パリ・オペラ座バレエ団『白鳥の湖』『マノン』2024【追記】

標記公演を見た(2月10, 11, 17, 18日全昼)。前回の来日は 2020年2‐3月、コロナ禍が始まっていたが、万全の体制を整えて公演は決行された。オレリー・デュポン前芸術監督のもと、伝統の『ジゼル』(1841年/1987年/91年)、クランコ振付『オネーギン』(65・67年/09年)が上演されている。4年ぶりの今回は、22年に電撃辞任したデュポン監督に代わり、ジョゼ・マルティネス監督の指揮下で公演が行われた。演目はヌレエフ振付『白鳥の湖』(84年)、マクミラン振付『マノン』(74年/90年)。現監督がエトワールに指名したオニール八菜、マルク・モロー、ギョーム・ディオップも来日し、その采配ぶりを明らかにしている。

ヌレエフ振付のオペラ座白鳥の湖は、本人先行版よりもオーソドックス。振付に脚技などの装飾は多いが、いわゆる『白鳥』らしさを留めている。特徴はヴォルフガングとロットバルトを同一人物が踊り、王子とのデュオが3回繰り返されること。1幕の教育係と生徒風デュオから、王子の憂鬱ソロを経た後のシンメトリー・デュオ、さらに最終幕も同形デュオで締め括られる。最初のデュオに続く「乾杯の踊り」は男性陣のみ。しかも手を繋いで踊られ、ヴォルフガングを頂点とするホモ・ソーシャル(セクシャルというよりも)な世界を可視化する。王子は『ラ・シルフィード』のジェイムズの如く、椅子に座って物思いにふけり、夢に救いを求める若者である。今回の上演は18年前の来日時よりも、ヌレエフらしい濃厚な雰囲気が薄れ、フランス派の伝統が前面に出たという印象だった。

主役4キャストのうち2組を見た。オデット/オディール、ジークフリート王子、ヴォルフガング/ロットバルトは、1組目がヴァランティーヌ・コラサント、ディオップ、アントニオ・コンフォルティ、2組目がパク・セウン(アマンディーヌ・アルビッソンの代役)、ジェレミー=ルー・ケール、ジャック・ガストフである。

コラサントはオペラ座伝統の造形。脚の力感が素晴しい。ヌレエフ愛好のロン・ド・ジャンブ・アン・レールは左右等しく、グラン・フェッテは大きく美しい。やや前傾したバランスも盤石。小さいポアントで、ルルヴェは滑らか、素足に近い踊り方である。いわゆる「表現」ではなく、佇まいで見せる慎ましやかな演技。19世紀と地続きの、伝統芸能に近い味わいがある。王子のディオップはまだ若く、サポート慣れしていないようだが、アラベスクの伸びやかさ、初々しさが、操られる王子に合っていた。昨夏の「オペラ座ガラ―ヌレエフに捧ぐ」で、明るく溌溂としたブルノンヴィルを見せたコンフォルティは、色気と艶のある魅力的なヴォルフガング。ロットバルトのヴァリエーションも、トゥール・アン・レールは不調ながら、力強く美しい踊りだった。

アルビッソンの代役を務めたパクは、13年に入団しているが、フレンチ・スタイルではなかった。ポール・ド・ブラを意識し、ラインを美しく見せる。技術もあり、繊細な演じ分けを行なって、通常では美しい白鳥・黒鳥と言えるだろう。パ・ド・トロワを踊ったカン・ホヒョンも同じ踊り方。トロワのもう一人、ムセーニュ・クララが自然なフレンチ・スタイルであるのに対し、ややこれ見よがしの踊りを見せる。英国ロイヤル・バレエ団と同じく、多様性重視の結果だろうか。因みに、山本小春、桑原沙希はアンサンブルに馴染んでいた(パティントン・エリザベス・正子は識別できず)。王子のケールは卒なく、ガストフは小柄ながら、コンフォルティよりもダークな色合いが濃厚だった。ヴァリエーションも切れ味鋭い。

白鳥たちはヌレエフの振付を黙々と踊る。2幕の風がそよぐような腕揺らし、4幕の前傾して足を床にこする動き。全員が心を一つにして、愛らしいアンサンブルを作り上げる。ドガの踊り子そのものだった。

ヴェロ・ペーンの指揮が、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団から総力を引き出している。素晴らしい『白鳥』だった。

マクミランの最高傑作『マノン』は、英国ロイヤル・バレエ団、アメリカン・バレエ・シアター新国立劇場バレエ団、【追記】小林紀子バレエ・シアターで見ている。そのどれとも異なるオペラ座の『マノン』だった。ジョージアディスのぼろ布を背景にしながら、淡彩の絵画のような味わい。マクミランの複雑な振付も易々とこなし、自然なマイムで淡々とドラマが進む。クランコの『オネーギン』の際は、フランス寄りが物足りなかったが、今回はフランスの小説を原作とし、フランスの音楽を使用しているせいか、一つの確立されたアプローチに思われた。さらにピエール・デュムソー指揮の素晴しさ。マーティン・イエーツの少し線の細いメロディアスな編曲を、立体的、ドラマティックに解釈、マスネ音楽本来の姿を露わにさせる。弦の弱音の美しさ、打楽器の切れ、金管の咆哮に、豊潤な19世紀フランス音楽の香気が漂う。音楽の様々な断片が耳について離れなかった。

主役3キャストのうち2組を見た。マノン、デ・グリューは、1組目がミリアム・ウルド=ブラーム、マチュー・ガニオ、2組目がリュドミラ・パリエロ、マルク・モローである。

ウルド=ブラームのマノンは、コラサントの白鳥と同じく、近代的自我、表現とは無縁。演技、振付ニュアンスをことさら強調せず、フレンチ・スタイルで鍛えられた体のままそこにいるという印象。外見の幼さも加わり(今年定年だが)、アモラルな少女が、自らの意志なく、悩みなく、快楽の流れに乗って、男達のアイコンとなるその姿が、18世紀フランスから抜け出てきたように見えた。対するガニオは純粋な神学生そのもの。情熱も涼やか、腕輪のPDDで天を指す清らかさ、清潔なアラベスクのラインが、ウルド=ブラームの幼いマノンに合っている。

パリエロは成熟したマノン。演技も踊りも慎ましさを纏っているが、自分の意志があり、自ら選択して生きていることが分かる。シルヴィー・ギエムのマノンにインスパイアされたのか、沼地の造形はその美脚と共に、ギエムの鮮烈さを思い出させた。対するモローは情熱的なデ・グリュー。品格ある佇まいに育ちの良さを滲ませ、パリエロのマノンにあふれんばかりの愛情を注ぎ込む。いかさま賭博では原作通り、袖口にカードを忍ばせて、マクミラン振付にフランスの時代色を加味した。若き日にローラン・イレールとギエムの『マノン』を見て、初めてバレエで泣いたと語るが(『ふらんす』2004. 2)、深みのある独自のデ・グリュー像だった。パリエロへの献身は、壮絶な沼地に続いて最後まで。カーテンコールで誤って前へ出そうになったパリエロを引き留め、強く抱きしめた。