島地保武 @ Open Lab「ダンサー言葉で踊る」vol.3 2020

標記イベントを見た(9月12日 Dance Base Yokohama)。表題は「W. フォーサイスと出会う~Before & After~」。

当日、DaBY 最寄り駅「馬車道」の改札を出ると、巨大な構造物が地下広場に。Bank ART Studio NYK の内外を簀子(?)で覆った、あの川俣正の作品だった。銀色のフェンスパネルをツリー上に立てかけ、縦長の竪穴式住居を作っている。中に入ると、金属なのになぜか懐かしく、子供時代の「囲まれて安心」感が蘇る。近くの Bank ART Temporary と「新高島」駅地下の Bank ART Station で、『都市への挿入』と題した展覧会を開催中とのこと(9/11~10/11 未見)。

本題に戻って、島地保武の踊りを初めて見たのは、山崎広太の作品だった。長身で体の柔らかい若者が、山崎の変幻自在なスタイルを慎ましく踊りこなしている。作品の核となりうる器の大きさが、すでにあった。師匠の加藤みや子作品では、砂の上を白塗りで舞踏風に歩く。粉にまみれた体が黄粉餅のように柔らかく、瑞々しかった。加藤が足を怪我した際には、ロビーで師をおんぶする姿も。また同じモダンの井上恵美子作品では、昆野まり子と濃厚なデュオを踊って、優れたパートナーとなる予感を、バレエの鈴木稔作品では、フォーサイス風の振付を華やかに踊って、海外渡航の予感を抱かせた。

渡航前に入った Noismでも、立ち上げたばかりのカンパニーを支える主軸ダンサーに(2004-06)。ザ・フォーサイス・カンパニー入団後は、あまり見る機会はなかったが(2006-15)、在籍中にも帰国して、パートナー酒井はなとのユニット「アルトノイ」で現状を報告した(1)。退団後は、谷桃子バレエ団(2)、環 ROYとの共作(3) 、KAAT 神奈川芸術劇場4)、新国立劇場バレエ研修所(5)などで、振付作品を発表している。また、森山開次作品(KAAT)では深いバリトン発話を披露(6)。直近では長塚圭史作・演出『イヌビト』に出演し、女形と犬化の演技で圧倒的な存在感を示した。顎髭を残したまま、体から女性になり、しかも自分であり続ける。犬化する際の剃刀のような切れ味。グーの手で皿をつかみ、四つん這いで伸びをする力感が素晴らしかった。

トークは、中央に島地、カミテにナビゲーターの唐津絵理(DaBY アーティスティック・ディレクター)、シモテにホストの小㞍健太(DaBY ダンスエバンジェリスト)という配置。島地のダンス前半生を映像と共に辿った。以下はその概要。

 

● 1978年生まれ。中2のとき「ダンス甲子園」にはまる。ビデオを見てノートをとり、友人と二人、給食の配膳室で踊っていた。

● 高校では空手部。ダンスは休止し、型を新たに作っていた。

日本大学芸術学部演劇学科演技コースに入学。面接で「踊りたい」と言ったが、合格した。常に洋舞コース生と一緒にいて、単位と関係なく様々なクラスを受けた。モダンダンス 旗野恵美先生のコントラクション&リリースのクラスは、面白かった。授業の最後に、テーマを与えられて作品を創った。小㞍「最初から踊りと創るが一つになってるんだ。」

● ストリートダンスも再開し、ボキャブラリーを増やすために、クラスを取っていた。

● 初めての師匠 加藤みや子先生の授業で、ベジャールの『ボレロ』を見て感想を書いた。バレエは男性ダンサーのタイツが気持ち悪かったが、すぐに始める(理解できないことをやりたい性格)。フォーサイスの映像を見て、ヒップホップだと思った。

● 4年生の時、東京バレエ団に入団(シャッセも分からないのに)。単位がたまっていたので、公演には出なかった。

●( 山崎)広太さんのカンパニーは在学中から始めて、卒業後はツアーを回った。「面白いよ」と人に言われたのがきっかけ。クラスでは無意識のところを「違う、違う」と指摘された。広太さんを踊っていたから、フォーサイスに行ったと思う。

● この人と働きたいと思ったら、必ず働ける(『イヌビト』長塚さんにも直接出たいと言った)。

● Noism はワークショップを受けて、オーディションで合格した。(金森)穣さんの踊りを見てびっくりした。楽しく踊れると思った。

● ヨーロッパでオーディションを受ける時、(小㞍)健太の家に泊まった。最初からザ・フォーサイス・カンパニーに入れるとは思っていなかった。あちこち受けて、ここではだいたいこうなると予想がついたが、フォーサイスのところは「怖いな」と思っていた。(安藤)洋子さんから「背の高い中国人が抜けたよ」と連絡がきて、行くと合格した。

● 入団してすぐに『クインテット』のソロを踊った。フォーサイスに行って、「やっていいんだ、息ができる、生きれる」と思った。フォーサイスは固まろうとしたら、壊すのを喜ぶ。自分でも出来上がった振付を捨てる。本番中に新たな指示があることも。公演は昔は1日4回だったが、自分が行った頃は2回になっていた。

● 小㞍「島ちゃんとフォーサイスは、動きの作り方が似ている。島ちゃんは思考回路を理解する。自分は振付として覚える。NDT にいた同僚がフォーサイスのところに行って、すごい悩んでた。」

島地「自分もレパートリーの振付を覚えるのは苦労したけど。フォーサイスに〈君は僕を理解している〉と言われたことはある。」

● インプロは初めからやっていたが、フォーサイス以後は、よりレイヤーが複雑になり、他人と共有することが加わった。相手を感じ取ろうとするようになった。

 

トークの前に、島地と小㞍による20分のデュオ・パフォーマンスがあった。無音でコンタクトのような絡みを続ける。時に手を消毒したり。チェルフィッチュ岡田利規が、酒井はなの『瀕死の白鳥』について言ったように、(映像ではない)生の肉体は情報量が多い。二つの肉体は、違うタイプであると言い続けていた。小㞍はホストという役目もあるのか、やや控えめ。島地を生かそうとしていたのか。いずれにしても、両者の美点を発揮するには至らず。

島地の現状を覆そうとするインプロ精神、小㞍の動きと音楽の両方にまたがる緻密な振付解釈は、そもそも噛み合わない。むしろ同じ音源で、ダブル・ソロを踊った方が、個性を発揮できたかもしれない。振付家としても、島地はコミュニティを作ろうとするアプローチ、小㞍の可能性は、その優れた音楽性から、ネオクラシカルなバレエ作品にあると思う。

山崎広太+久保田舞 @「ダンステレポーテーション」展 インスタレーションパフォーマンス 2020

標記パフォーマンスを見た(8月 28日 KITANAKA BRICK&WHITE BRICK South 1F)。山崎広太の新プロジェクト「ダンステレポーテーション」展(コチラ)から派生した企画で、同展に参加したダンサーのうち4名が出演した。小暮香帆、久保田舞、栗朱音、望月寛斗(HP掲載順)である。クリエーションをバックアップする育成色の強い公演ゆえ、個々の評は避けるが、山崎の志を継いだ久保田舞のパフォーマンスについて、書いておきたい。

上演場所は Dance Base Yokohama のある KITANAKA BRICK&WHITE BRICK North の南側にある建物の1階。「ダンステレポーテーション」展の一部展示場でもある。8つの窓のある壁を背景に、横長の木の舞台が広がる。観客は一段下がった土間の椅子に、互い違いに座った。冷房なしとの告知があったが、さほど暑くない(冷水ボトルの配給あり)。導入部は、窓にもたれた4人がこちらを振り向いて、それぞれの動きで前進するシークエンス。続いて栗、望月のソロ。3番目の久保田は、カメラとパソコンを設置し、同時撮影映像と絡みながら踊った。メディアの可能性を探る本展への応答だろう。

導入部でも顕著だったが、久保田はどのメソッド、スタイルにも回収されない独自の動きを見せる。初めから終わりまで、体と動きを注視することができた。山崎インタビューによると、クラシックバレエで踊りを始め、キミホ・ハルバートのコンテ・クラスを小4で受け、大学ではモダンダンス部に入ったという。だがどの動きにもその痕跡はない。途中アラベスクをする場面があったが、美しさを求めてではなく、筋肉の動きを確認する分析的な感触が残った。

動きが体から離れる瞬間が一度もない点、「体で考える」「体と対話する」「場所・音楽と交感する」プロセスを、観客が共有できる点は、山崎の踊りと通じるところがある。久保田にとって、体で思考する機会の確保が重要なのであって、観客にどう見られるかはあまり関係ないのだろう。表情に雑念なし。短パンを巻き上げたブルマのような恰好がよく似合っていた。

パフォーマンス前に、改めて本展を覗いてみた。11のインスタレーションの傍には、ダンサー各自へのインタビューに触発された山崎の詩文。体を通した言葉が一見無秩序に、しかし光速の思考によって結び合わされ、踊りと化している。印象的だったのは岩渕貞太への言葉。岩渕に向けると同時に、岩渕の師である室伏鴻(1947-2015)への悼詞でもあった。土方巽、室伏、山崎、岩渕と繋がる舞踏の血縁が濃厚に浮かび上がる。岩渕の返答は、薄暗い森の中で、ぬるぬるの液体を自らの裸身に塗り、銀粉をまぶしていく映像だった。

室伏の文章を集めた『室伏鴻集成』(河出書房新社、2018年)には、山崎が室伏に行なったインタビューの抜粋が収録されている(2009年高田馬場、全文は Body Arts Laboratory の HP上)。一回り年上、同じ亥年の親戚に喋るように、信頼と愛情をこめた質問が山崎から繰り出される。時には「年金はあるんですか」といった直球も。室伏も同じ血筋の弟分に、リラックスして舞踏との関係を語っている。土方への尊敬を共有しながら。

今回の山崎インタビューで最も心に残った言葉は、木原萌花との対話から生まれた。木原の「広太さんは子どもの頃から踊ってらっしゃるのですか?」という質問に、山崎は「中学高校と吹奏楽の指揮者をやっていました。その頃に、指揮者によって指揮する動きが異なるので、自分にも独自の動きができるのかもしれないと考えました。そうして徐々にダンスに近づいていきました。」と答え、さらに「僕は人と話すのが苦手だったんです。言葉の論理が嫌いだったんですね。ダンスも音楽も論理を通過せずに、すぐに表現できるでしょう。また、僕の地元では方言と標準語が混じっていて、自分がどちらの言葉で話せばよいのかと戸惑っていたことも関係しています。人と話そうとして、戸惑っている間に、相手の人そのものを観察してしまう。すると、だんだん相手の表情や仕草から、考えや思いが読み取れるようになりました。」と語る。山崎の自画像のような言葉だった。

大和シティーバレエ「Summer Concert 2020」

標記公演を見た(8月14日 大和市文化創造拠点 シリウス芸術文化ホール)。コンサートの表題は「想像×創造」。佐々木三夏プロデューサー指揮の下、今回もコンテンポラリーからバレエまで、意欲的な創作が並んだ。会場入口には消毒液が置かれ、スタッフはマスク・フェイスシールドを着用、市松模様の座席指定など、コロナ感染防止対策が採られている。

第1部幕開けは、中原麻里振付『NYX』より「ルナティック」。ショパンのピアノ演奏(大滝俊)に乗せて、五月女遥と渡邊峻郁がロマンティックな愛のパ・ド・ドゥを踊る。五月女の音楽性、渡邊の情熱的な持ち味が生きる振付だが、渡邊の問いかけに五月女が応えていない模様。音楽的で美しい動きを作りながら、感情表出を拒むのは何故だろう。渡邊は作品の雰囲気をよく体現している。

続く木下嘉人の『CONTACT』は、ミニマルな音楽(E. Bosso)を使用したコンテンポラリー作品。米沢唯と木下自身のデュエットを中心に、二組の男女(相原舞・林田翔平、古尾谷莉奈・森田維央)が、分身や影として加わる。木下は前作『ブリッツェン』(2016)でも米沢を採用し、バリバリのコンテを見せたが、今回は「触れる」「触れないことで触れる」をモチーフに、視線や体の向きなど、演技を加えたクリエーションを展開した。ただし、動きで関係性を見せる部分が減少したため、ダンサー木下と米沢の技量を堪能させるには至らず。米沢の考え抜かれた体が、作品のコンセプトを伝えている。

第2部は、夏の夜にふさわしい4つの怪談ばなし。小泉八雲の『耳なし芳一』(振付:熊谷拓明)、同じく『雪女』(振付:中原麻里)、三遊亭圓朝の『死神』(振付:福田紘也)、同じく『牡丹灯篭』(振付:池上直子)が、霊界の使者である蝶々を導き手に、連続して語られる。

熊谷の『耳なし芳一』は、琵琶(鎌田薫水)、和太鼓(小林太郎)の生演奏で、芳一の小出顕太郎、和尚の望月寛斗、細野生、牧村直紀を始めとする男女アンサンブル、さらに自身も語り手として登場する。芳一はサングラス、和尚は金髪と現代風だが、アンサンブルは犬神人のような頭被りで、床遣いの多いモダン・ストリート系の踊りを踊る。彼らは平家の怨霊ではなく、「得体の知れない者たち」とのこと。耳の書き忘れも、芳一が嫌がったことにするなど、熊谷の思惑に沿って改変が施された 私小説風の作品である。熊谷は和尚として語るが、実際に踊りに介入するため、虚構の層が混濁するのが難。最後に『平家物語』の生語りで踊りも見せる。見応えはあったものの、本来は小出の見せ場だったかもしれない。

中原の『雪女』は P. Glass の音楽で、美しくスタイリッシュに踊られる。雪女(お雪)には、2018年の本公演で関直人の『ゆきひめ』を踊った小野絢子。ポニーテールに透き通った白い衣装がよく似合う。巳之吉には福田圭吾。赤ん坊を抱いたお雪と巳之吉の幸せのパ・ド・ドゥでは、小野の繊細な踊りを、福田のドラマティックな音楽性、手厚いサポートが支える。小野が雪女となり、巳之吉を取り殺そうとするも、叶わず去っていく場面では、福田の嘆きが舞台一面に響き渡った。雪ん子のような白いチュチュのアンサンブルは、白い毬(雪玉)を手にし、可愛らしさを強調。小野の個性と合致する作品だった。

福田(紘)の『死神』も同じく P. Glass の音楽を使用するが、真逆の作風。昨春には古典落語『猫の皿』を舞踊化し、今年の新国立劇場カレンダー8月の頁に、その舞台写真が採用された(着物姿の小柴富久修に、福岡雄大、本島美和、福田〈圭〉が写る 前代未聞のダンス写真)。同じトンデモない手法で来るかと思ったが、今回は正攻法(?)のアプローチだった。

物語はグリム童話『死神の名付け親』を基にした圓朝の創作物。若い男が死神から死者の見極めを教わり、医者となって成功する。ある時、死神をだまして死すべき人を生き返らせたため、死神の逆鱗に触れ、蝋燭の立ち並んだ洞窟に連れ込まれて、息の根を止められる。福田(紘)は、本島美和を死神に据え、若い男に福岡雄大、コロスに五月女と自身を配した。死神の首飾りを男が盗み、裕福になるが、死神に取り返され、死に至るという筋書きに変えている。

死神の本島は、これまでマッジやカラボスを踊り、手の内に入った役どころと言える。が、自らの引き出しに頼ることなく、新たに役を追求する点に、ベテランの凄味があった。舞台に身を捧げる強さと瑞々しさが同居する、本島らしい好演である。対する福岡は、半ズボンにセーター姿のやんちゃぶりがぴったり。お金が入るにつれて、上着、ズボン、靴が加わり、スタイリッシュな青年へと変貌を遂げる。本島との丁々発止が小気味よく、切れの良い踊りに、福岡本来の場所と幸福の在り処を思った。コロス 五月女は、振付の上を行く切れ味。前述の愛のパ・ド・ドゥとは異なり、水を得た魚のごとき活きの良さがあった。

福田(紘)演出の視野の広さ、ダンサーを生かす力、動きの視覚的快楽(ずらしの快感)が素晴らしい。ぎりぎりまで思考を突き詰めた果てに、感覚に身を委ねる懐の深さがある。見る側にとって、振付家の思考と感覚を共に辿る喜びがあった。

最後は池上の『牡丹灯篭』。圓朝原作から「お露新三郎」「お札はがし」を、物語の順を追って舞踊化した。4枚の障子で部屋を作るなど、場面転換も明快。配役は、お露に米沢、新三郎に宝満直也、和尚(陰陽師 勇斎に近い)に渡邊拓朗、伴蔵に八幡顕光と、適材適所。お露の侍女 お米は、御女中達として8人の女性アンサンブルに拡大されたため、ひっそりと新三郎を訪れるというよりも、多勢で攻めるアマゾネス的な雰囲気に。アンサンブルの振付も、フォルムで見せるモダン風の要素があり、土俗的味わいが加わっている。

米沢は肉体の透明感が霊界の生き物であることを示すが、ことさらに死霊風を強調せず、ただひたすら新三郎を恋する女性に見えた。宝満との逢瀬も恋しさ、懐かしさにあふれ、涼風が吹き抜けるように清々しい。対する宝満も、取り憑かれる男の人の好さ、甘やかさがあり、適役。二人の久しぶりのパ・ド・ドゥから、米沢の体が、渡邊(峻)との『R&J』、ムンタギロフとの『マノン』を経過したことがはっきりと分かる。佇まいのみで空気を変える身体となった。

和尚の渡邊(拓)は大きく力強い。新三郎を救おうという気概にあふれ、作品に直球のエネルギーを与えた。ベテランとなった八幡の伴蔵も、滑稽味のある日本的所作を、楽しみながら演じている。

力のこもった4つの創作を連続して見る1時間40分の長丁場。佐々木プロデューサーのクリエーションに対する信念を、今年も感じることができた。

 

 

牧阿佐美バレヱ団「サマー・バレエコンサート 2020」

標記公演を見た(8月11日 文京シビックホール 大ホール)。牧阿佐美バレヱ団8か月ぶりの舞台公演である。昨年末の『くるみ割り人形』を最後に、3月公演『ノートルダム・ド・パリ』、6月公演『ロメオとジュリエット』が、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、中止を余儀なくされた。今回のバレエコンサートは新たに企画されたもので、団員及び、バレヱ団の観客にとって、日々の希望を繋ぐ里程標になったことだろう。第1部はコンサートピース集、第2部は橘秋子振付『角兵衛獅子』(1963)より第2幕というプロブラムである。

第1部幕開きは『ゴットシャルクの組曲』(振付:牧阿佐美)。菊地研と男性ダンサーたちが元気のよい踊りで健在ぶりを示す。続いて『カルメン』(振付:牧阿佐美)の織山万梨子、『コサックの歌』(振付:N・アンドロソフ)の濱田雄冴、山本達史が、難役に挑戦した。

続く『シェヘラザード』(振付:ミハイル・フォーキン)では、日髙有梨とラグワスレン・オトゴンニャムが、清冽な色香を放ち、音楽的で格調の高いパ・ド・ドゥを作り上げる。『ラ・バヤデール』幻想の場より(振付:マリウス・プティパ)では、中川郁の清潔なニキヤ、清瀧千晴のダイナミックなソロル、伸びやかなトロワ(茂田絵美子、三宅里奈、佐藤かんな)がクラシカルな抒情性を体現。『海賊』よりグラン・パ・ド・ドゥでは、青山季可の澄み切った境地(牧独自のヴァリエーション)が、水井駿介の鋭く慎ましい踊りに支えられ、晴れやかな空間を現出させた。

第一部最後は、30年ぶりに上演される牧阿佐美振付『トリプティーク』(1968)。芥川也寸志の『弦楽のための三楽章(トリプティーク)』(1953)に振り付けられ、それぞれ「希望」「感傷」「情熱」の副題がある。1楽章は男性、女性アンサンブルのユニゾンに、それらを切り裂くダイナミックな男性ソロ(元吉優哉)が加わる。2楽章は米澤真弓と坂爪智来によるしっとりとしたアダージョ。米澤のすっきりした可愛らしさ、明るさ、健気さが、坂爪の献身的ノーブルスタイルと組み合わさって、日本的な抒情性を醸し出した。バレヱ団初演は牧自身と畑佐俊明による。アダージョの精髄が確かに伝えられた 白眉のパ・ド・ドゥだった。3楽章は変拍子の氾濫。牧の鋭い音楽性が千変万化するフォーメイションを築く。モダニズムと土俗性が融合した芥川の楽曲を、新たに復活させる上演だった。

第2部の『角兵衛獅子』は団としては42年ぶりの上演となる(4月に橘バレエ学校創立70周年記念公演で上演予定も、コロナ禍で延期、バレヱ団公演に移行)。最近では2010年 新国立劇場地域招聘公演として、新潟シティバレエが全2幕版を上演したのが記憶に新しい。同バレエの核である 渡辺珠実バレエ研究所がレパートリーとして保存してきたもの(第2幕)に加え、初演指揮者の福田一雄が第1幕の音楽を再現、牧の振付により全幕上演が実現した。

今回は第2幕のみながら、橘秋子の提唱した「日本のバレエ」を継承保存し、赤いさらしの群舞(祈りの炎)で、芸術の火が消えないようコロナ感染拡大防止を祈念するという意図をもつ、意義深い上演となった(同団ダンサーズブログ 6/25 付)。

初演時、大原永子と森下洋子が踊った姉妹には、光永百花と阿部裕恵の同期生。6月には共にジュリエットを踊る予定だった。光永は、虚無僧への思慕を美しく情感豊かに踊り、阿部は、姉を追う幼い妹を可愛らしく演じる。タイプも踊り方も異なる二人が、今後どのような役を演じるのか期待したい。

本来 角兵衛獅子は子供たちが踊る役。無心で健気に踊る姿に涙がそそられるところを、団員たちが踊ると、振付の方に目が向く。バランシン風のポアント遣いや、変拍子に即応する音楽性は、牧の手によるものと思われる。日本的抒情性、激しい律動に彩られた山内正の音楽も、バレヱ団の貴重な財産である。

虚無僧 逸見智彦のノーブルな味わい、親方 塚田渉、依田俊之、巡礼の女 諸星静子、宮浦久美子のベテランらしい落ち着きが、物語の枠組みを作り上げた。

山崎広太@「ダンステレポーテーション」展 2020

標記展オープニングトーク&パフォーマンスを見た(8月6日  Dance Base Yokohama)。本展は、山崎広太と11人のダンサーによる 言葉と映像を媒体にしたダンス展である(8月7日~9月13日)。5月に Dance Base Yokohama(DaBY)のオープニングイベントとして企画された 都市徘徊型ダンス『都市のなかの身体遊園地』が原型。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、中止を余儀なくされ、新たな表現形式を採ることとなった。

まず山崎がダンサーにオンライン・インタビューをする(テキスト編集:吉田拓)。これを基に、山崎が個々のダンサーへの言葉を綴り、ダンサーたちはその言葉を道標に、映像・写真を使って創作する。当初 発表は予定されていなかったが、「自分への高い意識があり、身体感覚の強い作品が揃ったため、2週間という短い準備期間だったが、展覧会開催を決めた」とのこと(企画・総合ディレクター 唐津絵理)。

展示は DaBY(北仲ブリック&ホワイト BRICK NORTH 3F)の回廊部分と入口前、同じ建物の1F、別棟 BRICK SOUTH の1Fで行われる。これらの建物は、旧横浜生糸検査所附属専用倉庫を復元したもので、煉瓦と白壁の美しいコントラストが特徴。横浜赤レンガ倉庫と同様、ガラス張りの床から遺構が見えるようになっており、北建物を貫く白い4本の巨大柱の台座が確認できる。神楽坂 die pratze や Bank ART Studio NYK が失われた今、柱のある貴重な創造的空間と言える。

オープニングトークの観客は特別に、設置半ばの展示を見ることができた。山崎の言葉が展示物の傍に掲げられている。その言葉を読んだ上で、ダンサーの創った映像や写真を見る。振付(言葉)がいかに消化され、発展しているかを味わう、言わばコミュニケーションのプロセスを楽しむ展覧会である。長い会期は、作品の建築への馴化を促すだろう。 DaBY の基幹コンセプトである「つくる(Create)」、「そだてる(Nurture)」、「あつまる(Gather)」、「むすぶ(Connect)」を体現する企画である。

オープニングトークの前に、山崎のソロ・パフォーマンスがあった。オンラインで話してきたダンサーたちと初めて会った感想(昔好きだった女の子に、今会って感じる現実)を語り、久しぶりに踊るのと、彼らの前なので、恥ずかしい気もするが、と言いおいて踊り始めた。ハンバーガー屋のTシャツにグレーのジャージズボンは、いつものランニング・スタイルなのだろう。

客席に正対し、約2mを前進しては後退する走り。ミニマルな音楽をバックに、軽快なステップで、様々な上体ムーヴメントを変奏する。両手を腹に囲って気を溜めたり、盆踊りのように腕を振り上げたり。だが山崎の体から逸脱する動きは一つもない。全て体と一致している。その不思議。型に入りながら、常に型から逃れる瞬時の思考がある。途中、男女の発話をバックに床を使う場面では、日本舞踊のニュアンスを感じさせた。最後はロマンティックな弦楽で舞踏の体に。背中から踵にかけての鮮烈なフォルム。かつての濃厚さ、野蛮さはなく、すっきりと透明である。慎ましやかで、枯淡に傾いている。以前「60歳の山崎を見たい」と書いたが、まさに目の前に。自己表現ではなく、犠牲、供物としての体、消費されない体だった。マスクをしての30分。

オープニングトークは、カミテから DaBY 芸術監督の唐津絵理、振付・ディレクターの山崎、中央奥に制作コーディネーターでファシリテーターの吉田拓、シモテに向かい、ダンサーの小暮香帆、木原萌花、望月寛斗、金子愛帆(1列目)、横山千穂、幅田彩加、久保田舞(2列目)、という布陣だった。まず、唐津のダンスハウスとしての DaBY への思い(プロのダンサーを養成、クリエーションの場、街の中に出ていく)が語られ、山崎がクリエーションの経緯を説明。ボディを通してのみ、人と分かち合える、ダンサーたちのセンスのよさ(エコロジーへの視線)、舞台だとその場で終わるが、この形式だとずっと繋がって、発展していく感じ、新しいアートの予感など。続いて、山崎から貰った言葉をどう思ったか、ダンサー一人一人が語った。ファシリテーターの吉田が、各人の作品を大画面に映しながら、質問を加え、ダンサーの意図を鮮明にする。

さらに、山崎の「自分はムーヴメント至上主義、ムーブメントにロマンを感じるが、メディウムを通すと、多様になり、客観的に伝えることができる」との言葉を受けて、「メディアを使うことで新たな発見があったか」との質問。ダンサーたちは語る言葉でも、それぞれの個性を発揮した。1時間に及ぶダンサートークを実りあるものとした 吉田の批評性とダンサー(ダンス)への愛情が印象深い。社会を鋭い視線で見つめながら、発する言葉の社会化を拒む山崎と、ダンサーたちとの橋渡しを、黒子となって務めた。

 山崎の言葉を受けた幸運なダンサーは、岩渕貞太、小暮香帆、小野彩加、金子愛帆、木原萌花、久保田舞、栗朱音、ながやこうた、幅田彩加、望月寛斗、横山千穂。以下のサイトに、各人への山崎インタビューが掲載されている。

 https://dancebase.yokohama/event_post/dance-teleportation

 

 

新国立劇場バレエ団『竜宮』2020

標記公演を見た(7月25日夜, 26日昼夜 新国立劇場オペラパレス)。今年の「新国立劇場こどものためのバレエ劇場」は、東京オリンピックパラリンピックに合わせて企画された 令和2年度日本博主催・共催型プロジェクトの一環でもあった。「日本の美」を内外に発信する一大プロジェクトながら、コロナ禍のため、本体のオリンピック・パラリンピックは中止。来日観客へのアピールは叶わなかったが、2月27日以降閉じていたオペラパレスの再開にふさわしい、寿ぎのバレエが誕生した。

ただ残念なことに、公演4日目の29日に劇場勤務の業務委託者1名の感染が判明し、残り 30、31日の公演は中止となった。観客とは接しない業務とのことだが、観客の「安心・安全を最優先し、万全の感染予防策を講じるため」に苦渋の決断をした模様だ。劇場はすでに、体温検査、手の消毒、観客自身によるチケットもぎり、市松模様の座席指定、フォワイエの密集防止など、できる限りの対策を行っている。今後も薄氷を踏むような公演形態が予想されるが、無事に来季開幕が迎えられることを期待したい。

『竜宮』全2幕の演出・振付・美術・衣裳デザインは森山開次。15年・18年の『サーカス』(新国立劇場)、17年・18年の『不思議の国のアリス』(神奈川県芸術劇場)、19年の『NINJA』(新国立)と、子供の観客を視野に入れた作品が続く。今回は新国立劇場バレエ団出演のバレエ作品のため、振付補佐に湯川麻美子、貝川鐡夫が入った。作曲・音楽製作は松本淳一、照明は櫛田晃代、映像はムーチョ村松、音響は仲田竜太という布陣。

日本の繊細な美にポップな味わいを加えた美術・衣裳、和洋を横断する的確な演出・構成が、森山の才能の在り処を示す。松の木や蓬莱山の書割、満月を使っためくり、寄せては返す波や、東屋と共に動く亀甲紋の床面プロジェクションマッピング、さらに亀の姫の亀甲紋チュチュ、明神となってからのマットな金のチュチュ(縄飾り付き)が素晴らしい。

副題は「亀の姫と季(とき)の庭」。通常流布する『浦島太郎』に、竜宮での四季の庭や、玉手箱を開けて年老いた太郎が鶴に変身する『御伽草子』由来のエピソードが加えられている。森山はこの作品を「時の物語」と捉え、狂言廻しとして「時の案内人」を新たに設定した。時計を見つつ、時を動かす役どころで、『不思議の国のアリス』の白兎を想起させる。さらに、その白兎自身をも登場させ、亀の姫との徒競走に臨むエピソード(イソップ寓話)を加えた。中止になったウィールドン版『不思議の国のアリス』との、ほのかな連携を思わせる。

振付はダンス・クラシックが基本だが、魚のディヴェルティスマン(1幕)のキャラクター・ダンス、季の庭ディヴェルティスマン(2幕)の日本的所作など多彩。年老いた太郎を三番叟に擬え、黒色尉の面で鈴の舞を舞わせる場面には、森山の蓄積が滲み出る。雪の花婿の前傾摺り足歩行は、鈴木メソッドだろうか?

ただしバレエ作品として見た場合、主役のパ・ド・ドゥがシンプルに思われる。ダンサーにとっては5ヵ月ぶりの舞台であること、また濃厚接触を避ける意図があったのかもしれない。

開幕前から流れる不思議な音階ととぼけた効果音が、物語の空間を作る。笙、篳篥、琵琶、琴などの和楽器に、洋楽器を組み合わせた音楽、さらに口笛、地声の女声合唱、電子音が加わり、場面ごとの流れを的確に指し示す(所々指し示し過ぎの感あり、もう少し踊りに任せても)。琉球音階の採用は、柳田國男経由だろうか。

主役は3組。米沢唯と井澤駿のプリンシパルカップルは、本当なら『マノン』を踊っていたはずだった。お伽話というよりも、神話のようなスケールを見せる。米沢は登場時から異界の生き物。磨き抜かれた身体に、日本的な妖怪のニュアンスが滲む。ゴールドのチュチュに変わると、一気に神域へと至り、抑制された輝きで、ゆったりと人々を祝福する女神となった。対する井澤は、漁師姿が今一つ馴染んでいなかったが、季の庭の踊りに加わる際には、スサノオの破壊力を見せる。鈴の舞の力強さ、鶴の舞の大きさに、米沢と同格の神位を窺わせた。

池田理沙子と奥村康祐は、お伽話の世界に寄り添い、振付家の意図を具現化した。池田の芯のある可愛らしさ、物語を的確に読み取り、観客の感情を自然に導く力がある。奥村はやんちゃで元気のよい若者。口笛がよく似合う。周囲とのコミュニケーションに長け、共に踊る喜びにあふれた。池田が奥村を乗せた小舟を曳く場面(白兎との徒競走だが)の情愛あふれる歩行・泳ぎ?が忘れられない。

木村優里と渡邊峻郁は、バレエ作品としてのスタイルを遵守した。木村はプリマとしての枠を逸脱せず、チュチュ姿でのゴージャスな感触、ダイナミックな脚のラインで、舞台を支配した。一方の渡邊は日本的情緒があり、髷姿も板についている。典型的な二枚目で、鶴の舞では、鋭い色香を四方に放った。米沢と組む場合には、濃厚な和物バレエになったかもしれない。

時の案内人はWキャスト。お道化た貝川鐡夫(体の切れ!)と正統派の中島駿野が、中腰、摺り足で、時を動かす。妖艶な竜田姫、妓楼風のタイ女将は、ベテランの本島美和、寺田亜沙子、細田千晶が担当。細田の日本的な儚さが印象深い。竜田姫は一つの謎として、子供たちの記憶に刻まれることだろう。

魚のディヴェルティスマンでは、エイ、フグ、タツノオトシゴ、タイ、金魚、イカ、アジ、サザエ、ウニ、タコ、マンボウ、クラゲと並ぶなかで、サメが踊りの見せ場を作る。井澤諒の美しさ、福田圭吾の音楽性、木下嘉人の鋭さ、速水渉悟の骨太の踊りが揃った。対する季の庭ディヴェルティスマンは、春の天女、夏の織姫と彦星、祭り男、秋のどんぐり、竜田姫、冬の雪の花婿・花嫁。それぞれに味わい深く、日本の四季を堪能できる。織姫の柴山紗帆と彦星の木下が、クラシカルな美しさで、年に一度の甘い逢瀬を描き出した。

波の男女アンサンブルは、時々アジになったりしながら、寄せては返す悠久の時を刻んでいる。女性陣の丁寧な脚の運び、男性陣の逞しいリフトが5ヵ月の舞台ブランクを感じさせなかった。小野絢子、福岡雄大の看板カップルが不在ながら、ほぼ全団員が揃った充実の復帰公演だった。

阪本順治『一度も撃ってません』2020

標記映画を見た(7月6日 TOHOシネマズ池袋)。阪本順治監督の新作。尚かつ、同映画館の開館4日目だった。キャストは、作家:石橋蓮司、その妻:大楠道代、友人:岸部一徳桃井かおり、編集者:佐藤浩市、ほかに豊川悦司江口洋介妻夫木聡といった個性派が並ぶ。桃井を除くと、阪本組。過去の阪本映画での体を張った演技が思い出される。

桃井を藤山直美に変えると、『団地』(2016年)の2組の夫婦と同じ。岸部、藤山が演じる 息子を亡くした漢方薬剤師夫婦の、宇宙人を交えたファンタジーだが、それを脇で支えた石橋、大楠夫婦が、今回は売れない作家と元小学校教師となって、老年ノワール風ファンタジーを紡ぐ。脇に岸部と桃井を従えて。

石橋はプログラムのインタビューで「一つの群像劇だと思っているんです・・・登場人物全員にドラマがあってね。誰をピックアップしても一つの話になるけれど、今回は、俺の話だと。そんな意識でやっていました」と語る。確かに脇役風 引きの演技が随所に見られるが、企画の発端は石橋の主演作を作ることにあった。石橋と桃井は『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年 日本ATG)で初共演、原田芳雄邸でよく顔を合わせた間柄と言う(『あらかじめ』は清水邦夫田原総一郎の共同監督、2本立て上演で見たが、桃井の記憶しかない。当時は、桃井がロイヤル・バレエ・スクールに留学するも挫折、といったことは知らなかった)。

『顔』(2000年)での藤山、中村勘九郎(五代目)、『団地』での藤山には、伝統芸能の型があり、阪本演出との摺り合わせに敏感だったが、桃井はインプロ派。監督の意図を突き抜けるアドリブが、役者としての命である。今回の登場シーンは、いきなり桃井節が炸裂し、どうなることかと思ったが、阪本が手綱を引き締め、その深い愛情に桃井が反応して、自分の引き出しを全開にした。「富士そば」のおばさん、喫茶店での素朴な中年女性に、桃井の愛らしさが見える。

常連組は、常に慎ましく存在し、阪本現場にいる幸福を味わっている。一つ一つのショットが、自らを輝かせることを知っているから。役者に注がれる眼差しの深さは、阪本演出の特徴である。今回はノワール風の枠組みながら、いつも通り男女隔てなく、老いの細部に至るまで視線を届かせている。役者への愛情、世界を切り取る際のストイシズムが画面に滲み出て、それを見るだけで慰撫され、自分が肯定された気持になる。阪本監督の生き方、在り方に勇気づけられるのだろう。

阪本監督とは同世代だが、若い世代は桃井節をどう思うのか、阪本監督の分身 佐藤浩市のていたらくをどう見るのか、「野坂じゃなく、五木だけど」のギャクは分かるのか、などを思う。また豊川悦司はエンドロールで知った(分からなかった)。さらに佐藤と寛一郎柄本明柄本佑の2親子が出ている。