現代舞踊協会夏期舞踊大学講座2017 「モダンダンスの巨星 マーサ・グレアム」①

標記講座が二日間にわたって開催された(8月27,28日 国立女性教育会館)。講師は木村百合子、竹屋啓子、山野博大、スペシャルゲストに折原美樹。一日目は、全体進行を務める妻木律子の司会で、開講式から始まる。現代舞踊協会研究部担当常務理事 正田千鶴の挨拶は、受講生と体育館全体にパワーを与えるものだった。「グレアム舞踊団を見たとき何を思ったかと言うと、体の大きいアメリカのダンサーが、床にジャンプ台があるかのように力強く跳んだのが、一番印象に残っています」。この講座がいわゆる“お勉強”にならないのは、正田自身が正直で強烈な作り手だからである。弟子の妻木がコントロールを効かせながらも、正田の演出が講座の折々に差し挟まれる。一言で空間を変える鋭さに、人間の自由、今ここに生きる素晴らしさが横溢する。緑に囲まれた環境もさることながら、正田の気(パワー)によって、受講生(及び見学者)の肉体が解放されるのである。


一日目の午前と午後は、竹屋啓子のワークショップ。文化庁派遣芸術家在外研修員としてグレアム・スクールからビザを貰い、7か月後にカンパニーのオーディションに合格、その後の半年間で主要パートを含む5作品を踊った。現在、創作ではグレアム・テクニックを離れているが、主宰するダンス01のクラスはグレアムとのこと。フロア(Floor work)、センター(Standing Center)、流し(Coming Acorss the Floor)の順に、時間をかけて進められた。一番気を付けているのは「ケガ人を出さないこと」。音楽は、グレアムの使っているものが門外不出だった(現在はCD販売されている)ため、帰国後、近い感じの曲を作ってもらったそうだ。深く肚に響くようなピアノ曲で、太鼓も随時使用。センターではクラシック曲も使われている。フロアはコントラクション&リリースが中心。呼吸を伴うヨガの雰囲気があり、途中、グレアムが参考にしたと思われるヨガを実践した。センターはバレエのパが加わる。斜めになるティル、ツイストが特徴的。グレアム独特の形が見える。流しはフロアを大きく使い、途中に横転が含まれていた。竹屋自身はバレエも取り入れている。美しいライン、無駄のない動きが素晴らしく、パワーよりも洗練への志向を窺わせた。グレアム舞踊団最後の来日公演(1990)の映像、『迷宮への使者』(1947)、『天使の戯れ』(1948)を見て、ワークショップは終了した。


二日目の午前は木村百合子のレクチャー。木村は1963年にフルブライト奨学金でグレアム・スクールに留学、翌年カンパニーメンバーとなり、主役ダンサーとして活躍した。背骨故障のため1988年帰国、後に天理大学体育学部教授に就任した。開口一番、「退屈だったら、そう“思って”ください、分かりますから」との言葉。「座っている人は、脚を広げて好きにしてください」とも。途中、自作の『3つの動きで、身体が変わる』体操の指導を挟んで、グレアムと作品にまつわる話を、静かに思い出すように語った。主な話を列挙する。

 ・マーサのお父さんの言葉「動きは嘘をつかないんだよ。」
 ・子供時代、お手伝いさんが劇場好きで、芝居をみて帰ってきては3姉妹に話してくれた。
 ・ルース・セント・デニスは憧れの人、最後まで「ミス」を付けて呼び、大事に思っていた。
 ・デニショーンの所でピアノを弾いていたルイ・ホーストは、最初にマーサを天才と認めた人。『天使の戯れ』(1948)の初演時、ホーストが指揮していたが、マーサが急に近寄ってきて、テンポの文句を言った。その場は収まったものの、終演後ホーストは怒ってパリに行ってしまった(1、2 年後に戻ってきた)。デニショーン時代、ルイはよくマーサを外に連れ出して、いろいろ教えてくれた、マナー、ボクシング、哲学、心理学、欧米の新しい音楽など。
 ・マーサは自分が“オープン”するまで、ダンサーに毎日1時間、話をし、それからリハーサルに入った。
 ・コントラクション&リリースになる前の呼吸の名称―あえぐ(a grasp)、笑う(a laugh)、ため息(a sigh)、すすり泣き(a sob) ← 内面の世界を表現するため
 ・『クリュタイムネストラ』(1958)の頃、マーサは関節炎に罹った。両手が強張って開けなくなる。それでもリハーサルは休まなかった。ヘルペスの時も。1年に1、2作、新作を作っていた。理由は、自分の踊ったソロをダンサーたちに踊らせたくなかったから(笑)。
 ・1964年、ホーストが80歳で亡くなった(マーサは70歳)。関節炎の痛み、踊れなくなることへの不安などから、アルコールに走った(絶望期―black despair)
 ・1968年、マーサはダンサー引退を決めた。尼僧と僧侶の悲恋物語で、木村は4人の尼僧の一人だった。その後マーサは入退院を繰り返し、1972年にディレクターとして戻ってくる。『迷宮への誘い』(1947)が復帰第一作。木村が主役を踊った。映像で動きを確認しただけの状態でリハーサルに行くと、25名の若手が座っている。「恥をかかそうと思って」と頭にきたが、開き直り、マーサの言葉に「OK、来い」という気持ちで立ち向かった。細かい振付ではなく、マーサが(初演時に)動きを作った言葉が投げかけられる。終幕を自分の気持ちに沿った動きに変えたが、マーサは「変えたね、それでいいよ」と言ってくれた。木村はこの時、初めてスタンディング・オヴェイションを受けた。
 ・『オデッセイ』でカリプソをやった時、最後までできなかったので、「ユリコ、後は即興でやって」と言われた。
 ・『赤道儀』の時、2ヶ月たっても作品ができなかったので、木村が「私は誰なんですか?」と尋ねたら、マーサが怒り狂い、「何でも質問していいわけじゃない、あんたに訊かれたことで、私に流れるものが途切れたじゃないか」。木村も応戦し、50分言い争いをした、明日飛行機で帰るんだな、と思いながら。最後にあやまると、「時々やったらいいよ、気持ちよかったでしょ」と言われ、ハグして仲直りした。それ以後、木村はマーサのお尻を叩く役回りになった。

受講生は体育館の一隅に集まって、木村の話を聴いた。壁にはグレアム作品名が書かれた色画用紙と、「あえぐ」「笑う」などの呼吸名を書いた紙が貼られ、手元のメモを確認しながら説明する。正田理事から「稽古着で来てください」と言われたとのことで、ポンチョを脱ぐと、臙脂色のオールタイツに包まれたスレンダーな体が現れた。机の上にちょこんと座って、自作体操を実演する。その愛らしさ。グレアムと喧嘩したとは、とても思えなかった。コントラクションについては、水色の棒を曲げてみせ、肩と骨盤が同じ位置になるように背中を丸くしてください、との解説があった。