2月27日以後2020(番外編)

舞踊の公演評を書くこと、記録を残すことが自分の務めだと思っている(勝手に)。「記録を残す」とは師匠 長谷川六の言葉。メモを取る、数を数える、時間を計るなど、評を書く基本を教わった。さらに「批評をする者は、プログラムに書いてはいけない」との名言も。もう一人の師匠 阪田勝三(キーツ研究、フォークナー翻訳)からは「論文は遺言のつもりで書きなさい」。文章を書く時の指針となった。

公演評しか書いてこなかったので、公演がないと書くことがない。舞踊の記録映像を見たり、舞踊史をかじるのも、公演評を書くためだった。現在、様々な映像が氾濫しているが、生の舞台と、その記録映像から受ける感触の違いに驚かされる。映像がパフォーマンスの何を取りこぼしているのか。裏返せば、パフォーミング・アーツの肝とは何か。

それで思い出したのが、青年団の芝居が、生で見たのか、記録映像(DVD)で見たのか、記憶で判別できないこと。平田オリザは、役者にミリ単位の動きを演出し(小津安二郎に倣い)、毎回同じことができる役者をよしとする。平田は2月の『東京ノート』のアフタートークでも、「明日も明後日も同じことをやっていますので、足をお運びください」と言っていた。平田作品は知的意匠に富み、問題意識も高く、なおかつ深い文学的教養に裏打ちされている。見れば必ず脳を刺激し、胸打たれるのだが、体に来ることはない(例外は、平田の ICU 先輩 山内健司松田弘子、生の手応えあり)。舞台の一回性を禁じる高度に批評的な演出・振付は、日本のみならず世界の演劇史に残る手法だろう。ただし、役者にとっては虐待に近い側面もあるのではないか。

観客は芝居が越境してくることがないので、身体的に緊張せず、映像を見るような、暗箱を覗くような安心感に包まれた観劇となる。質の高い戯曲と演出、それに呼応する優れた役者を、この値段で見られるのは贅沢。ただ「駒場東大前」に向かう道すがら、なぜか故郷の親に顔向けできないような複雑な気持ちになる。インテリの退嬰といったニュアンスが、後味として感じられるのだ。

公演がほとんど自粛要請で中止となり、週に3、4回公演を見る生活が、2月27日を境に突然終わった。パフォーミング・アーツを見る前の生活に、もっと遡れば、田舎の生活に戻ったのだ。瀬戸内の島育ちのため、小説を読む、映画館で映画を見るのが、文化的な楽しみだった(77年に島を出る頃は、中心部の町にまだ一軒映画館があった―テレビ普及以前は、わが町にも「聚楽館」という映画館があったらしい)。パフォーミング・アーツに接するのは、学校巡回公演の狂言、演劇、地元県オケの学校公演、高校の友人のバレエ発表会くらい。他には神社の巫女舞、自分も踊る盆踊り(口説きと太鼓でゆるゆる踊る←廃れた)。子供時代はテレビで落語や松竹新喜劇、思春期以降は、ミュージカルや「世界バレエフェスティバル」の映像を見て、都会の文化への憧れを募らせた。

因みに、小説の方で自分の血肉になったのは、吉行淳之介島尾敏雄、富岡多惠子、金井美恵子(後の二人は舞踏と関係あり)。吉行、島尾、金井は文章で読ませたが、詩人から出発した富岡は、批評家に近い。言葉、芸能、芸術についての言説が多く、武智鉄二との対談集『伝統芸術とは何なのか』(學藝書林)、外山滋比古との対談〈『虚構への道行き』(思潮社)所収〉、文楽、歌舞伎、落語、漫才などの大阪芸談義に、知らず知らずのうちに影響を受けた。

上京後も、パフォーミング・アーツには至らず、相変わらず文学と映画を彷徨っていたが、熊川哲也の出現で自分の中の舞踊熱が再燃した。(続く)

 

2月27日以後 2020

2月26日の夕方、新国立劇場バレエ団の『マノン』(小野絢子・福岡雄大主演)に向かう途中、同劇場からのメールを読んだ。

新型コロナウイルス感染症の拡大防止に係る文部科学大臣からの要請を受けて、新国立劇場では、感染症拡大のリスクを低減する観点から、2月28日(金)から3月15日(日)までの間、全ての主催公演、その他の主催イベントを中止することといたしました。

読むなり、デ・グリュ―初役の井澤駿はどうなるのか、という思いが渦巻く。役を体に入れたまま断ち切られると、ダンサーはどのような状態になるのか。特にデ・グリュー役のハードルは高い(技術面、感情表出面、パートナリング)。怪我での降板とは異なり、外的状況による中止は、気持ちの持っていき場もないだろう。

自粛要請の期間はさらに延長され、現在にまで及んでいる。以下は予定に入っていた公演のリストである。

 

2/29 新国立劇場バレエ団『マノン』【米沢唯・井澤駿】(新国立劇場 オペラパレス)

3/1 新国立劇場バレエ団『マノン』【小野絢子・福岡雄大】(同上)

3/7 新国立劇場バレエ研修所「エトワールへの道程」(新国立劇場 中劇場)

3/8 芸劇 dance 勅使川原三郎ダンス公演『三つ折りの夜』(東京芸術劇場 プレイハウス)  

3/13 スターダンサーズ・バレエ団『緑のテーブル』『ウェスタン・シンフォニー』(東京芸術劇場 プレイハウス)

3/15 牧阿佐美バレヱ団『ノートルダム・ド・パリ』(文京シビックホール 大ホール)

3/17 NHK 交響楽団×熊倉優「ロマンの河~メンデルスゾーンブルッフシューマン」(東京芸術劇場 コンサートホール)

3/21 Kバレエカンパニー『春の祭典』『若者と死』『シンプル・シンフォニー』(オーチャードホール

3/27 現代舞踊協会『ZONE-境地-』『COSMIC RHAPSODY-宇宙狂詩曲-』(東京芸術劇場 プレイハウス)

3/28昼夜 新国立劇場バレエ団「DANCE to the FUTURE 2020」(新国立劇場 小劇場)

3/29 新国立劇場バレエ団「DANCE to the FUTURE 2020」(同上)

4/2 ジャパン・フェスティバル・バレエ団『ガーシュインズ・ドリーム』他(文京シビックホール 大ホール)

4/4 青年団プロデュース公演『馬留徳三郎の一日』(座・高円寺1)

4/5 NHKNHK バレエの饗宴 2020」(NHK ホール)

4/6 新国立劇場ジュリオ・チェーザレ』(新国立劇場 オペラパレス)

4/11 KAAT 神奈川芸術劇場『アーリントン』(神奈川芸術劇場 大スタジオ)

4/14 新国立劇場『反応工程』(新国立劇場 小劇場)

4/20 SUN ARTS  DANCE PROJECT「Free Package vol.36」(俳優座劇場)

4/24 デフ・ウェスト・シアター『オルフェ』(シアタートラム)

5/2 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』【米沢唯・井澤駿】(新国立劇場オペラパレス)

5/3 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ木村優里・渡邊峻郁】(同上)

5/4 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』【柴山紗帆・中家正博】(同上)

5/5 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』【池田理沙子・奥村康祐】(同上)

5/9 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』【米沢唯・速水渉悟】(同上)

5/10 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』【小野絢子・福岡雄大】(同上)

 

新国立の「DANCE to the FUTURE 2020」は一部ライブ配信された。遠藤康行をアドヴァイザーとする「コンポジション・プロジェクトによる作品」(ABプロ)である。遠藤には東日本大震災(2011.3.11)の翌日、スターダンサーズ・バレエ団公演で新作を発表した経験がある。以下はその公演評。

スターダンサーズ・バレエ団春公演は、団のアイデンティティとも言うべき日本人振付家による「振付家たちの競演」。

公演前日の午後に起きた東北・関東大震災のため開催が危ぶまれたが、主催者は「苦渋の決断」の末、上演に踏み切った。当時はまだ被害の全容が明らかでなく、交通手段が回復していたエアポケットのような状態。三分の一程の観客の前で小山久美総監督が、見舞いの言葉と共に開催に至った経緯を説明、収益は被災地への義援金とする旨を述べた。

こうした非常時には作品(虚構)が現実に拮抗しうるか、その強度が否応なく問われる。幕開けの遠藤康行作品『Love Love ROBOT 幸せのジャンキー』(45分)は、スケールの大きさと構築力で現実の視線を跳ね返したと言える。

針生康の美術、平本正宏の音楽、足立恒の照明とのコラボレーションは刺激的だった。針生は透明な球体を網目状に繋ぎ、鳥か象が一対向き合った巨大な吊り物を設置した。まるで若冲の方眼上動物図の趣。足立の変幻自在なライティングと絡み合い、大きな生き物のように舞台に存在し続けた。

一方民族音楽風あり、ウィレムス風あり、ロマンティックなメロディありの平本の曲(バッハ・チェロ組曲挿入)は、オリジナルならではの踊りへの寄り添い、生演奏のセッション感覚が作品に大きく貢献している。

振付はポアントをゼロベースで考え、その畸形性を再認識させた前半の女性群舞が圧倒的に面白い。O脚に撓ませたポアントのポーズ、猿人風のしゃがみ、反転しては移動するフォーメイション、ポアント行進と、次々に目を奪われた。

ソリストには男女3組を採用。福島昌美とゲストのリオネル・ハンによる色っぽいデュオ、林ゆりえと橋口晋策の清新なデュオに個性が見られたが、ソリスト勢の習熟度にはさらに向上の余地がある。ハンの華やかで粘りのある肉体、林の抜きん出た音楽性と意志の強さ、橋口の分厚い存在感、草場有輝の切れのよい跳躍が印象に残った。

終盤、半円のフォーメイションで踊られるパラパラ風の踊りが、このバレエ団独特の都会的な共同体を現出させる。ダンサーの個が自立した踊りを見ることは、この国では新鮮な驚きである。(3月12日 ゆうぽうとホール)

遠藤は今回もまた、災厄のさなかでダンサーを鼓舞し続け、ダンサー自身の手による群舞作品を作り上げた。映像のため、全容は測りかねるが、パトスのこもった2作品だった。

新国立劇場舞踊部門の大原永子芸術監督にとっては、今季が最後のシーズンである。2月の『マノン』がドラマティック・バレエ定着の集大成だったとすれば、5月の『ドン・キホーテ』は、ダンサー育成の集大成と言える。前監督から引き継いで、大きく育てたダンサー、自らオーディションで選び、主役にまで育て上げたダンサーが勢揃いするはずだった。自身が優れた技術を誇ったということもあり、全員が古典の技術に秀でる。一時崩れかけていた古典の基本を徹底させ、なおかつ、自分で役作りをする積極性をバレエ団全体にもたらした。国立と名が付きながら、必ずしも恵まれた環境とは言えないなか、プロ意識を浸透させた功績は大きい。

最後は残念な幕引きとなったが、手塩にかけて育てた米沢唯、最初からその才能(と人柄)を好んだワディム・ムンタギロフによる『マノン』、同じく米沢と、「教えることも修行のうち」と米沢に託した井澤駿による『ドン・キホーテ』を世界配信できたのは、不幸中の幸いだった。以下は公演中止に際し、大原監督が観客に宛てたメッセージである。

3月27日初日予定であった『DANCE to the Future2020』が公演中止となり、公演を楽しみにされていました皆様には、心よりお詫び申し上げます。
この公演は、新国立劇場バレエ団ダンサーたちが振り付けた作品を、仲間である同バレエ団ダンサーたちが踊るというプロダクションで、ダンサーたちもこの公演を心待ちにしていただけに、公演中止は私としても、たいへんに残念です。
ダンサーたちがつくり上げたこれらの作品を、日を改めて皆様にご披露できることを願ってやみません。

今しばらくは舞台芸術を楽しむことは難しい状況ではありますが、芸術は人の心を癒す強い力のあるものです。
皆様とともにバレエやダンスを劇場で楽しめる日が一日も早く戻って来ることを、心から祈っております。

2020年3月26日                                         

舞踊芸術監督 大原永子

 

 

 

 

風間サチコ「セメントセメタリー」2020 【訂正】

標記個展を見た(2月8日, 28日 無人島プロダクション)。風間は、個展直前の1月、新鋭作家を助成する第30回タカシマヤ美術賞を、映像の小泉明郎、現代美術グループ「コンタクトゴンゾ」と共に受賞した(2月4日 朝日新聞)。また個展期間(2月8日~3月8日)中の21日には、自作『ディスリンピック2680』がNY 近代美術館に収蔵されたことを明らかにしている(ブログ『窓外の黒化粧』 )。

会場となる無人島プロダクションへのアクセスは、「菊川」から6分、「住吉」から8分、「錦糸町」から10分とのことで、ティアラこうとうのおかげで行き慣れた「住吉」から目指すことにした。ティアラとは反対方向を、総武線に向かって斜めに進む。大横川沿いに歩いて左側の黒い木造建て工場が、ギャラリーだった。看板はなく小さなネームプレート、入り口も普通の引き戸。

扉を引くと、古い木の床。正面に巨大な木版画6枚。右手に受付、その奥に5枚綴りの等身を超える木版画と、その版木を埋め込んだセメント墓、左手には拓本連作、その手前に中規模木版画が展示されている。廃屋の感触を残す木造建築、正面の木壁下半分をぶち抜く大横川の護岸壁が、木版の持つ職人性(風間は市販の彫刻刀と手作り馬楝で、242.4×640.5㎝の巨大木版画を彫って摺る)と、セメントをモチーフにした連作と合致する。

個展初日の1回目は、風間と思しき女性が取材記者に自作解説を行なっていたため、逆打ちで見た。2回目は順打ち、さらにこの時購入した『コンクリート組曲』図録(黒部市美術館、2019年)を家で見、解説を読んで、風間の意図するところをようやく知る。ギャラリーでは、作品の表記がなく、受付の方に教えて貰ったりもしたが、ただ意味分からず、風間の彫りの感触を体中で浴びたという印象。素朴な木の空間で、好きな画を見る喜びのみがあった。

新作『セメント・モリ』(メメント・モリでなく)は、奥秩父 武甲山の石灰掘削作業員を彫ったもので、同じ5枚の巨大版画に後から手を加えている。脚絆に草鞋を履き、鶴嘴とドリル化した手を持つ5人の男たちが、自らの版木が埋め込まれたセメント墓を前に、棺桶に入ったまま、並び立つ。木版らしい民芸的な画風。

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『セメント・モリ』

個展標題の『セメントセメタリー』は、武甲山が切り崩されて、ピラミッド風巨大墳墓へと変容する過程が、9枚の拓本(フロッタージュ技法)で表されている。この技法を選んだのは、『セメント・モリ』の巨大版画5枚を手作り馬楝で摺り、肘を痛めたため(ブログ1/24)→【馬楝が壊れたため(ブログ4/24)】。同じ版木を彫っては墨でこすり、彫ってはこする、その時間の豊かさ。取材で武甲山を見に行ったが、快晴過ぎてハレーションで見えず、ようやく帰り際に削られた山肌が見えたという(ブログ12/16)。

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『セメントセメタリー』

正面に掲げられた6枚の連作は、黒部ダムワーグナーの『ラインの黄金』を幻視した『クロベゴルト』シリーズ(黒部市美術館初出)。逆打ちの1回目は、「ヴァルハラ」、「新秩序」、「侏儒の王国」、「ファーゾルトとファーフナー」、「ローレライ」、「クロベゴルト」の順で見てしまい、風間と思しき女性は気が気でなかったかもしれない。銅版画に近い彫りこまれた画風で、ブレイクの幻視力、ドレの緻密さを思い出した。

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「ヴァルハラ」

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「クロベゴルト」

『ゲートピア no.3』は、版画と版木が並んで展示されている(黒部市美術館では壁の表と裏に配置)。エジプト神殿に王族の彫像が並んでいると思ったら、スコップや鶴嘴を持つ男、荷物を担ぐ男女、ドリルを持つ男、ダイナマイトを持つ男(朝鮮服)が彫られていた。図録によると黒部川第三発電所建設の労働者とのこと。版木を見た時、削られた跡があるとは思ったが、図録を読んで、その深い意図を知る。「『版』もまた『影』の存在でありながら『版画』が存在するためには絶対に必要なものである。しかし尚も、朝鮮人が削り取られているのは、黒部峡谷の過酷な工事を描いた物語等でさえ語られず、黙殺されている事を表している」(テキスト:尺戸智佳子、テキスト監修:風間サチコ)。

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『ゲートピアno.3』

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『ゲートピアno.3』版木

風間の画に鷲掴みにされたのは、「ヨコハマトリエンナーレ2017」において。それまでも作品を見ていたはずだが、この時出品された学校物を見て「瞬殺」された(参照)。瞬殺とは、風間自身の言葉。作品集『予感の帝国』(朝日出版社、2018年)のエッセイ「石上20年(私のスローガンライフ)」に出てくる。

風間は空手家 大山倍達の現代空手批判「一撃必殺をとなえつつ、鼻血も出せぬ空手ダンスになりさがる」という言葉が、「現代美術」に対する自分のモヤモヤ感を解消する手掛かりとなるのではないか、と直感した。「空手バカの言うところの『第一義』とは強さ、すなわち作品の強度だ。それを忘れ『きれいごと』(=正義や美徳)ばかりにかまけていると、観客を瞬殺する(=鼻血が出るほど感動させる)ことのできない、スタイル重視の『美術ダンス』になりさがる・・・。こう拡大解釈し、自分のなすべきことは《一撃必殺の空手版画》であるという決意表明に至った(が実際は手書きスローガンを自室に貼っただけだった)」。

学校物は自身のいじめ体験に基づくという。優生思想とリンクする全体主義への呪詛(ディスリンピック)と、自然破壊を物ともせず突き進む人間の物欲・権力欲への忌避(コンクリート・セメント物)の根っこには、児童期から蓄積された異物としての身体意識があるように思う。暗雲漂う不吉画への傾斜においても。同時に、数々の文学書、哲学書、歌謡、落語によって醸成されたユーモア(作品名、文章)が、ディストピアを生き抜く武器となり、一撃必殺強度の創作を補完している。

山本康介『英国バレエの世界』2020【追記】

標記書籍を読んだ(3月23日)。ダンサー山本康介を見たのは、バーミンガム・ロイヤル・バレエ退団後、バレエシャンブルウエストの『おやゆび姫』と『ルナ』において。それぞれ、つばめと長耳(うさぎ)の役を、パワフルに踊った印象がある。一方、振付家としては、日本バレエ協会の「全国合同バレエの夕べ」が初めてだった。鋭く繊細な音楽性、そこはかとない情感、清潔なクラシック・スタイルが特徴。まだ全幕を見たことはないが、音楽性豊かな物語バレエ作家になるのではないか。これまで書いた作品評を以下に挙げる。

山本作品『冬の終り』は、生演奏ピアノを背景に踊る極めて質の高い作品だった。対角線の照明をベースに、スモークや微妙な明度の変化で堅固な空間を形作る。振付は音楽を読み込み、ストラヴィンスキー独特の“おかしみ”や“はずし”によく応えていた。パートナリングは創意にあふれ新鮮。支部の若手女性二人はすこし背伸びした感じだが、ゲスト厚地康雄の優れた振付解釈と清潔な踊り、対話のようなサポートに助けられ、作品の内包する鮮烈なドラマを立ち上げることに成功した。(2011年 日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」四国支部

【追記】二作目は、長年バーミンガム・ロイヤルバレエ団で活躍した山本康介によるフォーレの『レクイエム』。歌の声部と男女ダンサーが呼応する、祈りに満ちた踊りである。

振付語彙はネオ・クラシック。バランシンやベジャールへのオマージュを響かせながらも、オリジナルの強さを持つ。堅固な構成力、力みのない自然なスケール感、そして何よりも音楽を深く汲み取った振付の強度。音単位ではなく、フレーズに付けられたパおよびアンシェヌマンの全てに、意味があった。

特に「我を許したまえ」の冒頭、バリトンで踊られるアクリ士門のソロが素晴らしい。両腕を上方に差し出してのアラベスクから、半回転し、後脚を胸に引き付ける動き、そのフォルムの強さ。士門の美しいラインと強烈なパトス、自らを捧げ切る舞台人魂が、山本の振付とぶつかり合った瞬間だった。

演技によってではなく、ラインとフォルムで精神性を表す一種の抑制美が、山本振付の特徴である。英国由来か、個人に帰するものかは分からないが、現在の日本においては稀少な個性と言える。(2012年日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック「バレエファンタジー」)

シンフォニック・バレエでは[髙部尚子がストラヴィンスキーの協奏曲を使って、激しいアーティスト魂を炸裂させ]、山本康介がフォーレの『レクイエム』で祈りの歌を、ラヴェルの『クープランの墓』でみずみずしい音楽の流れを身体化した(日本バレエ協会)。共に抜きん出た音楽性の持ち主である。(2012年公演総括― 日本バレエ協会関東ブロック埼玉支部「バレエファンタジー」、同協会「バレエクレアシオン」)

 [続いて]山本作品『Thais Meditation』。修道僧アタナエルと高級娼婦タイスを描いたマスネの同名オペラから、タイスを回心に至らしめる瞑想の曲に振り付けられた。先行にアシュトン、プティ。山本はBRB時代から創作を始め、ストラヴィンスキーを隅々まで舞踊化した『冬の終わり』が、2011年に日本でも上演されている。その繊細で自然な音楽性は山本の才能の核心。今作でも、星空をバックに荒井祐子と宮尾俊太郎の踊るパ・ド・ドゥは、パへの分割が不可能なほど音楽と一体化している。荒井は冒頭から振付の音楽性を余すところなく汲み取り、そのまま身体に移し替える。まるで体から音楽が流れ出るようだった。対する宮尾はリフトの多いサポートを、恋する騎士として誠実に実行。荒井の美しいパフォーマンスを献身的に支えている。優美なバイオリン独奏は浜野考史。(2018年 Kバレエカンパニー「New Pieces」)

 [創作3つ目は]四国支部『練習曲』(振付:山本康介)。シベリウスの『カレリア舞曲』より行進曲を使用。明るく明快な音楽に、英国系のクリスピーなアンシェヌマンが弾ける。二倍速のパの切り替えは、音楽と共に今でも目に焼き付いている。黒一点の野中悠聖には、高難度のソロを振り付け、技量の高さを知らしめた。余計なものが何もない清潔なエチュードだった。(2018年 日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」四国支部

 幕開けの山本作品は、グリーグの同名組曲と他2曲を使用。抒情的なアリエッタを前後に置く。女性主人公が夢に誘われ、男性とのアダージョ、若い男女や女性アンサンブルを交えた踊りを経験した後、元の世界に戻ってくるロマンティックな構成。シモテ奥にはピアノ(演奏:佐藤美和)、カミテ奥に一本の木、最後に枯葉が降り注ぐ。冒頭 女性が一人、両腕をふわりと前方になびかせドゥミ・ポアントになった瞬間から、音楽と動きの密やかな一致に魅了された。音楽が聞こえる振付家もいるが、山本の場合は、音楽と戯れるような動きの創出に才能がある。自然で、ほんのりユーモアとペーソスの滲み出る振付。水彩画のように繊細な世界に、水色のロマンティック・チュチュ、ポアント音なしのアンサンブルによるバランシンのエコー(セレナーデ・腕繋ぎ)が、こっそり嵌め込まれている。6番で踏み切り6番で終わるトゥール・アン・レールも可愛らしい。

主人公を踊った長田佳世は、高比良洋と組んで、大人のそこはかとない情感を醸し出す。その音楽性、美しい脚遣い、誠実さが作品の磁場となった。うつ伏せになり、皆が去った後、一人目覚めて木に向かう長田。その一足一足に、人生の機微を知る穏やかな境地を感じさせた。盆子原美奈と八幡顕光は、若々しいデュオ。華やかなリフトに加え、八幡はチャルダッシュ風の踊りも披露した。14人の女性アンサンブルは英国系の慎ましいスタイルを身に付けて、山本の指導者としての力量を明らかにしている。(2018年 日本バレエ協会「バレエクレアシオン」)

指導者 山本の実力は、「ローザンヌ国際バレエコンクール」NHK放映時の的確な解説でも明らかである。

本題に戻って、氏初の著書『英国バレエの世界」は、英国バレエに詳しい舞踊評論家の長野由紀氏が聴き手となり、数回にわたって山本氏が語った言葉を文章化したと言う。バレエについての認識や考えを、自分の言葉で率直に述べており、特に実践者から見た英国振付家への批評が面白かった。

Part.1は「僕の来歴と現在について」。師匠だった山口美佳先生、コンクール等での薄井憲二先生の思い出(ビントリーについての薄井評あり)、振付に興味を持った原体験(プティの『長靴を履いた猫)、憧れのマクシーモアとセメニャカ、規範となったルグリ、ロイヤル・バレエ・スクールでの教師(サンソム、コープ、コリア)、ゲイリーン・ストック校長、BRB でのダンサー生活、指導者として、振付家として、解説者として。

Part.2は「英国バレエの歴史と今に迫る」。世界のバレエ史、英国バレエの歴史(RB、BRB)、その他の英国カンパニー、アシュトン(ド・ヴァロワと共にチェケッティの技術継承―身体を立体的に保つ、音楽を重視/精巧なステップと隊形―ビントリー、ウィールドンへの影響)、マクミラン(1幕物に個性、グループワークよりも主役重視の振付、パ・ド・ドゥの魅力)、ライト、ビントリー、ウィールドンについて、フォンティーンの魅力(音楽性、素晴らしい立ち脚、基本の強弱の調整によって役柄を表現)、吉田都の魅力(軽やかな美しさ、キラキラとした輝き、動きの特質や音楽性が英国的―フォンティーンやコリアに通じる、バランシン、フォーサイスでも)、ロイヤル・スタイル(はない)について、各国バレエの特徴(ムハメドフの教え)。

Part.3は「英国的おすすめ演目を徹底解説!」。『白鳥の湖」から『チェックメイト』まで。BRB『R&J』でのマンドリン・ダンサーのモップ衣裳は、マクミラン自身のアイデア(イタリア・カーニヴァルの「炎の踊り」を模した)。『二羽の鳩』は初めて踊る役で出演した幕物(ジプシー・ボーイを踊った、アシュトン・バレエはどの役をやっても楽しい、カンパニーとしてやりがいがある)。

Part.4は「バーミンガム・ロイヤル・バレエの仲間との思い出話」。佐久間奈緒、厚地康雄、平田桃子と、BRB のバックステージを赤裸々に語る。

装丁が素晴らしく、思わず手に取りたくなる。あっさりと軽やか、これ見よがしのない、アシュトン系の美意識。世界文化社より 2020年3月30日発行。定価:本体1800円+税。

 

パリ・オペラ座バレエ団『ジゼル』『オネーギン』2020

標記公演を見た(2月28日、3月6日 東京文化会館 大ホール)。3年ぶりの来日公演。前回はミルピエ前芸術監督の決めたプログラムだったが、今回はオーレリー・デュポン現監督が、オペラ座伝統の『ジゼル』と、クランコの『オネーギン』を選択した。後者はマチュー・ガニオとユーゴ・マルシャンというオネーギン・ダンサーがいるためだろう。

『ジゼル』は1841年パリ・オペラ座で、ロッシーニのオペラ『モーゼとファラオ』第3幕の後に初演された(ボーモント)。コラリ=ペロー版は、その後9年間レパートリーに留まり、グリジのみが主役を踊った。1852年にゲリノー主役、53年にフォルリ主役で再演。1863年マリインスキー劇場のムラヴィヨーワ来仏で復活、その後68年まで上演された(この時書かれたアンリ・ジュスタマンの舞踊譜を基に、昨年11月ラトマンスキーがボリショイ劇場で新版を発表)。再びオペラ座のレパートリーに『ジゼル』が戻ったのは、1924年N・セルゲーエフによるプティパ版で、スペシフツェワの主演だった(薄井憲二、Susan Au)。その後、1991年にパトリス・バールとユージン・ボリャコフが改訂を行ない、現行版となる。

一度途絶え、改訂を経ているにもかかわらず、舞台には19世紀から続く伝統芸能の匂いが濃厚に漂っていた。デンマーク・ロイヤルバレエ団(ブルノンヴィル作品)を除くと、他のバレエ団には感じられない職人気質が残されている。主役のジゼル(レオノール・ボラック)、アルブレヒト(ジェルマン・ルーヴェ)、ヒラリオン(オドリック・ベザール)、ミルタ(オニール八菜)は、個性を主張するのではなく、連綿と受け継がれてきた伝統の型に、自分を寄り添わせている。「自分なりに」踊ることが許されない、古典芸能の世界と言える。

村人アンサンブルは揃えようとする意識はなく、児童期より仕込まれたスタイルによって統一されている。ウィリ・アンサンブルも、一見揃っていない。ロシア派は腕のポジションに至るまで揃っているが、フランス派では腕遣いへの意識そのものがないように見える。体全体の調和を重視しているのだろう。上体はバラつきがあるが、しかし脚は、初めの一歩から揃っている。

終幕、鐘が鳴り、ウィリたちが二手に分かれてパ・ド・ブレで袖に入る場面では、その四角い隊形の密度の高さに驚かされた。呼吸を共にしなければ、あのように接近してパ・ド・ブレを刻むことはできないだろう。コール・ド・バレエの一体感に、無意識のうちに形成された身体と、伝統の根強い継承を思わされた。

ペザント・パ・ド・ドゥ 女性ヴァリエーションの、グラン・プリエからピルエット、アントルシャが古風な味わい。続いて友人8人がのどかな曲で、のどかに踊るが、振付は誰なのか。ベルタによるウィリ・マイム、2幕のサイコロ遊びあり。ミルタのシーンは怖ろしく暗く、クールな美しさを誇るオニール八菜は亡霊のように見えた(亡霊なのだが)。全体にマイムは自然。英国系の作り込まれたマイムとは対照的だった。

『オネーギン』は1965年にシュツットガルト・バレエ団が初演、67年に改訂版、オペラ座初演は2009年とのこと(プログラム)。マルシャンのオネーギン、ドロテ・ジルベールのタチヤーナ、ポール・マルクのレンスキー、ナイス・デュボスクのオリガで見た。マルシャンは絵に描いたような美形。技術もあり、大柄だが神経の行き届いた身体の持ち主。凍るようなニヒリズムを出すにはまだ若さが優っているが、申し分のない主役だった。ジルベールは、少しモニク・ルディエール(3幕)を思わせる造形。内向的な少女から、成熟した大人の女性までを、これ見よがしなく演じている。デュボスクのオリガと共に、オペラ座の芝居の伝統を窺わせた。

本家シュツットガルトが、ロシア風の雰囲気を出そうとしているのに対し、オペラ座オペラ座風でよいと思っているようだ。1幕の民族舞踊もフランス風。ソヴィエト流アクロバティックなパ・ド・ドゥも、怖ろしく滑らかに踊り(とんでもなく技術がある)、劇的な効果をもたらさない。困難な技を簡単に見せることが、当然の職務だと思っているのだろう。スラブ風の哀愁、チャイコフスキーの悲劇性も身体化されず、このため、作品にやや隙間風が吹いている。本家では口伝で補われていると思われる。

バレエ・マスターがなぜかイレク・ムハメドフ。昨夏、吉田都の引退公演で、情熱的なパ・ド・ドゥを踊り、往時を偲ばせたばかり。なぜムハメドフ?

 

 

新国立劇場バレエ団『マノン』2020

標記公演を見た(2月22, 23, 26日 新国立劇場オペラパレス)。マクミランの最高傑作『マノン』は、74年英国ロイヤル・バレエにより初演。その後、世界各地で上演されるモダン・バレエの古典となった。新国立では03年初演、12年の再演を経て、今回が8年ぶり3回目の上演である。

今季が最後のシーズンとなる大原永子芸術監督の悲願は、ドラマティック・バレエの定着だった。残す演目は『ドン・キホーテ』と『不思議の国のアリス』のため、『マノン』が大原監督の集大成と言える。5公演のうち2公演が「新型コロナウイルス感染症拡大のリスクを低減する観点から」中止、という残念な事態となったが、初日からの3公演、主役から脇役に至るまで、全員が役の人生を生きて、監督の薫陶を明らかにした。

『マノン』が物語バレエの中で抜きん出た強度を誇るのは、デ・グリュー2幕ソロや、流刑者群舞などの表現主義的振付、キャラクターを表す演劇的振付、アクセントを付加したダンス・クラシックが、高度に織り合わされているからである。さらに、バランシン、プティと共通する合理を超えたムーヴメント、同時多発の芝居が、観客の無意識に強く作用し、感覚の拡大を強要する。アシュトン版『シンデレラ』の同時多発とは異なり、脇役の生も細かく描かれているため、ドラマが重層的に展開。何度見ても見切ることができない、「体験」に近い舞台受容となる。

レイトン・ルーカスとヒルダ・ゴーントによるマスネ―選曲(リーフレットに表記なし)も、『マノン』を傑作にした要因の一つ。出会いのパ・ド・ドゥの「エレジー」、沼地のパ・ド・ドゥの「聖処女の法悦」を始め、マノンの妖しいソロ、ルイジアナの女たち、流刑者の群舞など、耳に残る曲が多い。2011年にマーティン・イェーツが新編曲を施し、繊細で滑らかな音楽に変わった。イェーツの加えた3幕間奏曲は、ドラマの流れを却って断ち切る印象もあるが、編曲自体は作品の普遍化を促している。前回に続くピーター・ファーマーによる清潔な美術・衣裳にも、同じ効果を見ることができる(提供:オーストラリア・バレエ)。

マノンとデ・グリューは3組。初日と二日目は米沢唯とワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ プリンシパル)、三日目と最終日(中止)は小野絢子と福岡雄大、四日目(中止)は米沢と井澤駿、という組み合わせだった。二日連続でマノンを踊るだけでなく、週替わりとは言え、2人のデ・グリューと組む米沢のタフネスと、そのように育てた大原監督の情熱を思わされる。初役 井澤のロマンティックなデ・グリュー、それに応える米沢の、もう一人のマノンを見たかった。

米沢とムンタギロフは、14年の『眠れる森の美女』から17年の『くるみ割り人形』まで6回パートナーを組み(ガムザッティを入れると7回)、マクミラン版『R&J』も踊っている。当時は感情の遣り取りが二人だけで完結していたのが、今回は地に足を付けて自立する、個と個の対話に変わっていた。共に肉体が充実し、ベテランの域に入っている。

米沢のマノン像は、アベ・プレヴォ原作から多くを負っているように見える。マクミランはアイコンのようなマノンを造形したが、米沢はマノンの内面を探り、自分の理解を手放さないまま、デ・グリューと対峙した。意志のあるマノンである。寝室のパ・ド・ドゥの直後に、G.M. になびくのは、大きな壁だったのではないか。2幕の娼館で、デ・グリューに裏切りを責められる場面では、デ・グリューへの愛情が迸り、アルマンを突き放すマルグリットに似た 慈母のような佇まいを見せた。2幕ソロはオディールの味わい、沼地のパ・ド・ドゥでは、ジゼルの狂乱が拡張されて(出会いも『ジゼル』を引用)、マクミランの下敷きが初めて感じられた。出会い、寝室のパ・ド・ドゥは、まだ振付が見える部分もあったが、井澤デ・グリューとならどうだったか。

対するムンタギロフは、これまでの線の細さが消え、成熟した男性の魅力を湛えている。傑出した技術の持ち主だが、踊りの全てに感情が宿り、神学生としての慎ましい佇まいから、殺人を犯す激情まで、美徳と悪徳を往還する苦悩を生き抜いている。米沢とは言葉が聞こえるようなパートナーシップを感じさせた。

マノン二回目となる小野は、初演の無邪気な華やかさは薄らぎ、慎ましやかになった。その場その場での貞淑なマノン、といった風情。『ラ・バヤデール』に始まった福岡との、10年に亘るパートナーシップの総決算でもある(今季、来季も関係は続くが)。当初から兄妹のような印象。古典を極める同志でもあり、共に同じ方向を向いて進む親密なパートナーである。『マノン』4つのパ・ド・ドゥの複雑なパートナリングもスムーズで、二人の長年の歴史を思わされる。相手の呼吸を常に測る芝居も加わり、その緻密な共同作業に、観客も声援で応えた。その一方で、小野の個性である無邪気な愛らしさは、体の奥底で眠っているように見える。環境が変わる来季、新たな展開が期待される。

福岡のデ・グリューは、原作の冒険活劇的要素を汲み取って、それを拡大した造形。マクミランはデ・グリューの神学生としての側面を随所に描いているが(挨拶のソロ、パッキング・パ・ド・ドゥ)、本来の清らかさよりもハードな味わいが勝る。特にパッキングは、レスコーと見紛うほどだった。傷つき痩せ衰えたマノンを支える3幕では、福岡の踊りを通しての激情が炸裂する。劇的な沼地の終幕まで、一気に駆け抜けた。福岡らしいデ・グリュー像を示したと言えるが、肝心のマノンを恋する情熱が、身体化されていない。マチズモ的な恥の感覚が、それを妨げているのだろうか。

レスコーは、木下嘉人と渡邊峻郁。初日の木下は、技術の切れ、知的な役作り、俯瞰的な視野(酔っ払いのソロ、愛人とのコミカルなパ・ド・ドゥにおいても)が揃い、狂言廻しの役どころを楽しそうに演じた。米沢妹との阿吽の呼吸、ムンタギロフを抑え込む気合にも力みがない。はまり役だった。一方、渡邊は、本来デ・グリューのタイプ。近衛兵よりも神学生が似つかわしい。愛人の殴り方も、柔らかだった。

レスコーの愛人は、木村優里と寺田亜沙子が組まれたが、寺田は残念ながら負傷降板。急遽 木村が代役を務めた。木村の愛人は、パワフルで意志が強く、自ら人生を切り開いていくタイプ。高級娼婦を生業にしながら、レスコーを一途に愛する、のではなく、レスコーをしょうがないと思いつつ、大きく見守っている。将来は娼館のマダムになると思われる。渡邊レスコーとは当日の合わせだったが、それを微塵も感じさせなかった。

舞台の要となるムッシュー G.M. には、中家正博。人を金で操る厭らしさ、女性を値踏みするねっとりとした視線、マノンへのやや滑稽な溺れ方など、堂に入っている。1幕1場退場の際、ステッキで円を描くのではなく、マノンの体に沿わせ人型を描いたのは、中家の工夫だろうか。裏切られた後の、冷徹な男への変貌ぶりも鮮やかだった。

一方、3幕でマノンに腕輪を見せて悪夢を思い出させる看守には、貝川鐡夫。看守と言うよりも、所長といった趣で、陰惨な場面にもノーブルな雰囲気を漂わせた。また、キャスト表記はないが、1幕でマノンに付きまとう老人 内藤博の老練な芝居は、舞台に深みと奥行きを与える。劇場はリーフレット及び、キャスト表を充実させ、ダンサーに報いるべきだろう。

舞台のもう一人の要は、通常そこまでの役割とも思われない娼館のマダム、本島美和だった。登場するすべてのシーンで、自らの人生が生きられている。1幕でのマノンを値踏みする鋭い視線、家に来ない?と誘う姿の妖しい美しさ。2幕でマノンのソロを見る眼差しには、かつての自分を見るような懐かしさと、酸いも甘いも嚙み分けた遣り手の塩辛さが入り混じった。娼婦たちの統括、客あしらいに品があり、テーブルに乗って踊る姿やレスコーとのおふざけにも、矩を踰えないプロ意識が滲み出る。究極のはまり役だった。

物乞いのリーダー初日は、福田圭吾。役の踊りが素晴らしく、レスコーとの和気藹々、仲間を率いる統率力に、舞台が一気に熱を帯びた。三日目で最終日の速水渉悟は、なぜか集中を欠いた印象。中止発表、急遽代役による開幕遅れ(20分)が影響したのだろうか。むしろ初日、二日目の踊る紳士で見せた、怖ろしくシメトリカルな踊りに惹き込まれた(ムンタギロフも食い入るように見ていた)。井澤諒 配役の四日目は、残念ながら中止。美しい踊りとよく考えられた演技を見ることはできなかった。

高級娼婦、女優、娼婦、とバレエ団の若手からベテランまで勢ぞろい。特に池田理沙子と渡辺与布の喧嘩デュオは、思い切りの良さと芝居心に見る喜びがあった。娼婦アンサンブルの健康的な可愛らしさも。娼館の客では、浜崎恵二朗のエレガンス、趙載範の分厚い存在感が印象的だった。2幕マノンの空中遊泳で、趙がサポートするたびに安堵。カードのテーブルでの重量感も抜きん出ている。

指揮は編曲者のイェーツ、管弦楽は東京交響楽団。たくさんのマノンを見守ってきたイェーツが、米沢と小野を厚みのある劇的な音で支えている。

2月に見た振付家 2020

スー・ヒーリー@『ON VIEW : Panorama』(2月2日 横浜赤レンガ倉庫1号館 3F ホール)

「横浜ダンスコレクション2020」開幕公演で世界初演。振付・演出・映像はヒーリー、出演は、日本の浅井信好、湯浅永麻、香港のジョゼフ・リー、ムイ・チャック–イン、オーストラリアのナリーナ・ウェイト、ベンジャミン・ハンコック。同館 2F ではヒーリーのビデオ・インスタレーション ON VIEW『ダンス・アーティストのポートレート』上映が同時開催された。

上演前に、ヒーリーがフォワイエで作品説明。聞いている背後から、ハンコックが黒ラメの総タイツ、羽飾り、ハイヒールのドラグクイーン姿で登場し、人々を驚かせる。ぞろぞろとホールに入り、半透明の布に映された映像とその前に佇むダンサーを眺めながら移動。着席後、本編が始まる。

繊細なビデオ・インスタレーションを背景に、個々のダンサーのソロ、全員の関わるパートが交互に繰り返される。全員のパートは、「見る」「肩に手を置く」「歩いて交差する」「一人が踊って5人が床に寝転ぶ」など、日常的仕草を基本にした振付(ヒーリー)。個々のソロに比べると、動きの強度が低く、振付家というよりも、映像作家、演出家に思われる。終盤のスペクトラム光線、ダンサーが無数に映し出される無限映像、浄土を思わせる白い揺らぎ光線に、ヒーリーの本領が発揮された。

ダンサーでは、浅野のニュートラルな舞踏の体が印象深い。舞踏に付きまとう形而上的な匂いを排し、一技術として舞踏を用いている。白の着流し姿に漂う清潔な色気。僧侶のようにも、刺客のようにも。美しい体が、終幕の涅槃シーンの核となった。一方、昨年も開幕作品に登場した湯浅は、相変わらず湿度の高い粘り気のある体。バックのアメーバ映像に、蛍光色タイツの湯浅がしっくりと馴染んでいる。水に入る映像では、オンディーヌ、ではなく、日本的な妖怪風の妖しさがあった。リーのソロで、ベンジャミンと踊ったバックダンスが、怖ろしく巧い。他者の振付に肉薄する気合が並外れている。

 

宝満直也 @ NBAバレエ団『狼男』(2月15日昼 新国立劇場中劇場)

「HORROR NIGHT」と題されたダブル・ビルの一作。もう一作はマイケル・ピンク作『ドラキュラ」の第一幕である。後者は今夏全幕上演の予定だが、一幕のみでも、英国系物語バレエの伝統が明らかだった。英国ロイヤル・バレエの平野亮一(ドラキュラ)を始め、宮内浩之(ハーカー)、峰岸千晶(ミーナ)、三船元維(ヘルシンク)、3人の女バンパイアなど、細かい役作りに全幕への期待が高まる。野久保奈央を中心とする村人たちの踊りも、大地と直結したエネルギーにあふれていた。

宝満新作『狼男』は、得意とされる動物ものだが、これまでよりも抽象的な造形。人間の共同体が、異質にどう対するかという、普遍的な問題を扱っている。冒頭のシルエット・シーンでは、男(森田維央)が四つん這いの男に咬まれ、終幕の同シーンでは、少女(竹田仁美)が別の男を咬んで、血だらけの首を晒して終わる。疑心暗鬼の指差しシーン、男性アンサンブルによるコミック・リリーフも効果的。途中、紫色の神官服に身を包んだ刑部星矢が、狼男の首領として現れる。圧倒的な存在感、虚構度の高さは、物語に歪みを与えるほど強烈だった。狼女となる竹田とのパ・ド・ドゥもドラマティック。ベテランの竹田は、深い作品解釈、緻密な役作り、磨き抜かれた踊りで物語を牽引、振付家の優れた伝達者となった。中盤は人間関係が分かりにくく、整理は必要に思われるが、骨太のコンテンポラリー・バレエ作品。再演を期待したい(音楽の表記も)。

 

矢内原美邦 @ 全国共同制作オペラ『椿姫』GP(2月21日 東京芸術劇場コンサートホール)

矢内原初のオペラ演出は、音楽性よりも意味性を追求するアプローチだった。オペラの文法を壊そうとするニブロール風と、ドラマに沿ったオーソドックスな演出が同居する。冒頭の宴の場面では、5人のダンサーが道化のようにヴィオレッタを取り囲んで踊る。2幕1場ジェルモンとヴィオレッタの掛け合いでは、黒衣を着たダンサーたちが肩を落として歩き、壁を叩いてヴィオレッタの悲痛な胸の思いを代弁する(1幕では足音あり、音を立てる演出)。同2場のジプシーと闘牛士の踊りは、なぜかネイティヴ・アメリカンのようなニュアンス。合唱団も踊りに加わり、上着を放り上げるシークエンスを繰り返した。

スマホを取り入れた演出や、ジェルモンとヴィオレッタが、箱の上に立って歌う、降りて歌う、を交互に行う演出(建前と本音の別)など、意味が突出する場面もあったが、3幕は演出と音楽が一致した。赤いドレスを脱いで黒のスリップ姿になったヴィオレッタは、終始横座りで歌う。奥から砂時計をもった黒衣の男たちが、縦一列となって静かに前へ歩き、戻っていく。アルフレードとジェルモンは残り、椅子に座る。顔は見えず、影になったまま。ヴィオレッタの死の前の幻想という解釈だが、死にゆくヴィオレッタを静かに見守る効果があった。

一方、音楽的だったのが、ニブロール高橋啓祐による映像。場内はコンサートホールのため、客席を取り除いてオケピットを作る。幕がなく、常時、指揮者もオケも見える開放的な空間のなか、舞台奥、両袖上方まで広がる映像の力は大きかった。「第一幕への前奏曲」での彼岸花、ジェルモンの最後通牒での、カビ(不安)のように増える夜桜は、『椿姫』が日本で上演される意味を補完する。音楽の襞を掬い取る映像の、繊細かつスピーディな移り変わりが素晴らしかった。山羊(スケープゴート)の映像は、ヴィオレッタと肌が合わない気がする。