中村蓉 単独公演『f マクベス』2023【追記】

標記公演を見た(9月23日夜 吉祥寺シアター)。振付・構成・演出:中村蓉、映像・ドラマトゥルク:中瀬俊介、演出アドバイザー:長谷川暢、振付・演出アシスタント:安永ひより、舞台監督:熊木進、照明:久津美太地、音響:相川貴、衣裳:田村香織、音楽協力:長谷川ミキ、映像アシスタント:染宮久樹、上演時間:90分。以下はリーフレットの中村の言葉。

戦の才のある男と実行力のある妻が、それぞれの強みを持て余し、身の丈に合わない大きな野望を抱いたがゆえに敵も味方も分からず空回りして落下していく。『マクベス』の大雑把なあらすじだ。「自分の器より大きなものを目指して空回り」する彼らの姿に私は共感し、マクベス夫人の「欲しいんでしょ? ウジウジしてんじゃないわよ!」という叱咤の声が、やけに胸に刺さった。だからといって『マクベス』を身近な物語として引き寄せ過ぎてしまっては、面白くならないだろうと思った。『マクベス』の悲劇と狂喜は、まさに「私の器」を超えたところにあるからだ。/器の外に出る方法として、今作は『マクベス』の原文にある「f」から始まる単語をヒントに、振付や作品構成を練っていった。「f」は足枷であり、足掛かりとなった。

「f」から始まる単語を補助線にしたアプローチは、戯曲のつまみ食いになるのではないかと思ったが、予想は全く覆された。「f」単語を含む原文・翻訳字幕映像が、中村の直観に基づく戯曲理解の骨となって、堅固でスケールの大きい作品へと至らしめた。終盤の全員黒衣で踊る場面では、「f」単語に振り付けられた動きの反復が徐々に快感をもたらして、壮大なフィナーレを形成する。アプローチを知的意匠に堕させず、有機的に運用する底力。中村の俯瞰的かつ持続的な演出力、さらにはダンサーへの緻密で容赦ないディレクションに圧倒された。

冒頭、タータンチェックを身に付けた池上たっくん(マクベス)、中村(マクベス夫人)、山田暁(バンクォー)が、地面に置かれたブロッコリーを奪い合う。一人が取ろうとすると、二人がそれを妨げる。途中のマイムシーンを含め、小野寺修二の影響を思わずにはいられないが、中村の独自性は身体表現が全てドラマに収斂する点にある。ブロッコリーはこの場合王冠だが、終盤の黒衣場面においては、全員がブロッコリーを咥えてバーナムの森と化した。その直後、池上と中村が一つのブロッコリーを咥えて踊る抱擁デュオでは、再び王冠に戻る。プレルジョカージュの『ル・パルク』に匹敵する濃厚な愛の形である。

*中村によるとブロッコリー採用は、映像・ドラマトゥルクの中瀬が「うちでは森と呼んでる」の一言から。長島確(ドラマトゥルク・翻訳家)と中村による PPトークにて。

「いいはわるい」の水色・赤色旗判定や、金色ボール(王冠)の奪い合い、ルー大柴語訳マクベスの手紙朗読など、目覚ましい演出の数々だったが、やはりマクベス夫人の夢遊病シーンは突き抜けている。最初は黒子の女性とダブルで動いて「抽象性を加え」(中村)、徐々にソロに移行する。ヴェルディマクベス』のソプラノが奈落からうっすらと聞こえるなか、中村がスリップ一枚になる。クラシックバレエの体に舞踏が入る美しさ。モノ化した無意識の体が、夫人の狂気を現前させた。このダブル動きと奈落の手法はスタッフアイデアによるとのこと(中村 PPトーク)。それを明かす中村の正確を期したい性格の面白さもさることながら、スタッフが一丸となってクリエーションする真の協働を見た思いだった。

中村は夢遊病ソロは別として、他の場面では一ダンサーに徹している。そのストイシズムには少しコミカルな味があり、複雑なキャラクターであることを再確認した。マクベスの池上ははまり役。無骨さ、優柔不断に耐えられる感情の幅、体をそのまま投げ出せる無意識の大きさ。ブロッコリー・デュオでは中村に駆り立てられて、王冠を咥えるマクベスそのものだった。バンクォーの山田は長身で正統派。行儀のよさが際立つ。池上にハンカチを差し出されて、額を拭い、それを返すと、池上が自分の額を拭ってポケットにしまう。「いいわるい」判定やボール奪いでの二人の体の攻防、それに基づく友情を可視化した演出だった。

オーディションで選ばれた 山田ゆう子、LINDA、武井琴、大塚寧音、中川友里江も、細かいディレクションに磨かれて個性を発揮。特に武井の微妙な表情が印象深い。

【追記】舞台写真のキャプションによれば、手旗判定は「味方と敵」、ボール奪い合いは「いいわるい」(fairとfoul で球技に掛けている)とのこと。