新国立劇場バレエ団「ニューイヤー・バレエ」2018

標記公演を見た(1月6,7,8日 新国立劇場オペラパレス)。最終日は「新国立劇場開場20周年記念式典」に組み込まれた関係者向け公演である。演目はドーリンの『パ・ド・カトル』(41年)、グゾフスキーの『グラン・パ・クラシック』(49年)、バランシンの『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』(60年)、同『シンフォニー・イン・C』(47/48年)。20世紀中盤のロマンティック&クラシック・ベースの作品を集めたが、休憩を含めた1時間45分の上演は、これまでのガラ・コンサートやトリプル・ビルに比べると短く、そのせいか構成もやや起伏に乏しい印象を受けた。ここに一つコンテンポラリー作品(貝川鐵夫の『ロマンス』等)が加われば、よいアクセントになったかもしれない。今回は二人の腕利き指導者を招き、作品の仕上がりは上々だった。ただし、全体にダンサーの内発的エネルギー、舞台に立つ喜びが希薄で、責任感のみが突出している。密な公演日程や式典などがその理由だろう。
幕開けのドーリン振付『パ・ド・カトル』は、最初のアブストラクト・バレエと言われるペローの同名作を模したもの。先行版にキース・レスター版(36年)がある。タリオーニ(40才)、チェリート(28才)、グリジ(26才)、グラーン(26才)のバレリーナが相集い、個々の妙技を見せる原コンセプトを踏襲、それぞれの個性を反映した振付が施されている。順に本島美和、細田千晶、木村優里、寺田亜沙子という配役。本島は本来エルスラー・タイプだが、研修所出身の後輩たちを大きく見守り、舞台を統括した。細田は気の強さと鮮烈な踊り、木村はずっしりとした存在感、寺田はみずみずしさで、19世紀の舞姫を生き生きと演じている。メイナ・ギールグッドの演出により、これまでよく分からなかった振付の意味が明確になった。なぜチェリートがタリオーニとグラーンの間に出てくるのかなど。少しカリカチュアの入ったロマンティック・バレエへのオマージュだった。
続く二つのパ・ド・ドゥは、ガラ・コンサートの定番。バレエ団の二枚看板、小野絢子と米沢唯が挑戦した。『グラン・パ・クラシック』は高度な技巧もさることながら、フランス派のエレガンスが要求される。小野と福岡雄大は、登場しただけで磨き抜かれたスターの輝きを発散した。小野の明晰なパ、アン・オーでの捻りの美しさ、福岡のコントロールされた勢いあるヴァリエーションが素晴らしい。初役のため、持ち前の音楽性を発揮する余裕はまだないが(小野)、二人のクラシック信仰を示す清新なパフォーマンスだった。一方『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』の米沢と奥村康祐は、音楽と戯れる若々しさを強調する。米沢の踊りは風が吹くように自然。回転の超絶的な速さは人間技とは思えず、妖精のような軽やかさだった。奥村はもう少し音楽を聴かせてほしいが、溌剌とした元気のよい踊りを披露した。
『シンフォニー・イン・C』は5回目の上演。団初演当時と同じ、P・ニアリーが演出を担当している。クラシック語彙のみで、あれほど面白いフォーメイションや動きを作り出せるのは、天才ならでは。長いグラン・ジュテ・リフトの着地が、なぜソリスト二人の腕が作る輪っかの中なのだろう。音楽から導き出された必然的な絵柄、それ以外、余計なもののない爽快感がある。第2楽章の腕放しサポートは、以前はもっとリスキーだったようだが(『T&V』アダージョも)、バランシン没後の改訂だろうか。
第1楽章 米沢と福岡の闊達さ、第2楽章 小野と菅野英男のしっとりとした抒情性、第3楽章 池田理沙子と渡邊峻郁の可愛らしさ、第4楽章 木村優里と井澤駿のダイナミズム(初日は細田)と適材適所。特に菅野のバレリーナに寄り添う無意識のサポート、木村の豪快なエネルギーが印象深い。終幕の全員勢揃いは圧巻だった。
東京フィルを率いるポール・マーフィは緩急自在、円熟の指揮ぶりで舞台に貢献した。