Kバレエカンパニー『マダム・バタフライ』新制作 2019 ①

標記公演を見た(9月29日 Bunkamura オーチャードホール)。プロローグ付き全2幕5場。洋装と和装の女性が重なるように描かれた象徴的紗幕が、場面転換に使われる。演出・振付・台本は芸術監督の熊川哲也、原作 ジョン・ルーサー・ロング、音楽 ジャコモ・プッチーニ、アントニン・ドヴォルザーク、舞台美術デザイン ダニエル・オストリング、衣裳デザイン 前田文子、照明デザイン 足立恒、音楽監修 井田勝大(指揮も)、編曲 横山和也、演出・振付補佐 宮尾俊太郎という布陣。

熊川はカンパニー創立20周年を記念した新作に、初めて日本を舞台とする作品を選択した。今年は令和元年、東京五輪前夜という節目の年でもある。日本人の精神や所作と向き合ったせいか、本作では熊川の肉声がより聞こえる印象を受けた。〈「大人にならなければいけない」という思いと、「僕は僕でいなければならない」という思いがせめぎ合って成長してきました。〉というプログラムの言葉通り、自身の個性に磨きをかけつつ、視野の広さを獲得した振付家の姿がそこにある。熊川の成熟を目指す姿勢が、どこか日本人離れしているのは、多感な時期に、英国人気質に触れたことと関係があるのだろうか。

オペラのバレエ化としては『カルメン』(14年)に続くが、台本を加筆し、他の作曲家(ドヴォルザーク)の音楽を採用した点が大きく異なる。熊川台本は、米国海軍士官 ピンカートンの来日前の軍隊生活と、蝶々夫人遊郭での生活(及び二人の出会い)を描き、日米の文化的コントラストを明確にさせた。プッチーニの 日本の歌がちりばめられたエキゾティックでアンビギュアスな音楽(『西部の娘』を含む)と対置されて、ドヴォルザークの牧歌的、民俗舞曲風音楽が、明るいアメリカ人気質を表わすことに成功している。

演出面で際立ったのは、父の切腹に使った懐剣が、蝶々夫人の人生を水先案内し、自害に至らしめる点。プロローグで幼い蝶々に目隠しをさせ、一差し舞って切腹する父。終幕では蝶々も同じように息子に目隠しをして、首を掻っ切る。その懐剣は、青い目の息子の手に渡る。開国し、異国に翻弄されながらも、日本人の矜持を持ち続ける親子3代が、一本の短刀によって見事に視覚化されている。懐剣の浮遊に黒子を使ったのも自然だった。

また、蝶々がピンカートンの帰還を夢見る場面では、ワルツを踊る二人の前を一枚の障子が通り過ぎ、後には一人で踊る蝶々が残される。その寒々とした淋しさ。『クレオパトラ』(17年)のカエサル暗殺シーンを思わせる手際だった。

登場人物はオペラに準じるが、ボンゾウは、僧侶から剣術・柔術の達人に、ヤマドリは、蝶々夫人の幼馴染で、書生から陸軍士官に出世する青年へと変わった。着流しのボンゾウが、米兵相手に日本刀を構える場面、相手を投げ飛ばす場面、蝶々のキリスト教への改宗に怒り狂う場面。配役ダンサー(遅沢佑介)の風貌も相まって、元武士の憤りまでをも伝えている。

本来は金持ちの男に過ぎなかったヤマドリも、蝶々の幼い頃を思い出させる青年に変わり、ピンカートンと同じ軍人として蝶々に求婚する。心揺らぐ蝶々だが、息子の姿を目にし、ピンカートンへの思いを貫いて、自害に至る。物語に深みと広がりを与える改変で、ダンサーのしどころも増した。

振付は米国シーンが本来の熊川節。巨大な星条旗と軍艦を背景に、手旗を振る水兵アンサンブルの可愛らしさ。片脚前方上げカノンの面白さ。切れのよいバットリーをふんだんに使い、きりっとしたフォーメイションが、米海軍の活きの良さを伝える。手旗を落とす者、仲間に脚をひっかけてころばせる者など、熊川らしいユーモアも。ピンカートンとケイトの明るく瑞々しいパ・ド・ドゥ、ケイト友人たちのお転婆なグラン・バットマンも加わり、晴れやかなディヴェルティスマンが繰り広げられた。熊川の抜きん出た音楽性と鮮やかな超絶技巧駆使は相変わらず。特に勇壮なピンカートン・ソロに見られる研ぎ澄まされた体の切り替えは、クリエイティヴな素晴らしさだった。

日本シーンは日本的所作とダンス・クラシックを組み合わせ、ドラマに奉仕する。蝶々の暮らす遊郭の大門と紅殻格子。その沈んだ色調、暗めの照明が、湿度の高さを想像させる。遊女と客の踊りは闊達(やや米国シーンに近い印象)。斡旋屋ゴローの鼻をすする仕草や、男たちの奴さんのような動きが面白い。花魁がポアントで八文字を描く花魁道中では、東洋的エキゾティシズムが花開いた。揺蕩うような音楽と、扇子がゆっくりと開く振付が一致した 夢のような舞踊シーンである。

遊郭を訪れたピンカートンが、無邪気で愛らしい蝶々を見初めて、本来のドラマが始まる。長崎湾を望む白木造りの家に、蝶々の花嫁行列が静かに坂を登ってくる。内股で小腰をかがめる人々の慎ましさ。蝶々はキリスト教の洗礼を受けて、妻となり、初めての夜を迎える。白地に赤一筋の入った花嫁衣装は、薄い袖が蝶々の羽のように、ひらひらと舞う。だが終幕、ピンカートンを迎えるため、再び身に着けた花嫁衣装には、袖がなかった。もはや飛べない蝶々の、ひくつくようなアラベスク。蝶々にのみ見える懐剣の浮遊が、冥界へと彷徨い出るジゼルを思わせたのと同様、ここでは、羽を落とされたシルフィードを想起させた。

東洋のロマンティック・バレエの結末は、決意の自害だった。ケイト、ピンカートンが立ち去る音を聞きながら、蝶々は正座でお辞儀をしたまま、身じろぎもしない。永遠とも思われる時間が過ぎて、蝶々は「ある晴れた日に」が流れるなか、自害する。『死霊の恋』(18年)同様、クライマックスに至る終幕の音楽的で緊密な時空間創出は、振付家 熊川の円熟を示している。

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Kバレエカンパニー『マダム・バタフライ』新制作 2019 ②

標記公演三日目を見た。主要キャストはゴロー、花魁を除いて、ファーストキャストと同じである。

主役の蝶々夫人には、持てる才能を順調に開花させた矢内千夏。生来の慎ましさが役柄によく合い、日本的はかなさ、透明感に、清潔なきらめきを加えている。その虚構度の高さ。役を生きるというよりも、役に入ると言った方がよく、佇まいのみで空間を作ることができる。美質である優れた音楽性、技術の高さは、全て役作りの深化に捧げられ、振付の高難度を微塵も感じさせない。

ピンカートンに裏切られ、正座でお辞儀をしたまま身じろぎもせず、彼が立ち去るのを待つ場面の素晴らしさ。すでに只ならぬ気配が舞台に立ち込める。懐剣の幻視、自害への流れるような推移は、冥界との行き来、異界との交流が自然であると思わせる質の高さだった。かつて生き生きと跳躍するミルタを見せたが、すぐにでも優れたジゼル・ダンサーになることだろう。

蝶々を見初めて、悲劇に陥れるピンカートンには堀内將平。軍人らしい割り切り感、明るいアメリカ人気質を前面に出さず、複雑でロマンティックな造形を行なっている。アルブレヒトに近づけたのだろうか。パ・ド・ドゥでの親密なパートナーシップ、端正で美しい踊りは相変わらず。入魂の矢内を大きく支えた。終幕、お辞儀したままの蝶々を置いて去る 苦悩の表情が印象深い。

遊郭の遣り手を辞めて、蝶々の身の回りの世話をするスズキには荒井祐子。はまり役である。遣り手時代の紫の着物姿が艶やかで、日本的所作も美しい(『ザ・カブキ』の蓄積だろうか)。蝶々のもとでは縞の着物で、献身的に主人に尽くす。蝶々の苦しみを思いやるドラマティックなソロは力強く、愛情に満ちていた。

ボンゾウの遅沢佑介は、クラシックダンサーとは思えない腰の入り。着流しがこれほど似合うダンサーがいるだろうか。登場したとたん、舞台にきな臭さが充満する。遅沢に宛てて振り付けしたとしか思えない 完成度の高さだった(もちろん剣術の腕は磨き続けると思うが)。

一方、明るい好青年と化したヤマドリには、そのままの山本雅也。蝶々との幼馴染はすくすくと育ち、書生時代にはシャープレスとの「踊り」マイム談義を楽しみ、陸軍士官となってからは凛々しい立ち姿を見せる。堀内ピンカートンとの好対照を形成した。斡旋屋のゴローは、ベテランの伊坂文月が円熟の芝居と踊りを披露。高度なテクニックと軽妙な演技の混ざり合うソロが鮮やかだった。

ピンカートンの婚約者ケイトには小林美奈。米国シーンでの素朴で明るい娘、日本シーンでのしっかりとした軍人の妻を、大らかに描き出した。蝶々に「結婚している」マイムを見せるのは、バチルドを想起させるが、オペラ通り、キリスト教的博愛に終始する方が米国的に思われる。花魁は、苦界に沈んだ哀しみを湛える山田蘭が勤めた。

今回もスチュアート・キャシディが二つの脇役で舞台を締める。米国シーンではピンカートンの上官として、軍人のあるべき立ち居振る舞いを、日本シーンではアメリカ領事 シャープレスとして、日本の習俗に親しみ、愛情深く日本人に接する姿を見せて、対極にある二役を見事に演じ分けた。懐の深さは両者に共通するが、身体性は別人のごとく。上官の背筋を伸ばしたノーブルで大きな返礼、シャープレスの、その名の通りやや背中を丸めた柔らかな物腰。役作りの深さのみならず、舞台、ダンサー、そして熊川への愛情に満ちた名演だった。

栗山廉、西口直弥のノーブルな海軍士官、酒匂麗のクリアな踊りと慎ましい物腰、佐伯美帆を始めとする振袖新造のたおやかな踊りなど、ソリスト・アンサンブルともに、音楽性とスタイルの統一が目覚ましかった。管弦楽はシアター オーケストラ トーキョー。

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9月に見た公演など2019

9月はまだ終わっていない。Kバレエカンパニーの新制作も控えているが、記憶の新しいうちにメモしてみたい。

 

★「塩田千春展 魂がふるえる」(9月3日 森美術館)✖「没後90年記念 岸田劉生展」(9月3日 東京ステーションギャラリー)✖「東京計画2019 vol.2 風間サチコ」(6月27日 ギャラリーαM)← 追加

美術関係の情報は主に新聞から。塩田千春展と風間サチコ展は日経新聞の記事で知った。岸田劉生朝日新聞の広告から。塩田と風間は共に1972年生まれだが、正反対の作風。ダンスになぞらえれば、塩田はコンテンポラリー・ダンス、風間は舞踏である。ついでに言うと、岸田はモダンダンス。西洋の様式と東洋の美的感覚を融合させたので(作風はばんばん変わっていくが)。

塩田作品は、新国立劇場の『タトゥー』、『松風』の舞台美術、初台のギャラリーでの新作インスタレーションを見ている。今回の大規模展で改めて感じたのは、内臓感覚と知的意匠が組み合わさったスタイリッシュな東洋美。見て面白く、中に入っては、蚊帳の中にいるような心地よさがある。観客は外国人が多く、お洒落な富裕層も見受けられた。美術館柄だろうか。

塩田の美しいインスタレーションを見ているうちに、何もかも対照的な風間のことを思い出した。風間とは、17年の横浜トリエンナーレで出会った(参照)。一回しか摺らない白黒木版画をメディアとする。6月の個展では、オリンピックと優生思想、全体主義をからめたディストピア、「ディスリンピック2680」が壁一面を覆っていた。2680とは皇紀で、西洋歴2020年のこと。あまりに細かく彫られているので、隅々まで見ることができない。ただただ圧倒されるばかり。その場で「予感の帝国―風間サチコ作品集」(朝日出版社 2018)を購入する。眺めていると、つげ義春、版画繋がりで、ナンシー関を思い出した。愛読する風間のブログ「窓外の黒化粧」(http://kazamasachiko.com/)はそのままで「文学」。風間の思考、感覚、匂いが染みついた文章には、自作と拮抗する高度な批評性がある。風間装丁の本(活字)で読みたい。

塩田展当日、岸田劉生展にも回った。美術好きの中高年に混じると、全身がグッとほぐれる。岸田は最も好きな画家。西洋の様式を採用しながら、日本の湿気、土臭さを内包する初期の肖像画群、宗教画のような妻の肖像、存在そのものを描いた風景画、娘麗子像の変奏など。何度見ても、嬉しくなる。西洋との苦闘をぎりぎりまで突き詰め、その果てに日本人の私を見出しているからだろう。関東大震災で崩壊した家の上に、岸田一家が集合し、にこやかに笑っている写真、あり。初めて見た。

 

ニコライ・ツィスカリーゼ @ 『バレエの王子になる! "世界最高峰” ロシア・バレエ学校の青春』(9月7日 NHKBS1

ワガノワ・バレエ・アカデミーの最終学年男子生徒を、卒業公演まで追ったドキュメンタリー。男子生徒の個性も面白かったが、ツィスカリーゼの異人ぶりが圧倒的だった。豊かな黒髪をヘアバンドのように眼鏡でまとめ、趣味のよく分からない個性的ないで立ちで、次々と鋭い(毒舌)批評を放つ。一方、生徒への愛は深く広い。国家試験前に高熱を出した生徒を、医務室に連れて行ったり、卒業公演で主役を踊る生徒の髪を、自ら仕上げたり。何よりも、生徒の個性を見抜き、それに応じた指導をする。抜きんでた才能(美貌も)がありながら、バレエへの姿勢に甘さがある生徒には、卒業公演に出ることを禁じた。「そんなことでは、女性と組めないよ」、「君を褒める人は君の敵だと思いなさい」などの言葉も。全体に厳しいおばさんのような母性愛を感じさせた。

ツィスカリーゼのクラスは、「バレエ・アステラス 2017」の公開レッスンで見たことがある(通訳:西川貴子)。この時もツィスカリーゼの演技(?)に魅了されたが、一つのアンシェンヌマンを示して、「これは昔のだけど、とても有効なんだよ」と語っていた。ドキュメンタリーの国家試験の振付でも、グラン・プリエからのピルエット、ブルノンヴィル風の前方グラン・ジュテ、シャッセなど、伝統に則ったバレエスタイルを重視する。ツィスカリーゼ自身の破天荒な個性と、歴史を視野に入れた正統派スタイルの、奇妙で奇跡的な融合である。

プティがボリショイ・バレエに『スペードの女王』を振付に来た時のこと。「このバレエ団に狂人はいるかな?」と尋ねると、ツィスカリーゼが「はい、私がそうです」と答えた 如何にものエピソードがある。牧阿佐美バレヱ団ではプティの『若者と死』にゲスト出演した。カーテンコールでプティが登場、喝采を浴びて、後ずさりした途端、置き道具の机に脚をとられ、後転。ダンサー・プティはすぐに起き上がったが、その時のツィスカリーゼの驚きと心配そうな顔が、今でも忘れられない。

上記公開レッスンでは、終了後に会場からの質問を受けた。最前列に座った女性が手を挙げ、マイクを渡されると、いきなり「ニコライ」と愛情を込めて呼びかける。するとニコライは乙女のように全身で恥じらって、嬉しそうにその女性の言葉に耳を傾けた。長年の出待ちファンだったのだろうか。

 

山九郎右衛門 @ 銕仙会9月定期公演『通小町』(9月13日 宝生能楽堂

シテの深草の少将ノ怨霊には、観世清和、ツレの小野小町ノ霊を、片山九郎右衛門、ワキの僧を森常好。笛 一噌隆之、小鼓 大倉源次郎、大鼓 亀井忠雄、地謡 観世銕之丞ほか。これがどういう座組かは分からないが、初めて神事に近い鎮魂の能を見た。

観世清和の舞台を覆いつくすような怨霊に対し、片山の小野小町はほとんど動かず、佇まいのみで見せる。内に向かって引き絞られた立ち姿からは光の粒が放射され、慎ましやかに光り輝く小町の霊が顕現する。その硬質で禁欲的な舞に、片山家と井上流の濃密な婚姻関係が思い出された。面の内側から響く男性の声と、その優美な舞が一致せず。しばらくたって片山の声と分かった。最後は小町と少将がともに成仏し、僧に回向の礼を言って去る。その唐突な終わり方に、先ほどまでの異空間が急速に閉じられた印象を受けた。演者のエネルギーが一気にぶつかり、一つに纏まって異次元へと至り、すぐに終息する。皮膚感覚まで動員された強烈な体験だった。

8月に見た振付家2019

伊藤範子 @ 「谷桃子バレエ団附属アカデミー 第59回生徒発表会」(8月7日 大田区民ホール・アプリコ大ホール)

高等科9人の女性に振り付けた『Gosh! win for the future』。ガーシュインの気怠さ、アメリカ的なテンポの良さが、振付に反映されている。音楽、フォーメイション、動きのアクセントが緊密に結びつき、それが小粋でエレガントなスタイルによって実行される。そのピンポイントの心地よさ。クリエイティヴなソロ、華やかなフィナーレあり。プティの破天荒ではなく、アシュトンの手仕事風細やかさを想起させる。グレー、赤、黄のドレスにチョーカー、腕飾りと、いつもながら洒落た衣裳。

 

児玉北斗福田圭吾宝満直也(上演順)@ 「大和シティバレエ夏季公演2019」(8月16日 大和市文化創造拠点 シリウス芸術文化ホール メインホール)

5演目全てが創作、うち3演目がコンテンポラリーという攻めのプログラムである(ゲネプロ所見)。出演者も、新国立劇場バレエ団、東京バレエ団、スターダンサーズバレエ団、NBAバレエ団等から、主役・ソリスト級が参加。佐々木三夏バレエアカデミー出身の五月女遥、相原舞、菅井円加、大谷遥陽、松井学郎も、主要な役を踊る。新進振付家の起用および、ダンサーの適材適所は、この公演の大きな特徴である。その結果、国内でも貴重な創作の場が形成されている。

児玉北斗の『Pas Syntaxique』は、リュリ、テレマン、ヴィヴァルディの音楽に振り付けた批評的コンテンポラリー・ダンスルイ14世をモチーフに、美しいポジションとカジュアルな運動性が組み合わされる。ポーズと動きの絶妙なタイミング、音取りの巧さは天性のもの。そのまま普通に作品を作ってもいいように思うが、どうしても捻り(批評)を入れたいのだろう。「王」を示すマイムと、「コマネチ」を組み合わせてしまう。一筋縄ではいかない児玉らしい作品だった。元ノイズムの梶田留以が、その名の通り、男前の踊りを見せる(福田圭吾をサポートしたり)。また、元新国立の八幡顕光が優れた音楽性を発揮した。

福田圭吾の『accordance』は、風や鳥の声が入る音楽で始まり、自然に寄り添う姿勢を見せる。集団フォルムでのウェーブやカノンという、モダンダンスに通じる親密な空間も、「調和」を求めてのことだろう。福田の暖かい人間性と呼応した新境地だった。最後は、踊りの快感、スタイリッシュな動きのショーアップというお家芸が炸裂する。新国立の米沢唯と木下嘉人、五月女と福岡雄大、相原と福田が時々パートナーを変えながら、デュエット、ソロで高い技量を見せた。

宝満直也は『球とピンとボクら…。』(13年)の系譜に連なる『MU』と、バランシン風の『Four to Four』。前者はショパンの遺作が、バイオリン・ソロおよび、ピアノ変奏で流れ、空間の歪みを作る。男(山本勝利)がベッドで寝ていると、マットレスから一本の脚がにょきっと出て、指でメロディを奏でる。次には片手がふらふらと伸び、狐手を作る。最後は頭、そして全身が出てくると、男は驚いて「ワーッ」と叫ぶ。狐女(大谷)はしっとりした色気を醸しつつ、男をいたぶったり、からかったり。成行き上、二人はパ・ド・ドゥを踊るが、宝満振付デュオ『Disconnect』(16年)に通じる孤独を感じさせた。最後は狐女がシーツもろとも、マットレスの中へ戻って終わる。奇妙なイメージを膨らませる想像力、音楽と物語の一致、ダンサー起用の妙は相変わらず(山本の素朴な味)。動物ものに地力を発揮する宝満。

後者は、五月女と木下、相原と奥村康祐、米沢と秋元康臣、菅井と福岡が、各楽章のプリンシパルを担う。絶妙な組み合わせ。そこにソリスト、アンサンブルがピラミッドを形成し、フィナーレのユニゾンへとなだれ込む。フォーメイションはまだ作り込める印象だったが、アカデミー生が最前線のプロと共演する意味は大きい。闊達な1楽章、『白鳥の湖』風2楽章、3楽章は米沢讃歌。秋元の安定したサポートを得た米沢は、振付の源へと遡る深い解釈を見せた。よく踊り、よく回り、よく跳ぶ4楽章は、ゲネのため、菅井と福岡の丁々発止は手話のごとく。本番では火花を散らしたことだろう。

児玉作品と福田作品の間に、マルティネスの『ドリーブ組曲』。大胆跳躍の菅井とノーブルな松井が踊った。

日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」2019

標記公演を見た(8月10, 12日 新国立劇場 オペラパレス)。文化庁及び、公益社団法人日本バレエ協会が主催する「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環。各地で活躍する振付家・ダンサーが一堂に会し、互いの研鑽を確認し合う、言わば「バレエのふるさと」のような公演である。

今回は5支部、 東京地区が7作品を出品。両日とも最後は例年通り、本部作品『卒業舞踏会』で締めくくられた。古典改訂は厳密には1作品、後は全て創作という珍しいプログラム構成である。ただし、創作の中にロマンティックなスタイルを踏襲した作品があり、古典の少なさを補っている。

北海道支部『Scène de Carnaval』(振付・演出:渡辺たか子)は、プティパの『アルレキナーダ』、フォーキンの『ル・カルナヴァル』を思わせるコメディア・デラルテ物。コロンビーヌ(佐藤流音)、ハーレキン(安中勝勇)、ピエレット(枡谷まい子)、ピエロ(加藤誉朗、向井智規)、道化師のアンサンブルが登場し、一幕の恋物語が描かれる。ダンサーたちのクラシカルな美しさ、技術の高さが素晴らしい。ロマンティックなスタイル、的確なマイム、キャラクターを反映した高度な振付が揃い、19世紀バレエの香りを味わうことができた。

唯一の古典改訂は、中部支部の『ラ・シルフィード』第2幕より(再振付:エレーナ・A・レレンコワ、監修・指導:岡田純奈)。ブルノンヴィル版から、シルフィードとジェイムズのパ・ド・ドゥ、ソリスト、アンサンブルの踊りを抜粋。シルフィード石黒優美は愛らしく、柔らかい腕遣いをよく身につけている。ジェイムズの水谷仁は、もう少し男らしい勢いが望まれるものの、ブルノンヴィルの傑作ソロに果敢に挑戦。ジュニアを含めたアンサンブルも、スタイルをよく意識し、ロマンティック精神の体現に努めた。レレンコワの所属したサンクトペテルブルク・オペラ・バレエ マールイ劇場は、ソ連で初めて同版を導入。パ・ド・ドゥ最後のアラベスク・パンシェで、ジェイムズがシルフィードの後脚のみを手首で抑える(つまり体に触れない)型が残されているが、今回は残念ながら踏襲されなかった。

沖縄支部白鳥の湖』第3幕より「花嫁の踊り」(改訂振付・演出:長崎佐世)は、ハンガリー、ロシア、スペイン、イタリア、ポーランドの花嫁候補たちの踊り。音楽、設定は同じながら、振付は新たに創作され、全員ポアントで踊る。ダンサーの技量に合わせたため、やや大らかな振付も散見されたが、スペインを踊った長崎真湖には、高度な技術、クラシカルなスタイルを十二分に発揮させた。久しぶりに見る長崎らしい踊り。以前『コッペリア』で見せた古風なスペインを思い出す。脇に従えたモンゴル人男性二人も美しいスタイル。フィナーレはいつも通り、身も心も浮き立つような総踊りだった。

東京地区2作品は、共に物語性を帯びたシンフォニック・バレエだった。初日幕開けの佐藤真左美振付『ビゼー組曲』は、ビゼーとメサジェの音楽を使用。スペイン風のキャラクター色濃厚な振付で、床面も多く使う。田辺淳、栗原柊を始めとする男性ダンサーの見せ場、カノン、ユニゾンを駆使したパワフルな群舞は見応えがあり、若い二人による「花の歌」パ・ド・ドゥも情感にあふれた。全体にややスポーティな感触が残るのは、音楽を汲み取るというよりも、音楽を使っているからだろうか。

2日目幕開けの『La Source』は、日原永美子のモダンな語彙が、グリーグの民族的な『ノルウェー舞曲』を密に読み解いていく。下敷きとなった物語は、ダークな存在感を放つ中川賢が、永橋あゆみと松野乃知の仲を引き裂こうとするが、二人の愛が打ち勝つというもの。ダーク系のキャラクターは日原作品の特徴である。音楽的なソリスト、アンサンブルをバックに、Noismで磨き上げられた中川の低重心で切れのよい踊り、永橋のしっとりと美しい佇まい、松野のノーブルなスタイルが、的確に物語を導いた。

残る創作2作は、コンテンポラリー系。関東支部の二見一幸振付『Twenty two Echoes』は、女性21人、男性1人に振り付けられた。前半のメカニカルな音楽では、二見のスタイリッシュな振付が炸裂。後半のラフマニノフでは、集団で踊る、集団でフォルムを作るモダンダンスの伝統が反映されている。コール・ド・バレエとは異なり、「個人」が集まって何かを成し遂げるのは、バレエダンサーにとって貴重な体験だったのではないだろうか。

対する中国支部の島崎徹振付『The Gate』は、バレエダンサーだって気持ちよく踊っていいのでは、というアプローチ。整然と並んだ24人の女性ダンサーが、少しずつフォーメイションを変えながら、バレエのアンシェヌマンをパワフルに綴っていく。子供の声とパーカッション、宗教曲に合わせた左右に揺れるフォーメイション、微妙な反復運動は、ダンサーのみならず、観客をも気持ちよくさせる。一見 体操的に見えてそうでないのは、音楽との密着度が高く、呼吸を伴っているから。見終えたあと、脳がすっきりするのを感じた。フォーサイスが、エポールマンへの意識の集中を、多幸瞑想と捉えていることを想起させる。

恒例の本部作品『卒業舞踏会』は、原振付 D・リシーン、改訂振付 D・ロング、振付指導 早川惠美子、監修 橋浦勇による。要となる老将軍の高岸直樹は、男らしさにコミカルな味わい、女学院長の小林貫太は、まったりとした女らしさ(父 恭の腹芸女形とは異なるリアリズム)で、濃厚なラブシーンを演じた。高岸は伊藤範子作品で女装役に開眼しており、今後の展開に期待を抱かせる。

他役はWキャスト。神戸里奈のラ・シルフィードが、抜きん出た素晴らしさだった。体の質を変え、別世界の生き物と化している。ノーブルなパートナー 高比良洋と共に、ロマンティックな森を現出させた。また、即興第1ソロ 松本佳織の鋭い音楽性、同じく宮崎たま子の疾風のような役作り、即興第2ソロ 盆子原美奈の透明感あふれる踊りが印象に残る。鼓手では、野中悠聖が力強さ、森脇崇行が美しい踊りで個性を発揮した(共に瀬戸内地方出身)。ベテラン・パートナーの佐藤祐基、下島功佐を始め、男女アンサンブルは早川道場の威力を見せつけている。

福田一雄指揮、シアター・オーケストラ・トーキョーは、9演目中5演目を演奏。福田のビゼーチャイコフスキーは、劇場音楽の濃厚な香りを一気に立ち昇らせる。ヨハン・シュトラウスでは、舞曲のエネルギッシュな喜びが横溢。さらに今回、ルースカヤで、類まれなヴァイオリン・ソロ(浜野考史)を聴くことができた。

吉田都引退公演「Last Dance」2019【追記】

標記公演を見た(8月8日 新国立劇場 オペラパレス)。「NHKバレエの饗宴」特別企画として、2日間にわたり開催。当日8日は、9歳でバレエを始めた吉田が、サドラーズウエルズ・ロイヤル・バレエ団で11年、英国ロイヤル・バレエ団で15年、フリーランスで9年踊り続けた日々の、最後の日だった。吉田の踊りを、ロイヤル・バレエ団来日公演および、新国立劇場バレエ団、スターダンサーズ・バレエ団、小林紀子バレエ・シアターのゲスト出演、また映像等で見てきたが、これが最後、という感慨は意外にも薄い。むしろ新たな門出に向けての一区切りという印象が強かった。来シーズンから新国立劇場舞踊部門の芸術監督に就任が決まり、指導者という形で吉田のバレエ人生が続くからだろう。

プログラムは2部構成 11演目。吉田が踊ってきたレパートリーを、英国ロイヤル・バレエ団、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団、新国立劇場バレエ団を始めとする国内バレエ団の精鋭たちと共に踊る。自身は第一部で、『シンデレラ』第3幕からシンデレラのソロ、『誕生日の贈り物』からフォンテインのパート、第二部は、『白鳥の湖』第4幕から別れのアダージョ、『ミラー・ウォーカー』からパ・ド・ドゥを踊った。前半は優れたアシュトン・ダンサー、ロイヤル・スタイルの体現者として、後半は恩師ピーター・ライトにより開花したドラマティック・バレリーナとして、その資質を見せる好セレクションである(かつてイナキ・ウルレザーガと踊ったマクミラン版ジュリエットの、激しいパトスも忘れがたいが)。

第一部幕開けのシンデレラ・ソロは、ダンサー人生を振り返る吉田の心情と重なる。舞踏会を思い出して夢見心地で踊り、手に触れたガラスの靴に、あれは現実だったと気づく喜び。複雑なアシュトン振付を正確に、しかも軽やかに踊り、慎ましい佇まいから、暖かなオーラが光のように広がっていく。吉田の世界が凝縮されたソロだった。対するフォンテインのパートでは、6人のバレリーナを率いるプリマの輝かしさを体現。ヴァリエーションの細かい足技は当然のこととして、グラン・アダージョでの周囲を祝福する晴れやかな佇まい、献身的パートナー、フェデリコ・ボネッリに支えられた緊密なラインは、長年にわたるロイヤルでの経験に裏打ちされている。

第二部幕開けは、オデット別れのアダージョ。ラインの伸びやかでリリカルな美しさ、限界に至るまでの動きの精錬、ボネッリとの親密なパートナーシップに、『白鳥』と全身全霊で向き合う吉田の姿が浮かび上がる。新国立劇場バレエ団次期芸術監督としての開幕作品予告、さらにバレエ団ダンサーへの強力なメッセージとなった。

最強のパートナーだったイレク・ムハメドフとは、ライトの初期作品を踊り、観客への別れの挨拶とした。来日公演で踊った『タリスマン』パ・ド・ドゥ同様、阿吽の呼吸。全身を包み込むようなムハメドフのサポートは空前絶後。誰にもまねはできない。吉田は思うがままに感情をほとばしらせ、ムハメドフと共に鏡の向こうへと消えていった。手に届きそうで届かない、イデアとしてのバレリーナだった。ムハメドフのサポートはカーテンコールでも続く。吉田を観客の前にエスコート、さらにもう一押しして、吉田が受けるべき喝采を浴びさせる。フィナーレでは延々と続く総立ちのカーテンコールに、吉田がこれを最後と手を振ると、すかさず大きく両腕を振り上げて、吉田を援護した。幸せな幕切れだった。

英国ロイヤル・バレエ団からは、プリンシパルのヤスミン・ナグディと平野亮一が『くるみ割り人形』のグラン・パ・ド・ドゥ、ミーガン・グレース・ヒンキスとヴァレンティーノ・ズケッティが、『タランテラ』と『リーズの結婚』第2幕からパ・ド・ドゥ、またBRB プリンシパルの平田桃子と、ロイヤルのジェームズ・ヘイが『アナスタシア』第2幕からクシェシンスカヤのパ・ド・ドゥを踊った。大先輩 吉田への敬意を滲ませる誠心誠意の舞台に、胸が熱くなる。ただし、依然として吉田がロイヤル・スタイルの最上の手本であることも示して、伝統の体現者が日本に渡る(戻る)ことに複雑な気持ちになった。

国内バレエ団からは、スターダンサーズ・バレエ団がビントレーの『Flowers of the Forest』から「Scottish Dances」、新国立劇場バレエ団プリンシパルの米沢唯と、東京バレエ団プリンシパル秋元康臣が『ドン・キホーテ』グラン・パ・ド・ドゥ、新国立劇場バレエ団プリンシパルの小野絢子と福岡雄大がビントレー版『シルヴィア』第3幕からパ・ド・ドゥを踊り、これまでの吉田との共演に対する感謝の意を表した。

さらにアシュトンの『誕生日の贈り物』(抜粋)では、スターダンサーズ・バレエ団の渡辺恭子・池田武志、牧阿佐美バレヱ団の阿部裕恵・水井駿介、小林紀子バレエ・シアター プリンシパルの島添亮子と新国立プリンシパルの福岡雄大東京バレエ団プリンシパルの沖香菜子・秋元、谷桃子バレエ団プリンシパルの永橋あゆみ・三木雄馬、新国立プリンシパルの米沢・井澤駿(女性ヴァリエーション順)が、吉田、ボネッリと共に踊る。 初演バレリーナの個性を生かしたヴァリエーションは適材適所、男性マズルカも壮観。英国派は当然ながら、ロシア派、フランス派の教育を受けたダンサーたちも、一様にロイヤル・スタイルを身につけ、アシュトンの細かいフットワーク、振付アクセントをものにしている。主役級が揃ったとはいえ、振付指導のデニス・ボナー、同補佐 山本康介の指導力は明らかだった。

BRB で活躍した山本は、吉田の信頼も厚く、今回の総合演出・バレエマスターを担当した。その振付作品同様、音楽性に優れ、繊細でこれ見よがしのない演出が、吉田の滋味を引き立てる。控え目だが暖かな光が行き渡る、吉田の現在の境地がそのまま反映された公演だった。

指揮は井田勝大、管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団。落ち着きのある端正な音楽で、舞台の充実に貢献した。

 

【追記】

幕開けのシンデレラ・ソロで吉田の手に触れたのは、トゥシューズだった。後日、舞台写真を見て気が付いた。吉田の心情に沿った的確な演出。

7月に見た振付家・ダンサー 2019

マルコ・ゲッケ @ ネザーランド・ダンス・シアター『Woke up Blind』(7月6日 神奈川県民ホール 大ホール)

来日プログラム4作の中で圧倒的に面白かった。レオン=ライトフット作品は当然だが、カンパニーのためのコンテンツという意識が強く、パイト作品は英語のセリフと動きの連関が、ネイティヴのようには読み取れなかった。言葉の壁は厚い。

ゲッケの振付は誰の影響も受けず、誰にも影響を与え得ない単独性がある。バレエのパの高速運用、動きの増殖、空手のように指を揃えたつつき(連打)。鳥のようにも、アニメのようにも見えるクキクキ動き、ひくつきがある。脚もバレエと武術風の低重心が有機的に組み合わさって、自然。体の芯から動きが生まれている。ブルースのようなスキャットのようなジェフ・バックリーの音楽とは一心同体だった(一致しているのではない)。川村美紀子の歌を思い出す。

中心のセバスチャン・ハインズが素晴らしい。スター。カリスマがある。踊りの巧さのみならず、動きを一気に自分の人生に引き付けることができる。同パートを福岡雄大に踊らせたいと思った。

 

柳下規夫✖正田千鶴 @ 東京新聞「現代舞踊展」(7月13日 メルパルクホール

柳下は自らも出演の『白夜・逍遥とロマン』、正田は『Floating―揺れども沈まず』(上演順)。柳下作品は本人の出演がなければ成立しない固有の世界、正田作品はバレエ団がレパートリー化すべき、普遍的なアヴァン・ギャルドである。

今回の柳下は、白のスーツを着込んだお洒落なパートナー。ドレス姿の女性を小粋にサポートする。女性を自由に踊らせ、後ろ手を組んだ上に女性を立たせる面白いリフトを見せる。ラヴェル風のワルツと、もの悲しいサックス生演奏で、エレガントなデュエットを作り上げた。

いつもはふっくらと母性的な女性アンサンブルは、きれいで洒落ている。振付はアラベスク、ピルエットなどシンプル。そこに正面性が加わり、「見せる/踊る」のあわいから妙な存在感が生まれる。音楽的とか美的とかを超越した、一種浮世離れしたアナザーワールド。不死の世界? ダンサー柳下には異様な色気があり、彼岸の人に見える。

正田は岡本太郎。女性9人のオールタイツが白地に大きな丸模様だったということもある。幾何学的な四肢のポジション、アラベスクに、手足をバタバタさせる原始的な動きが加わる。クセナキスのパーカッションはあまりに複雑で、音取りが不可能に思われるが、ダンサーたちは整然と振付を遂行。なぜ手足をバタバタさせるのか。正田自身にも分からない意識以前の欲求、確信がある。道なき道を進み、後から来る者もいない。これ程の孤立(孤独)に長年耐えて、なおかつ先に進む強さ。前衛と言うしかない。

この日は加藤みや子の踊りを見ることができた。萩谷京子の『透過』である。加藤は周囲のダンサーを巻き込み、すぐさま配下に置く巫女、または魔女的な存在感を見せた。東洋武術のような切れ目のない動き、その全てに気が横溢し、四方にじわじわと放射する。萩谷の指示(振付)に対する思考の強さと深さ、実存と直結した動きに圧倒された。自作で見るよりも奔放。

 

山崎広太 @ 「都市縦断型パフォーマンス・プロジェクト~インフォーマル・ショーイング」(7月13日 渋谷ハチ公前)

 自身のワークショップのショーイング。当日は猛暑で少し熱中症気味だったが、日傘をさしてハチ公前に赴いた。山崎が数人のパフォーマーたちと円陣を組んでいる。物陰から覗いていたが、少し目を離したすきに、誰もいなくなった。帰ろうとした時、山崎と遭遇。「交番前がいいですよ」との言葉を残し、再びいなくなる。交番前に行くと、何やら立っている男が。少し変。時々体の位置を変える。道行く人に気づかれないようにダンスをしているのだ。あまりの暑さに帰ろうとすると、再び山崎が現れ「今からユニゾンが始まりますよ」。見ていると、あちこちで男女が素知らぬ顔で同じ動きをしている。雑踏は気付かず。時折、見ている我々に気づいて、パフォーマーを見る人も。面白かったが暑かった。この後、渋谷警察署前歩道橋、夜には森下スタジオでショーイングだったが、見られず。

 

勅使川原三郎 @ 『幻想交響曲(7月15日 カラス・アパラタスB2ホール)

佐東利穂子とのデュオ作品。勅使川原の自筆絵が飾られているギャラリーを下りて、薄暗いホールに入る。ベルリオーズの同名曲を勅使川原と佐東が交互に踊る(佐東の分担が多い)。1、2楽章はやや単調に思えたが、3楽章(野の風景)の勅使川原の牧歌的ソロ、4楽章(断頭台への行進)の佐東の爆発的ソロに続き、5楽章(魔女の夜宴の夢)では、勅使川原の奇形的ソロから、音楽と共に突き抜ける狂ったような壮絶デュオに至る。佐東は強靭、勅使川原の周りをグリグリと踊る。対等のデュオだった。 

 

熊川哲也 @ 「関直人先生お別れの会」(7月26日 渋谷エクセルホテル東急)

熊川は飛び入りで、熱い別れの言葉を述べた。オーチャードホールのリハーサルから駆け付けたとのこと。「まだ小学生だった頃、札幌の公演で関先生の作品を見た。素晴らしい振付。翌年には自分も出演し、ソロを振り付けて頂くようになった。 篠原聖一さんと一緒に踊ったことも感激だった。井上バレエ団には関先生の作品を受け継いでいって頂きたい」。自身の踊りと同じように、熱く、速く、率直で、嘘のない挨拶。嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。井上バレエ団理事長の岡本佳津子氏によるしみじみと振り返る追悼の言葉、関の『青のコンチェルト』で初共演した清水哲太郎・森下洋子夫妻の挨拶も。会場には、柊舎でチュチュを縫っていた山崎広太の顔もあった。

 

金森穣 @  Noism15周年記念公演(7月27日 めぐろパーシモンホール 大ホール)

金森は自作に出演した。再演の『Mirroring Memories』と新作『Fratres 1』。前者は自作アンソロジーを師ベジャールに捧げる形。後者はペルトの同名曲に振り付けた儀式性の高い作品(蹲踞あり)。ワーグナーで踊るソロよりも、ペルトのユニゾンで見せる踊りに、ダンサー金森の非凡な才能が確認できる。前者は、ワーグナーの全能感あふれる音楽と、金森のカンパニーでの立場があまりにクロスし、余計なものが入る。後者の、カンパニーと踊るユニゾンでは、振付の可能性を最大限視覚化した。自分が振り付けたから、ではなく、他者の振付でも解釈の深さは同じだろう。腕の雄弁、体が内包するパトス・物語性、フォルムの絶対性、動きの正確な速さ、そしてアポロン的な輝かしさ。他者の作品でも見てみたい。

 

柴山紗帆 @ 新国立劇場 こどものためのバレエ劇場『白鳥の湖(7月29日朝, 30日昼 新国立劇場オペラパレス)

今シーズンの柴山は、『不思議の国のアリス』のアンサンブル、『くるみ割り人形』のルイーズ(=蝶々)、雪の結晶ソリスト、スペインソリスト、『ペトルーシュカ』の街の踊り子、オペラ『タンホイザー』のバレエシーン・ソリスト、『ラ・バヤデール』のニキヤ、『シンデレラ』の春の精、『アラジン』のダイヤモンド、こどものためのバレエ劇場『白鳥の湖』のオデット=オディール を踊った。英国バレエとロシアバレエが混在するなか、プティパ作品のニキヤとオデット=オディールに、柴山の資質が花開いている。その抒情性、ターボエンジン(知人の言)を思わせる強靭なテクニック、音楽とドラマが分かちがたく結びついた振付遂行。演技ではなく、踊りそのもので物語を語ることができる。

前シーズンの印象は、正確なポジションが生み出す美しいライン、技術の確かさが前に出て、役作りは淡泊に思われたが、今シーズンの主役では、美点と役作りが渾然一体となり、吟醸酒のような味わいが醸し出された。ニキヤ初役の雑味のない音楽的抒情性、二回目の『白鳥』は、驚くべき進化を遂げていた。振付の一つ一つが意識化され、役の感情を指し示している。そのニュアンスの細やかさ。高度な技術もこれ見よがしではなく、役に奉仕している。フォルムを見る喜び、四肢の軌跡を見る喜び、音楽に浸る喜びがあった。今回感じられた身体の艶は、ダンス・クラシックの技法によってのみ付与される希少なクオリティである。