ニューヨーク・シティ・バレエ A・Bプロ 追記

標記公演評をアップする。今回のNYCB公演は、ほとんどバランシン作品。これまでのようにマーティンスやラトマンスキー、ウィールダンの創作物は上演されなかったので、ダンサー達がバランシン・テクニックに集中したのか、以前気付かなかった繊細なポアントワークに惹きつけられた。通常のバレリーナ体形ではないダンサー達が、足音を立てずに細かい足技を繰り出す。伝統芸能のようでもあり、プロテスタント信仰の証のようでもある。華美を嫌う清教徒気質に合致したテクニックなのだろうか。あるいはブルノンヴィル・メソッドで育ったマーティンスの嗜好なのだろうか(ブルノンヴィルはクリエイティヴなクラスを行なっていたが、死後メソッドが固定化され、曜日ごとのクラスが行われるようになった)。もしマーティンスが芸術監督になっていなかったら、バランシンの持つ帝政ロシアの華やかな雰囲気が維持されていたのだろうか。「質実な古き良きアメリカ」という印象が残る公演だった。
追記:バランシン専門家の上野房子さんより、貴重なご指摘を頂いた。『セレナーデ』の国内上演は6団体(スターダンサーズ・バレエ団、牧阿佐美バレヱ団、新国立劇場バレエ団、Kバレエカンパニー、松山バレエ団、貞松・浜田バレエ団)。訂正します。

米国を代表するバレエ団の一つ、ニューヨーク・シティ・バレエが、二つのプログラムを携えて4年ぶりに来日した。両プロとも、創立者バランシンの世界的レパートリーを並べ、Aプロではロビンズの『ウエスト・サイド・ストーリー組曲』、Bプロではバランシン振付の一幕版『白鳥の湖』を加えて、バランシン・ファンのみならず、一般観客をも楽しませるプログラムとなっている。


Aプロ冒頭の『セレナーデ』は、日本国内だけでも3団体(上記参照)が上演する古典中の古典。幕が開くと、長身でボリュームのある女性ダンサーが整然と並んでいる。いわゆるバランシン・バレリーナのイメージではなく、腕使いも他国のバレエ団のように揃っている訳でもない。だが見ていくうちに、その体格に比してポアント音が聞こえないことに気が付いた。アンサンブルの足先を眺めると、まるでバレエシューズのような柔らかさでポアントワークが実行されている。着地の音も皆無。男性ダンサーも同じである。これまで長身の美女が優れた音楽性で統一されるのが『セレナーデ』の理想と思っていたが(それもバランシンの美意識の一端には違いないが)、この柔らかいポアントワークこそ、バランシンの神髄なのではないか。スクール・オブ・アメリカン・バレエの生徒に振り付けられた『セレナーデ』は、生徒が遅れてきたり倒れたりした偶然の出来事を振付に取り入れている。アンサンブルの密やかな足の統一は、作品に本来備わっている、偶然を必然に変える儀式性を浮かび上がらせた。


続く『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメント』と『タランテラ』、Bプロの『フォー・テンペラメンツ』と『シンフォニー・イン・C』も同様だった。他のバレエ団では真似のできない精緻な職人技による、奇跡的なパフォーマンスの連続だった。ブルノンヴィル・スタイルと同じ、伝統芸能の匂いがする。


一方、バランシンが観客のために創った一幕版『白鳥の湖』は本邦初演。二幕と四幕を合体させ、王子のヴァリエーションを加えた。オデット以外は黒鳥で、張りのない膝丈チュチュのため人間に近い感じを受ける。オデットと王子を二羽の大きい黒鳥が引き裂く点、王子の友人が10人登場し、グラン・アダージョで黒鳥たちと10組のトロワを作る点が、バランシンらしい面白さだった。


今回の公演はバランシンの残り香を伝えるウェンディ・ウィーランが来日せず、いわゆるスターダンサーは不在。しかしバレエ団全体の士気が上がり、順当に世代交代が進んでいる。女性ではアシュリー・ボーダー、ミーガン・フェアチャイルド、タイラー・ペック、サラ・マーンズが魔術的なポアントワークを誇り、ジョルジーナ・パズコギンが『ウエスト・サイド』のアニタで手練の踊りを見せた。また、バレエ団伝統のダンスール・ノーブルも健在。エイドリアン・ダンチグ=ワーリング、ロバート・フェアチャイルド、タイラー・アングル、テイラー・スタンリーの古風な騎士ぶりは、現代では珍しい慎ましさを纏っている。


演奏はクロチルド・オトラント、ダニエル・キャプス指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団。バレエ団指名のオケだけあって、新日フィルの健康的で豊かな音は、闊達な舞台によくマッチしていた。なおバランシンのポアントワークについては、スキ・ショーラー著『バランシン・テクニック』上野房子、里見悦郎訳(大修館、2013)に詳しい記述がある。(10月23日昼夜 オーチャードホール) 『音楽舞踊新聞』No.2914(H25.12.1号)初出