新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2019」②

2部はベテラン2人の新旧作。貝川鐡夫の新作『Danae』(音楽:J・S・バッハ)は、ギリシャ神話からインスピレーションを得たパ・ド・ドゥ。ゼウスが見守るダナエのソロ、ゼウスの欲情するソロ、ゼウスとダナエのエロティックなアダージョ、最後はゼウスが金の雨となってダナエに降り注ぐ。貝川の特質である音楽との一体化は、特に「シチリアーノ(ケンプ編)」を使ったアダージョで発揮された。いわゆる名曲をこれほど新鮮に響かせるのは、貝川が自分の手で音楽を解釈しているからである。『カンパネラ』同様、メロディが今でも耳について離れない。

振付はキリアン・ドゥアト系だが、そこに貝川独自の生々しい動きが加わる。男性ソロの両腕を下になびかせる動き、人差し指をぐるっと回して口に入れる、おでこをくっつけたアラベスクなど。流れるようなパートナリング、渦を巻くリフトが美しかった。木村優里と渡邊峻郁はみずみずしく清冽。特に木村は殻が取れ、素を生かした造形だった。貝川作品には配役への想像力を促す古典の格がある。本島美和と井澤駿が踊ったら、ダナエからは外れるが『椿姫』になるかもしれない。

福田圭吾作『beyond the limits of ...』は16年初演。トミー・フォー・セブンのメカニカルな音楽に乗せて、音楽的で強度の高い振付を男女4組が踊る。ポアント使用、バレエのパを高速で行うフォーサイス系だが、脱力なし。音楽をピンポイントで掬い取る熱い連続技が続く。ダンサーの出入りと照明の高速切り替えが、スタイリッシュな空間を作り出した。

奥村康祐の献身的なサポートを受けて、米沢唯がギエム張りの鮮烈な脚技を見せる。特に逆立ちリフトで両脚を横に折る動きが印象的。茫洋とした存在感の原健太と組む寺田亜沙子は、細やかな振付実践指導を行なう。クールな美しさだった。奥田花純と木下嘉人は求心的で切れの良い動き。ダイナミックな玉井るいと組んだ宇賀大将は、振付のイデアを現前させた。その自在さは、無意識レベルの振付解釈を思わせる。

貝川作品『カンパネラ』も16年初演(音楽:リスト)。福岡雄大と貝川によるWキャストが、作品の可能性を拡げている。福岡は、師匠の矢上恵子(3月30日逝去)、金森譲、中村恩恵、ニジンスカ作品で見せてきた、コンテンポラリー魂を炸裂させた。冒頭、円(照明)の中に佇む福岡。土俵に見える。上半身裸で、幅の広いスカートは袴。貝川の振付をフレーズとしてとらえ、自分の呼吸で踊る。押し引きの切れ味、重心の低さが、東洋武術を思わせる。座位で印を結ぶ最後の決めから、貝川の東洋的動きへの志向は明らかだが、それに輪をかけての武士。重厚なダイナミズムに、ダンサーとしての円熟期を窺わせた。

一方、貝川の場合は円が魔法陣に見える。正気からそれていく妖しさ、動きは腰高のせいで西洋的。3年前の振付ながら、肉体は変わっている。初演時の音楽との合体はなく、自らの理想に向かって己を駆り立てていく凄まじさがある。後半部はいつ倒れてもおかしくないほど、持てる力を出し切った。『Danae』同様、配役への想像力を掻き立てる。米沢唯が踊ったらどうなるか。ベジャールの『ボレロ』のように、ダンサーが憧れる作品になった。

3部は20分の即興。笠松泰洋監修(演奏も)で、8人のミュージシャンが各回トリオを組んで生演奏する。ダンサーは、貝川・福田(圭)・池田理沙子・髙橋一輝と、米沢・渡邊(峻)・福田(紘)・中島瑞生の2組。前回同様、初日はダンサブル、二日目夜は音を聞かせる、最終日はフォークロアと、音楽が異なり、ダンサーはそれに呼応した動きを見せる。ただし前回の6人が4人になったことで、混沌とした空間が少なくなった。やや予定調和にも見える。そうしたなか、面白かったのは中島の体。渡邊とも、米沢とも、普通に関わっている(福田紘也は「静かにして貰っていいですか」とコンテクスト共有を拒絶)。中島の不定形な動きがそのまま不定形な関係を作り、即興の醍醐味である時空の旅を示唆した。①はこちら

3月に見た振付家・ダンサー2019

熊川哲也 @ Kバレエカンパニー『カルメン(3月8日 オーチャードホール

2014年初演、3度目の上演。初演時のやや生硬な印象とは異なる、豊かでふくよかな演出だった。登場人物にふさわしい振付が、細やかに上書きされ、それぞれの人物が自立して見える。熊川印を刻みつつ、創作することで増やしてきた多彩なボキャブラリーに、改めて驚かされた。音楽と感情が完全に一致した動き、見るオペラである。

物語の流れを常に見守る道化のような娼婦は、いかにも熊川らしい演出。そのペーソスあふれる優しさが、観客と舞台を橋渡しする。終幕は、ホセがカルメンをピストルで撃ち、その亡骸を抱いて歩き出す。その姿を物陰から見るスニガと部下。外部の視線が加わることで、悲劇が一つの物語へと収斂する。音楽も愛のテーマ(間奏曲)が流れた後、序曲のにぎやかな出だしで締めくくられた。

スニガのスチュアート・キャシディが出色の演技。その佇まい、一挙手一投足が、物語を明確に指し示す(敬礼の素晴らしさ!)。終幕、ホセを見張る立ち姿のみで、悲劇が一気に俯瞰され、ホセの人生が浮かび上がる。日本にいながら、英国バレエ正統の演技を見られるのは僥倖。キャシディの熊川への友愛、バレエ団への愛情のおかげである。

 

オルガ・スミルノワ @ マニュエル・ルグリ「スターズ・イン・ブルー」(3月8日 東京芸術劇場 コンサートホール)

ルグリの、音楽とダンス・クラシックの規範への愛が結実した企画。中でもスミルノワはダンス・クラシックの化身だった。演目は『瀕死の白鳥』(フォーキン)、『タイスの瞑想曲』(プティ)、『OCHIBA~When leaves are falling』(パトリック・ド・バナ)。クラシカル、モダン、コンテンポラリー系、それぞれの語彙で踊ったが、フォーキン、ド・バナで個性を発揮した。

『瀕死』は美しいと言うよりも、古風。白鳥を描写するような冷静さがあるが、冷たさはない。伝えられた振付を、何も足さず、何も落とさず踊り、作品の命脈を保つことに自らの体を捧げている。バランスのよい美しいフォルム、緻密なポアント遣いに、息をのんだ。以前ボリショイ来日公演で踊ったオデットを思い出す(参照)。一方、ド・バナ作品では、薄衣をまとってパ・ド・ブレ、正座して横たわるシークエンスをミニマルに繰り返す。フィリップ・グラス音楽の体現者。「抒情的ではない」透明感は、ダンス・クラシックの伝統をそのまま生きているから。だが形式主義ではなく、その場で動きを生み出す生成感が強い。謎である。

 

島地保武 @「エトワールへの道程2019」(3月16日 新国立劇場中劇場)

新国立劇場バレエ研修所の修了公演。島地振付の『彩雲-Iridescent clouds-』は、14期修了生4人と、15期生4人に振り付けられた。バクラン指揮、東京フィルが奏でるヘンデルに乗せて、女性6人、男性2人が踊る。急に音が止まるところは、島地らしい(バクランも協力)。ひびのこづえデザインによる、蛍光黄緑色のフード付きオールタイツが可愛い。後半はバックドロップが上がり、裏舞台から堂々たるパーキンンソン赤城 季亜楽が、風船の入った宙に浮く長いガウンを引いて登場する(ひびの作)。このガウンは宙に浮いたまま、ポップなインスタレーションとして機能した。

振付はポアント使用で、バレエのパを用いる。そこにお尻をブリブリさせたり(誰だったか)、クニクニ動きを細かく入れる。そのくずしの品の良さ。ダンサーに自由を与えつつ、ポジティヴな共同体を作っている。カーテンコールでは島地を中心に手をつないで挨拶。カーテンが下りるとともに、全員がしゃがみ込んで最後まで顔を見せた。バクランも楽しんでいたようだ(バクランは、年末からずっと日本の指揮者になっている)。

 

 

 

新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』2019

標記公演を見た(3月2, 3, 9昼夜, 10日 新国立劇場オペラパレス)。牧阿佐美版(2000年)、6回目の上演である。『ラ・バヤデール』の魅力は、人間の業を描いたドラマティックな展開、プティパのシンプルで豪華な群舞振付、ワルツと行進曲に彩られたミンクスのロマンティックなメロディにある。またバレエを構成する重要な要素、マイムシーンが残されており、音楽と演劇の絶妙なあわいを味わえる。今回は特に中家正博のラジャに、マイムを見る喜びがあった。音楽、役の感情と完全に一致した鮮やかな腕使いは、一振りするだけで空間を変えることができる。美しいと同時に、常に相手に応えるマイムでもあった。

牧版では、アリステア・リヴィングストンの美術・衣装・照明が加わり、作品のグレードを上げている。序曲・間奏曲と共に上下する鬱蒼とした森、絹を思わせるインド模様の幡や美しい衣裳は、バレエ団の貴重な財産である(リヴィングストンの記載がプログラムにないが)。

3幕7場の編曲はランチベリー。ヌレエフ版の音楽も参考にしたとのことだが、寺院崩壊の場があるため、マカロワ版との関係が深い。異なるのは、婚約式を伝統版に近づけ、終幕の結婚式をコンパクトにした点。アポテオーズでニキヤとソロルが結ばれないのは、牧版の大きな特徴である。今回、ニキヤの花籠の踊り後半部を、初演時の編曲・振付に戻している。自然な感情の流れを重視したのだろう。また「影の王国」の山下りは当初アラベスク・パンシェだったが、アロンジェに変わっている。

主役キャストは3組。初日のニキヤには小野絢子、二日目は米沢唯、三日目は柴山紗帆が配された。小野は輝くような美しさに加え、上体を大きく使うロシア風の踊りを掌中に収めている。踊りのニュアンスも隈なく実現。研究・精進の成果を十二分に示した見事な舞台だった。ただ一方で、米沢唯振付『ジゼル』で見せた、生まれたての小鹿のような独特の魅力も捨てがたい。規範に沿うことと、剝き出しになることは両立しうるのではないか。

その米沢は、初回よりも最終日に本領を発揮した。2回とも前日にガムザッティを踊るハードなスケジュール。最終日は得意のバランスも少しふらつくなど、体調は万全とは言えなかったが、舞台で魂を燃やす米沢本来の姿を見ることができた。2幕ソロは、登場から異次元。すでに現世から切り離され、ソロルとガムザッティを彼岸から見ている。その嘆きと悲しみの深さに、二人は為す術もない。唯一ラジャの中家が(役回りではあるが)事態を収拾。狂ったバヤデールを死に追いやった。ハイ・ブラーミンの貝川鐵夫を狂気の愛に駆り立てたのも、米沢が感情のるつぼと化していたから。以前とは異なりクラシカルな美しさを帯びてはいるが、久しぶりに見る磁場としての米沢だった。

三日目の柴山は初役とは思えない落ち着いた仕上がり。正確なポジションから繰り出される美しいライン、優れた音楽性、詩情が、ニキヤの哀しみを増幅させる。マイム及び3幕のクラシック・スタイルも素晴しく、ロシア・バレエの香気が漂った。

ソロルはそれぞれ福岡雄大、井澤駿、渡邊峻郁。3度目の福岡は、はまり役。本来の覇気あふれる佇まいにノーブルな色合いが加わった。ダブル・アッサンブレの切れも素晴らしく、全身全霊を傾けた信頼感あふれる舞台だった。

井澤は配役初日に地力を発揮した。恵まれた体躯を生かしたダイナミックな跳躍、戦士らしい力強いマイム、婚約式でのニキヤとガムザッティに挟まれたロマンティックな苦悩など、全てに大きさがある。最終日は、やや上の空に見えたがなぜだろう。

渡邊はモダンなスタイルのせいか、現代的優男風は拭えなかったものの、勇壮な踊りを心掛け、戦士ソロルに迫った。柴山のよきパートナーであり、その献身性は大きな美点である。

ガムザッティはそれぞれ米沢、木村優里、渡辺与布。米沢は父のラジャ(貝川)が人が良く、くだけている分、しっかりと家を護る気位の高さがある。婚約式でも毅然とした態度。福岡ソロルと同質の切れのよい踊りで、輝かしいパ・ダクションを作り上げた。一方、木村は肚の据わった父(中家)の庇護の下、箱入り娘の造形。婚約式ではニキヤの死に心底驚いていた。井澤ソロルをよく気遣っている。渡辺はもう少しマイム・踊りに細やかさが望まれるが、大らかな父(貝川)の下、伸び伸びと明るく育った姫だった。

菅野英男のノーブルなハイ・ブラーミン、福田圭吾の音楽的で役を心得たマグダヴェヤ、今村美由紀の行き届いたアイヤ、奥村康祐のノーブルな黄金の神像、また同役抜擢の新人 速水渉悟が美しく明確な踊りで観客を驚かせた。影のヴァリエーションでは、ベテラン寺田亜沙子と細田千晶が、お手本となるスタイルを実践している。

「影の王国」山下りは糸を引くような美しさ。音楽的にもスタイルの上でも統一された、有機的なコール・ド・バレエだった。先頭を踊った関晶帆のガラス細工のように美しいアラベスク。関は1幕バヤデールたち、2幕ワルツでも磨き抜かれた身体美を披露した。男性アンサンブルでは一人臨戦態勢の渡邊拓朗が目を惹く。ノーブルな大きさがあった。

指揮は熱血ぶりが蘇ったアレクセイ・バクラン。重厚な東京交響楽団を率いて、ミンクスとバレエへの愛を力強く歌い上げた。

 

NBAバレエ団『白鳥の湖』新制作2019

標記公演を見た(3月2日 東京文化会館 大ホール)。芸術監督の久保綋一による新版。2006年に上演されたガリーナ・サムソワ版を基に、久保が演出、宝満直也が振付を担当した。音楽監修は冨田実里(指揮も)、3幕マズルカポルカは、新垣隆チャイコフスキーピアノ曲から新たにオーケストレーションを行なった。

家庭教師、道化、儀典長は登場せず(サムソワ版踏襲)、4幕は間奏曲からすぐにドラマに移行、別れのパ・ド・ドゥも省略という、休憩を含めて2時間15分の短いバージョンながら、ドラマが息づき、舞踊も充実した若々しい新版だった。王妃がパ・ド・トロワを見物する点、3幕のお妃候補たちが3人に絞られ、それぞれがソロを踊る点もサムソワ版に倣う。黒鳥グラン・パ等にブルメイステル版の影響も見られるなか、久保版最大の特徴は、新振付そのものにあった。

1幕乾杯の踊りの後に、ファンファーレが鳴り響き、勇壮な行進曲で、狩りの長率いる男性9人が力強く踊る。さらに3幕スペインを同じ9人がスタイリッシュに踊り、オディールを警護する。3幕 お妃候補たちがお付きのダンサーを従えて踊る、ポルカ、ルースカヤ、マズルカは難度が高く、女性ソリストの見せ所。黒鳥アダージョの複雑なパートナリング(まだこなれていない)、黒鳥の華やかなヴァリエーションも新鮮だった。宝満のクリエイティヴな意志の強さが伝わる版。プティパに対抗するつもりなのだろう(挿入曲についてはプログラムに記載が欲しい)。

演出面ではロットバルトがクローズアップされる。プロローグでロットバルトが恋敵のジークフリードを刺し、愛するオデットを憎しみのあまり絞め殺すスキャンダラスな幕開け。観客を引きつけようとする意図は理解できるが、続く1幕でジークフリードが元気に登場するため、ドラマとしては分かりにくい展開である(転生は暗示されない)。終幕 人間に戻ったロットバルトは倒れ、自死したオデットとジークフリードはあの世で結ばれる。

初日のオデット/オディールには BRB プリンシパルの平田桃子。情熱的なタイプで、オデットではクラシックの美しい形に感情を収めて、抒情性を目指したが、オディールで個性が全開した。アダージョの大きさ、ヴァリエーションの激しさ。エネルギーが飛び散るようだった。宝満の振付を真っ直ぐに踊る献身にも心を動かされた。

対する王子はバレエ団の高橋真之。ノーブル・スタイルよりも素直な感情を重視する演出指導のせいか、1幕ではアンサンブルに埋もれがちになる。しかし3幕では、喜びがそのまま踊りとなって溢れ出す高橋らしいヴァリエーションを披露した。平田同様、真っ直ぐな舞台だった。

ロットバルトは振付の宝満。一人次元の異なる役は得意とするところ。下半身はやや軽めながら、上半身のニュアンスが豊かで、妖しい雰囲気を醸し出した。ベンノ 前沢零の高い技術とクラシカルなスタイル、狩の長 大森康正の鋭く品格ある踊り、マズルカ 竹内碧、ルースカヤ 柳澤綾乃、ポルカ 須谷まきこの覇気あふれる踊り、スペイン軍団の伊達男ぶりなど、踊りの喜びが全編にあふれた。

白鳥群舞はよく揃い、若く素朴な味わい(ゲストバレエミストレス:針山愛美)。男性群舞は活きが良く、女性群舞には娘らしさが漂う。バレエ団の明るくカジュアルな個性と、古典の雰囲気が不思議にマッチしていた。

冨田のエネルギッシュな指揮が、終始舞台を牽引する。バレエ団との相性も良好だった。演奏はロイヤルチェンバーオーケストラ。

 

2月に見た公演2019

2月に見た公演について、短くメモする。

 

エラ・ホチルド『Futuristic Space』@ 横浜ダンスコレクション(2月3日 横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール)

L字型の客席に囲まれた長方形の舞台。上方には、光る透き通ったベールが広がっている。ベールが上下にたゆたうのは、床に作られた5つの送風口から、風が吹き上げられているからである。ベールの動きはダンスの一部。下方のダンサーたちと呼応するでもなく、無関係にでもなく、上空を彷徨っている。

音楽はタジキスタンからイスラエルに移住したゲルション・ヴァイセルフィレルの生演奏。ウードやユーフォニウムを電子的に増幅させ、薄暗い空間に拡がりを作る。短調における肚からのパトスが印象的。小柄だが舞台人としての存在感も濃厚だった。

エラ・ホチルドの振付は、幽霊風の佇まい、コンテンポラリーの動きを挟みながらも、傾向はモダンダンスを思わせる物語性の強いものだった。5人のダンサーが生み出す集団フォルムや動きは、常に感情や意味を示す。終盤、湯浅永麻が頭から被る黒い布は、バットシェバ舞踊団の初代芸術アドヴァイザーだったマーサ・グレアムを想起させた(ちなみにホチルドの綴りはバットシェバ・ド・ロスチャイルドと同じ)。『未来空間』という題名とは裏腹に、人間臭い、懐かしさを感じさせる空間だった。

5人のダンサーのレヴェルは高い。ただし、個々のダンスの技量を見せる場は少なく、演技や存在感、互いの関係性で作品を形作る。大宮大奨のスタイリッシュな踊り、ミハル・サイファンの素直な踊り、笹本龍史の巧さ、鈴木竜の懐の深さ、湯浅永麻の湿度の高い体と泣き顔。鈴木の信頼できる温かみのあるオーラが糊となって、ダンサーたちを結び付けている。

 

Noism1 『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』(2月22日 吉祥寺シアター

「実験舞踊」という新シリーズの vol.1 。このシリーズを立ち上げた理由を芸術監督の金森穣は次のように述べている。一つ目は、所属ダンサーの国際化にあたり「 Noism メソッドのバージョン・アップを図ることです。言い換えるならば、メソッドに新たに加えられるべき動きによって、本作品は構成されているということです」。もう一つは、Noism の活動継続問題。「この1年ほど、その不連続的な定め、その無常を痛感する1年はありませんでした。そんな中、私は自らに問いかけました。『もし今 Noism が終わるとしたら、最後に何を発表するべきだろうか』と。すると私の心は言いました。『これは終わりではなく、始まりなのだ』と。だから私はこの15年を総括するのではなく、新しく何かを始めることにしたのです。」(プログラム)

『R.O.O.M.』は横長の四角い箱が舞台(演出振付・空間・照明:金森)。50㎝四方の銀鼠色の板を組み合わせて作られている。照明によって光り具合が微妙に変わり、まるで銀の茶室のような趣がある。ダンサーは忍者のように天井から降りてきて、左右の開閉できるにじり口から去る。衣裳ペイントはRATTA RATTARR。男性はブルー地に蜘蛛の巣模様、女性はグリーン地に四角模様のユニタード、それぞれピンク、柿色の靴下を身に付けている。音楽はcyclo。

冒頭、天井から降りてくる男性ダンサーの脚の美しさに驚かされる。カンパニーが新たなフェイズに突入したことを感じさせた。振付は、かつてNoism メソッドを作品化した『ASU』第一部よりも不定形な動きが増えている。特に床を使った動きが面白い。一方、女性はポアントも使用。動きに強度が増し、狭い空間でのパ・ド・ブレは迫力があった。全編にわたって新鮮な動きの快楽に身を委ねることができたが、途中、振付家の身体感覚を外れた(と思われる)シークエンスがあり、50分は少し長いのではとも思った。

女性ダンサーは前回とほぼ同じだが、男性ダンサーはチャン・シャンユー以外新加入。フランス、イギリス(日系)、香港、日本(海外カンパニー経験)と国籍が多様になった。

主役の井関佐和子は、裸足でも、動きの切れ、脚の美しさ、身体的なバランスに優れていたが、ポアントを履くと、研ぎ澄まされた肉体美がアンドロイドのような機能美へと増幅される。縦や横のライン投影をバックにポアントで歩く姿は、近未来のダンサーといった趣だった。新加入のポプラヴスキーにサポートされた壁や天井での歩行、最後の踊り合いでも、動きの鋭さはずば抜けている。

同時上演の『鏡の中の鏡』は、D・コープによるコンピューター作曲のクラシック音楽を使用。金森のソロ、井関のソロの後、ベートーヴェンの『月光』を再構築したロマンティックな音楽で、デュオが踊られる。化学反応という言葉さえ陳腐に思われる自然な呼吸。同質だが、暖かく弾力のある金森の体と、鋭く繊細な井関の体が二つの声のように混じりあう。もう一人の自分と出会えた井関の喜び、金森への深い理解が、デュオをぐんぐん前進させた。

金森は一つの動きで空間に色を与えられる卓越したダンサー。情感豊かで、肉体そのものに物語を孕んでいる。体が芸術品と化した井関とのデュオは、二人にとっても、現在のダンスシーンにとっても貴重。二人が60歳になった時の踊りも見てみたい。

 

彩の国さいたま芸術劇場日本昔ばなしのダンス」(2月24日 彩の国さいたま芸術劇場 大稽古場)

2006年に始まったシリーズの第6弾。マグナム☆マダム選抜メンバーによる『つるのおんがえし』(構成・振付・演出:山口夏絵)、休憩を挟んで、コンドルズ選抜メンバーによる『かさじぞう』『てんぐのかくれみの』(構成・振付・演出:近藤良平)というプログラム。近藤作品の前に「昔ばなしこれくしょん」(だったか)と題し、昔ばなしの登場人物たちが、ファッションショーのように練り歩く。モデル歩きが上手かったのはコンドルズの藤田善宏だった(以前ヨウジヤマモトのファッションショーでコンドルズの面々を見たことがある。ついでに、昨年 都響の『カルミナ・ブラーナ』で香取直登の美しい女装を目撃した)。

山口作品は、演技のツボをピンポイントで押さえ、正攻法の振付を配した完成度の高い作品だった。早回しのシークエンスでは、こどもたちからドハドハ笑いを取る。老母と殿様を演じた山口の自在な演技、息子役 宮内愛の切れのよい宝塚風男装、鶴役 稲村はるのふくよかな演技が、うまく噛み合っている。山口の動きは鋭く、息子に突きを喰らわした時には、思わず声が出てしまった。踊りも巧い(天性の巧さ)。最後は、老母が息子を鶴に変身させ、二羽が飛び立つハッピーエンドに収めている。

近藤作品は、子どもたちとのコミュニケーションを第一の目的とする。ただし、演技に「ずらし」、ダンスに「脱力」があるので、高踏的。子どもたちは、分からない世界があることを無意識に感じるだろう。司会の近藤(なぜか司会がある)も容赦がない。それでも埼玉の子どもたちは元気がよく、素直だった。プラスチックのメガネを配られ、「これで隠れ蓑を被った彦一が見えるよー」と言われると、「見える」「見える」と喜ぶ(「外しても見えるよー」と後ろの女の子が言ったりしたが)。小道具、影絵の使い方、選曲は、大人公演の時と同様、素晴らしい。こどもたちは未知の世界に驚き、怖ろしさも感じつつ、帰路に就いたことだろう。入り口で配布された「子どもアンケート」の回答を読んでみたい。

 

 

日本バレエ協会『白鳥の湖』2019

標記公演を見た(2月9日, 10日昼夜 東京文化会館大ホール)。演出・振付は篠原聖一、振付補佐に下村由理恵が加わっている。都民芸術フェスティバル参加公演のため、協会関係の見巧者だけではなく、バレエが初めての観客も視野に入れる必要がある。篠原版は両者を満足させる気迫に満ちた演出だった。

最も革新的だったのは、ロットバルトの、娘オディールへの愛を物語の発端とした点。流行り病で娘を失ったロットバルトは悪魔となり、オディールを黒魔術で蘇らせる(プロローグ)。かねてより婿にと考えていたジークフリードと娘を娶わせようとするが、その瞬間オデットが現われ、ジークフリードはオディールを拒絶する(3幕)。終幕ロットバルトは、オデットとジークフリードの愛ゆえの自死、白鳥たちの反乱により、空中へ体が飛び散る 悪魔らしい最期を遂げる。残されたオディールもあえなく地中へと姿を消す(4幕)。

ダンスール・ノーブル 篠原の、ダークサイドへの共感がよく表れた演出。2幕最後、オディールを胸に抱き、ジークフリードを見下ろすロットバルトの姿が目に焼き付いている。悲しみのあまり銀髪となったプロローグのロットバルトも、ロックスターのようなかっこよさだった。

振付面では、男性ダンサーへの難度の高い振付(アン・ドゥダン回転、トゥール・アン・レール多用)、ワルツ、乾杯の踊りにおける群舞とソリスト有機的な連携、スペインの濃厚な男性舞踊を特徴とする。

白鳥群舞は混合アンサンブルのため、スタイルや音取りで合わせる2幕よりも、感情を基盤とした4幕の方に見応えがあった。オデットとジークフリードが昇天するなか(ワイヤー使用)、対角に列を組んだ白鳥たちは『瀕死の白鳥』を思わせる鋭角的な動きで死に至る。『白鳥』本来のカタルシスをもたらすドラマティックな幕切れだった。

主役は3キャスト。初日のオデット=オディールには元BRBプリンシパルの佐久間奈緒ジークフリード王子はBRBプリンシパルの厚地康雄、ロットバルトはソン・イ。

佐久間は役への真摯な姿勢と主役の責任感で舞台を牽引した。いわゆる白鳥らしいラインを見せることよりも、オデットの姫としての品格、オディールの気品に満ちた誘惑で、引き締まった空間を作り出す。白鳥を従える際の愛情深く凛とした佇まいには、BRBでの23年間が凝縮されていた。

王子の厚地はノーブルなスタイルをよく心得て、爽やかなジークフリードを造形。公私パートナーの佐久間を穏やかに見守っている。ソンのロットバルトは大きな踊り、色気のある演技で、男爵の誇りを示す。篠原の分身であることをよく伝えていた。

二日目マチネは元Kバレエカンパニーの佐々部佳代。抒情的で淑やかな踊りを予想したが、まるで違っていた。オデットは激しく艶めかしい。オディールとは陰性と陽性の違いがあるだけで、いずれも王子を誘惑する造形だった。振付を少し変えているが、ずっと肉体を注視させるのは、その時その場を生きているからだろう。一つの生を生き抜く疾走感があった。

対する王子は新国立劇場バレエ団プリンシパルの井澤駿。規範への忠誠、踊りの品格、正確な回転技が揃った正統派である。白鳥・黒鳥ともに佐々部からの強烈な揺さぶりがあったが、演技の軸はぶれず。アンドゥダン・ピルエットの正確な美しさも印象深い。篠原演出に最も忠実なジークフリードと言える。ロットバルトの高岸は、持ち前の濃厚な演技に、そこはかとなくユーモアを湛えていた。

二日目ソワレは新国立劇場バレエ団ソリスト木村優里。ダイナミックな腕使い、伸びやかな踊りで美点を発揮した。特に強度の高い脚のラインは、それのみで空間を支配する威力がある。白鳥らしい白鳥だった。舞台への責任感のあまり、一人突出することもあるが、経験豊富な王子 秋元康臣(東京バレエ団プリンシパル)が包容力を見せて、アダージョをしっかりまとめている。

秋元は古巣に戻ったように自然体。さらりと踊りの美しさを見せる。演技も思い入れをせず大らか。切れのよい爽快な踊りに、パートナーを引き立てる献身性を備えたベテランらしい王子だった。ロットバルトの高比良洋はダークな演技を得意とするが、もう少し肚の大きさが望まれる。

道化は、気立てのよい高橋真之、鮮やかな踊りの池本祥真、そして完璧な道化道を見せた荒井英之。荒井のヴァリエーションは技を見せるためではなく、人を楽しませるための踊りだった。王妃は、品格あるテーラー麻衣、愛情深い楠元郁子、美しい深沢祥子。ヴォルフガングは、ちょい悪飲兵衛の崩れた存在感を見せる小林貫太、懐が深くノーブルな柴田英悟が担当した。

1幕パ・ド・トロワは、寺田亜沙子・平尾麻実・江本拓の美しい踊り、清水あゆみ・渡久地真理子・吉瀬智弘の元気の良さ、奥田花純・斎藤ジュン・田辺淳の呼吸の良さ、と3組ともにバランスが取れている。寺田と江本の完全に一致したラインと音取りに、新国立の底力を見た。

3幕ディヴェルティスマンはそれぞれ3キャストが技を競ったが、中でもスペイン 五十嵐耕司のダイナミズム、同じく江本の鮮烈な美しさ、チャルダッシュ 佐藤優美・田辺のあうんの呼吸、ナポリ 栗原柊の切れのよい踊りが印象深い。

指揮はオレクセイ・バクラン、演奏はジャパン・バレエ・オーケストラ。バクランは昨年末の新国立『くるみ割り人形』、年明けの谷桃子バレエ団『ラ・バヤデール』に続いての登場。熱血ぶりを取戻し、舞台とよく呼応するドラマティックな音楽を作り上げた。

 

 

 

谷桃子バレエ団『ラ・バヤデール』 2019

標記公演を見た(1月12日 東京文化会館大ホール)。同団の『ラ・バヤデール』は81年初演(当時は『バヤデルカ』)。スラミフ・メッセレルが演出・振付したもので、ゴルスキー版に基づく。ただし「黄泉の国」はチホミロフの演出を用い、ヴァリエーションも変えている。25年ぶりの全幕上演となった望月則彦再演出(06年)でも、ヴァリエーションが通常版とは異なっていた。

今回は芸術監督 髙部尚子による改訂振付である。演出の主な変更は、マクダヴェヤにスポットライトを当てたこと。序奏をレニングラード版の祝福の曲に変え、マクダヴェヤが、竪琴を弾くニキヤを見つめるシーンで始まる。さらに三幕冒頭でソロルに阿片を勧めたあと、マクダヴェヤは苦行僧から僧侶に昇進する。髙部はインドのカースト制度を作品に反映させたいと語るが(プログラム)、現在のところはニキヤを挟んだソロルとの関係が分かりにくく、配役の安村圭太をクローズアップさせる効果のみが際立った。舞踊面では、二幕に「祝いの踊り」としてインド舞踊が踊られる。また太鼓の踊りを復活させた。壺の踊りの子役がみつばち姿なのはメッセレル以来の伝統。

キャストは3組。初日ソワレを見た。ニキヤの永橋あゆみは、エルダー・アリエフ指導下でのメドーラ、オーロラの輝かしいクラシック・スタイルが記憶に新しい。今回は二幕での情感あふれる嘆きのソロ、三幕の透明感あふれる美しいクラシック・スタイルに個性を発揮した。特に三幕の貫禄あるチュチュ姿は、ダンサーとしての成熟を感じさせる。

ソロルは檜山和久。昨秋スタイリッシュな(?)北斎を演じたばかり。今回もクールでやや無表情な悩める男を造形した。ヴァリエーションはさらなる精度が望まれるが、一幕マイムは、いかにも軍人らしい力強さにあふれた。

ガムザッティには馳麻弥。奔放な踊りに妖艶な佇まいが、いかにも思い通りに生きてきた姫。バラモンの赤城圭はやや歌舞伎風、マクダヴェヤの安村は髙部改訂の通り、ノーブルなスタイルで演じている。内藤博のドゥグマンタは娘思いだが、なぜかコミカルな味が加わった。ディヴェルティスマンでは、太鼓の踊りの牧村直紀、中村慶潤が切れの良い踊りを披露した。

一幕バヤデールたちの踊りは娘らしく、谷桃子の伝統を伝える。ただし、二幕アンサンブルはスタイル獲得の途上、三幕の山下りは、パの正確な遂行と揃えることにのみ意識があり、音楽を感じさせるには至らなかった。また定評ある男性のノーブル・スタイルは、学生が混ざったせいか徹底されず。

『ラ・バヤデール』全幕は現在、新国立劇場バレエ団の牧阿佐美版、Kバレエカンパニーの熊川哲也版、東京バレエ団マカロワ版を見ることができる。その中で、日本初演を誇る谷桃子バレエ団には、メッセレル版の復元を期待したいところだ。髙部監督の望む若い人たちへのアピールは、むしろ監督自身の創作で果たして欲しい。その鋭い音楽性と定型からはみ出る過剰なエネルギーは、振付家 髙部の大きな財産と言える。

 アレクセイ・バクラン指揮、洗足学園ニューフィルハーモニック管弦楽団