山野博大編著『踊るひとにきく』を読む

山野博大編著『踊るひとにきく』をほぼ読了した(人名録がまだ)。発行日は2014年5月31日、発行所は株式会社 三元社、定価は本体4200円+税。全部で411頁の大著である。
この本の特徴は、踊る人に語らせていること。山野氏だったら、これまでの公演評、プログラムや雑誌に書かれた文章、弔辞、「二〇世紀舞踊の会」の檄文等をまとめて、戦後洋舞史を辿ることができたと思う。が、そうはせず、新たに「日本の洋舞一〇〇年」を書き下ろした上で、洋舞のダンサー、振付家、批評家との鼎談やインタヴューをメインに持ってきた。日本洋舞界へ長年寄り添ってこられた山野氏の、献身的で深い愛情が感じられる構成である。
「日本の洋舞一〇〇年」では、私淑された光吉夏弥氏の教えを我々に残している。

舞踊の歴史は、書かれた批評によって日々作られていくものなのだというのが光吉夏弥の基本的な姿勢だった。批評は舞踊に対してそれなりの責任を負うという自覚なしに書くべきものではないという姿勢を常に崩さなかった。この歴史重視の姿勢が、彼を舞踊資料の整理という日々の作業に向かわせたのだと思う。私には「舞踊批評はそこで演じられているものを舞踊の歴史の中に正しく位置づける作業だ」と、いつも言っていた(p.30)。


光吉夏弥という人は、どちらかというと人づきあいの悪い方で、舞踊家と親しくすることはほとんどなかった。私にも舞踊家と付き合うと、いざという時にずばりと書けなくなるから、気をつけた方がよいと、いつも云っていた(p.30)。


光吉夏弥は、批評の読み方についても教えてくれた・・・海外の舞踊の様子は、向こうで出ている新聞の舞踊欄や舞踊専門の雑誌を読んで知る以外に方法がなかった。それを読む時に、書き手の癖をわきまえて読むのが光吉流だった・・・彼は批評家の書き癖をわきまえて読み、微妙な調整をほどこして、世界の舞踊の動向を「正しく」見抜くのだと言っていた。この批評を読むにあたっての微調整方式は、日本の同業のライターの書いたものを読む時にも役に立つ(p.31)。

最初の引用は、光吉の考える舞踊批評家の心構えと、批評のあるべき姿を伝える。二つ目の引用は批評家が心がけるべき態度だが、実は続けて「現代舞踊の江口隆哉や数人は例外で、渋谷の飲み屋での出会いを楽しんでいた。光吉、江口の両人ともお酒を飲まなかったが、店の常連の他の分野の人たちとの語らいを求めて通っていたのだろう。」とある。光吉と江口の交流は、後掲の鼎談でも触れられている。三つ目の引用は、上の二つ同様、山野氏の実践されるところである。本書の随所で、先輩批評家の癖を分析されており、そのユーモアたっぷりの筆致に何度も頬が緩んだ。おそらく現批評家の癖も密かに分析されていると思う。
一方、鼎談、インタヴューは、モダンダンスを軸に置いた日本洋舞史の貴重な一次資料である。新しい発見(もちろん自分にとって)や面白いエピソードが満載だった。そのいくつかを以下に挙げてみる。

現代舞踊協会から津田信敏一派(若松美黄、土方巽を含む)が脱退したのは、山野氏の書いた協会批判の文章がきっかけだった(p.125)。
・若松美黄は、オリガ・サファイア・バレエのプリンシパルだった(p.128)。
・バレエに対して一線を画していた宮操子が、「バレエは伝統の基本があって、それをやっていればなんとかなる。モダンダンスの場合は本当に帰るところが自分しかない。バレエは帰るところがあっていいな」と書いていた(p.275 正田千鶴談)。
大野一雄笠井叡の不思議な師弟関係(月謝を取らない、食事、コーヒー、煙草、帰りの電車賃をくれる、劇場の借り賃まで払ってくれた)が示す大野の浮世離れした人柄(p.293)。
・佐多達枝の寸評「ベジャールが好きなのはなぜかというと、あの人はすごく踊りが好きな人だと思うんですよ。もちろんいろんな演出をやってますけど、もとはね、踊り馬鹿なんじゃないかなって感じるから好きなんです。だからノイマイヤーは嫌い。」(p.312)。
・「大野一雄は江口・宮舞踊研究所に寝泊まりして踊っていたんだけど、江口より宮さんの稽古に出たかったと言っている」(p.337 合田成男氏談)。

若松美黄がのちに現代舞踊協会の会長になったことの歴史的な意味や、大野一雄土方巽のモダンダンスとの深い関わりが、当時関わった人々の生の言葉を読むことにより、朧気ながら分かった気がする。
巻末には、日本の舞踊史、世界の舞踊史、国内外の出来事をまとめた緻密な年表(安田敬氏作製)と、この本の元となった《ダンス=人間史》を企画した HOT HEAD WORKS ディレクターの加藤みや子による詳しいあとがきが付されている。