新国立劇場バレエ団『アンナ・カレーニナ』

新国立劇場バレエ団『アンナ・カレーニナ』評をアップする。

新国立劇場バレエ団春の中劇場公演は、2年ぶり2回目の『アンナ・カレーニナ』。ソビエト・バレエの伝統を受け継ぎ、それを極限まで進化させたボリス・エイフマンの作品である(05年)。
エイフマンはトルストイの原作から、アンナの不安定な感情と、死の強迫観念をクローズアップし、夫カレーニンと愛人ヴロンスキーとの三角関係および、社会の倫理的圧力を、群舞を巧みに使って描き出した。
アンナとヴロンスキーが恋に落ちる一幕は、群舞を含めて浮遊感のある振付、三角関係と社会の圧力に苦しむ二幕は、地に着いた動きが多い。アンナの感情は逐一、アクロバティックなリフトや新体操のような曲がりくねった動きに変換される。特に逆ハの字や卍型の脚線、硬直した歩行、アヘンを飲んだ直後の胎内回帰幻想における内股が印象深い。
激烈とも言える振付は、主役ダンサーに肉体の全てを差し出し、存在を剥き出しにすることを要求する。そこにトップスピードの群舞が加わり、舞台は祝祭的なエネルギーの渦巻く場と化す。バレエ団初演時には、そのあまりの凄まじさに悲壮感すら漂ったが、今回はバレエ団全体が作品を咀嚼し、輝きを加えることに成功した。特に男性群舞の体がほぐれ、無意識の伸びやかさが出せるようになったことは大きい。
キャストは3組。初演組の厚木三杏(アンナ)、山本隆之(カレーニン)、貝川鐵夫(ヴロンスキー)が、集大成とも言える演技を見せた。
厚木は肉体改造を敢行、美しい肢体に纏った筋肉を使い、前回よりも十全に振付の機微を明らかにした。倒立リフトは絶対的ラインを築き、叙情的に流しがちな愛のパ・ド・ドゥ全てに動きの解釈を入れている。そのためアンナの感情と言うより実存が滲み出て、マクミラン流の醜悪さまで描かれることになった。デコルテの美しいドレス姿からオールタイツまで、全身が感覚器官のごとく自在。振付家のヴィジョンを汲み取りそれを実行する能力と、果敢な背面ジャンプや投身が象徴する自己放棄の激しさが、全て花開いた舞台だった。
一方、夫カレーニン役の山本は前回よりも渋さが加わり、人生の苦汁が滲み出る深い役作りを行なっている。振付の解析度、動きの密度が高く、様々な振付作品を踊ってきた蓄積を感じさせる。膝歩行するソロはコンサートピースにできる程の素晴らしさだった。サポートの巧さはバレエ団随一。厚木をたやすく踊らせ、解釈の実現に大きく貢献した。
愛人ヴロンスキー役の貝川は、前回よりも抑えた演技。素直な役作り、茫洋とした肉体の存在感、厚木に体を貸すような献身的サポートに独自の美点があった。
初役組の長田佳世、マイレン・トレウバエフ、厚地康雄は、ロシアでエイフマンに直接指導を受けた初演組に比べると、準備期間の短さが明らかである。エイフマンの語彙、リフトのフォルムはまだ不完全、役作りも空白が残されている。しかし、長田はその豊かな音楽性で、トレウバエフは端正な踊りで、厚地はノーブルなスタイルで、可能な限り舞台を盛り上げた。アンナの造型はまだ途上にあるが、音楽がよく聞こえたのは、長田の功績である。
ゲストは当然エイフマン・バレエから。ニーナ・ズミエヴェッツ、オレグ・マルコフ、オレグ・ガヴィシェフは、特大の肉体で迫力ある舞台を作り上げた。特にズミエヴェッツは前回よりも解釈が深まり、終始アンナとして生き続けている。一幕雪の中、オモチャの機関車が描く輪の中で苦しむ姿が素晴らしかった。
キティ役では前回同様、堀口純が短いシークエンスで的確にドラマを立ち上げ、ソリスト江本拓が、エポールマンとモダンな動きを見事に組み合わせた鮮烈な踊りで、群舞を牽引した。(3月16日、17日昼夜、20日 新国立劇場中劇場)
『音楽舞踊新聞』平成24年5月1日号 No.2869


ウィーン国立バレエ団ガラでも、この作品のパ・ド・ドゥが上演された。カレーニンがアンナを責めるデュエットと、カレーニンが膝歩行する苦悶のソロのシークエンス。イリーナ・ツィンバルとエノ・ペシというプリンシパルソリストの配役だったが、贔屓目ではなく、新国の厚木=山本組の解釈とパフォーマンスが遙かに優っていた。経験知も才能も異なる上、観客の志向が両国では違う(ような気がする)ので一概には言えないが。新国の芸術監督D・ビントレーによると「日本人ダンサーはエモーショナル」。バレエダンサーが職業に成りきれていない現状と裏腹かもしれないが。