福田紘也作品評 2016-2023

福田紘也が新国立劇場バレエ団を退団した。コンセプチュアルなアプローチができるバレエ団唯一の振付家である。今後は裏方でその優れたクリエイティビティを発揮することになるが、機会を見て振付作品を発表してほしい。これまでの作品評は以下の通り。

 

『福田紘也』新国立劇場バレエ団「Dance to the Future 2016」(2016.11.18.19.20新国立劇場小劇場)

二作目は福田紘也の『福田紘也』(音楽:三浦康嗣、Carsten Nicolai、福田紘也)。中央にテーブルと屑籠、カミテ奥には俯いて椅子に座る福田。カミテ袖から原健太がビニール袋を手に歩いてくる。五分の一ほど入ったボトル・コーラを四隅に、半量入ったボトルをテーブルに置いて、袋を屑籠に捨て、立ち去る。トイレを流す音がして、福田が立ち上がる。コーラに手を伸ばし、次々に飲み干す。最後のテーブルの一本をどうしたものか。時報の「12時をお知らせします」と同時にテーブルの上で、右肩倒立。その後、パソコンを立ち上げる音や洗濯機の音をバックに、ストリート系語彙を含む鋭い動きで、コーラに向けて葛藤を表す。ついに最後は半量ボトルを2回に分けて飲み干し、バタリと仰向けに倒れる。自分をソロで踊るには、遠くから自分を見るユーモアが必要だろう。コンセプトは明快、動きのダイナミズム、人を喰った音源、原健太遣いなど、超面白い。正に福田紘也。

 

『猫の皿』『Format新国立劇場バレエ団「Dance to the Future 2019」(2019.29.30.31 新国立劇場小劇場)

福田紘也は『猫の皿』と『Format』を続けて(入れ子で?)上演した。福田が登場し、マイクと座布団の前に座る。座布団の中から鏡と粘着テープを取り出して、口に貼る。暗転後、カミテにポニーテールの本島美和が忍者座り。少し動いて、シモテに忍者走りで去る。さらに暗転後、カミテから小柴富久修が金色の着物で登場。タンデュの小手調べをしてから膝を折って座る。観客に来場の礼を言い、「見ての通り、バレエダンサーです」で観客をつかむ。4回公演のうち3回を見たが、つかみは全て違っていた。そして全て面白かった。小柴の経験・感想を基にしているので、小柴のつかみなのだろう。

本題の『猫の皿』は柳家三三流。言葉の意味ではなく、言葉の音とリズムに合わせて、本島、福岡雄大、福田圭吾がコンテを踊る。なぜか忍者風の任務(振付)遂行。噺の区切りと動きが同期する、セッションに似た快感があった。噺が終わって暗転。福田(紘)が、拍子木の音から始まるパーカッション(音楽:福田紘也)で『Format』を踊る。踊りにはニュアンスがなく、フォーマットそのもの。動きの基本を見せるミニマルな面白さがあった。

今回は小柴遣いが圧巻だった。なぜボーリングのピン(宝満作品)にさせられたのか、よく分かった。落語が初めてというのは嘘だろう。茶を飲む所作、着物の立ち居振る舞いが板についている。だがバレエと落研は両立できるのか。もし初めてなら、振付を覚えるように覚えたのだろうか。謎である(普段の小柴はノーブルなラインの持ち主で、優れたパートナー)。

 

『死神』@ 大和シティ・バレエ「Summer Concert 2020」(2020.8.14 大和市文化創造拠点シリウス芸術文化ホール メインホール)

福田紘也の『死神』も同じく P. Glass の音楽を使用するが、真逆の作風。昨春には古典落語『猫の皿』を舞踊化し、今年の新国立劇場カレンダー8月の頁に、その舞台写真が採用された(着物姿の小柴富久修に、福岡雄大、本島美和、福田〈圭〉が写る 前代未聞のダンス写真)。同じトンデモない手法で来るかと思ったが、今回は正攻法(?)のアプローチだった。

物語はグリム童話『死神の名付け親』を基にした圓朝の創作物。若い男が死神から死者の見極めを教わり、医者となって成功する。ある時、死神をだまして死すべき人を生き返らせたため、死神の逆鱗に触れ、蝋燭の立ち並んだ洞窟に連れ込まれて、息の根を止められる。福田(紘)は、本島美和を死神に据え、若い男に福岡雄大、コロスに五月女と自身を配した。死神の首飾りを男が盗み、裕福になるが、死神に取り返され、死に至るという筋書きに変えている。

死神の本島は、これまでマッジやカラボスを踊り、手の内に入った役どころと言える。が、自らの引き出しに頼ることなく、新たに役を追求する点に、ベテランの凄味があった。舞台に身を捧げる強さと瑞々しさが同居する、本島らしい好演である。対する福岡は、半ズボンにセーター姿のやんちゃぶりがぴったり。お金が入るにつれて、上着、ズボン、靴が加わり、スタイリッシュな青年へと変貌を遂げる。本島との丁々発止が小気味よく、切れの良い踊りに、福岡本来の場所と幸福の在り処を思った。コロス 五月女は、振付の上を行く切れ味。前述の愛のパ・ド・ドゥとは異なり、水を得た魚のごとき活きの良さがあった。

福田(紘)演出の視野の広さ、ダンサーを生かす力、動きの視覚的快楽(ずらしの快感)が素晴らしい。ぎりぎりまで思考を突き詰めた果てに、感覚に身を委ねる懐の深さがある。見る側にとって、振付家の思考と感覚を共に辿る喜びがあった。

 

『Life - Line』@ 大和シティ・バレエ「想像✕創造 vol.2」(2021.8.14 大和市文化創造拠点シリウス芸術文化ホール メインホール)

公演の副題は「追う者と追われる者 」。5人の振付家が新旧作を出品し、最後に福田作品が上演された。アンドロイドと人間が混在する近未来。音楽は平本正弘とストラヴィンスキーを使用。3人のアンドロイドと、彼らを取り仕切る車椅子の老人を『ペトルーシュカ』の登場人物に擬える。看護師ロボットの川口藍はバレリーナ、やんちゃな少年 八幡顕光はペトルーシュカ、黒メタルコートにサングラスの殺し屋 福岡雄大ムーア人、車椅子老人 福田圭吾は人形使いの親方といった具合。題名の「ライフライン」とは電源コードのことで、常時何本も天井からぶら下がっている。途中、川口や八幡がバッテリー切れを起こし、直立のまま動かなくなるが、コードを腰に付けると回復する。八幡と川口のパ・ド・ドゥは赤い電源コードを互いに結び付けて。最後は福岡が椅子に座り、おもむろに電源コードを腰に付けて幕となる。川口のスレンダーなライン、八幡の運動的音楽性、福岡のスタイリッシュな色気、福田(圭)の老獪な存在感と、いずれも適役だった。

福岡が巨大な青ビニール袋を相手に被せる場面はベケット風。川口が瞬時に八幡の帽子をかぶり、ビニール袋捕獲の身代わりになるくだりには、胸を突かれた。親方の福田(圭)がペトルーシュカの音楽でソロを踊るのは、かつての姿をイメージさせるためか。銀色衣裳のアンサンブルは、アンドロイド風ではなく むしろ人間的。振付は矢上恵子を思わせる切れ味鋭い動きの連続である。ただしどこか取って付けたような感触が。アンサンブルを使うことにあまり興味がないのかもしれない。

全体的にはいつもと同じ、真正のクリエーションの妙味があった。全て福田(紘)の体から生み出されている。ムーヴメントはもちろん、演出も自らの美意識と照らし合わせて嘘がない。これまでもそうだが、福田作品には遠い宇宙へと突き放された振付家の孤独が滲む。理解されないことを怖れない、創造者の孤独である。ダンサーへの愛情も豊か。特に同門の福岡に対しては、年下の叔母のような理解と愛情を注いでいる。

 

Echo日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」(2022.8.12 新国立劇場中劇場)

東京地区『Echo』(振付:福田紘也、BM:川口藍)。12人の女性ダンサーと男性一人の板付きで始まり、少しニュアンスを変えて同位置で終幕となる福田らしい構成。バレエベースに妙な動きを加えたオーガニックな振付で、音楽を使用するのではなく、音楽と交感する感触がある。音取りの面白さ、特にカノンの微妙なずれ、ほころび、ほどけに魅了された。閾値を超えた思考はいつもながら。自らの眼差し、美的基準から1ミリも乖離しない真の‟クリエーション”である。黒一点の岸村光煕には、難度が高く、自分を超える踊りが振り付けられた。

 

echo』@ 新国立劇場バレエ団「Dance to the Future 2023」(3月25日昼夜 新国立劇場小劇場)

生成度の高さは福田(紘)の『echo』が突出している。ピアノソロからピアノ+弦、管+弦、オケと、漸次的に盛り上がるトム・ティクバの音楽に、白チュニックに白ズボンの小野寺雄、川口藍、上中佑樹、横山柊子、渡邊拓朗、福田(紘)が、ゆっくりと共同体を形成していく。上中、渡邊、福田が三方から頭をくっつけ、次に川口、横山、小野寺がくっつける、前の人の肩に手を置いて円陣。アンダンテで歩き始め、ソロ、デュオ、再び円陣。精緻なフォーメーションなのに自然。振付遂行にはどのように手を置くかまでディレクションがあり、互いの気配のやりとり、エネルギーの流れが生み出される。何をどう言ってよいのか分からないが、胸に迫った。怖ろしく緻密な思考が背後にあるのに、それを理解できる人はいない。

福田(紘)のプロダクションノート。「この世の創作物の全ては結局のところ、誰かの ‟創作物” の影響を少なからず受けて創作されていると思います. . . 音楽、舞踊、映像、そして普段の会話や挨拶の中にさえ存在する表現や影響が、人類たちの長い長いマラソンのバトンタッチの瞬間なんだな、と感じることが多いです。いつもはコンセプチュアルに考えるのが好きなんですが、今回は根源的な自分の考えをストレートに表現してみました」。前段はクリエーターとしての真っ当な認識、後段については、今作が団員としての最後の作品だからだろう。福田はこれまで数々のコンセプチュアルな作品で、思いがけない世界を現出させてきた。その精緻な思考は今作同様、必ず有機的な感触を伴っている。福田の愛情深い性格の反映だろう。