新国立劇場バレエ団「シェイクスピア・ダブルビル」新制作 2023【追記】

標記公演を見た(4月29日, 5月3, 5, 6日 新国立劇場 オペラパレス)。4月29日から5月6日までの7回公演。一部を除いてほぼWキャストの上演である。演目は新制作『マクベス』(原作:1606年?)と、団初演のアシュトン版『夏の夜の夢』(1964年、原作:1595, 6年?)。シェイクスピアによる悲劇と喜劇のダブル・ビルで、共に1幕60分に収められている。

新制作マクベスは、振付:ウィル・タケット、音楽:ジェラルディン・ミュシャ、編曲:マーティン・イェーツ、美術・衣裳:コリン・リッチモンド、照明:佐藤啓、ベネッシュ・コレオロジスト:堀田真由美という布陣。

演劇、オペラ、ミュージカル等で活躍するタケットは、マクベスと夫人の関係を軸に、全5幕の戯曲を1幕に凝縮した。夫を迎える夫人のソロ、直後の夫婦パ・ド・ドゥは官能性を強調、マクダフ母子への刺客は夫人が命令し(原作なし)、夫への愛の深さを残虐性で証明する。原作のマクベスは妻の遺骸を目にすることなく敵を迎え撃つが、本版ではバレエ作品らしく、死体となった妻とのパ・ド・ドゥが設けられた。全体にマクベスの苦悩はやや後退し、野心、センシュアリティ、サディズムが一体となった夫婦の愛の形が浮かび上がった。

場面は、奥幕開閉や、大小2つずつの灯り兼壁、ベッド、机、玉座の出し入れにより、スピーディかつスムーズに転換される。登場人物のフォーメーションも鮮やかで、演出家タケットの練達を印象付けた。ただし60分という制約のせいか、主役それぞれのソロ、2つのパ・ド・ドゥの余韻に浸る間がなく、彼らの感情の推移をじっくり味わうことができなかった。これが踊りではなく台詞(言葉)なら、このスピードでも十分に理解できただろう。踊りの複雑さを享受するには、もう少し時間が必要と思われる。

振付はバレエベースで演技を多く含む。マクベス夫人の妖艶なソロ、官能的な夫婦パ・ド・ドゥ、祝宴の流れるような踊りの数々、夫人の痛ましい夢遊病ソロ、マクベスの苦悩のソロ、マクベスと夫人の死体のパ・ド・ドゥが、舞踊の見せ場を作る。特に死体のパ・ド・ドゥは、そのハードなニュアンスが、マクミラン作『マノン』の看守とマノンの場を想起させた(『R&J』よりも)。純粋な演技部分の演出は、主役から脇役まで的確なディレクションが施され、水際立った仕上がり。タケットの美点を物語るが、その一方で、オペラハウス上方から見た場合、主役ダンサーの役作りがよく伝わらない弱点があった。意味伝達を重視したため、振付の抽象度が低くなったせいと思われる。

ジェラルディン・ミュシャの音楽は、指揮者マーティン・イェーツが、バレエ音楽マクベス』の原スコアとオーケストラのための組曲版を、タケット台本に沿って編曲した。ミュシャストラヴィンスキーバルトークヤナーチェクマルティヌーの影響を受けたとのこと(イェーツのノートより、リーフレット)。不協和音の多い悪夢のような曲調に、夫人の妖しいワルツ、ファンファーレ、太鼓の響くルネサンス舞曲などが織り込まれ、交響詩のような味わいがある。演出の方針で音楽が切れ目なく続くが、踊り同様、もう少し余韻を味わいたい気もする。美術・衣裳、照明は明確でスタイリッシュだった(魔女3人はベージュのロマンティック・チュチュでポアント使用、妖精に近い。冒頭には男性6人妖精風も加わる)。

【追記】河合祥一郎訳『マクベス』の訳注(角川文庫、p.96)によると、1611年に観劇した人(フォーマン)は魔女のことを「3人の女の妖精ないしはニンフ」と呼んでいるとのこと。「初演当時、魔女たちは少年俳優が演じたのであろう」(河合)。

初日マクベスは福岡雄大マクベス夫人は米沢唯、二日目は奥村康祐、小野絢子が務めた。福岡は魔女の言葉に乗っ取られた無意識の体から、殺人の躊躇、殺人を犯した苦悩、夫人の夢遊病を目の当たりにした後の覚醒(または麻痺)までを、武将らしい厚みのある肉体で生き抜いた。対する米沢は生々しく楔を打つような造形。タイツなしの脚に浮かび上がる力感あふれる筋肉が、決然とした意志の強さを伝える。つい2か月前、可愛らしいスワニルダを踊ったダンサーとは思えないほど、艶やかだった。狂乱に近い夢遊病を経た死体のパ・ド・ドゥでは、マノンの脱力を想起。今この年齢の二人にしか起こり得ない、二つの生が正面からぶつかり合う破格の舞台だった。

奥村と小野は古典バレエの蓄積を生かすアプローチ。奥村は運命に翻弄され苦悩する男を、瑞々しいタッチで描き出した。ビントレーによって東の王(パゴダの王子)、ケープヤマシマウマ(ペンギン・カフェ)に配されたように、不可思議な妖しさも入り混じる。小野は美脚の魅力を余すところなく発揮し、クールで美しいマクベス夫人を造形した。夢遊病シーンの繊細で静かな体は、ブラックホールのように見る者を吸い込む。相手を容赦なく手玉に取るエレガントな身振りに、プリマとしての歴史を感じさせた。

ダンカンの趙載範は大きさと風格、息子マルカムの原健太は初々しく、同じく上中佑樹はノーブルで美しい踊りを見せた。バンクォーの井澤駿は鷹揚、息子フリーアンスの小野寺雄は少年らしさを細やかに表現する。マクダフの中家正博は正統派の武将、祖国を思い、妻子の敵を討つ終幕を重厚な存在感で締め括った。別日の中島駿野は振付をよくこなしていたが、マクダフの武将、夫、父としての肚が見えず。マクベスと対等のはずの終幕は刺客風で、存在の軽さは拭えなかった。マクダフ夫人の慎ましやかな飯野萌子、伸びやかな渡辺与布は適役、マクダフ家従者のノーブルな浜崎恵二朗が、子供たちの人形と木馬をそっと拾い、心痛む使者の務めを献身的に果たしている。

マクベス家門番は逞しい森本晃介、従者はよく気が付く西一義、侍女はベテラン益田裕子と、人間味あふれる横山柊子、中島春菜はまだ個性が見えなかった。侍女の踊りでは横山が情感で際立つ。魔女たち(奥田花純、五月女遥、廣川みくり/原田舞子、赤井綾乃、根岸祐衣)は濃厚なメイクそのままに貴婦人たちも演じ、貴族、暗殺者と共に、黒衣で禍々しさを演出した。清水裕三郎を始めとする暗殺者たちは、フードの上げ下げに至るまで細かく振付を遂行。脇役がここまで鍛えられたことはないような気がする。

後半の『夏の夜の夢』は『シンデレラ』同様、アシュトンのダンス・クラシック解釈が躍動する傑作。原作のアテネ公爵テーセウスとアマゾン国女王ヒポリュテは省略し、妖精の森のみを描いた。連続する細かい脚捌き、トリッキーな上体使い満載の振付が、宙を飛ぶ妖精たちを現前させる。貴族や職人たちが騒動を起こす間、草の階段に横たわって眠る取替え子の可愛らしさ。人間と妖精が同じ空間に存在する楽しさの象徴に見える。

初日のティターニアは柴山紗帆、オーベロンは渡邊峻郁。柴山は踊りの正確さを重視、やや生硬さが残るものの、透明感のある役作りだった。対する渡邊は適役に思われるが、ノーブルスタイルを意識するあまり、本来の持ち味を発揮できていないのが惜しまれる。役は違うが『R&J』で見せたような情熱的でナチュラルな踊りを見たいところ。二日目の池田理沙子、速水渉悟は息の合ったパートナーシップを示した(本人二日目、三日目所見)。池田は初演者シブリー由来の柔らかい上体使いを実現、清潔なコケットリーと細やかな踊りで、妖精の女王を体現した。ボトムとの交互足出しの巧さ。相手の呼吸を読み取る池田の美点がよく表れている。対する速水は、はまり役。美しい立ち姿に妖精王のプライドが透けて見える。木の影から人間を見守る時のねっとりとした視線、正確な回転技に続く絶妙のバランスは、初演者ダウエルを彷彿とさせる。パ・ド・ドゥ最後のポーズで見せる指先の美しさ、躍動感あふれるスケルツォも素晴らしかった。

パックはトリプル・キャスト。山田悠貴はいたずら妖精にしてはやや大きく、オーベロンの弟のような存在感、スケルツォでは対等な踊りを見せた。石山蓮は跳躍の高さが妖精に合っている。胆力、覇気があり、将来の妖精王にも。佐野和輝はオーベロンとの関係、観客との橋渡しなど、熟練の演技を見せる。最もパックの役柄に近かった。ロバ頭のボトムはベテランの木下嘉人、福田圭吾。木下は職人にしては品が良すぎるものの、演技の巧さで、福田は動きの突き抜けた面白さとエネルギッシュな身振りで、ティターニアの恋の的となった。

貴族の恋人たち4人は、初日が寺田亜沙子、渡邊拓朗、渡辺与布、中島駿野、二日目が益田裕子、小柴富久修、中島春菜、小川尚宏。ベテラン寺田がお手本のようなきめ細かいヘレナを見せた。妖精ソリストには、広瀬碧、朝枝尚子、赤井綾乃/廣川みくり、直塚美穂。広瀬、朝枝のツボにはまった演技、直塚の柔らかく生き生きとした踊りが目立った。妖精アンサンブルは個々のラインを揃えるのではなく、全体が空気のように揺れ動く一つの体を形成。吉田監督は、かつて初演者たちから教わったスタイルを取り戻したいと述べているが、アシュトンの振付に魂が入った印象を受けた。ステージングはクリストファー・カー、コレオロジストはグラント・コイル。

マクベス』編曲を担当したイェーツは、東京フィルハーモニー交響楽団を率いて、濃密な現代曲と、晴れやかなメンデルスゾーンを紡ぎ出す。いつも控えめなイェーツが生き生きとカーテンコールに応え、新制作の喜びを露わにした。『夏の夜』で無垢な歌声を響かせたのは、東京少年少女合唱隊