日本バレエ協会「Ballet クレアシオン」2019

標記公演を見た(11月9日 メルパルクホール)。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。協会の振付家育成・創作推進事業としては、先行の「バレエ・フェスティバル」が49回、文化庁共催となった「Ballet クレアシオン」が今回で9回目となる。コンテンポラリーダンスを含むフリーの振付家に門戸を開き、洋舞界全体の活性化を促す有意義な企画である。一方「新進芸術家育成」と銘打たれているため、「バレエ・フェスティバル」時代の作品が継承されない難もある。若手が日本バレエの歴史を学ぶためにも、参考作品として過去の名作を再演できないものだろうか。

今回は、若手の宝満直也がプロットレス・バレエ、ベテランの遠藤康行、同じく平山素子がコンテンポラリー作品を発表した(上演順)。

幕開けの宝満作品『Four to Four』は、ラフマニノフ「2台のピアノのための組曲」第2番を使用。今年8月に大和シティ・バレエ「サマー・コンサート」で初演された。4つの楽章それぞれに男女プリンシパルを配し、周りを女性アンサンブルが取り囲む シンフォニック・バレエ形式である。

闊達な1楽章(野久保奈央、新井悠太)、めくるめくワルツの2楽章(相原舞、池田武志)、しっとりとしたアダージョの3楽章(沖香菜子、秋元康臣)、超絶技巧満載のタランテラ4楽章(竹田仁美、髙橋真之)と、曲想に応じた振付が展開される。完成度の高さでは、竹田が牽引する4楽章、振付家の個性が生かされたのは、物語に一歩踏み出す3楽章。初演者(米沢唯)の深みとは異なる 沖の明るい晴れやかさが、舞台に横溢した。

随所に動きの工夫もあり、全体に卒なく仕上げる手腕も見せたが、フォーメイションに音楽解釈を反映させる点においては、物足りなさが残る(音と動きの同期はある)。宝満の物語バレエにおける音楽性は目覚ましい。今回は抽象性にチャレンジしたのだと思うが、「ウヴェ・ショルツ以後」への意識を期待したい。

遠藤作品『月下』は、シェーンベルクの『浄夜』を使用。デーメルの詩を踏まえた男女主役を、森の群舞が囲む。背景には、ダブル・アーチを描く銀色の簾カーテンが3重に配され、音楽=物語の推移と共に微上下する。カミテ上方には小箱が集積した巨大な光る塊があり、空間の要となる。振付(遠藤)、美術(長谷川匠)、照明(足立恒)が音楽と完全に一致する、濃密なコンテンポラリー作品だった。

凌辱され、身ごもった女(金田あゆみ)の苦しみ、それを知り苦悩する男(八幡顕光)。だが男は女の苦しみを受け止め、森の中で浄化されて、共に歩んでいく。その二人を生み出し、苦しめ、守り、浄化する森の群舞。一個の生命体のように蠢く冒頭フォーメイションから、終盤、二手に分かれ縦一列で相対する遊戯的フォーメイションまで、動きは有機的で必然性がある。振付家が深く音楽を穿ったためだろう。森の醸す湿り気と共に、シェーンベルクの寄せては返す濃厚なロマンティシズムに、身を委ねることができた。金田のダイナミックな肢体、八幡の的確な演技、また振付アシスタントの梶田留以が、鮮やかな動きで群舞を牽引した。バレエ団によるレパートリー化が期待される。

平山作品『サルコファガス』の意は「肉体を食べるもの」。エジプトの彫刻や装飾された石棺を指すとのこと(プログラム)。演出・振付(平山)、音楽(落合敏行)、美術(渡辺晃一)、衣裳(土田ひとみ)全般が、エスニック調でまとめられている。

優れた音楽解釈を見せる平山だが、今回は初めに動きありき。そこから音楽を作る実験的手法を採用した。王冠を車輪の軸のように周囲の人々が紐で引く場面、王の肉体に精霊の印である蝶々が飛び交う場面、また全身刺青の女性など、古代神話を思わせる演出に、斜め回転を含む多種多様な動きが組み込まれる。落合の音楽は平山の意図をよく汲み取り、ブルガリアン・ヴォイスに似た地声の歌、篳篥のような笛の音、ベリーダンスを思わせるエジプト風音楽など、民族音楽をベースに演出を支えた。

振付家としての平山は、ダンサーと向き合い「動き」を創り上げていくという(プログラム)。それもあってか、強固なコンセプトに基づいて全体を構築するのではなく、幾つかのシークエンスを連ねる、言わば東洋的手法だった。だが、生成を目指すとしても、核となる舞踊場面は必要である。松岡希美、中川賢という優れたダンサーを使いながら、平山の持ち味である劇的デュオ、ソロを見ることはできなかった。音楽が後から付いたためだろうか。ダンサーたちは様々な動きを主体的に経験し、今後の糧を得たと思われる。一方、自立した作品とするには、平山の肉声がもっと聞こえてしかるべきだった。