新国立劇場ダンス『Shakespeare The Sonnets』2020

標記公演を見た(11月28, 29日 新国立劇場中劇場)。構成・演出・美術原案・振付は中村恩恵、音楽はディルク・P・ハウブリッヒ。シェイクスピアの『ソネット』に登場する詩人(私)、青年、ダークレディを軸に、『R&J』、『オセロ』、『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』のそれぞれ一場面を引用、3場にまとめている(70分)。変幻自在な役振り、出入りの絶妙な間合い、的確な振付など、円熟味のある演出である。ただ全体に照明が暗く、なぜ人生の闇(夜)にばかり焦点を当てるのか、疑問が残る。

初演は、東日本大震災が起きた2011年、ビントレーの『パゴダの王子』初演の1ヵ月前、シーズン幕開けの公演だった(13年再演は未見)。そしてコロナ禍での再々演。未曽有の体験が、キリスト教をバックボーンとし、人間の苦境を注視する中村の志向に拍車をかけたのだろうか。初演は中村自身と首藤康之。当時はペダントリーが勝ち過ぎている印象だった。ダンサー中村の過剰な意味性に反応したのだと思う。

余談だが、中村がキリアンについてのライブ配信トーク(9/24 DaBY)を行った際、「以前NDT にお勤めしていたとき」と表現したことに驚かされた。プロなのでカンパニーが職場という感覚は当然かもしれない。だが「お勤め」という時代を感じさせる言葉と、上半身裸も辞さない仕事とのあまりの乖離に、中村の浮世離れした超俗感覚を思わされた。

今回の再々演では、新国立劇場バレエ団プリンシパルの小野絢子と渡邊峻郁、同じく米沢唯と初演者の首藤という2キャストが組まれ、作品に新たな様相が加わった。

初日の小野と渡邊は、本作のバレエ団レパートリー化へ糸口をつけた。小野の緻密な音楽解釈と、クラシック技法による振付の腑分けは、今後 後輩ダンサーにとっての指標になると思われる。さらに初演時にはさほど明確でなかったそれぞれの役解釈が、小野のこれまでの蓄積により、繊細な陰影を帯びるようになった。美青年の無垢な可愛らしさ、ジュリエットの初々しさ、オディールを洗練させたようなダークレディの芳香、デズデモーナの貞淑、タイターニアの無邪気な愛らしさ。特にダークレディの香気は素晴らしい。対する渡邊は、恋する詩人、美青年、ロメオ、オテロシャイロックを真っ直ぐに表現(パックは馴染まず)、小野の優れたパートナーとなった。ダークレディのパ・ド・ドゥは、コンサートピースになりうる感情の応酬がある(『マノン』を幻視)。また、二人がオカッパ頭に黒の上下でユニゾンを踊るシーンは、両性具有のエロティシズムが漂い、作品の持つセクシュアリティの幻惑を実現させた。

2日目の米沢と首藤は、初日のバレリーナ中心ではなく、首藤の特権的肉体が主軸となった。冒頭の頁をめくる動作から、すでに神事である。かつてベジャールの『ボレロ』や、『M』の聖セバスチャンで見せた エロスそのものの体を思い出させた。当時はアポロン的だったが、現在は陰のアポロンディオニソスではない)。美しく鮮やかな腕遣いに暗い情念が纏わりつく。特にシャイロックのソロは、自らの闇の奥を焙り出すような気迫に満ちていた。米沢に対しては女性というよりも、娘を慈しむような愛情を注ぐ。その米沢は、中村の動きと役作りのニュアンスを丹念に辿り、首藤のよきパートナーたらんと務めた。美青年の凛とした清潔な佇まいは、中村版『火の鳥』でも見せたもの。ダークレディは相手が変われば、米沢本来の解釈が見られただろう。カーテンコールでは、地母神のような中村、首藤と共に、芸術を神とする聖家族の絵姿を現出させた。二人と精神世界を共有する稀有なダンサーである。