新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』〈新制作〉2021

標記公演を見た(10月23, 24, 30夜, 31日, 11月2, 3日 新国立劇場オペラパレス、11月7日 サントミューゼ上田市交流文化芸術センター 大ホール)。振付・演出はピーター・ライト、共同演出 ガリーナ・サムソワによる1981年初演の名版である(SWRB、マンチェスター、パレスシアター)。バレエ団にとって、98年の K・セルゲーエフ版、06年の牧阿佐美版(セルゲーエフ版による)に続く3つ目の『白鳥の湖』となる。これまでの2版はソ連時代の慣例で悲劇を避けていたが、ライト版は原点に戻り悲劇、しかも死後の世界と現在を同時に描く衝撃の結末である。

本来は吉田都芸術監督が就任した昨シーズンの開幕公演だったが、コロナ禍でコーチ陣の招聘が困難となり、今季に持ち越された。この1年ダンサーを見続けてきた吉田監督による万全の配役である。上田公演では速水渉悟の王子デビューが予定されたが、怪我で降板。初台初日のベンノ、他日のスペイン共々、残念ながら見ることができなかった。ステージングは元バーミンガム・ロイヤルバレエのノーテイター兼レペティトゥールのデニス・ボナー、主役コーチに元バーミンガム・ロイヤルバレエ プリンシパルの佐久間奈緒が招かれ、ライト版の真髄を伝えている。

演出面での大きな特徴は、「ロジカル」(吉田都)な物語展開。プロローグに先王の葬列を配し、王子の結婚、即位の緊急性を裏付ける。伝統に則った緻密なマイムは当然のこととして、舞踊シーンも全て物語に組み込まれ、誰に向かって踊られるのかが明確である。特にベンノと2人のクルティザンヌが王子を巻き込んで踊るパ・ド・トロワ(アンダンテ・ソステヌートは原曲通り)は、高度に演劇的だった。3幕花嫁候補のパ・ド・シスを部分的に復活させた演出も、ライト版の大きな特徴。物語の流れとして自然で、なおかつ舞踊的にも充実する。ハンガリー王女はPDS導入部、ポーランド王女はPDSVa4、イタリア王女は新発見曲Va2で、入り組んだ金細工のようなソロを踊る。4幕和解のパ・ド・ドゥにもPDSVa2が使用され、ブルメイステル、クランコ、ヌレエフによる原曲採用の流れを思わせた。登場人物では、道化はもちろんのこと、家庭教師も登場しないため、王子とベンノの関係性が強調される。終幕、ベンノが王子の遺骸を抱いて湖から上がってくる光景は、二人の幼少期に始まる濃密な歴史を感じさせた。

ライトの振付では3王女のソロが際立つ。ハンガリー王女の東洋的な神秘性、ポーランド王女の躍動感あふれる上体遣い、イタリア王女の細やかな足技、高速回転と、各国の個性がクラシック語彙の複雑な組み合わせによって示される。また宮廷男性陣に対し、クルティザンヌがレース模様のように絡みあう1幕乾杯の踊り、男性のタンバリンを女性が叩くナポリの踊りなど、対話のような振付が目立つ。3幕パ・ド・ドゥでは、アダージョにおけるオディールの跳びつきアラベスクが悪魔性を強調、4幕パ・ド・ドゥでは、アン・ドゥダン・ピルエットから片腕を半円にしてのけぞる特徴的なシークエンスが、オデットの絶望的な嘆きの象徴となった。

吉田監督が就任してから1年、女性ダンサーの踊り方が大きく変化した。今回の『白鳥』ではその最終形を見ることができる。主役から、ソリスト、アンサンブルに至るまで、上体を大きく使い、深く呼吸する吉田指導が徹底されている。統一されたライン美で定評のあった白鳥アンサンブルも、一人一人が自分の呼吸を保ち、意志を持ってフォーメーションを形成。見ているこちら側もゆったりと呼吸し、自分が肯定されている気分に。明日への活力を養うことができた。ファシズム的とも言えるライン美への陶酔の代わりに、生きるエネルギーを観客に与える白鳥アンサンブル。吉田監督の考える国立劇場としての理想の舞台に近づいている。

主役のオデット/オディールは4人。初日、4日目昼(未見)、上田は米沢唯、2日目、4日目夜は小野絢子、3日目(未見)、6日目は柴山紗帆、5日目、初台最終日は木村優里。振付解釈のディレクションが細かく入り、全員が明快な役作りを実現している。グラン・フェッテの旋回が大きくダイナミックになったことも共通点。吉田監督の指導だろうか。2幕グラン・アダージョは対話的、4幕和解のパ・ド・ドゥに感情の表出が求められているように思われる。

米沢は3月吹田とは異なる白鳥造形。相変わらず今を生きる姿勢を貫いている。初日は動きの生成感が強かったが、上田では常に相手と対峙し呼応する緻密な演技が前面に出た。湖畔のマイムに至るまで定型を洗い直している。白鳥は体を殺した求心的佇まい、黒鳥は丹田に力のある弾力的肉体。3幕回転技、フェッテは悪魔の所業風。鋭く完全で、容赦がなかった。

小野は音楽と一致した動きの精度、脚の表情に一段と磨きが掛かった。本人初日はエネルギーがやや弱めだったが、二回目には自らの思い描く白鳥・黒鳥像を生き生きと体現、美しさと力が漲っている。黒鳥の優雅さ、気品は相変わらず。白鳥の獰猛さを緻密に表現していたのが意外な驚きだった。

柴山は雑味のない水のような造形。外面的なライン美ではなく、バレエの体が必然的に生み出す芯の強い美しさが備わっている。基本に則った技術で、振付を力みなく遂行。動きから解釈が透けて見えない点に、肉体の神秘を感じさせる。本調子であれば音楽に身を委ねる無意識の領域まで至っただろう。白鳥らしい白鳥だった。

木村は伸びやかなラインとダイナミックな踊りが持ち味。横浜の『パキータ』にも言えることだが、これまでよりも一つ一つのパに集中しているため、今回は爆発的な脚の表現には至らなかった。あるいは踊り方を改造中なのか。狂気を含む無意識の大きさが木村の長所。改造後の飛躍に期待したい。

ジークフリート王子はそれぞれ、福岡雄大、奥村康祐、井澤駿、渡邊峻郁。初日の福岡は美しく端正な踊りが印象的だったが、上田では米沢オデット/オディールに魅了される王子に変貌を遂げた。憂鬱のソロ、喜びのソロを、初々しい王子となって踊る。グラン・アダージョ、オデットのソロでは、米沢を包み込むようにサポートし、見つめていた。初日全体を覆ったニヒルな硬さが氷を溶かすように消え、豊かな感情にあふれている。ライト版の演劇志向もあるが、米沢との呼吸に促されたのかもしれない。

奥村は1幕の憂鬱の表現、2幕オデットへの寄り添い、ロットバルト魔力の犠牲ぶり、4幕悲劇のニュアンスと、細やかな演技が際立った。道化もこなす芸域の広さだが、メランコリックな色調がよく似合う。丁寧でノーブルな踊りにさらに磨きが掛かり、パートナーを含め、目前の人への誠実さが滲み出る王子だった。

井澤は王子らしい格調高いスタイルが身についている。憂鬱のソロは、音楽、感情、役どころが一致した入魂の踊り。完全にジークフリートと同化していた。ノーブルな踊りもさることながら、エネルギーが爆発する荒事系の踊りも得意なので、ロットバルト(この版は踊らないが)でも見てみたい気がする。

渡邊はノーブルスタイルを身に付けつつある。切れ味鋭い踊りに磨きが掛かり、3幕ソロではトゥール・アン・レールの連続で喜びを爆発させた。二枚目なので王子は適役。マイムの様式性、自然な佇まいなど、演技面でのさらなる進化を期待したい。

王妃は今季からプリンシパル・キャラクター・アーティストとなった本島美和と、バレエ団元ソリスト盤若真美のWキャスト。本島の王妃はリアルな造形。夫を亡くした悲しみ、息子への愛情、臣下への慈愛が、自然なマイム、立ち居振る舞いから滲み出る。さぞ夫から愛されたことだろう。一方盤若は、98年のセルゲーエフ版初演においても王妃を演じている。マイムの様式性が高く、手・腕の表現に切れと強度がある。妃というよりも女王の風格。威厳に満ちた造形で、王妃の典型を示した。

ロットバルト男爵は、貝川鐡夫、中家正博、中島駿野の「時の案内人」トリオ(竜宮)。貝川の茫洋とした存在感、音楽を楽しみながら白鳥たちを指揮する姿に味わいがある。中家は気の漲る演技で、悪魔的存在を的確に描出、踊りがないのは残念だった。中島は人の好さが滲み出て、現段階では人間色が優っている。

ベンノは木下嘉人、福田圭吾、中島瑞生(上田)。木下の華やかで大きい踊りに目を見張る。考え抜かれた演技、学友としての気品が、ベンノのあるべき姿を現前させた。一方、福田は牧版で道化を踊ってきたせいか、ややそちら寄りの造形。王子を献身的に見守り、愛情深く従うベテランの芝居だった。中島は華のあるノーブルタイプ。踊りの質も向上し、今後に期待を抱かせる。

女性ソリスト陣は充実。ベテラン細田千晶のハンガリー王女、チャルダッシュは、クラシカルな気品に満ち溢れ、寺田亜沙子の2羽の白鳥、スペインは、隅々まで行き届いた踊りで後輩の手本となった。ライト版の見せ場であるクルティザンヌ、3王女のソリスト陣は鍛え抜かれている。飯野萌子、五月女遥、池田理沙子、奥田花純による盤石の踊り、廣田奈々、中島春菜の気品、廣川みくりのエネルギー、また新加入の根岸祐衣がゴージャスな踊り、池田紗弥が癖のない清潔な踊りを見せて、今後の配役予想を困難にさせた。また2羽の白鳥、王子友人たちの横山柊子が、生成感の強い踊りで舞台を活気づけている。チャルダッシュ木下の香り高い踊り、ナポリ五月女の相方を促すタンバリン叩き、音感の鋭さも印象深い。

女性陣はお化粧向上のため(?)、男性陣は王子友人を除いて、髭面が多く、本人特定が難しかった。それにも増して、踊りの癖を矯正する強力な指導、技術の底上げが、個人の特定を妨げている。バレエ団はプロ集団としての新たな局面を迎えたと言える。

指揮はポール・マーフィと冨田実里。マーフィの緩やかな指揮により、大編成の東京フィルハーモニー交響楽団はゆったりと演奏(時に管が落ちたり、弦がフラットになるも)。冨田は初台ではフォルテの響きが重かったが、上田の小編成になるとその駆動力が生かされた。白鳥たちは舞台に合わせて、30人から24人に変更。ライト版の本来に戻っている。

 

バレエシャンブルウエスト『シンデレラ』2021

標記公演を見た(10月10日昼 J:COMホール八王子)。演出・振付は今村博明と川口ゆり子。再演を重ねてきた重要なレパートリーである。5月公演『ジゼル』ではマイムの緻密さに驚かされたが、今回も冗長になりがちな1幕の演技が素晴らしかった。継母、義姉妹、父親の的確で味わい深い造形、ピンポイントの芝居の呼吸が、練達の演出によって実現されている。キャラクターに沿いつつ、音楽をくまなく掬い取る円熟の振付と共に、観客をメルヘン風物語の世界へと誘った。

主役パ・ド・ドゥのアクロバティックな難しさは、初演者に由来する。王子、道化のソロも高難度。王子には左右両回転シェネが課されている。3幕世界巡りでは王子と道化が続けて同じ振りを踊る。王子は最後に手を高く差し伸べ、道化は遠くを眺める仕草で終わり、役の違いを楽しく伝えた。なお1幕 仙女のソロに、プロコフィエフ組曲『夏の日』より「朝」、3幕 シンデレラと王子のパ・ド・ドゥに、組曲『冬のかがり火』より「アンダンテ・ドルチェ」が挿入されている(選曲:江藤勝己)。

主役のシンデレラは若手の川口まり(ソワレ:吉本真由美)、王子は藤島光太(ソワレ:橋本直樹)が務めた。共に清潔なクラシック・スタイルを持ち味とする。川口は1幕では自然体の演技、2幕ではアダージョの見せ方にやや硬さが見られたものの、美しいアチチュードでシンデレラの気高さを表現した。3幕では生き生きとした思い出しソロ、丁寧で情感豊かなパ・ド・ドゥを披露。今後は、師匠 川口ゆり子がリフト時に見せる絶対美を、ぜひ受け継いで欲しい。

王子の藤島は美しく明快な脚技が特徴。左右シェネをこなす高い技術を誇る。開放的で鷹揚なノーブルスタイル、大仰でなく的確に相手に応える芝居、前向きの明るさが揃った主役の器である。同じ振りを踊る道化には、井上良太。すべるような滑らかな踊り、愛嬌のあるあっさりとした演技で、藤島王子を軽やかに支えている。

1幕の主役とも言える継母の深沢祥子は、美しくわがままで可愛らしい。娘たちより自分が1番だが、憎めないのは深沢の人徳か。父親の正木亮もオロオロと困ったまま、どうすることもできない。欠点を含め愛しているのだろう。だがその父も、いざとなると妻と連れ子を押しとどめ、シンデレラを王子に「我が娘」として引き渡す。部屋の隅で不安気に佇む父親と、心から娘の幸せを願う父親に一貫性があるのは、正木の肚が決まっているから。全て分かっていて、家族を受け止める大きさがあった。

姉娘オデットの松村里沙はしっかりしていておきゃん、妹娘アロワサの斉藤菜々美は少し控えめで人が好い。カーテンコールまで役を生きていた。妖精の女王には美しく伸びやかなラインの伊藤可南。若手ながら、溌溂とした春の精 荒川紗玖良、おっとりした夏の精 柴田実樹、技巧派コオロギの早川侑希、きびきびとした秋の精 石原朱莉、穏やかな冬の精 河村美希を束ねている。粋なスペインの吉本泰久、貫禄オリエンタルの橋本尚美、スタイリッシュな王子友人 江本拓と、ベテラン勢も活躍。もう一人の王子友人 染谷野委は、芝居と融合した踊りでとぼけた味わいを醸し出した。

女性アンサンブルは同じスクール出身らしく、スタイルがよく揃っている。伸びやかなラインで呼吸深く、ゆったりと踊るため、観客も体が解きほぐされる。練り上げられた演出と相俟って、終演後には晴れ晴れと気持ちの良い後味を残した。

磯部省吾指揮、東京ニューシティ管弦楽団が、たっぷりと豊かな音作りで物語を支えている。

Noism Company Niigata ✕ 小林十市『A JOURNEY~記憶の中の記憶へ』

標記公演GPを見た(10月15日 KAAT 神奈川芸術劇場 ホール)。2ヵ月にわたって開催された「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021」の最終公演である。芸術監督の小林十市と、旧知の間柄である NCN芸術監督の金森穣がタッグを組む。双方に新たな刺激や展開をもたらす好企画と言える。小林がベジャール・バレエ・ローザンヌで活躍していた頃、金森がルードラ・ベジャールローザンヌ・バレエ学校に一期生として入学。金森にとって小林は、留学先で世話になった兄貴に近い存在だという。

作品は2部構成。小林の人生をめぐる旅を描く。音楽はベジャールの好んだマノス・ハジダキス、ユーグ・ル・バールを使用。中間部に金森の映像版『ボレロ』を再構成した舞台版が組み込まれる。冒頭、椅子に座った小林がカバンの中から写真を取り出す、一枚、また一枚。背後に映し出されるベジャール・バレエ時代の写真。「全て終わったこと」と、カバンを持って立ち去ろうとすると、金森が登場(ジル・ロマンや小林が着ていた黒のベストに白Tシャツ、黒ズボン)、小林を踊りへと誘う。肩を組んだギリシャの踊り、嬉しそうな二人。そこに井関佐和子も加わる。金森がシモテに椅子を置き、小林を座らせる。NCN の若手・ベテランによる『ボレロ』を見つめる小林。クライマックスの寸前、小林はシャツの袖をまくり、輪の中へ入る。バックには上からの映像。右腕を差し上げた瞬間、小林は倒れ、皆は立ち去る。(休憩)

2部冒頭、倒れたままの小林。鳥のさえずりで目を覚まし、あたりを見まわす。奥からグレーの制服を着た男女がゾンビのように現れ、ベジャール節で小林をなぶる。井関、ジョフォア・ポブラヴスキー、三好綾音、中尾洸太が、ピエロの衣裳を分割して着用。小林は赤鼻を付ける。ル・バールの奇妙な曲に合わせて、井関たちがひくつく笑い、踊り、リフト。井関と小林がタンゴを踊ったり。小林はピエロの衣裳を着るが、脱ぎ捨ててカバンに入れる。ゾンビたちのユニゾン、正対する小林。そこになぜか仮面をつけた金森が中央に入り、ひと頻り踊って奥へと消える。つられるようにユニゾンに加わる小林。バックはパリ5月革命の映像。男たちにリフトされ、椅子に座らされる小林。椅子の激しいソロ。やがて背景が雲の映像に変わり、元の景色へ。金森が小林に上着を着せ、一枚の写真を渡す。カバンを手に前へ進む小林。見守る金森。

50代に入った小林を、ベジャール様式を踏襲しながら、未来へと促す作品。ダンサー小林の過去と現在を見据え、ベジャール讃歌を謳いあげる 振付家金森の愛が見え隠れする。長い旅を経て再会した兄弟の暖かさに加え、ベジャールの作品が常に「出会う場」だったように、異質がぶつかり合う新鮮さに満ちていた。ただし、直前の同フェス「エリア50代」で小林の鮮やかなソロを見ていたため、少し複雑な心境に。そこには過去の蓄積を十二分に生かし、新たな語彙を取り入れ、50代の現在を生き抜いたダンサーがすでに存在していたからだ。

金森は小林に「道化」を見ているが、ベジャールはさらに進んで、異界との接点としての役割を担わせていたように思う。研ぎ澄まされたクラシック・ダンサーであること、芸道の家に育ったことによる宇宙的な視野の広さから、現世から離れた存在として作品世界を生きていた。今回 金森の世界で新たに見出された資質は、東洋的な佇まい。『ボレロ』を見つめる座り姿勢、終盤の椅子のソロからは、祖父から受け継いだ剣道の血が息づいていた。Noism メソッドが誘い水になったのだろうか。井関と踊るタンゴでは持ち前のノーブルな精神を発揮。カンパニーと踊るスタイリッシュなユニゾンでは、一人異次元にいた。巧さを追求せず、その場で魂を燃やすことに心を傾けている。まさしくベジャールダンサーそのものだった。小林に最も呼応したのは、同じ赤鼻を付けた中尾洸太。小林の自然な佇まいに寄り添い、心を通わせている。

「NHK バレエの饗宴 2021 in 横浜」

標記公演を見た(10月3日 神奈川県民ホール)。海外で活躍する邦人ダンサーをゲストに、国内のバレエ団、ダンスカンパニー、ダンスユニットが一堂に会する、祝祭的なバレエ公演である。後日 NHK 地上波で放送されるため、その年のバレエシーンを記録する貴重なアーカイヴともなっている。昨年はコロナ禍で海外出演者・関係者の来日が困難となり、中止を余儀なくされた。2年ぶりの今年は国内4団体(新国立劇場バレエ団、牧阿佐美バレヱ団、東京シティ・バレエ団、谷桃子バレエ団)が手の内に入ったレパートリーを携えて登場。本拠の NHK ホールが改修工事のため、横浜に会場を移しての開催である。

幕開けは新国立劇場バレエ団の『パキータ』(振付:マリウス・プティパ、音楽:ミンクス)。今年1月の「ニューイヤー・バレエ」(配信)でも上演された人気の古典1幕物である。マリインスキー・バレエから移植されたが、吉田都現芸術監督の英国系指導が加わり、ダンサーの個性を生かすパフォーマンスとなっている。主役のパキータには木村優里、リュシアンには井澤駿、パ・ド・トロワには池田理沙子、奥田花純、中島瑞生が配された。

木村の安定した技術、落ち着きある佇まいが舞台の要となる。大きさ、華やかさ、動きの爆発力が持ち味の、次代を担うプリマである。パートナーの井澤はダイナミックな踊りで舞台に勢いをもたらした。エネルギーが拮抗する大型カップルである。トロワ 池田、奥田の丁寧で行き届いた踊り、中島の華のあるノーブルスタイルに加え、ヴァリエーションを踊った原田舞子のすっきりとしたライン、中島春菜のふくよかな踊り、飯野萌子のニュアンスのある腕遣い、五月女遥の高い技術と音楽性が、舞台を晴れやかに彩った。12人の女性アンサンブルは、肉体の多様性を誇る。それぞれの体が促す内発的踊りにより、生き生きとしたスペイン・アンサンブルを形成した。格調の高さよりも、個々人が主体的に踊ることの楽しさが優るステージだった。

休憩を挟んで2つのモダンバレエが上演された。牧阿佐美バレヱ団の『アルルの女』(振付:ローラン・プティ、音楽:ビゼー)と、東京シティ・バレエ団の『Air!』(振付:ウヴェ・ショルツ、音楽:バッハ)である。牧阿佐美バレヱ団はプティとの関係が深く、オリジナル作品を所有する。プティによって見出されたダンサーも過去に少なくない。『アルルの女』は同団が初めて導入したプティ作品。目には見えないアルルの女を求めて狂気に至るフレデリには、水井駿介、幼馴染の許嫁ヴィヴェットには青山季可が配された。

水井は鋭い音楽性と、それを表現しうる高度な技術の持ち主。コーディネーションが素晴らしく、全てが踊りになっている。終幕のエネルギッシュなソロでは、その正確なパの一つ一つが音楽そのものと化した。一方、青山は繊細で妖精のような透明感を持ち味とする。プリマとしての成熟も加わり、フレデリに追いすがるヴィヴェットの哀しみ・絶望に、きらめく美が伴走する。物語の流れとは言え、フレデリが翻心しないのも不思議なほどだった。共に細かい振付ニュアンスを理解し、作品の骨格を明らかにする知的なパフォーマンス。無意識のエネルギー、感情の迸りはあえて抑制したか。プティの並外れた才能がクローズアップされる舞台だった。音楽性に定評ある男女アンサンブルはよく揃い、主役二人と心を共にしている。

続く東京シティ・バレエ団はショルツの作品を積極的に導入し、その天才的な音楽性を広く知らしめてきた。『Air!』は今年1月の「ウヴェ・ショルツ・セレクションⅡ」で、団初演された作品。「G 線上のアリア」で有名な バッハの『管弦楽組曲第3番』に振り付けられている。ショルツの若い時の作品で、左右に移動する二次元美の追求、カノンの楽しさ、リフレインの喜びなど、ショルツ語彙に瑞々しさが宿る。

「G 線上のアリア」は第2曲。ショルツ・ダンサーの佐合萌香と土橋冬夢、中森理恵と濱本泰然が、動きを違えながらWアダージョを踊る。佐合のピンポイントの踊りが素晴らしい。振付の方向性や意図を細かく読み取り、体に反映させることができる。第4曲で、4方向への動きを含む高難度のソロを エネルギッシュに踊った土橋が、手厚いサポートで佐合を支えている。中森の華やかさと濱本のノーブルな大きさも好い組み合わせだった。アースカラーのオールタイツを身に着けたアンサンブルは、松本佳織、玉浦誠の音楽性と正確な技術により、ショルツ・ワールドへと導かれている。若手 福田建太の晴れやかな踊りも印象深い。

最後は谷桃子バレエ団によるロマンティック・バレエの傑作『ジゼル』第2幕(振付:ジャン・コラーリ、ジュール・ペロー、マリウス・プティパ、音楽:アダン)。福田一雄編曲を含むバレエ団伝統のヴァージョンである。谷の当たり役だったジゼルには馳麻弥、アルブレヒトには今井智也、ヒラリオンは三木雄馬、ミルタは山口緋奈子という配役。馳はダイナミックな踊りを持ち味とする。その片鱗を跳躍等に滲ませながらも、体を殺し、ウィリの佇まいを身につけている。アルブレヒトを愛する伏し目がちの初々しいジゼルだった。対する今井は、バレエ団伝統の細やかなノーブルスタイルを体現。谷桃子直伝の「心で踊る」を実践する。終幕、1輪の花を手にマントを携えて、カミテ奥の朝焼けに向かって歩く。その姿にはアルブレヒトを生きた真実味があった。

ヒラリオンの三木は、役が肚に入っている。正統派の踊りと相俟って、ドラマの輪郭をくっきりと描き出した。山口のミルタは凍るような怖ろしさよりも、人間味が優る。それもあってか、ドゥ・ウィリを始め、ウィリたちは素朴で娘らしいアンサンブルだった。照明の記載がなかったが、美術(橋本潔)とよく一致し、奥深い夜の森を現出させている。

指揮は冨田実里、管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団。冨田はミンクスでは舞台を牽引、ビゼーでは踊りと完全に一致、アダンでは舞台を作り出している。ダンサーの動き・呼吸と密着した指揮だった。恒例のフィナーレは『眠れる森の美女』1幕ワルツ。今年は密を避けて、各団体のレヴェランスとリハーサル風景が映像で映し出された。最後にオケピットの冨田とオーケストラの面々が挨拶をして、華やかな饗宴は幕となった。

9月に見たバレエ公演2021

小林紀子バレエ・シアター「バレエ・ダブルビル 2021」(9月26日 新国立劇場 中劇場)

長年英国バレエをレパートリーとしてきたカンパニーが、2作の英国作品を上演した。フレデリック・アシュトンの『バレエの情景』とアルフレッド・ロドリゲスの『シンデレラ・スウィート』である。これまで演出陣を英国から招いてきたが、コロナ禍で来日が不可能に。英国ロイヤル・バレエ学校への留学経験があり、同国バレエへの造形が深い芸術監督の小林紀子が、前者の演出、後者の改訂振付・演出を行なっている。いつにも増して、英国スタイルを堪能できるダブル・ビルとなった。

『バレエの情景』(48年/団初演96年)はアシュトンのプティパ研究が盛んな時期の作品。『シンデレラ』と同年の初演である。ストラヴィンスキーの同名曲(44年)に、『眠れる森の美女』のローズ・アダージョ、友人アンサンブル、『白鳥の湖』の白鳥フォーメーションなど、プティパ振付が充てられている。その音楽の切り取り方、さらに万華鏡を思わせる全方位的フォーメーションに、アシュトンの鋭い音楽性、モダンな実験精神を見ることができる。ブルノンヴィル作品を思わせる大胆なエポールマンも特徴の一つ。後のフォーサイスをバランシンと共に予告する ポジションの組み合わせなど、古典バレエのスタイルが批評的に再構成される。その中で垣間見られるウイットに富んだ遊び心は、アシュトン独自の味わいである。

真野琴絵と八幡顕光を中心に、男性4人、女性12人が、きびきびと体を切り替えて、多種多様なフォーメーションを築いていく。真野のゆったりとした優雅さと瞬時のポーズ決め、肌理細やかな体の捌き、脚のラインが、アンサンブルの規範となる。同じポール・ド・ブラ、同じ背中の筋肉、同じエポールマン、ポアント音なしがアンサンブル全員に徹底された。男性4人を従える八幡の控えめなノーブルスタイル、これ見よがしのない高度な技、慎ましやかなサポートは、ベテランならではの味だった。

『シンデレラ・スウィート』(団初演89年)を振り付けたロドリゲスは、クランコ、マクミランより少し年上ながら、同時期にサドラーズ・ウェルズ・バレエに入団している(47年前後)。50年代から振付を始め、SWTB、SWB、RB、ミラノスカラ座RDBワルシャワグランドオペラ等に作品を提供した。小林紀子バレエ・シアターには第1回公演『オンディーヌ』(74年)をはじめ、『ダフニスとクロエ』(80年)、『ジュディス』(82年)、『シンデレラ』(90年)などを振り付けている。今回は『シンデレラ・スウィート』レパートリー保存のため、小林が改訂振付を行なった。

第2幕(舞踏会)に「四季の精」を加えた構成で、シンデレラがプリンセス姿から元に戻るまでを描く。父、継母、仙女は登場せず、王子とシンデレラの出会いを中心に、騎士たちの踊り、四季の精たち、宮廷の人々の踊りが配されている。プリマを中心とする儀式性の点で アシュトン版の影響は感じられるが、振付自体はもっとダイナミックで男性的な印象。四季の精たちも伸びやかな振付だった。バットリー多用、騎士たちのくっきりと円を描くロン・ド・ジャンブ・アン・レール・ソテ、四季の精コーダの左右両回転など、ブルノンヴィルの影響も窺わせる。

主役の島添亮子は、光り輝くプリマの佇まい。美しい白のチュールを曳いて登場する。一つ一つのパに心をこめ、パートナーの王子を優しく包み込む。今回は持ち前の音楽性よりも、存在感でシンデレラを造形した印象だった。対する王子は冨川直樹。ノーブルスタイルをよく意識し、大きい踊りを心掛けている。上月佑馬の道化は献身性と美しい踊り、義姉妹の澤田展生と佐々木淳史はあっさりとした女形芸だった。四季の精は、濱口千歩の爽やかな春、廣田有紀の華やかな夏、真野琴絵のきびきびとした秋、澁可奈子の大らかな冬、と個性が揃った。荒井成也、吉瀬智弘、望月一真、小山憲の溌溂とした王子友人、村山亮、杜海のノーブルな侍従長など、男性陣も充実。

井田勝大指揮、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団が、引き締まったストラヴィンスキーと情感豊かなプロコフィエフで舞台を盛り立てた。

 

スターダンサーズ・バレエ団「RESONATE」(9月29日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

バレエ団伝統の日本人振付家による創作集。団員の友杉洋之、関口啓、仲田直樹、佐藤万里絵が新作を発表した。4人とも現代曲を使用、振付家自身による楽曲、書下ろし楽曲も含まれる。都会的センスと優れた音楽性を特徴とする 同団らしい創作公演である。

幕開けの友杉作品『Message』は、A. Vatagin、Arca、2562、H. Tomosugi の楽曲を使用したバレエ寄りコンテンポラリーダンス作品。手、脚を使った体の対話、歩行と踊りの組み合わせなど、友杉自身が踊ったフォーサイス・スタイルを踏襲する。足立恒の照明も加わり、全体にスタイリッシュで整った印象だった。広い空間で多人数を踊らせる手腕も見せたが、友杉の個性を最も感じたのは、終盤の林田翔平と杉山桃子のユニゾン、その背後で練り歩くダンサー行列を、二人が振り返って見つめる終幕である。師匠の鈴木稔もフォーサイスの影響下にありながら、同時に盆踊り風の日本的共同体を現出させ、音楽に乗って踊る喜びを炸裂させた。師に倣い、友杉の匂いが隅々まで充満する作品も見てみたい。林田の入魂の踊り、杉山のゴージャスな味わい、渡辺恭子と池田武志の存在感、また川島治の知的な踊りが印象深い。

休憩を挟んで新人振付家による2作が上演された。関口作品『Holic』は、馬場宏樹(Qings)によるオリジナル楽曲を使用。ミニマルだがオーガニックな音楽である。舞台には机と椅子とパソコン。喜入依里の OL が帰宅し、リモートワークの愚痴をひと頻り喋って、若宮嘉紀の演じる愛犬ポチを呼ぶ。白地に黒ブチのポチは喜んで両脚跳び、喜入にじゃれつく。可愛がる喜入。喜入のお喋りに合わせて踊るポチ。喜入はネットで‛推し’が推すバレエ通販を見つけ、購入すると、派手なシャツに仮面の男が現れる。小澤倖造が切れ味鋭い踊りを披露。黄黒タイツのスレンダーな女性たちと男性も。なぜかポチも加わって仮面を取ったり。最後は喜入が仮面を投げてポチに取ってこさせるシーンで終わる。関口の性格を反映した機嫌のよい作品。ポチ振付の面白さ、若宮の愛らしさ。淡々と動いて、かつ面白い。喜入の太っ腹な芝居が作品の要となった。突拍子もない設定だが、振付自体に妙味がある。抽象的なバレエも見てみたい。

続く仲田作品『What about...』は仲田自身の音楽に振り付けられた。心臓の鼓動に重ねられる「ザ、ザ、ザ」と迫りくる音楽。災厄の後なのか、ダンサーたちのベージュの上下に茶色の汚れが。主役の秋山和沙はグレー・白のマーブルタイツ。右脚部分が腰まで捲り上げられ、瘡蓋状になっている。秋山の妖しくぬめっとした動き、柔らかい体、湿度のあるデヴロッペが、禍々しさを増幅させる。振付では、カミテで男女並んでのフォーメーションと動きに工夫があり面白かった。ドラマはなく心象風景が連なる、あくまで自分の美意識に忠実な作品。女性たちが全員やさぐれたロングヘアであることも、振付家の趣味を感じさせる。

最後は佐藤作品『SEASON❜s sky』。書下ろし曲を含む Anoice の音楽を使用する。波の音を含め、重厚で暗めの曲、ドラマティックな曲等で大きく骨太な構造を作る。プリマ渡辺恭子を中心に、水色花柄模様の6組の男女デュオ、紅・黄・薄茶の女性アンサンブルが多彩なフォーメーションを繰り広げた。多人数それぞれに見せ場を作り、全員に踊る喜びをもたらす振付家としての技量がある。幕開け、背中を見せた女性陣の左の掌に、床に仰向けになった男性陣の両足が乗った絵柄は衝撃的だった。これからシンフォニック・バレエに向かうのか、物語性を加えるのか、今後に注目したい。ダンサーたちは同僚の作品を喜びと共に踊っている。中でも渡辺の毅然とした佇まい、林田の伸びやかなソロが印象的だった。

 

 

9月に見た振付家・ダンサー2021

橋本ロマンス @「SICF20 Winners Performance」(9月11日 スパイラルホール)

2019年開催「スパイラル・インディペンデント・クリエイターズ・フェスティバル20」のパフォーマンス部門でグランプリを受賞した、橋本ロマンスの新作『パン(仮)』。何の先入観もなく見たので、その才能に驚いた。多種多様な出演者、明確な世界観の提示、それを確実に舞台化する演出力(空間・時間とも)、観客を挑発し、自世界に巻き込むエネルギー、終演後の空間を演出する‟ふてぶてしさ”。全体がみっちりと構成・演出されて、埋め草が1秒もなかった。美大勅使川原三郎のメソッドを学び、ピナ・バウシュ、フィリップ・ドゥクフレ、スズキ拓朗の影響を受けたとのこと。全員が演出系。だが、ヒップホップ、痙攣的な動き、モデル歩き(?)を組み合わせた振付語彙は、上記の誰とも似ていない上、動きのみで観客を魅了するキレと緻密さがある。幼少期からダンスを学んでいたのか。

作品は客電の付いたまま、ダンサーたちがモデル歩きで登場。舞台を闊歩し、観客にガンをつけて挑発する。大小、太細とヴァラエティに富んだ体型の8人は、モデルの YO、HIBARI、MINOR、NOHARA(PUMP management Tokyo)、ダンサーの甲斐ひろな、田中真夏、村井玲美、山田茉琳。いずれも優れた踊り手だが、特にYOとMINORの身体は、ダンス界を嘲笑するような異化効果があった。声はもちろん、ダンスの技量に頼ることなく、体一つで空間や観客と勝負する潔さがある。虚構度の高い華やかな体を持つ YO は、言わばプリマの位置。MINOR の両性具有+爬虫類系の色気は持ち味とは思うが、カーテンコールでの人の好い笑顔を見ると、橋本の演出が強く入っていることが分かる。ダンサーでは、頭に剃りの入った田中の全身挑発的な体(胸見せあり)が不穏な空気を醸し出す。甲斐と山田の二人三脚、村井とNOHARA の大小コンビ、HIBARI と MINOR のモデルユニゾンなど、総踊りに混じって、様々なシークエンスが庭石のように置かれている。

客電は中間部にも点いて、舞台と客席との境界を揺るがす。終幕のモデル闊歩で、田中の強い視線に目をそらした自分が恥ずかしかった。高みの見物で偉そうなことを言う自分も。ダンサーたちは終演後の自分を演じて、奥に入っていった。そのままかと思いきや、観客をほっぽり出すことなく、きちんとカーテンコールをするところに、橋本のバランス感覚がある。いわゆる「自己表現」の乳臭さが皆無であることも特徴の一つ。よほど強固な美意識、作品のイデアがあるのだろう。

 

山本康介 @ 「International Choreography ✕ Japanese Dancers ~舞踊の情熱~」GP(9月17日 神奈川県民ホール 大ホール)

3年に一度、横浜市内全域で行われるダンスフェスティバル「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021」の一環。12の有料公演と共に、観覧無料のダンスステージが3ヵ月にわたり繰り広げられる。芸術監督は元ベジャール・バレエ・ローザンヌ小林十市。小林のベジャールダンサーとしての蓄積や、50代を迎えた自身の経験を生かす個性的なプログラムが並んだ。本人もダンサーとして2公演に出演する。

標記公演の構成・演出は元バーミンガム・ロイヤル・バレエの山本康介が担当した。演目は上演順に、

・W. フォーサイス『ステップテクスト』(渡辺恭子、池田武志、関口啓、林田翔平)

・F. アシュトン『二羽の鳩』より pdd(島添亮子、厚地康雄)

・C. パイト『A Picture of You Falling』よりデュオ(鳴海令那、小㞍健太)

・R. プティ『マ・パヴロワ』より「タイスの瞑想曲」(上野水香、柄本弾)

・D. ビントレー『スパルタクス』より pdd(佐久間奈緒、厚地康雄)

・M. ベジャール『椿姫のエチュード』(中村祥子

・M. ベジャール『M』(池本祥真)

最終演目に続くフィナーレは、ベジャールの『火の鳥』から終曲。出演者全員が自演目衣裳のままベジャール語彙を踊る。ベジャールの下では皆平等。驚きの大団円だった。

作品上演の合間に、ダンサー・振付指導者が個々の振付家について語る映像が流される。フォーサイス、ショルツ(中止)、アシュトン、パイト、プティ、ビントレー、ベジャールの「作品と向き合う」演出の一端である。それぞれ 小山恵美+鈴木稔、木村規予香、佐久間奈緒、小㞍健太、ルイジ・ボニーノ、山本康介、クリスティーヌ・ブラン+小林十市が、振付家にまつわるエピソードや振付の特徴を語った。元スターダンサーズ・バレエ団芸術監督の遠藤善久が、NY で振付を行なった時、ダンサーの中にフォーサイスがいたエピソードは面白い。巡り巡って、フォーサイスの『ステップテクスト』スタダン初演時には、息子の遠藤康行が踊っている。またベジャール、ロマン、ブラン、小林が食事をしていて、急にブランのために『椿姫』を作ると言い出した話。ベジャールのインスピレーションの発生過程がよく分かる。

ゲネプロのため個々のパフォーマンス評は避けるが、この時点で振付家の息遣いが最も伝わってきたのは、『スパルタクス』だった。ビントレーの自然で流れるような音楽性、深く豊かな演劇性が、手兵の二人によって入魂の踊りへと昇華する。佐久間の雄弁な脚、感情の塊と化した肉体の素晴らしさ。厚地のノーブルな力強さと豊かなサポートが佐久間を大きく支える。実際のパートナーであることも奏功し、スパルタクスとフリーギアの濃やかな愛と別れの苦悩を、ハチャトリアンの名アダージョに乗せて情感豊かに描き出した。

また、作品未見のため振付家に肉薄していたかは分からないが、小㞍の精緻なコンテンポラリーダンス、またベジャールを踊った池本の正確なクラシック語彙など、質の高い舞踊も堪能することができた。ベジャールの『火の鳥』でまとめた小林十市芸術監督による熱いフィナーレ、スター主義ではなく、作品主導を貫いた山本康介芸術監督補佐の演出・構成が、モダンバレエからコンテンポラリーバレエへの系譜を辿る批評的なガラ・コンサートを作り上げた。

 

小林十市 @「エリア50代」(9月23, 25日 KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)

これも「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021」の一環。芸術監督小林十市と旧知の近藤良平が共に50代であることから、同じ50代のダンサーをゲストに迎え、4日間踊って語り合う企画である。ゲストは、安藤洋子、SAM(TRF)、伊藤キム、平山素子。このうち安藤と伊藤の回を見る。興味深いのは、ダンサーが振付家を指名する点。小林はコンテンポラリーのアブー・ラグラ、近藤はストリートのMIKIKO、安藤はフォーサイス(レパートリー)、SAM は能楽師 佐野登、伊藤はハウスの BOXER&Hagri、平山は舞踏の笠井叡を選んだ。いずれも面白い組み合わせである。なお舞台監督の原口佳子(出演あり)を始め、スタッフも全員が50代とのこと。

上演前に舞台で出演者3人がストレッチ。動きながら15分トークが始まり、クジ引きで出演順を決める。その不安や緊張感も楽しんで貰おうという趣向である。それぞれ約15分のソロを踊り、最後は椅子に座っての15分トークで終了。3番くじのダンサーはパフォーマンス直後のトークがきつそうに見えた(所見日は近藤、小林)。ダンサーの様々なコンディションの変化を間近で見られる、カジュアルで開かれた公演。小林監督の持つ宇宙規模の視野の広さが反映しているのだろう。

小林自身のソロは、フォーレの『パヴァーヌ』とラヴェルの『亡き王女のパヴァーヌ』で踊られた。ただし小林トークによると、最初は別の音楽で振付を完成させ、後からこの2曲に変えたという。振付が体に入った状態で、新しい音楽と動きを拮抗させるためか。実際、小林の踊りは音楽の叙情性に依存することなく、一つ一つの動きが粒だって見えた。

舞台には一畳ほどの白い机。小林はその机と対話するように動く。机からぶら下がる、机に腰かけて前傾し地面に落ちる、盲人のように手で机をさぐる、机の上でひっそりと横たわる、机の周りを跳ね回る、机の上でクネクネと踊る、最後は机に突っ伏して両腕を真横に広げて終わった。机はまるで友だちか相棒のようだった。これほど無機物と感応する踊りを見たことがない。振付のアブー・ラグラは、小林が椎間板を痛めて引退したことを知り、机をバーの代わりに採り入れたという。振付はバレエベース、力強い腕遣い、カジュアルな動きを組み合わせている。小林のクラシカルな美しさ、ベジャールダンサーとしての実存の深み、無垢な牧神を思わせる両性具有のエロスが迸るソロだった。

近藤は MIKIKO を選んだが、なぜか近藤の人生を辿る小品に仕上がっている。アコーディオン、卓袱台、ラジオ、古いテレビなどの小物遣い、映像、シルエット駆使、ラテン音楽多用は、近藤の演出と変わらない。近藤の演出なのか。初日は踊りに硬さがあったが、三日目は MIKIKO の振付を感じることができた。空間と和解したことで、近藤の叙情性、素朴な味わいがよく出ている。南米が侵すことのできない聖域であることも。本当は近藤色を排し、ダンサーとして新たな語彙に挑戦する踊りを見たかったのだが。

安藤はフォーサイスの『失われた委曲』抜粋ソロバージョン。第2部の自分のパートから見た作品像を踊ったとのこと。内股、内向きの体、両手で捧げ持つ仕草、印を結ぶ仕草、武術系低重心の動きなど、東洋的な体が頻出する。多軸、他重心のフォーサイス節もあるが、バレエによって分節された体ではないので、いわゆるバレエ解体には見えない。全般にフォルムを見せるのではなく、動きの流れや方向を示す舞踊手法だった。やや盛り込み過ぎの感があるのは、一人で何もかも踊ったからか。自身の個性を出すよりも、フォーサイスの振付を伝え残したいという使命感が強いように見える。安藤のアフロを含めた 6.5 頭身の体、寺の娘としての身体=精神は、フォーサイスの中でイコンのように輝いていたのだろう。

伊藤はハウスの BOXER&Hagri 振付。茶のジャケットを羽織った伊藤は、アップテンポの音楽でステップを踏む。本当はもっとステップがあるのかもしれないが、全て伊藤の踊りに。女性歌手ののどかな歌(日本語)では、伊藤の体から音楽が流れてきた。歌詞とメロディをじっくりと体で味わっている。優れた音楽性を基盤にした伊藤キム・ショーの趣。新語彙に挑戦するも無理がなく、優雅な色気を醸し出す練達のダンサー。この世に自由があるのだと思わせる、滋味あふれる自然体。舞踏の美点を受け継ぎつつ、ユーモアを加えた独自の境地にある。

 

安藤洋子 @ TRIAD DANCE PROJECT「ダンスの系譜学」横浜トライアウト公演(9月25日 Dance Base Yokohama)

安藤の新作『MOVING SHADOW』が30分、続いてフォーサイス振付『Study # 3』よりデュオが12分、終演後のトークが55分という公演。『MOVING SHADOW』とは ZUCCA のコレクション名から。今回の衣裳もサトウエミコが担当した。紺地に白の四角い水玉シースルーブラウスに紺のスパッツを、安藤、木ノ内乃々、山口泰侑が着用。青白い照明と相俟って、現実と影がうつろう空間を作り上げる。最初に英語のナレーション(数字数えあり)、終幕には木ノ内が宮沢賢治の『春と修羅』の序(一部)を暗唱。青い照明の根拠を示した。

幕開けは、中央で安藤が亡霊のように佇み、シモテ前に体操座りの山口、カミテ奥では木ノ内が「カァー」と鳴きながら爪先立ちスロー歩行をする。山口が立ち上がり、指を鳴らしながら(鳴らないが)「すみませーん」を必死で連発、空間の切断を図る。安藤は「エリア50代」と同じく、クネクネと東洋的、儀式的な動き。バレエ体の木ノ内はバリバリのフォーサイス節、ストリートの山口はフォーサイス振りながら、通常ではありえない手足の動きを見せる。横に揺れる動きなど、パ崩しを遥かに超えた柔軟性、見たことのない踊りだった。

企画に「振付の継承/再構築」を謳っているので、構成・演出はやはりフォーサイスの影響が濃厚。素手で作品を作った場合、もっと東洋的になる気がする。ダンサー安藤はクールに動きを遂行。80名から選んだ若者二人に対しては、(母ではなく)叔母のようなあり方だった。ダンサーの資質を見抜き、大きく育てる指導者としての力量が素晴らしい。

続くフォーサイス振付のデュオは、カンパニー最後の作品(12年)から。初演も安藤と島地による。5分ほど島地のソロ。破擦音を含む妙な言葉を発しながら、振付を味わい、思考する。充実した肉体に、フォーサイスを踊る喜びがあふれた。デュオはあまり絡まず。靴下パ・ド・ブレで前後に動く面白さ。ここでも安藤はクールに振付を遂行する。島地はあちらの世界に行っていたが、安藤は冷静に儀式を司っている感じ。踊ることが修行なのか。トム・ウィレムスのチリチリと繊細な音、霊妙なメロディがフォーサイス空間を作っていた。

アフタートークは安藤、島地、木ノ内、山口に、本公演のコンセプト/構成/プロデュースを担当した唐津絵理(DaBY 芸術監督/愛知県芸術劇場エグゼクティブプロデューサー)が司会に加わった。以下は印象に残った言葉。

【安藤】

フォーサイスは霊感が強い、ダンサーが思っていることと反対の事をする。

・自分はアジア人で初めてフォーサイスのカンパニーに入った。それまで超絶エリートたちとやっていたので、ちょっと変なアジア人に興味が涌いたのかも。

フォーサイス「僕が見たいのはダンスじゃない、アートだけ、そうだよね ヨーコ」。

・自分とヤス(島地)は、見える所と見えない所を結び付ける役、人と人の間を繋ぐ役が多かった。

フォーサイス「ヨーコに最高の音楽と照明をあげてるから、自分の踊りを踊ってくれ、酔わないで」。自分がきれいな音楽に「ふぁー」となると、すぐに暗転にされた。

・祖母が宮沢賢治が好き、一度ダンスにしたかった。

【島地】

フォーサイスは今まで一度も「戻った」ことがない、毎日がトライアルになる、そういう生き方。

フォーサイスはこことそうでない所が同時に存在している、精神、空間の作り方において。

・(安藤の「人と人を繋ぐ役」という言葉に応えて)自分は皆がバーッとやって終わって、ポツンと立っていたりとかした、ソロでダメ出しされたことはない、1つのワードを貰って考える。

・デュオの元ネタはあるが、ほとんどインプロ。対位法で、元の動きから次のジェネレーションを作る、男を女に変えたり。男女はイーヴン、男と女ではない。

 

 

 

谷桃子バレエ団「Alive」2021

標記公演を見た(8月29日 新国立劇場 中劇場)。バレエ団伝統の創作集である。演目は『Lightwarrior』(振付:日原永美子)、『Twilight Forest』(振付:岩上純)、『frustration』(振付:市橋万樹、石井潤太郎)、『OTHELLO』(振付:日原永美子、台本・装置:河内連太)。

オープニングの日原振付『Lightwarrior』は、馳麻弥を中心に、30人の女性アンサンブルが乱舞するシンフォニックバレエ(音楽:ヴィエニアフスキー)。床を使うモダンな語彙を多く含み、新たな音楽バレエを目指す意欲作と言える。団員たちもエネルギッシュに振付を遂行した。ただし、肝心の曲想と動き、フォーメーションとの関係が やや緩やかに見える。日原本来の資質は、文学作品や古典バレエからインスピレーションを得て、そこに音楽を付与するドラマ派。今回の純粋に音楽から振り付けるシンフォニックバレエは、大きなチャレンジだったと思われる。馳のゴージャスでダイナミックな踊りが印象的だった。

岩上振付『Twilight Forest』は、フォーキンの『レ・シルフィード』及び、谷桃子の『ロマンティック組曲』に対する現代的オマージュ(幕開けと終幕は同じ板付きフォルム)。月明かりの森のなか、ショパンノクターンやワルツに誘われて、詩人と男女の妖精たちが戯れる。主役の齊藤耀と女妖精はロマンティック・チュチュに裸足、檜山和久は白シャツにブルーグレーのズボン(書生風)、男妖精はグレータイツと、素朴でシンプルな装い。バレエベースの振付は、バランシン風の対決フォーメーションや、マッツ・エック風のモダンな腕遣いに彩られる(グランプリエなし)。何より素晴らしいのは、ムーヴメントやフォーメイションの全てが音楽から生み出されていること。音楽と動きの完全な一致に、身体的な心地よさが舞台に充満した。齊藤の音楽性と演劇性の自然な融合、妖精らしい軽やかなグラン・ジュテ、檜山の実直さとロマンティシズム。二人の息の合ったユニゾンが可愛かった。主役とアンサンブルの関係も見るほどに楽しい。

市橋=石井振付の『frustration』は、ヴィヴァルディの『四季』を使ったユーモアたっぷりの作品。あまりフラストレーションは感じなかった。牧村直紀(初日は田村幸弘)の超絶ソロを中心に、服部響、松尾力滝、田淵玲央奈、染谷野委(バレエシャンブルウエスト)が、玉突き出入り、おなじみカノン、バレエ歩きなどを粛々と遂行する。「冬」の盛り上がりにぴたりとはまる(はまり過ぎる)振付は、意図的。微細な振付の工夫、絶妙な音楽性に、胸の底からじんわりと楽しさ、面白さが湧きおこる。ゲストがいるにもかかわらず、団内創作ならではの親密さにあふれた作品だった。

日原振付『OTHELLO』(16年)は強力にグレードアップしていた。音楽は初演時からのシュニトケ「コンチェルト・グロッソ第1番」に「回心の詩編」より。モダンな振付のドラマティックな強度と動きの切れが増し、主役とコロスの関係が物語をさらに明確にしている。何よりも登場人物の造形が深く立体的になった。髙部尚子芸術監督の「オセローが主役というところを一本通して下さい」(プログラム)との指示に応えた形だ。演技派 髙部監督のアドヴァイスもあったのではと思わせるほど、バレエ団伝統の演劇性が息づいている。主要キャストの全員がはまり役だった。

オセローには今井智也。無意識まで分け入る存在の大きさ、厚みのあるダイナミックな動きが作品の熱い核となった。対するデズデモーナは佐藤麻利香。純真無垢な気品と慈愛、さらにオセローの嫉妬に駆られた妄想場面では、男たちを手玉にとる官能が美しい体を妖しく輝かせる。雄弁な脚遣いも加わり、白鳥と黒鳥に匹敵する演じ分けだった。再演組、三木雄馬のイアーゴー、檜山和久のキャシオーは、一段と磨きが掛かっている。どす黒い嫉妬の塊 三木イアーゴーの邪悪さ、やや能天気な檜山キャシオーの二枚目ぶりが、オセロー夫妻を残酷な死へと追いやった。そのイアーゴーの妻エミリアには山口緋奈子。庶民的な人の好さ、夫への愛、女主人デズデモーナへの愛が身体化されている。デスデモーナを殺したオセローを突き飛ばす激しさ。最後はオセローとデズデモーナの手を高く結び合わせ、傍らでひたすら祈りを捧げた。シモテには改悛しない黒々とした三木イアーゴー。主人夫妻の結ばれた手がぱたりと落ちて幕となった。

演劇的バレエ、コンテンポラリー系の創作が並んだ 谷桃子バレエ団らしい公演。今回発表はなかったが、所属振付家の髙部尚子、植田理恵子、伊藤範子の新作にも期待したい。