ラバン×フォーサイス@譲原晶子著『踊る身体のディスクール』2016

標記著作は、2007年に出版された舞踊研究書である(春秋社)。以前にも目を通し、その時はバレエ用語の変遷に興味が向かったが、今回は、先日の夏期舞踊大学講座で、ラバンの専門家とフォーサイス・ダンサーが同時に居合わせたことの意味を確認するために、読み返した。示唆を受けた箇所を、抜書きする。

バレエ・パントマイムの時代に、さまざまな身体の立ち姿が舞踊作家によって構成されるようになり、「アチチュード」の概念がバレエにおいて重要な位置を占めるようになった。すると、それまでは他者に対して「身を控える」ことを意味していた「エファッスマン」や身体の自然の法則と考えられていた「オポジション」が、「アチチュード」を造形するための重要な概念となっていった。しかし、これらの概念は次第に、「体軸を捻る」という造形法つまり「エポールマン」の概念に集約されていき、ここから「クロワゼ―エファッセ」は二○世紀のバレエに引き継がれ、バレエの姿態造形の基本概念となっていった。(pp.186-7)


フォーサイスは、エポールマンを「捻り torsion, counter turning, counter twisting」という言葉で説明している。彼は、エポールマンをベースにした複雑なねじれの連鎖をバランシン・テクニックから学んだ、と述べている。バランシン、フォーサイスは、エポールマンを「絞りによる造形技法」と捉えることによって二〇世紀の抽象バレエを先導した代表的振付家である・・・現在バレエのクラスでは、エポールマンは、古典の表現法として、そして抽象的身体の造形技法すなわちバレエの身体を操るテクニックとして、二重の意味で教えられている。(pp.189-90)


フォーサイスは「エポールマンとは、頭、手、足の関係であり、相対するねじり、ひねりをきっちりと規定する・・・こうしたバレエ固有のフォルムをつくるのに意識を集中すれば、多幸 euphoria 状態に達するであろう。私は多幸瞑想のようなものとしてこれを教わった」と述べている。(p.194)


ラバンは表現主義とともに抽象舞踊の確立を目指していた。しかし、「内なる精神体験」を表現しようと、舞踊のメディア自身すなわち舞踊家自身がそれに浸れば、自らが踊りを構成しようという態度とは裏腹に、極度な主観主義へと陥る危険性がある・・・その一方で、記譜法に対する興味は、人々の「動きそのもの」への関心、「作品構成」への関心を高めた。譜に記し構成しようという態度は、舞踊が主観主義から脱却していくための道筋を開いた。(p.205)


「譜を書いて舞踊を創作する」という方法論の研究を先駆けて手がけたのは、ポストモダンダンサーたちであった。彼らはまず作曲家ジョン・ケージの影響を受けたのだが、彼らの活動で指導的役割を果たしていた音楽家、ロバート・ダン Robert Dunn(1926-1996) はラバンの理論を学んでおり、「シュリフト・タンツ(書かれた舞踊)は舞踊を発見するための方法であり、ラバンのアイデアで重要なのはタンツ・シュリフト(舞踊記譜法)ではなくシュリフト・タンツ」と述べている。(p.226


振付家フォーサイスが開発したのは舞踊用語の体系であった。創作の道具として使用されるという点、しかも即興のためのツールになるという点、これまで取り上げてきたポストモダンダンサーたちの譜と、果たす役割はおなじである。フォーサイスは、古典バレエのシステムにラバンの理論を取り入れて、独自のバレエ言語体系を構築した。彼の言語体系がバレエとラバンの理論の混成であるということは、フォーサイスのバレエ言語の中心概念、「ジェネレータ generator」と「モディファイア modifier」という用語に、そのまま表れている・・・フォーサイスは、身体から動きを引き出すためのしかけのことを「ジェネレータ」と呼んだ。それは、ラバンの「空間」あるいはポストモダンダンサー達が設定した「ルール」と同じである。フォーサイスは、ラバンが考案した仮想立体「ラバン・キューブ Laban cube」を、重要なジェネレータの一つとしてあげている。(pp.235-6)


・・・フォーサイスのバレエ言語が古典バレエと大きく異なる点は、ジェネレータの存在にある。古典バレエでは、核となる動きは、「パ」というポジティヴな動きによって与えられ、それに変形操作が加えられる。これに対してフォーサイス・バレエでは、核は「ジェネレータ」というネガティヴな枠組みであり、そこから多様な動きが立ち上げられる。前者は舞踊語彙あるいは特定の動きの素材を創作の前提にしているのに対して、後者はそれを前提としていない。ジェネレータを基に創作を始めるというフォーサイスのやり方は、ラバンそしてポストモダンダンサーという系譜において成熟していった、二〇世紀舞踊の方法論的遺産である。(p.237)


譜や言葉で実演者に指示を与えるのには二つ方法がある。一つは「手続き」を指示する方法、もう一つは「結果」を指示する方法。古典バレエは、パという慣習化された動きを舞踊語彙としてもち、バレエ・ダンサーは、パの名前をいわれれば特定の動きの「結果」を生み出せるように日頃から訓練されている。一方、「コンポウズド・インプロヴィゼーション composed improvisation」では「手続き」のみが記され「結果」は記されない。「結果」は、実演者によって創作されることが求められている。「結果」未定のまま「手続き」のみを指示すること、これがポストモダンダンサーやフォーサイスが譜や言葉を通して行なってきたことである・・・こうした方法論は、身体を表現メディアとする舞踊芸術にとって、とくに有効なのである。というのは、振付家が「手続き」を投げかけ、舞踊家から「結果」が引き出されるとき、それは身体に投げかけられ身体から引き出される。そこからは何が引き出されるのか本当に分からない。楽器は特定の使用目的に即してつくられているから、使い方も限定されているし、出せる音も限定されている。しかし身体は人がつくったものではないし、使用目的もない。舞踊の場合、「手続き」と「結果」の間のギャップには、身体というメディアの無目的性が横たわっている。(pp.240-1)

本文中の引用には註が付いていたが、省略した。