の経済状況や米ソ対立にも言及し、グレアム舞踊団が米国国務省派遣だったことの意味を明らかにした(3年後ソ連ボリショイ・バレエ団を、その翌年には、再び米国が NYCB を派遣した)。舞台美術は日系米人のイサム・ノグチで、石のインスタレーションが、船で日本に運ばれてきたとのこと。また公演を見て感動したアキコカンダ(神田正子)は、グレアムの友人である師の伊藤道郎に、楽屋に連れて行ったもらった(2年間グレアム宅に居候し、カンパニーで踊るも、6年後に帰国)。グレアムは日本人ダンサーを好んだことでも知られる。雨宮百合子、木村百合子、浅川高子、竹屋啓子、折原美樹が、カンパニーで活躍したことなど、興味深い事実を知ることができた。


最終プログラムは、木村、竹屋、山野、折原によるシンポジウム。進行は、現代舞踊協会研究部担当理事の中村しんじが担当した。まず中村が質問する形で始まる。都合でシンポジウム前半のみを聴講した。

木村「70年代、マーサが戻ってきたとき、朝はプライヴェート・トレイナーに掛かっていた。それからクラス、1時から5時までリハーサルというスケジュールだった。グレアム・テクニックは難度に応じて3種類あり、ダンサーはどれを受けてもよかった。ダンサーは仕事がある時に契約、という形。ないときはよそのカンパニーに行ったりする。アルヴィン・エイリーと仲良かったので、そこの男性ダンサーがよく来ていた。ダンサーはユニオンに入っていて、主役はWキャストにする、リハ時間を制限するなどの決まりがあった。」

竹屋「日本人で初めてアルヴィン・エイリーのカンパニーに入った、三条万里子さんの作品に出たとき(日本で)、グレアム・テクニックのクラスを受けてくれと言われた。それが始まり。グレアム・スクールでは、グレアムのテクニックしか教えていなかった。カンパニーに入ってまず言われたのは、『マーサの前でバレエレッスンをするな』。確か百合子さんに言われた。一番驚いたのは、ダンサーの体が大きい、天井が高い、ワンステップが大きいということ。自分の踊りも大きくなった。マーサは、自分が短期間しかいなかったせいか、優しかった。『ケイコ、疲れたらお米を食べなさい』。でもある時、(谷桃子さんそっくりの)パール・ラングが教えていたら、マーサがつかつかとやってきて、いきなり平手打ちをくらわした。自分は、80幾つの人が60幾つの人を叩いたことに、ひどいショックを受けた。」

折原「ユニオンにはカンパニー全体で入っていた。グレアムのテクニックは、バレエ・テクニックと同じくらいよいテクニックだと思う。80年代には、ロバート・ウィルソン、トワイラ・サープの作品がカンパニーに入った。学生時代にグレアムをやったナチョ・ドゥアト、ヨガをやったシディ・ラルヴィ・シェルカウイの作品も踊っている。今回、竹屋さんのクラスを受けて気が付いたことは、アクセントの違い。」 アクセントについては、竹屋「日本でやっているので、ソフトになったかと思ったが、コントラクションのアクセントが強いみたい。」 折原「マーサは目が悪くなってから、一時期、動きのアクセントが強くなった。」 木村「マーサが亡くなってから、トゥーマッチと思われるところは、ソフトになっていったのではないか。」

山野「日本のモダンダンスは当時、即興が主流だった。動きの定型がなかったので、グレアムの衝撃は大きかった。」


夏期舞踊大学講座を見学・参加して、グレアムの人となりと、グレアム・テクニックの根幹を窺い知ることができた。有意義な二日間だった。