牧阿佐美バレヱ団「サマー・バレエコンサート 2020」

標記公演を見た(8月11日 文京シビックホール 大ホール)。牧阿佐美バレヱ団8か月ぶりの舞台公演である。昨年末の『くるみ割り人形』を最後に、3月公演『ノートルダム・ド・パリ』、6月公演『ロメオとジュリエット』が、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、中止を余儀なくされた。今回のバレエコンサートは新たに企画されたもので、団員及び、バレヱ団の観客にとって、日々の希望を繋ぐ里程標になったことだろう。第1部はコンサートピース集、第2部は橘秋子振付『角兵衛獅子』(1963)より第2幕というプロブラムである。

第1部幕開きは『ゴットシャルクの組曲』(振付:牧阿佐美)。菊地研と男性ダンサーたちが元気のよい踊りで健在ぶりを示す。続いて『カルメン』(振付:牧阿佐美)の織山万梨子、『コサックの歌』(振付:N・アンドロソフ)の濱田雄冴、山本達史が、難役に挑戦した。

続く『シェヘラザード』(振付:ミハイル・フォーキン)では、日髙有梨とラグワスレン・オトゴンニャムが、清冽な色香を放ち、音楽的で格調の高いパ・ド・ドゥを作り上げる。『ラ・バヤデール』幻想の場より(振付:マリウス・プティパ)では、中川郁の清潔なニキヤ、清瀧千晴のダイナミックなソロル、伸びやかなトロワ(茂田絵美子、三宅里奈、佐藤かんな)がクラシカルな抒情性を体現。『海賊』よりグラン・パ・ド・ドゥでは、青山季可の澄み切った境地(牧独自のヴァリエーション)が、水井駿介の鋭く慎ましい踊りに支えられ、晴れやかな空間を現出させた。

第一部最後は、30年ぶりに上演される牧阿佐美振付『トリプティーク』(1968)。芥川也寸志の『弦楽のための三楽章(トリプティーク)』(1953)に振り付けられ、それぞれ「希望」「感傷」「情熱」の副題がある。1楽章は男性、女性アンサンブルのユニゾンに、それらを切り裂くダイナミックな男性ソロ(元吉優哉)が加わる。2楽章は米澤真弓と坂爪智来によるしっとりとしたアダージョ。米澤のすっきりした可愛らしさ、明るさ、健気さが、坂爪の献身的ノーブルスタイルと組み合わさって、日本的な抒情性を醸し出した。バレヱ団初演は牧自身と畑佐俊明による。アダージョの精髄が確かに伝えられた 白眉のパ・ド・ドゥだった。3楽章は変拍子の氾濫。牧の鋭い音楽性が千変万化するフォーメイションを築く。モダニズムと土俗性が融合した芥川の楽曲を、新たに復活させる上演だった。

第2部の『角兵衛獅子』は団としては42年ぶりの上演となる(4月に橘バレエ学校創立70周年記念公演で上演予定も、コロナ禍で延期、バレヱ団公演に移行)。最近では2010年 新国立劇場地域招聘公演として、新潟シティバレエが全2幕版を上演したのが記憶に新しい。同バレエの核である 渡辺珠実バレエ研究所がレパートリーとして保存してきたもの(第2幕)に加え、初演指揮者の福田一雄が第1幕の音楽を再現、牧の振付により全幕上演が実現した。

今回は第2幕のみながら、橘秋子の提唱した「日本のバレエ」を継承保存し、赤いさらしの群舞(祈りの炎)で、芸術の火が消えないようコロナ感染拡大防止を祈念するという意図をもつ、意義深い上演となった(同団ダンサーズブログ 6/25 付)。

初演時、大原永子と森下洋子が踊った姉妹には、光永百花と阿部裕恵の同期生。6月には共にジュリエットを踊る予定だった。光永は、虚無僧への思慕を美しく情感豊かに踊り、阿部は、姉を追う幼い妹を可愛らしく演じる。タイプも踊り方も異なる二人が、今後どのような役を演じるのか期待したい。

本来 角兵衛獅子は子供たちが踊る役。無心で健気に踊る姿に涙がそそられるところを、団員たちが踊ると、振付の方に目が向く。バランシン風のポアント遣いや、変拍子に即応する音楽性は、牧の手によるものと思われる。日本的抒情性、激しい律動に彩られた山内正の音楽も、バレヱ団の貴重な財産である。

虚無僧 逸見智彦のノーブルな味わい、親方 塚田渉、依田俊之、巡礼の女 諸星静子、宮浦久美子のベテランらしい落ち着きが、物語の枠組みを作り上げた。

山崎広太@「ダンステレポーテーション」展 2020

標記展オープニングトーク&パフォーマンスを見た(8月6日  Dance Base Yokohama)。本展は、山崎広太と11人のダンサーによる 言葉と映像を媒体にしたダンス展である(8月7日~9月13日)。5月に Dance Base Yokohama(DaBY)のオープニングイベントとして企画された 都市徘徊型ダンス『都市のなかの身体遊園地』が原型。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、中止を余儀なくされ、新たな表現形式を採ることとなった。

まず山崎がダンサーにオンライン・インタビューをする(テキスト編集:吉田拓)。これを基に、山崎が個々のダンサーへの言葉を綴り、ダンサーたちはその言葉を道標に、映像・写真を使って創作する。当初 発表は予定されていなかったが、「自分への高い意識があり、身体感覚の強い作品が揃ったため、2週間という短い準備期間だったが、展覧会開催を決めた」とのこと(企画・総合ディレクター 唐津絵理)。

展示は DaBY(北仲ブリック&ホワイト BRICK NORTH 3F)の回廊部分と入口前、同じ建物の1F、別棟 BRICK SOUTH の1Fで行われる。これらの建物は、旧横浜生糸検査所附属専用倉庫を復元したもので、煉瓦と白壁の美しいコントラストが特徴。横浜赤レンガ倉庫と同様、ガラス張りの床から遺構が見えるようになっており、北建物を貫く白い4本の巨大柱の台座が確認できる。神楽坂 die pratze や Bank ART Studio NYK が失われた今、柱のある貴重な創造的空間と言える。

オープニングトークの観客は特別に、設置半ばの展示を見ることができた。山崎の言葉が展示物の傍に掲げられている。その言葉を読んだ上で、ダンサーの創った映像や写真を見る。振付(言葉)がいかに消化され、発展しているかを味わう、言わばコミュニケーションのプロセスを楽しむ展覧会である。長い会期は、作品の建築への馴化を促すだろう。 DaBY の基幹コンセプトである「つくる(Create)」、「そだてる(Nurture)」、「あつまる(Gather)」、「むすぶ(Connect)」を体現する企画である。

オープニングトークの前に、山崎のソロ・パフォーマンスがあった。オンラインで話してきたダンサーたちと初めて会った感想(昔好きだった女の子に、今会って感じる現実)を語り、久しぶりに踊るのと、彼らの前なので、恥ずかしい気もするが、と言いおいて踊り始めた。ハンバーガー屋のTシャツにグレーのジャージズボンは、いつものランニング・スタイルなのだろう。

客席に正対し、約2mを前進しては後退する走り。ミニマルな音楽をバックに、軽快なステップで、様々な上体ムーヴメントを変奏する。両手を腹に囲って気を溜めたり、盆踊りのように腕を振り上げたり。だが山崎の体から逸脱する動きは一つもない。全て体と一致している。その不思議。型に入りながら、常に型から逃れる瞬時の思考がある。途中、男女の発話をバックに床を使う場面では、日本舞踊のニュアンスを感じさせた。最後はロマンティックな弦楽で舞踏の体に。背中から踵にかけての鮮烈なフォルム。かつての濃厚さ、野蛮さはなく、すっきりと透明である。慎ましやかで、枯淡に傾いている。以前「60歳の山崎を見たい」と書いたが、まさに目の前に。自己表現ではなく、犠牲、供物としての体、消費されない体だった。マスクをしての30分。

オープニングトークは、カミテから DaBY 芸術監督の唐津絵理、振付・ディレクターの山崎、中央奥に制作コーディネーターでファシリテーターの吉田拓、シモテに向かい、ダンサーの小暮香帆、木原萌花、望月寛斗、金子愛帆(1列目)、横山千穂、幅田彩加、久保田舞(2列目)、という布陣だった。まず、唐津のダンスハウスとしての DaBY への思い(プロのダンサーを養成、クリエーションの場、街の中に出ていく)が語られ、山崎がクリエーションの経緯を説明。ボディを通してのみ、人と分かち合える、ダンサーたちのセンスのよさ(エコロジーへの視線)、舞台だとその場で終わるが、この形式だとずっと繋がって、発展していく感じ、新しいアートの予感など。続いて、山崎から貰った言葉をどう思ったか、ダンサー一人一人が語った。ファシリテーターの吉田が、各人の作品を大画面に映しながら、質問を加え、ダンサーの意図を鮮明にする。

さらに、山崎の「自分はムーヴメント至上主義、ムーブメントにロマンを感じるが、メディウムを通すと、多様になり、客観的に伝えることができる」との言葉を受けて、「メディアを使うことで新たな発見があったか」との質問。ダンサーたちは語る言葉でも、それぞれの個性を発揮した。1時間に及ぶダンサートークを実りあるものとした 吉田の批評性とダンサー(ダンス)への愛情が印象深い。社会を鋭い視線で見つめながら、発する言葉の社会化を拒む山崎と、ダンサーたちとの橋渡しを、黒子となって務めた。

 山崎の言葉を受けた幸運なダンサーは、岩渕貞太、小暮香帆、小野彩加、金子愛帆、木原萌花、久保田舞、栗朱音、ながやこうた、幅田彩加、望月寛斗、横山千穂。以下のサイトに、各人への山崎インタビューが掲載されている。

 https://dancebase.yokohama/event_post/dance-teleportation

 

 

新国立劇場バレエ団『竜宮』2020

標記公演を見た(7月25日夜, 26日昼夜 新国立劇場オペラパレス)。今年の「新国立劇場こどものためのバレエ劇場」は、東京オリンピックパラリンピックに合わせて企画された 令和2年度日本博主催・共催型プロジェクトの一環でもあった。「日本の美」を内外に発信する一大プロジェクトながら、コロナ禍のため、本体のオリンピック・パラリンピックは中止。来日観客へのアピールは叶わなかったが、2月27日以降閉じていたオペラパレスの再開にふさわしい、寿ぎのバレエが誕生した。

ただ残念なことに、公演4日目の29日に劇場勤務の業務委託者1名の感染が判明し、残り 30、31日の公演は中止となった。観客とは接しない業務とのことだが、観客の「安心・安全を最優先し、万全の感染予防策を講じるため」に苦渋の決断をした模様だ。劇場はすでに、体温検査、手の消毒、観客自身によるチケットもぎり、市松模様の座席指定、フォワイエの密集防止など、できる限りの対策を行っている。今後も薄氷を踏むような公演形態が予想されるが、無事に来季開幕が迎えられることを期待したい。

『竜宮』全2幕の演出・振付・美術・衣裳デザインは森山開次。15年・18年の『サーカス』(新国立劇場)、17年・18年の『不思議の国のアリス』(神奈川県芸術劇場)、19年の『NINJA』(新国立)と、子供の観客を視野に入れた作品が続く。今回は新国立劇場バレエ団出演のバレエ作品のため、振付補佐に湯川麻美子、貝川鐡夫が入った。作曲・音楽製作は松本淳一、照明は櫛田晃代、映像はムーチョ村松、音響は仲田竜太という布陣。

日本の繊細な美にポップな味わいを加えた美術・衣裳、和洋を横断する的確な演出・構成が、森山の才能の在り処を示す。松の木や蓬莱山の書割、満月を使っためくり、寄せては返す波や、東屋と共に動く亀甲紋の床面プロジェクションマッピング、さらに亀の姫の亀甲紋チュチュ、明神となってからのマットな金のチュチュ(縄飾り付き)が素晴らしい。

副題は「亀の姫と季(とき)の庭」。通常流布する『浦島太郎』に、竜宮での四季の庭や、玉手箱を開けて年老いた太郎が鶴に変身する『御伽草子』由来のエピソードが加えられている。森山はこの作品を「時の物語」と捉え、狂言廻しとして「時の案内人」を新たに設定した。時計を見つつ、時を動かす役どころで、『不思議の国のアリス』の白兎を想起させる。さらに、その白兎自身をも登場させ、亀の姫との徒競走に臨むエピソード(イソップ寓話)を加えた。中止になったウィールドン版『不思議の国のアリス』との、ほのかな連携を思わせる。

振付はダンス・クラシックが基本だが、魚のディヴェルティスマン(1幕)のキャラクター・ダンス、季の庭ディヴェルティスマン(2幕)の日本的所作など多彩。年老いた太郎を三番叟に擬え、黒色尉の面で鈴の舞を舞わせる場面には、森山の蓄積が滲み出る。雪の花婿の前傾摺り足歩行は、鈴木メソッドだろうか?

ただしバレエ作品として見た場合、主役のパ・ド・ドゥがシンプルに思われる。ダンサーにとっては5ヵ月ぶりの舞台であること、また濃厚接触を避ける意図があったのかもしれない。

開幕前から流れる不思議な音階ととぼけた効果音が、物語の空間を作る。笙、篳篥、琵琶、琴などの和楽器に、洋楽器を組み合わせた音楽、さらに口笛、地声の女声合唱、電子音が加わり、場面ごとの流れを的確に指し示す(所々指し示し過ぎの感あり、もう少し踊りに任せても)。琉球音階の採用は、柳田國男経由だろうか。

主役は3組。米沢唯と井澤駿のプリンシパルカップルは、本当なら『マノン』を踊っていたはずだった。お伽話というよりも、神話のようなスケールを見せる。米沢は登場時から異界の生き物。磨き抜かれた身体に、日本的な妖怪のニュアンスが滲む。ゴールドのチュチュに変わると、一気に神域へと至り、抑制された輝きで、ゆったりと人々を祝福する女神となった。対する井澤は、漁師姿が今一つ馴染んでいなかったが、季の庭の踊りに加わる際には、スサノオの破壊力を見せる。鈴の舞の力強さ、鶴の舞の大きさに、米沢と同格の神位を窺わせた。

池田理沙子と奥村康祐は、お伽話の世界に寄り添い、振付家の意図を具現化した。池田の芯のある可愛らしさ、物語を的確に読み取り、観客の感情を自然に導く力がある。奥村はやんちゃで元気のよい若者。口笛がよく似合う。周囲とのコミュニケーションに長け、共に踊る喜びにあふれた。池田が奥村を乗せた小舟を曳く場面(白兎との徒競走だが)の情愛あふれる歩行・泳ぎ?が忘れられない。

木村優里と渡邊峻郁は、バレエ作品としてのスタイルを遵守した。木村はプリマとしての枠を逸脱せず、チュチュ姿でのゴージャスな感触、ダイナミックな脚のラインで、舞台を支配した。一方の渡邊は日本的情緒があり、髷姿も板についている。典型的な二枚目で、鶴の舞では、鋭い色香を四方に放った。米沢と組む場合には、濃厚な和物バレエになったかもしれない。

時の案内人はWキャスト。お道化た貝川鐡夫(体の切れ!)と正統派の中島駿野が、中腰、摺り足で、時を動かす。妖艶な竜田姫、妓楼風のタイ女将は、ベテランの本島美和、寺田亜沙子、細田千晶が担当。細田の日本的な儚さが印象深い。竜田姫は一つの謎として、子供たちの記憶に刻まれることだろう。

魚のディヴェルティスマンでは、エイ、フグ、タツノオトシゴ、タイ、金魚、イカ、アジ、サザエ、ウニ、タコ、マンボウ、クラゲと並ぶなかで、サメが踊りの見せ場を作る。井澤諒の美しさ、福田圭吾の音楽性、木下嘉人の鋭さ、速水渉悟の骨太の踊りが揃った。対する季の庭ディヴェルティスマンは、春の天女、夏の織姫と彦星、祭り男、秋のどんぐり、竜田姫、冬の雪の花婿・花嫁。それぞれに味わい深く、日本の四季を堪能できる。織姫の柴山紗帆と彦星の木下が、クラシカルな美しさで、年に一度の甘い逢瀬を描き出した。

波の男女アンサンブルは、時々アジになったりしながら、寄せては返す悠久の時を刻んでいる。女性陣の丁寧な脚の運び、男性陣の逞しいリフトが5ヵ月の舞台ブランクを感じさせなかった。小野絢子、福岡雄大の看板カップルが不在ながら、ほぼ全団員が揃った充実の復帰公演だった。

阪本順治『一度も撃ってません』2020

標記映画を見た(7月6日 TOHOシネマズ池袋)。阪本順治監督の新作。尚かつ、同映画館の開館4日目だった。キャストは、作家:石橋蓮司、その妻:大楠道代、友人:岸部一徳桃井かおり、編集者:佐藤浩市、ほかに豊川悦司江口洋介妻夫木聡といった個性派が並ぶ。桃井を除くと、阪本組。過去の阪本映画での体を張った演技が思い出される。

桃井を藤山直美に変えると、『団地』(2016年)の2組の夫婦と同じ。岸部、藤山が演じる 息子を亡くした漢方薬剤師夫婦の、宇宙人を交えたファンタジーだが、それを脇で支えた石橋、大楠夫婦が、今回は売れない作家と元小学校教師となって、老年ノワール風ファンタジーを紡ぐ。脇に岸部と桃井を従えて。

石橋はプログラムのインタビューで「一つの群像劇だと思っているんです・・・登場人物全員にドラマがあってね。誰をピックアップしても一つの話になるけれど、今回は、俺の話だと。そんな意識でやっていました」と語る。確かに脇役風 引きの演技が随所に見られるが、企画の発端は石橋の主演作を作ることにあった。石橋と桃井は『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年 日本ATG)で初共演、原田芳雄邸でよく顔を合わせた間柄と言う(『あらかじめ』は清水邦夫田原総一郎の共同監督、2本立て上演で見たが、桃井の記憶しかない。当時は、桃井がロイヤル・バレエ・スクールに留学するも挫折、といったことは知らなかった)。

『顔』(2000年)での藤山、中村勘九郎(五代目)、『団地』での藤山には、伝統芸能の型があり、阪本演出との摺り合わせに敏感だったが、桃井はインプロ派。監督の意図を突き抜けるアドリブが、役者としての命である。今回の登場シーンは、いきなり桃井節が炸裂し、どうなることかと思ったが、阪本が手綱を引き締め、その深い愛情に桃井が反応して、自分の引き出しを全開にした。「富士そば」のおばさん、喫茶店での素朴な中年女性に、桃井の愛らしさが見える。

常連組は、常に慎ましく存在し、阪本現場にいる幸福を味わっている。一つ一つのショットが、自らを輝かせることを知っているから。役者に注がれる眼差しの深さは、阪本演出の特徴である。今回はノワール風の枠組みながら、いつも通り男女隔てなく、老いの細部に至るまで視線を届かせている。役者への愛情、世界を切り取る際のストイシズムが画面に滲み出て、それを見るだけで慰撫され、自分が肯定された気持になる。阪本監督の生き方、在り方に勇気づけられるのだろう。

阪本監督とは同世代だが、若い世代は桃井節をどう思うのか、阪本監督の分身 佐藤浩市のていたらくをどう見るのか、「野坂じゃなく、五木だけど」のギャクは分かるのか、などを思う。また豊川悦司はエンドロールで知った(分からなかった)。さらに佐藤と寛一郎柄本明柄本佑の2親子が出ている。

ボリショイ・バレエ in シネマ『ジゼル』2020【追記】

標記映像を見た(6月24日 TOHOシネマズ日本橋)。2020年1月26日、ボリショイ劇場から世界へ生中継された公演の収録映像である。振付はアレクセイ・ラトマンスキー、振付助手はタチアナ・ラトマンスカ、美術はロバート・パージオラ(アレクサンドル・ブノワに倣って)、指揮はパヴェル・クリニチェフ。キャストは、ジゼル:オルガ・スミルノワ、アルブレヒト:アルテミー・ベリャコフ、森番ハンス:デニス・サーヴィン、ミルタ:アンゲリーナ・ブラーシネツ、ジゼルの母ベルト:リュドミラ・セメニャカ、バチルド:ネッリ・コバヒーゼ。クールランド公、ウィルフリード、ペザント・パ・ド・ドゥも好演したが、キャスト表に記載がなく、エンドロールも見逃した。【追記】コメント欄を参照。

ラトマンスキーによれば、様々な史料(ニコライ・セルゲーエフのノート、アンリ・ジュスタマンの舞踊譜等)を基に、現代的に再構成したとのこと。全体的に英国系よりもさらにマイムが多く、振付のバットリー多用が目立つ。自身のデンマーク・ロイヤル・バレエにおけるダンサー経験が、大きく反映されているものと思われる。構成・演出は、サン=ジョルジュとゴーティエの台本にほぼ忠実。またジュスタマン舞踊譜の引用も散見される。1幕バチルドとジゼルの親密なやりとり、狂乱のジゼルからアルブレヒトが剣を奪う(台本では母)、2幕冒頭 森番たちとハンスのやりとり(皆でジゼルの墓に祈る、は舞踊譜にはない)、ウィリたちの十字フォーメイション、そして台本通りの終幕の情景。

朝の光で衰えるジゼルを、アルブレヒトが抱いて小さな塚に横たわらせる。弱るジゼルを何度も抱き起すが、周りの草花がその体を覆い始める。ウィルフリードに案内されたクールランド公とバチルドが到着。ジゼルはバチルドと結婚して幸せになってねと言い残し、草の中に沈んでいく。アルブレヒトはウィルフリードに抱きかかえられ、バチルドに手を差し伸べて幕となる。

バチルドは台本通りに優しく愛情深い女性に描かれ、ジゼルとの暖かい交流、その死への衝撃が、終幕のアルブレヒトへの包容に繋がっていく。結果、アルブレヒトはジゼルにもバチルドにも許されるナイーヴな二枚目の造形となった。物語の本来に立ち返った演出・結末と言える。

現行では省略される二幕怒りのフーガは、ラトマンスキーの新振付による。ジゼルがウィリの掟を破り、アルブレヒトを十字架へと導いたことへのウィリたちの怒りを表す場面である。ミルタがローズマリーの枝で、十字架の二人を支配しようとするも、枝が折れて失敗。ウィリたちは怒り狂って二人に攻め寄る。ラトマンスキーは、ハンス犠牲直後のバッカナールを参考に振り付けているが、振付それぞれの意図が異なる上、やや二番煎じの印象。因みにメアリー・スキーピング版(1971年)のフーガ振付は、台本に沿い、よく怒りを表している。

2幕に見られる機械仕掛けは、19世紀バレエの伝統。台車に乗ったミルタの滑走、ジゼルのすっぽんによる登場、宙乗り、シーソーのような大枝の前傾など。ドゥジンスカヤ監修、K・セルゲーエフ版で保存されていたものと同じである(1998年 新国立劇場オペラ劇場)。1幕での子役の採用(子供バッカス、村人の子供たち)も、19世紀の雰囲気を加味。またクールランド公とバチルドは本物の白馬で登場する。4人の角笛吹き、6人の鷹匠、8人の槍持ちが先駆けるが、鷹匠にはトラヴェスティの雰囲気があった。ジュスタマンではワルツの村娘が12人のところ、ラトマンスキー版では16人に、ブドウ収穫人はコリフェ4人、男女24人から、コリフェ8人、男女32人に増えて、群舞の迫力を示した(ボーモントによればオリジナル版は、コリフェ8人、男女32人、少女18人、少年6人、楽士4人とのこと)。

美術をブノワに倣ったのはなぜだろう。2幕の湖水の向こうに教会(修道院?)が描かれる。鐘の音が聞こえるので、不思議ではないが、森の奥深さが減じるような気がする。屋根の十字架はよく見えなかった。ウィリの描く十字フォーメーションの意図もよく分からない。現地プログラムには記載されているのだろうか。 

スミルノワのジゼルは、登場した時から異世界にいる。可愛らしさよりも霊性が優る造形だが、演技によってではなく、体の質や意識を変える手法による。バチルドとの阿吽のやりとり、狂乱にも作為がなく、ウィリとなってからの慈愛も自然に流れ出て、終幕の祝福を納得させる。踊りもこれ見よがしがなく、難度の高いソロも、物語の流れの中で踊っていた。新振付、従来の振付の、隅々にまで思考が行き渡った 伝統を塗り替えるジゼルだった。

ベリャコフのアルブレヒトは、絵に描いたような二枚目。気品があり、苦労を知らない可愛らしさもある。二人の女性に許されることがおかしくない無垢な味わいも。1幕にソロが2つあるが、やたらとアントルシャの多い振付を難なく、しかもノーブルにこなしている。ペザント・パ・ド・ドゥもバットリーが多く、男性は左右トゥール・アン・レールを挟んでアントルシャなど、非常に難度が高い。男女ともにテンポが速く、技量のあるダンサーが選ばれている。

サーヴィンのたくましいハンス、コバヒーゼの優しく気品のあるバチルド、真情のこもったウィルフリード、鷹揚なクールランド公を始め、貴族、村人の一人一人が細やかな演技を見せる。中でも、ベルト セメニャカの鋭いマイム、深い眼差しは、一瞬で空間を変える力を備えていた。セメニャカによって物語の空間が作られたと言える。素晴らしい役者だった。

ミルタ、ドゥ・ウィリ、ウィリ・アンサンブルは、伝統的な造形(スキーピング版はシルフィードに近い造形)。ひたむきな愛らしさがあった。

クリニチェフ指揮、ボリショイ劇場管弦楽団が素晴らしい。深い弦の響き、豊かで柔らかい金管の音色に四方から包まれるようだった(映画館の音響設備もあるが)。

 

 

熊川哲也のこと2020

前々回ブログに続く。上京後、パフォーミング・アーツを見られる環境になったものの、文学と映画という複製技術による芸術の周辺をぐるぐる回っていた(+美術)。経済的なことに加え、プロテスタント的な禁欲が、劇場に行くことを阻んでいたのだ(今でも映画館の方がしっくりくる)。だが1989年、「ローザンヌ国際バレエ・コンクール」のテレビ中継で熊川哲也を見てから、状況が変わった。経済的にも少し余裕ができ、恐る恐る劇場に足を踏み入れるようになった。

この年は順決戦、決選が青山劇場で行われた。ヨーロッパ地区予選から出場した熊川は、日本人初の金賞と高円宮賞を受賞した。後に熊川が「本物の貴族(皇族)」と評することになるバレエの精神的守護者 高円宮殿下が、若き熊川に賞を授ける場面を(写真で)記憶している。

熊川は当時ロイヤル・バレエ学校所属。奨学金を貰えるほどの成績を収めたが、「コンクールかオーディションを受け、ニューヨークの ABT にでも入団したいと思っていた。ABT にはいろいろな人種がいるし、僕は、当時ABT の花形ダンサーだったミハイル・バリシニコフにも憧れていたからだ。日本のバレエ団に入団するという選択も漠然と考えていた。いずれにしろ、ロイヤル・バレエ団に進む気はまったくなかった。というのも、僕はロイヤル・バレエ学校で人種差別的な扱いを受けたことは一度もなかったが、当時はまだ東洋人のダンサーが入団した例が過去に一つもなく、西洋人だけでメンバーを構成するのがロイヤルの伝統だった。だから、ロイヤルの団員になれるなどとは考えもしなかったのだ。」(『メイド・イン・ロンドン』文藝春秋 , 1998年)

だがローザンヌに行く直前、当時のロイヤル・バレエ団芸術監督アンソニー・ダウエルから、団員契約の提案がもたらされる。熊川の並外れた才能が、ロイヤル多人種化の先鞭をつけたのだ。ローザンヌ翌月の2月にアーティストとして正式契約、労働許可証の関係で、カンパニー・デビューは6月の『オンディーヌ』(ブリストル)、2週間後に『R&J』(コヴェントガーデン)のマンドリン・ソロを踊る。同年7月ソリストに昇格決定。その際のダウエルとのエピソードが、熊川の本質を露わにする。

ダウエルのオフィスに呼ばれた熊川は、昇格のことに違いないと思い、「ソリストソリスト」とつぶやきながら嬉々として乗り込んだ。2月の入団契約時に、ダウエルから言われた言葉が頭の中にあったからだ。「おそらくソロで踊ることが多いと思うが、初めての契約だし、テディはまだ若い。それに、他のダンサーの手前も。だから、今回はアーチスト契約だよ。でも、すぐにソリストに昇格させるからね」(同上)。実際デビュー公演以外はソロばかりを踊っていたので、当然ソリストとしての契約を信じていた。だがダウエルはコルフェ(ファースト・アーティスト)昇格を告げる。

「〈コルフェ〉という言葉を聞いた瞬間、僕は急に悲しくなった。ダウエルに嘘をつかれたと思い、悔しさもこみあげてきた。知らぬ間に目に涙もたまっていた。ダウエルには、‟ここでトントン拍子に昇格させてしまうと、将来にマイナスかもしれない” という親心があったのだと思う。だが、若い僕はそのことを理解できなかった。コルフェなんか絶対に嫌だと思い、僕はたどたどしい英語で訴えた。〈ソロを踊るんだから、ソリストにしてください。〉僕の気持ちの強さに押されたのだろうか、一瞬の沈黙の後、ダウエルは机をポンと叩いて、こう言った。〈・・・わかった。ソリストにしよう〉」(同上)。

ダウエルが何者かを知らなかったスクール時代から、廊下ですれ違うたびに「ハロー」と挨拶をし、入団してからは、椅子に腰かけたダウエルの足の間にちょこんと座り込み、冗談を飛ばしていたという破格のエピソードと共に、熊川の純真無垢、天真爛漫な若き日の姿を窺わせる。

ローザンヌ以後、熊川の所属する英国ロイヤル・バレエ団の来日公演を、欠かさず見るようになった。2年に1度の贅沢である。舞踊専門誌『ダンスマガジン』を読んだり、他の来日公演にも行ったりしたが、まだ映画に愛着があった。ある日『ダンスマガジン』に掲載された「日本ダンス評論賞」受賞作を読み、次回の募集テーマを知る。ロイヤル・バレエ団もその一つだったので、書いてみようと思った。

1997年6月23日の「ロイヤル・ガラ」。演目はサープの『プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ』、フォーサイスの『ステップテクスト』、プティパ=グーゼフの『タリスマン』パ・ド・ドゥ、バランシンの『シンフォニー・イン・C』という、今考えると画期的なプログラムである。だが、その時は構成の意味が分からず、『ステップテクスト』と『タリスマン』のみを取り上げた。主役は前者がシルヴィ・ギエム、後者は吉田都とイレク・ムハメドフである。『プッシュ』の主役は熊川、『イン・C』の3楽章には熊川が出演していたにもかかわらず。「二つのバレエ」と題した文章は、思いがけずその年の第7回「日本ダンス評論賞」第一席となり、1998年2月号『ダンスマガジン』に掲載された。

当時は『白鳥の湖』全幕さえ見たことがなく、五里霧中の荒野を彷徨うように、舞踊史、バレエ文化を勉強した。そこで出会ったのが、長谷川六の「舞踊学」である。森下スタジオで行われた講義は、長谷川批評のエッセンスを伝えるもので、舞踊批評を一から教わることになった。文章で記録することの意義、批評の平等性(プロもアマも同じ地平)は、特に印象深い(長谷川は優れたダンサーでもあった、本ブログにもその記録あり)。

長谷川に受賞作を見せたところ、自ら編集長を務める『ダンスワーク』に公演評を書くように言われた。「2003年ダンスの総括」(『ダンスワーク』55 ダンスワーク舎, 2004年)から、Kバレエカンパニー『白鳥の湖』評を一部転載する。

熊川哲也は物語(虚構)に対してアンビヴァレントな男である。技巧への執念がダンサー熊川の中心軸であり、キャラクター系やシンフォニック・バレエなどには奏功する。だが物語バレエとなると二律背反がはなはだしい。熊川がバレエを好きなのは間違いないとして、物語はどうだろうか。熊川がなぜいつまでも少年でいられるのか(踊り自体は当然成熟するが)と言えば、嘘が嫌いだからである。最初の教師 久富淑子の言葉「熊川くんには嘘が言えませんでした、全部本気にしてしまうから」。またロイヤル時代、当時の芸術監督アンソニー・ダウエルにソリストではなくコルフェ昇格を言い渡されたときに、「ダウエルに嘘をつかれたと思い」涙を流したというエピソード。世界と真正面から対峙する熊川の潔癖さがよく表れている

デュランテと組むときにのみ、熊川は物語に入り込める。嘘ではないからである。今回も「湖畔」でデュランテと踊るときには物語が生じた。だがオディールのペレーゴと踊るときには、悪魔の支配下にあるかのごとき超絶技巧が繰り出される。まるで別人である。白鳥と黒鳥を別々のバレリーナに踊らせたのは、熊川の引き裂かれた自我の反映と言えるかもしれない。富良野で土に触れているときの熊川と、舞台という虚構の世界で生きなければならない熊川が、混ざることなく共存しているところに、熊川のアーティストとしての可能性がある。

熊川が踊ることから演出・振付に軸足を移して以降、熊川作品はスピーディでエネルギッシュな舞台から、物語の流れを重視した落ち着きのある舞台へと変貌を遂げた。その演出家としての急激な成熟に、作品を見るたび驚かされた。熊川は近著『完璧という領域』(講談社, 2019年)で、「僕は振付よりも作品の構成・演出に力を発揮するタイプだと思う。だからアイデンティティとしては振付家ではなく、構成作家に近い」と自己分析する。意外なことに、「四十代になった僕の演出は、そうした(ロイヤル風の)アプローチから距離を取り、物語よりもむしろ踊りを重視するようになっている。舞踊性を重視するロシアのバレエ、優美でゆったりとしたバレエに近寄っていると表現できるかもしれない。志向しているのは、舞台の空気感やスピリチュアルな感覚を大事にして、空気をまとうように踊るバレエだ」と語っている。

本書には「幼いころに喘息を患っていたため、けがや病気に対しては人一倍、神経質だったように思う」など、いわゆる熊川像を覆す、しかし腑に落ちる言葉が並ぶ。故郷 北海道の自然に触れ、「ふと、〈なぜバレエなのか〉と思う。バレエはもちろん、芸術とは無縁の家庭で育った。巡り合わせによっては、僕は中富良野で農業を営んでいても不思議ではなかった。自分は生来のアーティストではない、という感覚がいつもどこかにある。バレエをしていなければ、アーティスティックな感性が発揮されたかどうかもわからない」と語る熊川の、相変わらぬ嘘のなさ、潔癖さに胸打たれる。

盆踊りのこと2020

前回触れた盆踊りのことを書いておきたい。が、その前に、SWITCHインタビュー達人達「神田松之丞 × いとうせいこう2017」(NHK Eテレ 5/30)について少し。松之丞(現伯山)がなぜ講談師になったか、その経緯を語る。「小4の時、父が自死。遺書のふるえる字を見て、人生が変わった。それ以降 自分の居場所がどこにもないと思うようになった。高3の時、ラジオで三遊亭圓生の噺を聞いて、落語にのめり込む。その後 立川談志にはまり、談志の芸能談義を読むうちに、講談に巡り合う。神田伯龍を聴いて、これだと思った。講談に救われた。」

「自分が死んでも後の人に繋げていける。自分もそのリレーの一部になれる。自分は消えてしまうかもしれないけど、完全に消えるわけではない。伝統芸能は、死んだ過去の名人上手たち、いろいろ物を書いてくれた人たちを背負って、今自分がバトンを渡されている、また次の人たちに、自分が死んでバトンを渡すという、繋げていくもの。仕事としてずっと続いていくものがいいと思った。」

いとうせいこうというこの上ない聴き手を得て、松之丞の熱く深い言葉が迸るインタビューだった(いとうも同じく)。「自分が死んでも続いていく」が、伝統芸能にはまるツボ。我々が歌舞伎を見て、身内がとろりとするのは、連綿と続く大きな流れの中で、役者が生まれて育ち、成熟して終わる、その繰り返しを目の当たりにし、自分もまたそこに吸い込まれて、死への直面を一旦猶予される、または死を虚構化できるからだろう。

わが町の盆踊りは中学のグラウンドで催され、新盆の人の遺影に見守られて踊った。8月の13, 14, 15日だったと思う。12日にはお寺の境内でも踊りがあった。18日は送り盆で、浜の桟橋から紙と藁でできた灯篭を流した。山の方の神社でも盆踊りはあったが、遠いので行っていない。同時期に「盆踊り保存会」主催の会もあり、これは小学校のグラウンドで踊った。お爺さんの口説きとシンプルな太鼓で、前に歩いては戻る緩やかな踊り。手も高くは上げない。円になって行きつ戻りつするうちに、意識が朦朧として、自分の体が周囲に溶けていく。

山崎広太主宰ボディ・アーツ・ラボラトリーによる「Whenever Wherever Festival 2015」プレイベントで、佐藤剛裕氏のレクチャー「チベット密教舞踊における反スペクタクル」の参考映像を見た時、心底驚いた。村人が円になって踊る死者を悼む踊り(だったと思う)が、わが町盆踊りと瓜二つだったのだ。ゆるゆると前後する引きずるような足の運び。音楽は覚えていないが、リズムは同じだった。さらに鳥葬の原型とされる鳥を呼ぶ踊りの歌が、お爺さんの口説きにそっくりだった。円を組んで、ゆるゆると何時間も踊り続けるのは、戻ってきた死者への供養であると同時に、死後の世界へ触れる入口でもある。臨終の際、屏風に描かれた「山越阿弥陀」の手から伸びる五色の糸を握り、浄土に行けると信じた鎌倉時代の幸福を思い出させる。