新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』2015

標記公演を見た(2月17、21、22日 新国立劇場オペラパレス)。牧阿佐美版『ラ・バヤデール』の特徴は、ニキヤとソロルが冥界で結ばれない点と、太鼓の踊りがない点。後は概ね伝統的な演出を踏襲している。特に優れているのが、アリステア・リヴィングストンの美術と照明。幕開けや幕を繋ぐ場面で、ランチベリーの編曲に合わせて、黒と銀の森が上下に開閉する。こうした美術と音楽の同期は、他の版では見たことがない。恐らくリヴィングストンのアイデアが反映されていると思われる(今回のプログラムには名前の記載がない、理由は不明)。

3キャストを見て、震撼させられたのは米沢唯(初日ガムザッティ、最終日ニキヤ)。ガムザッティ時の体の美しさ、最小限の身振りで最大限のエネルギーを発散する。 体全体に艶があり、伝統芸能のようなトロみを後に残した。一方のニキヤに変わると、米沢の思考が氾濫した。最初のソロは巫女そのもの。そのまま神社で踊っても差し支えない心的境地。逢引き、ガムザッティとのやりとり、恨み節は当然のレヴェルだが、バレエ・ブランには驚かされた。米沢本来の大きさになり(これまで小さく見えていた)、古典の気品が漂う。つま先まで神経が行き届いたからだろう。最後の山登りは慈愛に満ちていた。誰もしていない解釈。ニキヤは許しているのに、ソロルが付いていけなかったという結末。
米沢はこれまで内容を注視するあまり、踊りのスタイルを等閑視する傾向があった。結果、古典もバランシンもコンテも同じ踊り方になる。最初の頃は意識の集中で身体の質を変えており(もちろん誰にもマネできない身体表現)、いつもびっくりして見ていたが、それだけでは表現の幅が限られる。スタイルの把握は社会化を意味する。大劇場の主役をやる以上、必要だっただろう。

今回は小野絢子のニキヤと米沢のガムザッティという贅沢な組み合わせを見ることができた。大原永子芸監の采配。これまでガムザッティは演技、見た目がぴったりでも、二幕で観客を緊張させる(大丈夫か)場合が多かった。初めて対等のライバル関係を見た気がする。小野も体を大きく使うことが不自然ではなくなり(ムンタギロフの高さもあるか)、何よりも、自分の解釈を超えたパフォーマンスに、粛然とさせられた。作品に自分を投入している。供物としての踊りだった。小野と米沢が互いに影響しあっていること、正反対の資質だが、高い精神性を共有する二つの才能が、同時期にバレエ団にいることの幸福を思った。

男では、福岡雄大ソロル、貝川鐵夫のラジャー、輪島拓也のトロラグヴァ、福田圭吾のマグダヴェヤ、奥村康祐の黄金の神像、女では、長田佳世のガムザッティ、柴山紗帆の第1ヴァリエーション、原田舞子のつぼの踊りが印象深い。第2キャストの長田、菅野英男、本島美和の組は、舞台自体がなぜか低血圧、理由は分からず。ファキール、兵士達は大柄になり、見ごたえがあった(プログラムに名前の記載なし)。一幕バヤデールの踊り、ジャンペの踊り、三幕影のコール・ド・バレエは、牧時代に比べると揃っていないが、生き生きと踊っている。大原芸監の趣味だろう。

熱血指揮者アレクセイ・バクランが、東京交響楽団の厚みのある、熱い演奏に満足していた。バクランはフェッテ関係の速度に容赦ないが、最終日、米沢の一幕ソロにやられた様子。そこからは米沢の呼吸にすべてを合わせていた。オケが先走っても関係なく。バレエを熱烈に愛している指揮者。