11月に見た振付家・公演2019

皆藤千賀子 @「ダンスブリッジ 2019 インターナショナル劇場」(11月3日 セッションハウス)

『Age of curse』。1時間物を短縮したとのことで、やや断片的な印象も受けたが、その断片の強度、コンセプトの強さに驚かされた(皆藤はデュッセルドルフを拠点とする振付家・ダンサー、フォルクヴァング大卒)。男性ダンサーが人間ロボットになって歩行する場面、男女ダンサーがレスリングのようにくんずほぐれつしながら、狼のように相手を咬む場面が交互に現れる。立ち上がれない男性をロボットが助ける場面も。合間に骸骨と透明人間を映した映像が流れる。

大野一雄ピナ・バウシュから影響を受けたというが、当然ながらもっと現代的。咬み合う男女の場面では、昨年OPTOが上演したクリスタル・パイトの『The Other You』を思い出した。咬む男のカール・ルンメルは、フィリピン系ドイツ人。細かく分割された肉体が、滑らかに有機的に動く。指を広げてゆっくりと形を作る「手のダンス」に魅了された。伝統舞踊のダンサーかと思ったが、ヒップホップ・ダンサーで役者とのことだった。作品全体を見てみたい。

 

琉球芸能の美と心」(11月7日 東京建物 Brillia HALL)

標記ホール杮落しの一環だが、10月31日未明に起きた首里城火災から、日も経たないうちの公演となった。福岡、大分、直前の島根、新潟に続いての東京、さらに、長野、兵庫を回る「組踊上演300周年」記念全国ツアーの最中である。本来なら、11月2, 3日に、首里城御庭等で『二童敵討』と、今回の演目にある『執心鐘入』を上演し終えた後での、東京公演だった。「組踊上演300年」の企画展も首里城黄金御殿において会期中で、展示品の多くが焼失した可能性があるという(『朝日新聞』11月12日)。

胸塞がる思いで客席についたが、 嘉数道彦 国立劇場おきなわ芸術監督による 明るく親しみやすい司会により、舞台は通常通り(と思われる)に執り行われた。第一部「琉球舞踊」は、若衆踊、二才踊り、雑踊、古典音楽「仲風節」、女踊、第二部「組踊」は『執心鐘入』(作:玉城朝薫、監修:宮城能鳳)。後者は「道成寺物」だが、当然ながら音楽は琉球音階で、演者の語りに緩やかな抑揚が付くため、のどかで明るい印象を受ける。演技も舞踊に近い。6月に銕仙会能楽研修所で見た佐辺良和が、鬼女になる「宿の女」を演じた。慎ましい佇まい、ゆっくりと揺蕩う動きが素晴らしい。能とも日舞とも異なる、花が綻んでいくような晴れやかさがあった。

 

福岡雄大川越市バレエ連盟『ジゼル』(11月16日 ウェスタ川越大ホール)

川越市民文化際の一環。標記連盟の10周年記念公演でもある。『ジゼル』に先駆けて、伊藤京子振付の『Tokyo 2020 ~Opening march~』が上演された。ミリタリールックの所属スタジオ生たちが、様々なマーチに乗せて、音楽的で明快なフォーメーションを溌溂と築いていく。クラシック・スタイルへの意識もよく行き届いていた。

主演目の『ジゼル』は、新国立劇場バレエ団プリンシパルの福岡雄大が、初めて構成・演出した全幕物である。バレエミストレスは同団の五月女遥が担当。英国ロイヤル・バレエ現行版(演出・振付:P・ライト)を基にしているが、細部に福岡の手が入り、感情の流れを重視する、血の通った演出となった。場の繋ぎが細かい。振付面では、ペザントを男女のカトル(榎本祥子、鈴木優、大森安正、高橋真之)に変え、難度の高い踊りで収穫祭を牽引させている。

ジゼルの小野絢子は、自身の資質と完全に一致した造形だった。はまり役である。引っ込み思案の少女、半意識で動くウィリ、その両方に可愛らしさが宿る。全編にわたって、小野の慎ましい呼吸が息づいていた。いかにも蝋梅を好みそうなジゼル。

アルブレヒトの福岡は、演出して演じる二役を見事にこなしている。極めてノーブルなウィルフリード(坂爪智來)に対する時には、少し気張りがあったが、後は福岡らしい意志の強いアルブレヒト。二幕アントルシャの素晴らしさ。技術のみならず、ミルタに踊らされている、力を出し尽くすことを強いられている様がよく分かった。

ヒラリオンの柄本弾もはまり役。型通りではなく、考えながら(感じながら)動いている。素朴な男らしさ、暖かい体温が、舞台にエネルギーをもたらした。バチルド姫の関口祐美も、華やかさに加え、役を生きる演技。身振りの美しさ、語りかけるマイムが素晴らしい。クーランド公の小原孝司、ベルタの小川育子、貴族の串田光男など、ベテラン勢が脇を固めた。

ミルタの横山柊子を女王に戴くウィリたちは、ジュニアを多く含む。見た目は必ずしも揃っていないが、呼吸を合わせ、アンサンブルとして動いていた。音楽編集は高橋一輝、ポスターデザインは廣田奈々。

 

国立劇場第163回舞踊公演京舞(11月29日 国立劇場大劇場)

21年ぶりの井上流「京舞」東京公演。舞妓8人による上方唄『京の四季』、芸妓21人による手打『廓の賑』(木頭:小萬)の、一糸乱れぬ姿に驚かされる。色っぽい女踊りよりも、男踊りの方が面白い。他流よりも「男」を作らず、あっさりしている。八千代は『三つ面椀久』を娘の安寿子と舞った。3人を踊り分ける飄々とした舞。重心の低い腰の静止、脚の切れの気持ちよさ。詞章との関係が抽象的で、動きのみで見ることができる。浄瑠璃 竹本駒之助の破天荒な面白さ、子役の女の子たちの可愛らしさも印象深い。

以下は作家の松井今朝子が、井上流の人形ぶりについて書いた文章(プログラム)。「文楽人形を模写した姿態は歌舞伎役者が愛嬌たっぷりで見せる人形ぶりの及ばない、ある種の凄味を感じさせる。なぜならそれらは人形のカリカチュアではなく、近松門左衛門のいう『正根なき木偶』に成りきった捨身の芸を想わせるからだ。つまりは演者が自身をオブジェ化した凄味、とでもいうのだろうか」。舞踊そのものを考える上で示唆的だった。

 

中島伸欣 ジョン・ヒョンイル @ 東京シティ・バレエ団「シティ・バレエ・サロン vol.8」(11月30日 豊洲シビックセンターホール)

キム・ボヨン公演監督の選んだ4作品が、バレエ団ダンサーとスタジオ・カンパニーダンサーによって上演された。『ドン・キホーテ』第3幕より、草間華菜『Finding Happiness...』 、中島伸欣の『セレナーデ』、ジョン・ヒュンイル(ゲスト)の『The Seventh Position』である。

中島作品は、ドヴォルザークの「弦楽セレナーデホ長調」を使用。ネオクラシカルなスタイルで、中島らしい諧謔味があちこちに付される。特にフレックスの足技が可愛らしい。背中を丸める、膝を曲げるなど、体のアクセントも面白く、明るく晴れやかな音楽性が横溢する。バランシンの引用もあるが、オマージュと同時に、捻りを加えて楽しんでいる様子あり。愛のアダージョは例によって対話のごとく雄弁だった。音楽から汲み取ったものが余さず形になった、瑞々しく機嫌のよいシンフォニックバレエ。レパートリー保存を期待する。

ジョン・ヒョンイルは、キム監督が母国で作品を見て感動し、公演を依頼した振付家。1974年生まれ、漢陽大学のダンス・福祉学科を卒業後、韓国国立バレエ団、ユージン・バレエ(米国)、ダンス・シアター・オブ・ハーレム(米国)で踊る。帰国後、ジョン・ヒョンイル・バレエ・クリエイティブ(オサン文化芸術センター)を設立。ソウル国際振付フェスティバルのチーフ・ディレクター等を歴任する。

作品は1時間物を短縮したとのこと。題名『The Seventh Position』が示唆する通り、ポジションの追究を主眼とする。当然フォーサイスの影響が窺えるが、脱力のない、よりハードで強い(太い)スタイルで、固有の音楽性に基づいている。バッハの「ブランデンブルク協奏曲3番」では、バロックの激しさに見合った力強い動きが炸裂。女性ダンサーが仁王立ちになり、上目遣いで前を見る、大股でどしどし歩くなど、通常の日本人ダンサーの閾値を超えた表現が、振付家の指導によって実現される。続く太い弦のミニマルな音楽を背景とした場面では、精妙な振付に驚かされた。二人の女性ダンサーが向かい合い、鏡面の踊りを始めるが、途中から違う動きになり、相手と関わり、やがてそれぞれが立ち去る。動きのみで表された繊細なドラマの生起に感動した。鏡面の一人、櫻井美咲のシャープな動きが素晴らしい。パガニーニの「24の奇想曲カプリース」では、動きの切れ味が印象的。元の1時間に戻した上で、バレエ団のプログラムとして見てみたい。

 

勅使川原三郎『忘れっぽい天使 ポール・クレーの手』(12月13日 シアターX)

12月だが。勅使川原と佐東利穂子の出演で、画家クレーの生涯を描く。装置はなく、照明と音楽のみで鮮烈な空間を作る熟練の手法。ヘンデルモーツァルトは馴染み深いが、今回は、クレーのチュニジア旅行を反映して、アラブ風の音楽も使用された。上半身を照らされた勅使川原が、クキクキと動く。右足をへらのようにヒョイと左へ動かしたり。音楽を頭から被り、嘗め回すような、これまでにない音楽との一体化、新たな動きの創出があった。無音でクレーの線をなぞったり、サイレンと機銃掃射のような床面移動ライトで、ナチス時代の恐怖を見せるなど、主題に誠実な演出が、勅使川原のクレーへの愛を明らかにする。佐東は、天使の勅使川原を補完するように、影となって踊った。

 

10月に見た公演2019

NBAバレエ団『海賊』(10月20日 東京文化会館 大ホール)

久保綋一演出・振付、宝満直也振付。バイロン原作に寄り添い、新垣隆のオリジナル曲を大幅に採用した独自の改訂版である。コンラッドとメドーラの夫婦愛、ギュリナーレの悲恋、『ライモンダ』を思わせるキリスト教イスラムの図式が特徴。さらに、通常立ち役のサイードを踊る役に変えて、コンラッドと対決する第二の主役に。「活ける花園」のアダージョも、サイードと嫌がるメドーラに踊らせている。

初演時よりも物語の流れがスムーズになり、男性ダンサーの超絶技巧を含む溌溂とした踊り、女性ダンサーの優雅で情感豊かな踊りが、古典バレエの味わいを伝える(バレエマスター:鈴木正彦、バレエミストレス:浅井杏里、関口祐美)。何よりも、ダンサーが生き生きと踊れる「場」を作り出した 久保芸術監督の功績は大きい。他団から移籍したばかりの男性ダンサーが、嬉しそうに踊っていたのが印象的。指揮はバレエ団と相性の良い冨田実里、演奏はロイヤルチェンバーオーケストラによる。

 

東京バレエ団「勅使川原/ベジャール/バランシン」(10月26日 東京文化会館 大ホール)

バランシンの『セレナーデ』、勅使川原三郎の新作『雲のなごり』、ベジャールの『春の祭典』によるトリプル・ビル。海外公演を見据えてのプログラムだろう。

勅使川原三郎の新作は、武満徹の2曲―雅楽風の「地平線のドーリア」、マーブル紙のように音が渦巻く「ノスタルジア」―を用いて、上質のオリエンタリズムを生み出した。三方を囲む白いスクリーンは、障子灯り、夕陽、闇、青い一筋の光線によって様々に彩られる。勅使川原の透徹した美学の結晶だった。

ダンサー7人は、三方の壁がまるで修道院の回廊であるかのように、佇み、ゆっくりと壁際を歩く。その静けさ。冒頭で佐東利穂子と対の踊りを演じた沖香菜子が、神に奉仕する巫女のような清らかさを纏っていた。勅使川原のメソッドを習得し、さらに解釈を加えたかに見える。終幕は、直前上演の『セレナーデ』を模した男女3人のフォルムで終わった。バレエ団を意識したのか、意外な幕引きだった。レパートリー化に際しては、所属ダンサーのみの座組で、男女デュオを見てみたい。

バランシンの『セレナーデ』については、よく揃っているが、音楽を聴かせるには至らず。スターダンサーズ・バレエ団のバランシン・メソッドと生々しさ、牧阿佐美バレヱ団の音楽性、新国立劇場バレエ団の統一されたスタイル、といったバレエ団の個性も、本家NYCBやマリインスキー・バレエへの志向も見えてこない。一部ソリストのアプローチにも、疑問が残った。

ベジャールの『春の祭典』を見た直近は、17年。斎藤友佳理芸術監督になって初めての、隅々まで血の通った『春祭』だった。伝田陽美の生贄デビューも鮮烈。今回はやや落ち着いて、3作の中で最も馴染んだ作品、舞踊技法という印象だった。チャイコフスキー、武満、ストラヴィンスキーの3作とも、指揮はベンジャミン・ポープ、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団による。

ミハイロフスキー劇場バレエ『パリの炎』『眠りの森の美女』2019

標記公演を見た(11月21日昼, 24日朝 東京文化会館大ホール)。4年ぶりの来日公演。毎年夏冬に公演していたレニングラード国立バレエ団時代との、あまりの違いに驚かされた。以前は、古典やボヤルチコフ作品を誠実に踊り、観客との間に近しい関係を築く一ロシアバレエ団という印象だったが、現在は国際級の質を誇るバレエ団に変貌を遂げている。ダンサーのレヴェルの高さに加え、磨き抜かれた舞踊スタイルに衝撃を受けた。

男性のノーブルスタイル、女性の優美なスタイルの素晴らしさ。特に男性ダンサーは、主役からアンサンブルまで、ロシアの身体に西欧風ノーブルスタイルが施された理想形だった。現在、英国ロイヤル・バレエやシュツットガルト・バレエのスタイルがやや定型化しているのに対し、ミハイロフスキーでは「生きた」ノーブルスタイルが実践されている。長年英国ロイヤルで教えていた首席バレエ・マスター ミハイル・メッセレルの薫陶の成果だろうか。

メッセレルが改訂振付したワイノーネン版『パリの炎』(1932年, 2013年)は、舞踊スタイルの宝庫だった。民衆の踊る民族舞踊、貴族の踊る歴史舞踊、俳優の踊る古典舞踊。フランス革命を舞台としているため、脚技を多用し小さく踊るフランス・スタイルも見ることができる(アレゴリック・ダンス「平等」「友愛」、後者の音楽はフランス革命歌を作曲したフランソワ=ジョゼフ・ゴセックのガヴォットを使用)。ワイノーネンの代名詞とされるアクロバティックなリフトは、ベテランのイリーナ・ペレン、マラト・シュミウノフによって果敢に実行された(アレゴリック・ダンス「自由」)。

バスクの踊り」と、有名なジャンヌとフィリップのパ・ド・ドゥは、新台本のラトマンスキー版(2008年)とも共通するワイノーネン原振付。その他はメッセレルが、口伝を含む様々な資料を基に振付を行なったという。全体に格調が高く、いわゆるソビエト・バレエよりもプティパ作品を彷彿とさせる。アサフィエフの音楽、ヴォルコフとドミトリエフの台本、ワイノーネンの振付、ラドロフの演出から生まれたソビエト・バレエが、メッセレルの身体を経由することにより、19世紀バレエとの連続性を強調する作品となったかに見える。それともワイノーネン版自体にそうした要素が含まれていたのだろうか。ドラマトゥルギーに則った演出はソビエト・バレエの伝統であるとして、スタイルの重視、自然で細やかな演技は、メッセレルが新たに継承し直した19世紀バレエの遺産に思われる。

ジャンヌ役アンジェリーナ・ヴォロンツォーワの華やかさ、フィリップ役イワン・ザイツェフの爽やかな男らしさ。女優ミレイユのペレン、パートナーのシュミウノフは、ソビエト・スタイルのダイナミックな踊りで観客を魅了した。俳優ミストラルのヴィクトル・レベデフ(他日デジレ王子)は、繊細かつ美しい踊りで古典バレエのイデアを体現。各アンサンブルも役にふさわしいスタイルが徹底され、バレエ団の質の高い教育を窺わせた。

ナチョ・ドゥアト版『眠りの森の美女』(2011年)も、スタイルへの意識の高さが共有される。一方、その振付手法は、振付家に寄り添うメッセレルの復元手法とは対照的だった。物語、キャラクターはそのままに、原振付を批評的に取り入れたコンテンポラリー語彙で、音楽を読み直している。伝統的マイムの変奏はあるが、物語の機微は、役の性根を踏まえた細やかな演技によって伝えられた。

全体的によく踊り、よく走り、よく跳ぶ、軽やかな作風。王、王妃、儀典長、貴族も踊るが、考えてみれば不思議ではない。宮廷女性の衣装はシフォンを重ねているため、回転時には美しく広がり、重厚さよりも流れるような軽やかさが強調された。

アンゲリーナ・アトラギッチの舞台美術・衣裳、ブラッド・フィールズの照明デザインの作り出す、シックで夢のように美しい空間が、新しい『眠り』の揺りかごとなった。眠りの森が大輪のバラの森へと変わるマジカルな美しさ。全幕通して存在する石造りの額縁には、カラボスの手下と思われるトカゲが数匹張り付いて、その呪いの怖ろしさを告げる。二幕の水の精たちは、月光の下、薄グレーの長いチュチュを身にまとい、フォーメイションと共に、『ジゼル』二幕を連想させた。

ヴィハレフ版を参照した原典版への理解、コンテンポラリー語彙とダンス・クラシックの技法を継ぎ目なく融合させる 優れた音楽性が、歴史を視野に入れた現代的改訂版を生み出している。原典版を踊れるダンサーたちの、混淆振付を滑らかに踊る能力も、ドゥアト版を支える重要な要素。ドゥアトがクラシックバレエ団を率いることにより、双方の才能が拡大された。

オーロラ姫 アナスタシア・ソボレワの伸びやかな踊り、デジレ王子のレベデフは、気品に満ちた美しい踊りに加え、高難度の振付(トゥール・アン・レール着地後すぐにピルエット、を2回繰り返す)をノーブルにこなしている。

リラの精 ユリア・ルキヤネンコ率いる妖精たちの生き生きとした踊り、ミハイル・シヴァコフ率いる騎士たちの控えめな凛々しさを好例に、ソリスト陣、男女アンサンブルの匂やかなスタイルを堪能した。

そして、ファルフ・ルジマトフのカラボスは、はまり役だった。濃密で肉感的な演技は、一人異次元に生きるキャラクターを自然に造形する。歴史的肉体だった。

両作指揮のパーヴェル・ソローキンは、母がボリショイ劇場の歌手、父が同劇場のダンサーという出自(プログラム)。壮麗で身体性があり、舞台愛ゆえの容赦のない指揮に、シアターオーケストラトーキョーは真っ直ぐに食らいついた。ソローキンの愛はカーテンコールでも。惜しみなく体を捧げたペレン(パリの炎)に、小道具の花を拾い、花束にして、健闘を称えたのだ。

日本バレエ協会「Ballet クレアシオン」2019

標記公演を見た(11月9日 メルパルクホール)。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。協会の振付家育成・創作推進事業としては、先行の「バレエ・フェスティバル」が49回、文化庁共催となった「Ballet クレアシオン」が今回で9回目となる。コンテンポラリーダンスを含むフリーの振付家に門戸を開き、洋舞界全体の活性化を促す有意義な企画である。一方「新進芸術家育成」と銘打たれているため、「バレエ・フェスティバル」時代の作品が継承されない難もある。若手が日本バレエの歴史を学ぶためにも、参考作品として過去の名作を再演できないものだろうか。

今回は、若手の宝満直也がプロットレス・バレエ、ベテランの遠藤康行、同じく平山素子がコンテンポラリー作品を発表した(上演順)。

幕開けの宝満作品『Four to Four』は、ラフマニノフ「2台のピアノのための組曲」第2番を使用。今年8月に大和シティ・バレエ「サマー・コンサート」で初演された。4つの楽章それぞれに男女プリンシパルを配し、周りを女性アンサンブルが取り囲む シンフォニック・バレエ形式である。

闊達な1楽章(野久保奈央、新井悠太)、めくるめくワルツの2楽章(相原舞、池田武志)、しっとりとしたアダージョの3楽章(沖香菜子、秋元康臣)、超絶技巧満載のタランテラ4楽章(竹田仁美、髙橋真之)と、曲想に応じた振付が展開される。完成度の高さでは、竹田が牽引する4楽章、振付家の個性が生かされたのは、物語に一歩踏み出す3楽章。初演者(米沢唯)の深みとは異なる 沖の明るい晴れやかさが、舞台に横溢した。

随所に動きの工夫もあり、全体に卒なく仕上げる手腕も見せたが、フォーメイションに音楽解釈を反映させる点においては、物足りなさが残る(音と動きの同期はある)。宝満の物語バレエにおける音楽性は目覚ましい。今回は抽象性にチャレンジしたのだと思うが、「ウヴェ・ショルツ以後」への意識を期待したい。

遠藤作品『月下』は、シェーンベルクの『浄夜』を使用。デーメルの詩を踏まえた男女主役を、森の群舞が囲む。背景には、ダブル・アーチを描く銀色の簾カーテンが3重に配され、音楽=物語の推移と共に微上下する。カミテ上方には小箱が集積した巨大な光る塊があり、空間の要となる。振付(遠藤)、美術(長谷川匠)、照明(足立恒)が音楽と完全に一致する、濃密なコンテンポラリー作品だった。

凌辱され、身ごもった女(金田あゆみ)の苦しみ、それを知り苦悩する男(八幡顕光)。だが男は女の苦しみを受け止め、森の中で浄化されて、共に歩んでいく。その二人を生み出し、苦しめ、守り、浄化する森の群舞。一個の生命体のように蠢く冒頭フォーメイションから、終盤、二手に分かれ縦一列で相対する遊戯的フォーメイションまで、動きは有機的で必然性がある。振付家が深く音楽を穿ったためだろう。森の醸す湿り気と共に、シェーンベルクの寄せては返す濃厚なロマンティシズムに、身を委ねることができた。金田のダイナミックな肢体、八幡の的確な演技、また振付アシスタントの梶田留以が、鮮やかな動きで群舞を牽引した。バレエ団によるレパートリー化が期待される。

平山作品『サルコファガス』の意は「肉体を食べるもの」。エジプトの彫刻や装飾された石棺を指すとのこと(プログラム)。演出・振付(平山)、音楽(落合敏行)、美術(渡辺晃一)、衣裳(土田ひとみ)全般が、エスニック調でまとめられている。

優れた音楽解釈を見せる平山だが、今回は初めに動きありき。そこから音楽を作る実験的手法を採用した。王冠を車輪の軸のように周囲の人々が紐で引く場面、王の肉体に精霊の印である蝶々が飛び交う場面、また全身刺青の女性など、古代神話を思わせる演出に、斜め回転を含む多種多様な動きが組み込まれる。落合の音楽は平山の意図をよく汲み取り、ブルガリアン・ヴォイスに似た地声の歌、篳篥のような笛の音、ベリーダンスを思わせるエジプト風音楽など、民族音楽をベースに演出を支えた。

振付家としての平山は、ダンサーと向き合い「動き」を創り上げていくという(プログラム)。それもあってか、強固なコンセプトに基づいて全体を構築するのではなく、幾つかのシークエンスを連ねる、言わば東洋的手法だった。だが、生成を目指すとしても、核となる舞踊場面は必要である。松岡希美、中川賢という優れたダンサーを使いながら、平山の持ち味である劇的デュオ、ソロを見ることはできなかった。音楽が後から付いたためだろうか。ダンサーたちは様々な動きを主体的に経験し、今後の糧を得たと思われる。一方、自立した作品とするには、平山の肉声がもっと聞こえてしかるべきだった。

レッドトーチ・シアター『三人姉妹』2019

標記公演を見た(10月18日 東京芸術劇場 プレイハウス)。ノヴォシビルスク州立(国立?)アカデミードラマ劇場の別名。演出は主任演出家のティモフェイ・クリャービン(84年生まれ)による。

所属俳優がロシア手話を習得し、2名の例外(アンフィーサ、フェラポント)を除いて、全員が手話で会話する実験的演出。発話のない会話のため、効果音としての机をたたく音や、ヴァイオリン演奏などをかぶせることができる。観客は当然ながら、ロシア手話は分からないので、字幕(日英)で意味を取りつつ、俳優の身体を見ることになる。観劇後の体感は、外国語による演劇(字幕付き)を見た時と、さほど変わらなかった。現代性の加味、聾者のための装置使用もあったが、こうした実験性の背後にある、俳優の肉体に宿る歴史的蓄積、チェーホフと正面から向き合う正統的演出に、むしろ感動があった。

バレエダンサーのマイムと、(聾者でない)俳優による手話は全く異なる。ダンサーの体が最初から言葉を禁じられているのに対し、俳優の体は言葉を放つことが前提。言葉を手話に置き換えているだけで、発話時の俳優の身体表現と、あまり違いは感じられなかった(ただし、手話の場合は必ず対面しなければならず、他所を見ながら会話することはできない、また抱き合いながら会話することもできない)。マイムは音楽に振り付けられた、半ばダンスに近い表現。手話は意味の伝達を目的とするということだろうか(聾者の演劇は未見)。

ロシアでも字幕は付いたとのこと。もし付いていなかったら、身体のみに集中する過激な演出になっただろう。手話を解するロシアの聾者にとって、この演出はどのように受け入れられたのか。背中を向けて手話をする場面は分かりにくく、同時に喋る場面では、目が分散することになったかもしれない。手話が役作りや身体に及ぼす作用について、俳優たち自身の言葉を聞いてみたい。

クリャービンはノヴォシビルスク・オペラ劇場やモスクワ・ボリショイ劇場で、オペラ演出も手掛けているとのこと。我が新国立劇場では新シーズン開幕公演『エフゲニー・オネーギン』に、同じロシア人演出家 ドミトリー・ベルトマン(90年に23歳でヘリコン・オペラ創立)を迎えた。オリガ、ラーリナの戯画的造形や、合唱アンサンブルの合体フォーメイションに特徴がある。前者については、日本人歌手との混合座組だったせいもあり、分かりにくさが残った。

全体的には、スタニスラフスキーの演出を下敷きにしたという。4人のロシア人歌手たちの、役からはみ出さない歌唱が素晴らしい。声量で押す、いわゆるロシア人歌手のイメージからは程遠い、役が要請する対話のような歌。豊かで深みのある声が役に奉仕する、理想的な歌唱だった。タチヤーナのエフゲニア・ムラヴェーワ、オネーギンのワシリー・ラデューク、グレーミンのアレクセイ・ティホミーロフ、中でも、レンスキー役パーヴェル・コルガーティンのテノールは貴重。ロッシーニの『スタバト・マーテル』で聴きたいと思った(既にロッシーニ・オペラ・フェスに出演とのこと)。

新国立劇場バレエ団『ロメオとジュリエット』2019

標記公演を見た(10月19, 20夜, 26夜, 27日 新国立劇場オペラパレス)。大原永子芸術監督最終シーズンの幕開けは、ドラマティック・バレエの定着を悲願としてきた監督にふさわしい、マクミラン版『ロメオとジュリエット』だった。

同版(65年)は、01年バレエ団初演、5回目、3年ぶりの上演である。ラブロフスキー版を下敷きにし、クランコ版からも多くの影響を受けているが、先行版にはない生々しさ、猥雑なエネルギーにあふれる(ゼッフィレッリ同名演劇からの影響―Jann Parry, Different Drummer)。また、映画のクローズアップを思わせる一幕出会いの場面、三幕ジュリエットの黙考も、マクミラン版の特徴。歌舞伎に馴染んだ我々にとっては自然な、「時の永遠化」と言える。何よりも、クラシカルな様式性を排し、全て対話と化したパ・ド・ドゥが、マクミラン版の表徴である。

空中遊泳する身体の揺らぎ、呼吸の高まり、美醜を超えた鮮烈なフォルムにあふれるバルコニーのパ・ド・ドゥ。「朝のセレナーデ」(舞踏会挿入)によるロメオの自己紹介に始まり、ジュリエット・ソロへの自然なサポート介入、「マドリガル」での名付けようのない感情の迸り、さらにバルコニーでの恋の爆発へと開花していく身体言語が素晴らしい。

三幕はジュリエットの体が、物語を紡ぐ。寝室のパ・ド・ドゥの錐もみピルエット、ベッド上の黙考、パリスとの硬直+脱力パ・ド・ドゥ、ロメオとの死体のパ・ド・ドゥ。終幕は、ロメオと結ばれることなく、石棺の上に仰向けに倒れる。リアリズムを超えた歪な体に、マクミランの真価がある。

主役は3キャスト。初日ジュリエットは3度目の小野絢子。一幕は振付遂行への意志が前に出たが、三幕に入ると、振付探求と感情が一致し、生きたジュリエットが立ち現れた。小野本来のあどけなさ、小動物のような可愛らしさが、動きの一つ一つに刻印される。黙考から自死までを、異空間の中で駆け抜けた。

ロメオは福岡雄大。他日にティボルト配役のせいか、少し胸が固いが、振付、役柄を考え抜いた、演出の眼も入る舞台だった。踊りの切れも凄まじく、剣術の巧みな、文武両道のロメオだった。

第2キャストは米沢唯と渡邊峻郁。全幕3度目とは思えない息の合ったパートナーシップである。米沢のその場を生きる細やかな演技に、渡邊は包容力と愛情をもって応える。ピュアな少女から、徐々に自我に目覚め、最後は孤独の中で決断するジュリエットを、その過程、微妙なあわいまでをも可視化する米沢。役に寄り添いつつ、自然体でいられる点に、成熟が見える。「カーテンコールも舞台のうち」は米沢の常に実践するところだが、今回は渡邊が米沢の手を取ったまま、観客を愛の余韻に浸らせる。エスコートされた米沢の動きによって劇場が一つになる、至福のひと時だった。

渡邊はロメオらしい甘やかさ、瑞々しさがある。バルコニーでの回転、跳躍の伸びやかさ、最後にジュリエットに向かって手を伸ばすその真実味。3人組では、兄のような優しさをもって取りまとめる。すべて内側から湧き出る動きだった(終演後に大原監督から、プリンシパル昇格が告げられた)。

第3キャストは、木村優里と井澤駿。これまで何度も組む機会があったが、今回初めて、呼吸を合わせたパ・ド・ドゥを見ることができた。木村はよく考えられた役作りを、真っ直ぐに実行。その場で相手を見る意識が加わり、ドラマを立ち上げる段階を迎えている。バルコニーでは、悠揚迫らぬ井澤と共に、ダイナミックな踊りで、マクミラン振付の醍醐味を明らかにした。

その井澤は、おっとり育った貴族の一人息子をノーブルに演じる。正確な回転技、大きな跳躍が、分厚い体から繰り出され、舞台を席捲。木村のパワーを受け止めて、新たなパートナーシップへの道筋を示した。

マキューシオには奥村康祐と木下嘉人。大公の遠縁という、両家とは少し離れた役柄には合致するが、今回は残念ながら実力発揮には至らず。ベンヴォーリオにはベテランの福田圭吾と若手の速水渉悟。福田はいとこのロメオを見守る優しさ、速水は全体を見渡す芝居が目覚ましい。速水は将来のロメオを見据えてのキャスティングだが、柄としてはマキューシオだろう(ルービックキューブを手にしたマキューシオが目に浮かぶ)。強い体幹、左右ムラのない正確な技術、天性の踊りの巧さが揃った、世代を代表するダンサーである。

ティボルト3キャストは、それぞれ見応えがあった。貝川鐡夫は最年長ながら、最も若く、動きも華やか。ジュリエットへの愛情も、一族の担い手にふさわしい。他日ロメオの福岡は、本来の持ち味を生かしたハードな役作り。ベンヴォーリオをおちょくる剣の巧さが際立つ。もう少しジュリエットに優しくして欲しい気もするが、死を引き寄せるほど血気盛んな青年という解釈なのだろう。中家正博は、貴族らしいノーブルな佇まい。「騎士の踊り」での凛々しい立ち姿、美しい剣の構えなど、風格あるティボルト像を描き出した。

パリスは渡邊、井澤、小柴富久修。渡邊は小野ジュリエットへの苛立ちを隠さず、やや父権的な匂い。井澤は米沢ジュリエットと正面から向き合うパートナーシップを見せる。初役の小柴は適役ながら、ノーブルな立ち姿にまだ肚が追い付いていないように見えた。

輪島拓也のキャピュレット卿は、人間味にあふれ、舞踏会での重心の低い要たり得ている。本島美和のキャピュレット夫人も、美しさはそのままに(舞踏会でのフォルム!)、夫に寄り添う境地。穏やかで愛情深い母、叔母だった。

乳母 丸尾孝子のふくよかなユーモア、楠本郁子の優しい包容力、ロザライン 渡辺与布の華やかさ、関晶帆の水際立ったスタイル、またロレンス神父 菅野英男の恰幅の良い腹芸(もう少し外に出しても)が、舞台に幅を持たせる。

また、娼婦を率いる寺田亜沙子、ジュリエット友人を率いる細田千晶、ビラビラ衣装で顔の見えない、献身的マンドリン・ダンサーを率いる福田、原健太が舞台の活性化に大きく貢献した。例によって古川和則が、古だぬきのようなモンタギュー卿(夫人 玉井るい)と、結婚行列の懐の深すぎる司祭を自在に演じている。祝福で頭を叩かれたのは木下と速水。

ステージングのカール・バーネットとパトリシア・ルアンヌ・ヤーンが、絢爛たる舞踏会、リアリティあふれるバトル・シーン、広場の賑わいを実現。マーティン・イェーツの指揮は、いつも通り精緻で気品あふれる。若手中心の東京フィルを穏やかにまとめ上げた。

 

 

 

 

 

 

牧阿佐美バレヱ団『三銃士』2019

標記公演を見た(10月5日 文京シビックホール 大ホール)。

振付のアンドレ・プロコフスキーは、1939年パリ生まれ。シャラ、バビレ、プティのカンパニーで踊った後、ロンドン・フェスティバル・バレエ、グラン・バレエ・ド・マルキ・ド・クエバス、NYCBで踊る。72年パートナーのガリーナ・サムソワと共に、ニュー・ロンドン・バレエを設立。振付家として主に英語圏で活躍した。09年逝去。日本では、井上バレエ団『ファウスト・ディヴェルティメント』(81年、04年)、同『ロミオとジュリエット』(04年)、日本バレエ協会アンナ・カレーニナ』(92年、98年、2014年)、牧阿佐美バレエ団『三銃士』(93年、以降レパートリー化) 、法村友井バレエ団『アンナ・カレーニナ』(06年、以降レパートリー化)の上演がある。

プティ、ベジャール、クランコ、ダレル、マクミランより15~10歳下、ノイマイヤー、マッツ・エク、キリアンより3~8歳上という、モダンバレエとコンテンポラリーバレエに挟まれた位置にありながら、振付語彙はあくまでダンス・クラシック。優れた音楽性、精緻で洒脱な演出、高難度の振付が特徴である。自身も華やかで大胆な技術の持ち主として知られ、舞踊史家 薄井憲二氏のエッセイにも、水平に飛行するカブリオールについての記述がある(『バレエ千一夜』新書館、1993 *薄井氏はのちに、教え子の松井学郎にその技を習得させた)。

以下は、2010年に書いた『三銃士』評の一部(『音楽舞踊新聞』No.2810初出)。

牧阿佐美バレヱ団の貴重なレパートリー『三銃士』が5年ぶりに再演された(93年バレエ団初演)。振付家アンドレ・プロコフスキーは昨年の八月に逝去、一月の法村友井バレエ団『アンナ・カレーニナ』におけるカーテンコールが、日本での最後の姿となった。

プロコフスキー作品の最大の特徴は演出の職人的な緻密さ、巧みさにある。スムーズで一分の狂いもない場面転換、紗幕の効果的使用、さらにマイム無しで物語の細部を生き生きと活写する技術。重要なのはこうした演出がこれ見よがしでなく、洒脱に実行される点である。まるで自分の痕跡を残すことが恥ずかしいとでも言うように。

振付も極めて高度な技術を要するが、技巧のためではなく役がそれを要求するのである。シックで華やか、大胆で繊細、しかも品のある振付は、時代と才能が結びついて初めて生み出される奇跡と言える。

今回 仕上がりは素晴らしく、プロコフスキーの意図するところがよく分かった。ロバのシーンを始め、ユーモアのツボも外さず。男性的、叙事的なヴェルディの音楽(編曲:ガイ・ウールフェンデン)と合致した、あっけらかんとした明るさを保っている。

ダルタニヤンのドミートリー・ソボレフスキー(モスクワ音楽劇場バレエ プリンシパル)は、複雑なパートナリング、素早い「首飾り大団円」には手こずったが、豪快で素朴な踊りが役に合っている。コンスタンスの青山季可、ミレディの中川郁、アンヌ王妃の茂田絵美子、ポルトスの清瀧千晴、バッキンガム侯爵の菊地研、ロシュフォールの塚田渉、リシュリュー枢機卿の保坂アントン慶、国王ルイ13世の今勇也は、持ち役を存分にこなし、初役のアトス 水井駿介、アラミスの山本達史も、美しい踊りで役どころを押さえた(初日所見)。

特に、青山の控えめな佇まいと鋭い体の捌き、保坂、塚田の熟練の演技は印象深い。三銃士は踊りの切れもよく、揃っているが、旗印となるアラベスク・パンシェはもう少し我慢が必要だろう。男女アンサンブルは持ち味の音楽性に、生き生きとした陽性の演技が加わり、シャンパンのように軽やかな舞台を演出した。

前回に続く指揮のウォルフガング・ハインツが、骨格の際立つ音作りで、東京オーケストラ MIRAI からヴェルディの味わいを引き出している。