新国立劇場バレエ団「ダンス・トゥー・ザ・フューチャー2016 オータム」

標記公演を見た(11月18、19、20日 新国立劇場小劇場)。今年3月、中劇場で同名企画が上演されたが、再び小劇場に戻っている。ただ、これまでとは異なり、「生え抜き振付家による作品集」の趣。レベルの揃った6作品(4振付家)に、ピアノ・トリオ(日替わり)との即興、という興味深いプログラムが組まれた。一晩の公演としては充実し、観客も満足していたが、振付家を育成する、所属ダンサーに別の角度から光を当てる、といった本来の趣旨からはやや遠ざかった。こうした面を、例えば、ダンサー主催のスタジオ・パフォーマンス等で補うことはできないだろうか。成田遥の踊りや、小柴富久修のコミカル面は、同僚ダンサーの作品で見ることができた。


三部構成の第一部は、貝川鐵夫の『ロマンス』(音楽:ショパン)から。小野絢子をトップとする女性5人が、ベージュのハイネック・レオタードで踊る。冒頭の脚線美、柔らかいロン・ド・ジャンブなど、女性の美しさを見せつけるが、背面を見せた途端、大きく開いたレオタードから、細かく割れた傷のような筋肉が目に跳びこんで、美の背後にある厳しい鍛錬、苦しみが露わになる。筋肉はねじれ、歪み、静止するが、再び柔らかな動きへと戻る。最後はなぜか美しい正座で終わる。なぜかは、貝川自身も分からないだろう。そこに貝川の才能の秘密がある。振付は相変わらず高度に音楽的。貝川自身の体に音楽を通すとこうなる、という振付。ピアノの音の細かい襞まで、振りを付ける。小野がそれを繊細に身体化した。レパートリー化を期待したい。
二作目も同じく貝川の『angel passes』(音楽:ヘンデル)。『メサイア』からテノールのアリアを選び、男性ソロを振り付けた。当初は井澤駿と小野寺雄のWキャストだったが、井澤の故障でシングルに。クラシックをベースに、四方を指さす輝かしいソロである。天使と小野寺は合っていると思うが、なぜか光のような踊りを見せないままに終わった。実力を発揮できていない。
三作目は木下嘉人の『ブリッツェン』(音楽:マックス・リヒター)。弦の繰り返しが徐々に高まる美しい音楽をバックに、米沢唯、池田武志、宇賀大将が踊る。言わば正統派のコンテンポラリー作品である。木下の体にはコンテの語彙が入っており、それが音楽と共に自然に流れ出る、といった印象。コンセプト・構成も明快、いつでも舞台作品を作り出せる(と思わせる)。米沢はコンテの経験を色々積んできて、自分の表現の枠に取り込めるようになった。白シャツ、黒ブルマ、白靴下がよく似合う。池田のたくましいリフト、宇賀の鋭い振付解釈が揃い、音楽に身を委ねて見ることができた。


第二部は宝満直也の『Disconnect』(音楽:マックス・リヒター)から。レクイエムのような悲痛な音楽で、五月女遥と宝満自身が踊る。コンセプトは繋がれないこと。2倍速のような動きが、繋がることへの切望を示している。ただし、再演作で、舞台が狭くなったこともあるのか、振付が独立して見えた。つまり五月女と宝満の体から、繋がれないことの絶望が読み取れなかった。二人とも一人で生きていけるように見える。もし本島美和と貝川が踊ったら、と夢想する。マッツ・エックの『ソロ・フォー・トゥー』に匹敵する作品になるのではないか。
二作目は福田紘也の『福田紘也』(音楽:三浦康嗣、Carsten Nicolai、福田紘也)。中央にテーブルと屑籠、カミテ奥には俯いて椅子に座る福田。カミテ袖から原健太がビニール袋を手に歩いてくる。五分の一ほど入ったボトル・コーラを四隅に、半量入ったボトルをテーブルに置いて、袋を屑籠に捨て、立ち去る。トイレを流す音がして、福田が立ち上がる。コーラに手を伸ばし、次々に飲み干す。最後のテーブルの一本をどうしたものか。時報の「12時をお知らせします」と同時にテーブルの上で、右肩倒立。その後、パソコンを立ち上げる音や洗濯機の音をバックに、ストリート系語彙を含む鋭い動きで、コーラに向けて葛藤を表す。ついに最後は半量ボトルを2回に分けて飲み干し、バタリと仰向けに倒れる。自分をソロで踊るには、遠くから自分を見るユーモアが必要だろう。コンセプトは明快、動きのダイナミズム、人を喰った音源、原健太遣いなど、超面白い。正に福田紘也。
三作目は宝満の『3匹の子ぶた』(音楽:ショスタコーヴィチ)。小野絢子の妹ぶた、八幡顕光の長男ぶた、福田圭吾の次男ぶた、池田の脚のキレイな悪いオオカミが、ショスタコの怖ろしい音楽に乗って踊る。プログラムの「幼い頃、子ぶたのようだったので親近感があります。」(小野)は、『ダンスマガジン』(2015年6月号)で検証済みだ。宝満は4人のダンサーの本質を見抜き、クラシック語彙にキャラクター色を加えて振付を行なった。音楽と物語を完全に一致させる的確かつ力強い振付である。ウィットに富んだ天性のコメディエンヌとしての小野の魅力が、これほど発揮されたことがあっただろうか。彼女を主役とするコメディを見てみたい。可愛らしい八幡長男、ロマンティックな福田次男は、ベテランの蓄積を惜しみなく投入して、舞台に身を捧げている。池田のオオカミはゴージャス。跳躍に色気があった。「子供のための」公演にぴったりだと思う。


第三部は即興。ダンサーは米沢、貝川、福田(圭)、木下嘉人、福田(紘)、宝満。アドヴァイザーに中村恩恵を迎えて、即興の手法が伝達された。触れ合わないコンタクト・インプロのような動きや、動きを持たない米沢への演技指導など、中村作品を思わせる場面が散見された。音楽側は、監修とオーボエ他の演奏(全日)を笠松泰洋が担当。初日のピアノは中川俊郎、フルートに木ノ脇道元、二日目のピアノはスガダイロー、ヴァイオリンに室屋光一郎、三日目のピアノは林正樹、アコーディオンに佐藤芳明。笠松が全体を見て、演奏や表情で指示を出すが、ピアニストのタイプで、即興の傾向が決まるように思われた。初日は中川がキレ気味だったので、ダンサー達もハチャメチャ志向、二日目のスガはダンサブルな音楽を紡いだため、踊りのバトルが、三日目の林は音を聴かせるタイプのため、しっとりと情景を見せる場面が多くなった。
動きを作れるダンサーの中に米沢を配したことで、ダンスバトルに終始する危険が回避された。米沢は徒手空拳でその場にいなければならない。相手の動きに反応する、演技で相手を挑発するなど、演劇性重視のパフォーマンス。それに対して、音楽性重視、踊りたい人だったのは、貝川。二日目のヴァイオリンに嬉々として反応し、三日目の情景描写に、手拍子とスタンピングで強引に対抗した。音楽が鳴っていたら、まず動く人なのだ。
米沢をよく見てケアしていたのは、木下と宝満。コンタクトの経験があり、なおかつ全体の構成を見る人々。ただし木下は向日性で懐が深く、宝満は感情を表に出さない。少しニヒルに見える。福田兄弟は、ここでも人柄の良さを発揮。相手の気持ちを先に考えてしまう。圭吾は初日と三日目は最後に犠牲となり、二日目には、米沢をおぶって歩いた、キリストのように。紘也はトリックスター的な動きを、全体を見守りながら差し挟む。二人とも愛情の深さでは抜きんでていた。
もし米沢が男性と同じ衣裳だったら、どうだったか。子供のように踊っていたのではないか。もっと無意識のレベルで、対話ができたのではないか。動きと音楽のみのセッションになったのではないか。いろいろ考えさせられた刺激的なパフォーマンスだった。