標記公演を見た(9月29日 Bunkamura オーチャードホール)。プロローグ付き全2幕5場。洋装と和装の女性が重なるように描かれた象徴的紗幕が、場面転換に使われる。演出・振付・台本は芸術監督の熊川哲也、原作 ジョン・ルーサー・ロング、音楽 ジャコモ・プッチーニ、アントニン・ドヴォルザーク、舞台美術デザイン ダニエル・オストリング、衣裳デザイン 前田文子、照明デザイン 足立恒、音楽監修 井田勝大(指揮も)、編曲 横山和也、演出・振付補佐 宮尾俊太郎という布陣。
熊川はカンパニー創立20周年を記念した新作に、初めて日本を舞台とする作品を選択した。今年は令和元年、東京五輪前夜という節目の年でもある。日本人の精神や所作と向き合ったせいか、本作では熊川の肉声がより聞こえる印象を受けた。〈「大人にならなければいけない」という思いと、「僕は僕でいなければならない」という思いがせめぎ合って成長してきました。〉というプログラムの言葉通り、自身の個性に磨きをかけつつ、視野の広さを獲得した振付家の姿がそこにある。熊川の成熟を目指す姿勢が、どこか日本人離れしているのは、多感な時期に、英国人気質に触れたことと関係があるのだろうか。
オペラのバレエ化としては『カルメン』(14年)に続くが、台本を加筆し、他の作曲家(ドヴォルザーク)の音楽を採用した点が大きく異なる。熊川台本は、米国海軍士官 ピンカートンの来日前の軍隊生活と、蝶々夫人の遊郭での生活(及び二人の出会い)を描き、日米の文化的コントラストを明確にさせた。プッチーニの 日本の歌がちりばめられたエキゾティックでアンビギュアスな音楽(『西部の娘』を含む)と対置されて、ドヴォルザークの牧歌的、民俗舞曲風音楽が、明るいアメリカ人気質を表わすことに成功している。
演出面で際立ったのは、父の切腹に使った懐剣が、蝶々夫人の人生を水先案内し、自害に至らしめる点。プロローグで幼い蝶々に目隠しをさせ、一差し舞って切腹する父。終幕では蝶々も同じように息子に目隠しをして、首を掻っ切る。その懐剣は、青い目の息子の手に渡る。開国し、異国に翻弄されながらも、日本人の矜持を持ち続ける親子3代が、一本の短刀によって見事に視覚化されている。懐剣の浮遊に黒子を使ったのも自然だった。
また、蝶々がピンカートンの帰還を夢見る場面では、ワルツを踊る二人の前を一枚の障子が通り過ぎ、後には一人で踊る蝶々が残される。その寒々とした淋しさ。『クレオパトラ』(17年)のカエサル暗殺シーンを思わせる手際だった。
登場人物はオペラに準じるが、ボンゾウは、僧侶から剣術・柔術の達人に、ヤマドリは、蝶々夫人の幼馴染で、書生から陸軍士官に出世する青年へと変わった。着流しのボンゾウが、米兵相手に日本刀を構える場面、相手を投げ飛ばす場面、蝶々のキリスト教への改宗に怒り狂う場面。配役ダンサー(遅沢佑介)の風貌も相まって、元武士の憤りまでをも伝えている。
本来は金持ちの男に過ぎなかったヤマドリも、蝶々の幼い頃を思い出させる青年に変わり、ピンカートンと同じ軍人として蝶々に求婚する。心揺らぐ蝶々だが、息子の姿を目にし、ピンカートンへの思いを貫いて、自害に至る。物語に深みと広がりを与える改変で、ダンサーのしどころも増した。
振付は米国シーンが本来の熊川節。巨大な星条旗と軍艦を背景に、手旗を振る水兵アンサンブルの可愛らしさ。片脚前方上げカノンの面白さ。切れのよいバットリーをふんだんに使い、きりっとしたフォーメイションが、米海軍の活きの良さを伝える。手旗を落とす者、仲間に脚をひっかけてころばせる者など、熊川らしいユーモアも。ピンカートンとケイトの明るく瑞々しいパ・ド・ドゥ、ケイト友人たちのお転婆なグラン・バットマンも加わり、晴れやかなディヴェルティスマンが繰り広げられた。熊川の抜きん出た音楽性と鮮やかな超絶技巧駆使は相変わらず。特に勇壮なピンカートン・ソロに見られる研ぎ澄まされた体の切り替えは、クリエイティヴな素晴らしさだった。
日本シーンは日本的所作とダンス・クラシックを組み合わせ、ドラマに奉仕する。蝶々の暮らす遊郭の大門と紅殻格子。その沈んだ色調、暗めの照明が、湿度の高さを想像させる。遊女と客の踊りは闊達(やや米国シーンに近い印象)。斡旋屋ゴローの鼻をすする仕草や、男たちの奴さんのような動きが面白い。花魁がポアントで八文字を描く花魁道中では、東洋的エキゾティシズムが花開いた。揺蕩うような音楽と、扇子がゆっくりと開く振付が一致した 夢のような舞踊シーンである。
遊郭を訪れたピンカートンが、無邪気で愛らしい蝶々を見初めて、本来のドラマが始まる。長崎湾を望む白木造りの家に、蝶々の花嫁行列が静かに坂を登ってくる。内股で小腰をかがめる人々の慎ましさ。蝶々はキリスト教の洗礼を受けて、妻となり、初めての夜を迎える。白地に赤一筋の入った花嫁衣装は、薄い袖が蝶々の羽のように、ひらひらと舞う。だが終幕、ピンカートンを迎えるため、再び身に着けた花嫁衣装には、袖がなかった。もはや飛べない蝶々の、ひくつくようなアラベスク。蝶々にのみ見える懐剣の浮遊が、冥界へと彷徨い出るジゼルを思わせたのと同様、ここでは、羽を落とされたシルフィードを想起させた。
東洋のロマンティック・バレエの結末は、決意の自害だった。ケイト、ピンカートンが立ち去る音を聞きながら、蝶々は正座でお辞儀をしたまま、身じろぎもしない。永遠とも思われる時間が過ぎて、蝶々は「ある晴れた日に」が流れるなか、自害する。『死霊の恋』(18年)同様、クライマックスに至る終幕の音楽的で緊密な時空間創出は、振付家 熊川の円熟を示している。
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