ジェローム・ベル 『Gala―ガラ』 2018

標記公演を見た(1月20日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール 上演時間90分)。初演は2015年ブリュッセル、その後ドイツ9都市、フランス19都市、オーストリア2都市、ポルトガル1都市、カナダ2都市、スイス6都市、アメリカ2都市、シンガポール1都市、ノルウェー1都市、ブラジル1都市、ハンガリー1都市、オランダ1都市、イタリア1都市、ポーランド1都市、マレーシア1都市、ジョージア1都市で上演された。ダンサーは現地の人々。オーディションの規定は分からないが、チラシの写真を見る限り、さいたま市同様、男女(含トランスジェンダー)、年齢、人種、障碍の有無により、多様なダンサー、ダンス愛好家が選ばれているものと思われる。
さいたま市では、埼玉県所在のNBAバレエ団から竹田仁美と新井悠汰、コンテンポラリー界から入手杏奈、川口隆夫、オクダサトシ、またバトントワリング大北岬、中国舞踊のリー・ハオ、ドラグ・クイーンのBibiy Gerodelle等、見せるプロから、バレエ、モダンダンス、日舞経験のアマチュアまで、幼児からシニアに及ぶ男女20人が選ばれた。
冒頭の10分弱で、世界各国の劇場写真が次々と映し出される。ギリシア・ローマの円形劇場、バロック劇場、オペラハウス、個人の劇場、人形劇場、野外劇場、ショッピングモールの踊り場、レストランの舞台、そして彩の国さいたま芸術劇場。また、オペラハウスのビロード張り椅子と、野外の丸太椅子が並列して映し出される。つまり、劇場は豪華であろうが質素であろうが、野外であろうが屋内であろうが、みな等価、平等である、人間と同じように。どこであれ、そこに命が吹き込まれれば、劇場として生き始めるのだ。
幕が開くと三方が黒カーテン、床面は白。シモテには演目のめくり(カレンダーの裏側使用)、「バレエ」とある。『レ・シルフィード』のプレリュードが流れるなか、一人ずつシモテから出てきて左右両回転し、カミテへと去る。バレエダンサーは女性がチュチュ、男性がタイツ、他様々な舞台衣裳の人々が現れては去る。オクダの太鼓腹Tシャツには VEGAN とあった。訓練されていない日本人の歩き方は、猫背で腰を落としたすり足。これを見るだけでも面白い。さらに『ドン・キホーテ』の三幕コーダ曲で、ディアゴナル。カミテ奥から次々とグラン・ジュテ、及びグラン・ジュテと思しきものを跳んでいく。その淀みのなさが快感だった。
続いては「ワルツ」。シュトラウスの『美しき青きドナウ』(だと思う、自分も頭で踊ってしまって覚えていない)が流れるなか、二人一組でシモテからステップを踏み、半円を描いて、再びシモテへ入る。意外にもバレエダンサーはワルツに慣れておらず、川口とGerodelleのリードが上手かった。オクダはチビッコ男児 星遥輝と相撲取り風。
次に「インプロ 無音 3分」。ブリッジ歩きの少女あり。体を見せるという意味ではGerodelleが目立った。全員がグニョグニョと動いて3分経過。照明が点滅して、今度は「マイケル・ジャクソン」。シモテからムーンウォーク、及びムーンウォークと思しきもので移動し、真中で決めのポーズ、再びムーン、思しきでカミテへと去る。バレエ、ワルツ、ムーンウォークは世界共通ということ。ハンドルズの堀口旬一朗がノリノリだった。
前半最後は「おじぎ」。やはりシモテから出てきて中央で2回おじぎをし、カミテへと去る。バレエダンサーはレヴェランス。プロ・アマの違い、またジャンルによっておじぎの仕方が異なった。観客は条件反射的に拍手をすることに。
後半は、佐々木あゆみのソロから。バッハの『ゴールドベルク変奏曲』を流しながら、自分の思いを動きで伝える。めくりが「ソロ」から「カンパニー」に変わると、佐々木がさきほどと同じソロを踊るのを見ながら、カンパニーの面々が動きを真似していく。ベルの演出は、その場で動きを見ながら真似をすることになっている。つまり動きの習得が目的ではなく、誰かの動きを真似ることで、動きによるコミュニティの生成を目指しているのである。
新井のアリのヴァリエーション(素晴らしかった)、Gerodelleのドラグ・クイーン(ベリーダンスの曲で)、百元夏繪の日舞、矢崎与志子の車椅子ダンス、リー・ハオの中国舞踊、堀口のヒップホップ、大北バトントワリング、星の体操踊りを全員が真似をし、最後に川口の『ニューヨークニューヨーク』(途中、さいたまさいたまに変更)で大団円となる。バレエとバトンは別次元の難しさ。真似しようとする人々の姿を見るだけで、猛烈におかしかった。受け止められないと分かっていて、なぜバトンを投げるのだろう。そこに人間存在のおかしさ、切なさが滲み出る。観客は舞台の人々を笑いながら、自分を笑っているのだ。川口はハーハー肩で息をするオクダのために、全員を深呼吸させてから、『ニューヨーク』を始めた。川口の全体を俯瞰する座長的視線が、カンパニーを一つにまとめることに寄与。古風な臙脂のカーテンが降りて、幕となった。
体を動かす楽しさ、人まねをする楽しさ、同じことをする楽しさ、巧拙を問わない楽しさ、緩やかな縛り(演出)の中で遊ぶ楽しさが横溢する舞台だった。色んな体が同じ動きをすることでユートピアが生まれる。舞台上のホンの一瞬の出来事かもしれないが。人間、踊り、劇場はみな平等。このことを思想として肉化させているベルだからこその作品・演出だった。