酒井はな✕岡田利規『瀕死の白鳥 その死の真相』2021

標記作品を見た(12月10日 KAAT大スタジオ)。演出・振付は岡田利規、出演は酒井はな、編曲・チェロは四家卯大。愛知県芸術劇場 & Dance Base Yokohama 主催「TRIAD DANCE PROJECT ダンスの系譜学」の一角を形成する作品で、フォーキンの『瀕死の白鳥』に続けて上演される。中村恩恵の踊るキリアン振付『BLACKBIRD』よりソロ+自作『BLACK ROOM』*、安藤洋子の踊るフォーサイス振付『Study #3』よりデュオ+自作『MOVING SHADOW』**と共に、「振付の原点」+「振付の継承/再構築」というコンセプトで創作された。

今回は、8月の横浜トライアウト公演(Dance Base Yokohama)、10月の愛知県芸術劇場での本公演を経て、「DaBY パフォーミングアーツ・セレクション 2021」(YPAM 共催)での上演。酒井、中村、安藤(デュオをフォーサイス振付『失われた委曲』よりソロに変更)に、鈴木竜振付の3作品、橋本ロマンス✕やまみちやえの1作品を組み合わせ、5つのトリプル・ビルが作られている。当日は、中村によるキリアン+自作、鈴木作品『When will we ever learn?』との組み合わせだった(因みに、本作の横浜トライアウト公演最終日は関係者のコロナ陽性の疑いで中止となった―後に陰性と判明。今回が初見になる)。

本作に先立ち、フォーキン作、酒井はな改訂による『瀕死の白鳥』が、酒井によって踊られた。岡田が「情報量の多い体」と評した濃厚な肉体である。細かく割れた筋肉が可能にする緻密な振付解釈と、過剰なまでのパトスが自然に同居する。かつての座敷舞のようなオデットを思い出した。『瀕死』が密な体なら、『その死の真相』は密な体をほどく作業。白鳥が死んだ後、酒井はそのままシモテに向かい、白レースで飾られたマイクを装着する。岡田弁のダラダラ喋りで『瀕死』を分解、考えながら(もちろんテクストあり)動きを反芻する。「果たしてこの冒頭は死ぬと分かっているのか、解釈が分かれるが、私としては個人的には、ある程度死ぬのではないかと察している‟てい”で、着水します。何が原因で死ぬのか、何も分からないまま、私は死んでいく」。チェロの四家卯大も、酒井の考察に付き合う。頷いたり、酒井のフォーキン立ち返りに、瞬時に演奏で応じたり。

中盤、酒井がプラスティックの小玉をポアントで蹴ったのをきっかけに、なぜ白鳥が死んだのか、その真相が明らかになる。「水色とかピンクとか、鳥は色盲なので科学的ではないけど、ゴクンして素嚢に送り込んで、消化されることなく、蓄積して」と語ると、苦しそうにのどを押さえ、よろける。急に「オェー」とえづき出し、壁に手をついて「ゲー」、四家の傍で「ゲー」。横たわり倒れると、再び身を起こして、「死後解剖されて、体から玉がざくざく出てきて、写真が公表されて、丸いカラフルな玉がダレーと。これ全部一羽の白鳥から出て、そういう系のビジュアル。全身原油にまみれたヒト(トリ)はインパクトがあって、レジェンドに。私もそれなりにバズってバズって、欧米中心ですけど」。さらに、小学生のころ飼っていたオカメインコのチコちゃんが、最期は体をぶつけるようにしていたので、私も強く羽ばたくようにしている、と語り、片脚で立った後、後脚を伸ばして座り、それを前方に回して、徐々に前傾する。両手を口ばしのように「折り目正しく」合わせて、静かになった。

酒井は真っすぐに、淡々と、感情を込めることなく岡田の言葉を喋る。が、そこに仕込まれた‟無意識”を理解し、体に落とし込んでいる。現実と切り結ぶ岡田の批評的テクストを身体化できるプリマバレリーナは他にいないだろう。厚みのある濃厚な肉体、言葉の微妙なニュアンスと差異の表出、淡々としたユーモア、その背後にある慄然とさせられる現実が渾然一体となった、衝撃的なパフォーマンスだった。‟えづき”はシュプックやゲッケを踊った酒井にしかできない技。岡田のテクストはとても再現できない。天才としか言いようがない。

【参考までに「The 1st Proud & Hopes of Japan Dance Gala 2008」公演評を掲載する】

 横浜と東京の二公演に海外で活躍する日本人ダンサーが勢揃いした。出演順にABTソリストの加治屋百合子、スペイン国立ダンスカンパニープリンシパルの秋山珠子、モンテカルロバレエ団ソリストの小池ミモザドレスデンバレエ団プリンシパル竹島由美子、バーミンガム・ロイヤルバレエ団の厚地康雄他、門沙也香、留学生の大巻雄矢や桑名航平等が、レパートリーを含めた自らの現在を生きいきと披露している。

 秋山のドゥアト作『Arcangelo』と、竹島のドーソン作『on the nature of daylight』は好対照の作品。前者が女性を美しく見せる極めて美的なパ・ド・ドゥであるのに対し、後者は暖かく胸に沁み入るような対話としてのパ・ド・ドゥである。秋山と竹島、それぞれのパートナーの資質もこれに沿っていた。

 小池の『Amenimo』は『雨にも負けず』の詩句と打ち込みを使った自作コンテンポラリー。小池の高度にコントロールされた体が印象深い。

 全体を通して抜きん出たレヴェルを示したのは、現在日本在住の二人、元NDTダンサーの中村恩恵新国立劇場バレエ団の酒井はなである。

 中村の『ブラックバード』は初演時よりも研ぎ澄まされていた。体が熟す一方で油が抜け、たくましくも静かな肉体に変化している。身体コントロールは目に見えないほど細かく、鋭い。思索を重ねて肉体を自分の物にしており、東洋武術の名手といった風情だった。

 一方の酒井はシュプックの有名な『グラン・パ・ド・ドゥ』、古典バレエへの変形オマージュである。黒縁メガネに赤のハンドバッグを離さないコミカルなプリマ役だが、あらゆる古典の主役を踊った者にしかできない真のプリマのためのパ・ド・ドゥである。酒井は優美なラインと素の肉体を楽々と行き来し、コメディエンヌとしての才能を爆発させた。

 終幕のデフィレもシュプック。若手からヴェテランまで、沸き立つような明るい振付を踊って幕となった。夏定番のガラ公演となるのか、今後に期待したい。(8月15日 めぐろパーシモンホール) *『音楽舞踊新聞』初出

2021年公演総括

2021年の洋舞公演を振り返る(含2020年12月)。

コロナ禍は依然として続いているが、昨年とは異なり、劇場が閉鎖されることはなかった。前半期は緊急事態宣言による公演中止や無観客公演、コロナ陽性者による公演中止等を経験。後半期は新規感染者数が減少したため、感染拡大予防策を講じつつ、ほぼ通常の公演状況に戻った。公演の配信も増加傾向にある。新国立劇場バレエ団は「ニューイヤー・バレエ」のコロナ陽性者による公演中止と、『コッペリア』の緊急事態宣言による公演中止を、急遽無料配信に転換した。吉田都芸術監督の英断である。次善の策としての無観客による公演配信は、実演者と観客が同じ空間を共有することの意味を再確認するきっかけとなった。その一方で『コッペリア』の全キャスト無料配信が、16万人超の視聴者を獲得するという思いがけない結果をもたらした。直接劇場に足を運べない地方の人々にも、高レヴェルの舞台芸術に触れる機会を提供できたと言える。

洋舞界では今年、舞踊評論家の山野博大(2月5日没、84歳)、舞踊家、舞踊評論家、『ダンスワーク』編集長の長谷川六(3月30日没、86歳)、舞踊家振付家で、松山バレエ団を設立した松山樹子(5月22日没、98歳)、舞踊家振付家、指導者で、牧阿佐美バレヱ団を設立、新国立劇場バレエ団の芸術監督を務めた牧阿佐美(10月20日没、87歳)を失った。表舞台から遠ざかっていた松山氏の訃報は、ある種の感慨を催すものだったが、直接面識のあった山野氏、長谷川氏、牧氏の訃報には、強い衝撃を受けた。

舞踊全般の公演でお見掛けした山野氏の最後の原稿は、日本バレエ協会「創造されたバレエの夢」(2/1~11 ユーロライブ)のパンフレットに掲載された「日本バレエ創作の軌跡をたどる」である。同協会の「Ballet クレアシオン」で発表された創作の記録映像会には、ご本人も出席される予定だったが叶わなかった。日本バレエ創作の歴史を細かく辿り、再演の意義とアーカイヴ創設への強い望みを訴えられている。誰がこのような文章を書けるだろうか。同文は今年の「Ballet クレアシオン」プログラムに再掲されている。

長谷川氏は恩師である。訃報は5ヵ月後にSNSを通して知った。長谷川氏らしい最期と言える。何もかも与えて下さった。一周忌にはこれまで書いたダンサー長谷川評をまとめて掲載する。

牧氏の追悼文を山野氏が書けなかったのは残念という他ない。一評論家の死は巨大なアーカイヴの消滅だった。牧氏は舞踊家、教育者、経営者、芸術監督であったが、第一には振付家だったような気がする。様々なムーヴメントへの好奇心、ダンサーの好みなど。最後に『トリプティーク』、『角兵衛獅子』第2幕、『フォー・ボーイズ・ヴァリエーション』、『ライモンダ』を見ることができてよかった。物語ることよりも、音楽性に秀でた振付家だった。最後にお見掛けしたのは、8月31日の「第19回牧阿佐美ジュニアバレヱトゥループ A.M.ステューデンツ公演」。福田一雄指揮、シアターオーケストラトーキョー演奏で、ダニロワ版『コッペリア』第3幕の牧改訂振付を見た。関直人と共に、バランシンの子供。ムーヴメントの音楽性、祝祭性が際立っている。

 

バレエ振付家

国内振付家では、関直人『ゆきひめ』『クラシカル・シンフォニー』(井上バレエ団)、牧阿佐美『ライモンダ』(新国立劇場バレエ団)、早川惠美子『スラブ舞曲』(日本バレエ協会)、佐々保樹『火の鳥』(国際バレエアカデミア)、今村博明・川口ゆり子『ジゼル』改訂(バレエシャンブルウエスト)、中島伸欣『Movement in Bach』(東京シティ・バレエ団)、中原麻里『コレ』(ラダンスコントラステ)。新国立劇場バレエ団系では、山本隆之『白鳥の湖』改訂(吹田市民劇場)、貝川鐡夫『カンパネラ』『Danae』『神秘的な障壁』(新国立)、福田圭吾『The Overview Effect』(日本バレエ協会)、宝満直也『美女と野獣』(大和シティ・バレエ)、髙橋一輝『コロンバイン』(新国立)。谷桃子バレエ団系では、髙部尚子『12人の踊る姫君』(日本バレエ協会)、石井竜一『Mozartiana』(Iwaki Ballet Company)、岩上純『Twilight Forest』(谷桃子バレエ団)、日原永美子『OTHELLO』(谷桃子)。それぞれビントレー、谷桃子振付家育成を推進した結果である。若手では関口啓『Holic』(スターダンサーズバレエ団)。番外は、DDD@YOKOHAMA芸術監督の小林十市と、「舞踊の情熱」(DDD@YOKOHAMA)を構成・演出した山本康介。

海外振付家では、アシュトン(牧阿佐美、小林紀子バレエ・シアター)、ロドリゲス(小林紀子)、マクミラン小林紀子)、P・ライト(スターダンサーズ、新国立)、ビントレー『ペンギン・カフェ』(新国立)『スパルタクス』pdd(DDD@YOKOHAMA)、ヨハン・コボー(NBAバレエ団)と、英国(+デンマーク)系が多い。モダンバレエでは、W・ダラー(牧阿佐美)、チューダー(スターダンサーズ)、R・プティ(牧阿佐美)、ベジャール東京バレエ団)、シンフォニックバレエでは、バランシン(スターダンサーズ)、ショルツ(東京シティ)。ロシア系では『海賊』改訂のアリーエフ(谷桃子)。

 

モダン&コンテンポラリーダンス振付家

モダンでは、正田千鶴『ヴィブラート』(東京新聞)、上原尚美『光澄む地にて』(東京新聞)。舞踏・フォーサイス系では、笠井叡『櫻の樹の下には~笠井叡を踊る~』(天使館)、山崎広太・西村未奈『幽霊、他の、あるいは、あなた』(DaBY)、島地保武『In other words』(日本バレエ協会)『Corrente』(音楽×空間×ダンス)『かそけし』(新国立)『思いの果てにある風景』(日本バレエ協会)、安藤洋子『MOVING SHADOW』(DaBY)、フォーサイス『ステップテクスト』(スターダンサーズ)『Study#3』よりデュオ(DaBY)。コンテンポラリーでは、遠藤康行『Little Briar Rose』(日本バレエ協会)、金森穣『残影の庭~Traces Garden』(Noism Company Niigata)、中村恩恵『BLACK ROOM』(DaBY)、松崎えり『sinine』(日本バレエ協会)、福田紘也『Life-Line』(大和シティ)。若手では橋本ロマンス『パン』(SICF)、中川絢音『my choice, my body,』(水中めがね∞)。番外は、岡田利規の『未練の幽霊と怪物』(KAAT)『瀕死の白鳥 その死の真相』(DaBY)。

 

女性ダンサー】

上演順に、小野絢子(宝満直也)、米沢唯のパキータ、佐藤麻利香のメドーラ、酒井はな(島地保武)、佐合萌香(ショルツ)、野久保奈央のシンデレラ、西村未奈(山崎広太・西村)、小野のオーロラ、木村優里(遠藤康行)、日髙有梨(ダラー)、米沢のオデット=オディール、日髙世菜のオデット=オディール、小野のスワニルダ、日髙世菜のキトリ、川口まり(平田友子)、野久保のキトリ、本島美和のドリ伯爵夫人、石橋静河岡田利規)、塩谷綾菜のスワニルダ、中川郁のリーズ、伝田陽美(ベジャール)、井関佐和子(金森穣)、池田理沙子の亀の姫、細田千晶(佐藤崇有貴)、菅井円加(ノイマイヤー)、酒井(岡田利規、コロナ関係中止で12月所見)、齊藤耀(岩上純)、佐藤(日原永美子)、佐久間奈緒(ビントレー)、青山季可(プティ)、大橋真理(ベジャール)、飯島望未(池上直子)、小野のオデット=オディール、柴山紗帆のオデット=オディール、沖香菜子(キリアン)、池田(髙橋一輝)、米沢(貝川鐡夫)。番外は片桐はいり岡田利規)。

 

男性ダンサー

上演順に、福岡雄大(宝満直也)、福岡(貝川鐡夫)、速水渉悟のパキータ・トロワ、福岡のコンラッド、福田建太(ショルツ)、大植真太郎(笠井叡)、山崎広太(山崎)、金森穣(金森)、島地保武(島地)、渡邊峻郁(遠藤康行)、水井駿介(牧阿佐美)、近藤悠歩(ダラー)、髙橋裕哉のジークフリード、グレゴワール・ランシエのロットバルト、山本隆之のコッペリウス、芳賀望のアルブレヒト、井澤駿のジャン・ド・ブリエンヌ、中家正博のアブデラクマン、元吉優哉のコーラス、大塚卓のロミオ、奥村康祐の浦島太郎、マチアス・エイマン(ブルノンヴィル)、福岡(福田紘也)、厚地康雄(ビントレー)、小㞍健太(C・パイト)、小林十市(アブー・ラグラ)、伊藤キム(BOXER&Hagri)、島地(フォーサイス)、林田翔平(友杉洋之)、藤島光太のシンデレラ王子、正木亮のシンデレラ父、小林(金森穣)、福岡のジークフリード、木下嘉人のベンノ、大塚の中国の役人。

11月に見たダンサー・振付家 2021

大塚卓東京バレエ団中国の不思議な役人』(11月6日 東京文化会館

同団7月公演「HOPE JAPAN」の『ロミオとジュリエット』より pdd を見て驚いた。知らない間にスターが誕生していたからだ。当時のツイッターには「技術の高さ、振付解釈、情熱的なサポート。同世代でも抜きん出た王子役ダンサー。今後が楽しみ」と書いている。今回も同じベジャール作品だが、 期待を裏切らなかった。「中国の役人」の薄気味悪さはあまり出せなかったものの、動きのしなやかさ、踊りの巧さ、振付解釈、音楽性(踊りから音楽が聞こえる)、パトスが揃っている。首藤康之を継ぐボレロ・ダンサーになる予感がする。

公演は、ベジャール中国の不思議な役人』、キリアン『ドリーム・タイム』、金森穣『かぐや姫』第1幕(初演)という、何か金森を挟んで親戚関係のようなトリプル・ビル。バルトーク武満徹ドビュッシーの組み合わせもよく、生演奏で見たい気がする(ドビュッシーは音源にバラつきあり)。キリアン作品は沖香菜子の叙情性が際立つも、全体の動きに金森指導が入ればと思った。『かぐや姫』は全幕完成の途上にある。かぐや姫がまだ幼いため、パ・ド・ドゥよりも、ベジャールへのオマージュと言えるアンサンブルの方が印象に残る。かぐや姫を都まで案内する「秋見」は、伝田陽美(あきみ)から取られている(としか思えない)。金森も伝田の気の漲る体、エネルギーの強さを認めたのだろう。伝田の『ボレロ』も見てみたい。

 

中島伸欣『Movement In Bach』@東京シティ・バレエ団「シティ・バレエ・サロン vol.10」(11月6日 豊洲シビックセンタホール)

中島曰く「創作する時は絵コンテを描くが、今回は音楽のみで創った」。20年はコロナ禍の人々を描く問題作、19年は今回と同じく音楽のみの作品だった。以下はその時の評。

中島作品『セレナーデ』は、ドヴォルザークの「弦楽セレナーデホ長調」を使用。ネオクラシカルなスタイルで、中島らしい諧謔味があちこちに付される。特にフレックスの足技が可愛らしい。背中を丸める、膝を曲げるなど、体のアクセントも面白く、明るく晴れやかな音楽性が横溢する。バランシンの引用もあるが、オマージュと同時に、捻りを加えて楽しんでいる様子あり。愛のアダージョは例によって対話のごとく雄弁だった。音楽から汲み取ったものが余さず形になった、瑞々しく機嫌のよいシンフォニックバレエ。レパートリー保存を期待する。(19/12/20)

今回はバッハの「ヴァイオリン協奏曲第1番」「2台のヴァイオリンのための協奏曲」を使用。冒頭、黒いスポーツウェアに煉瓦色タイツ、黒サングラスの女性たちが無音で動き始める。音楽が入ると、楽器と呼応して三々五々、ステップはなく、両腕のみでクネクネと動く。なぜバッハでこの動き、と思うが、確信に満ちた振付。続いて奥から男女が出現。男は白シャツに白ズボン、女はピンクワンピースにピンクタイツ。極めて音楽的なパ・ド・ドゥである。見る側も、音楽、動きと共に体がほぐれ、暖かくプリミティヴな喜びが胸一杯に広がった。男の両耳を後ろからつまむ女、男の胸をツンと突く可愛らしさ。肉体から逸脱しない愛の形、美しく声高でない、中島にしか作れない愛のパ・ド・ドゥだった。続く「2台の」では水色と藤色のワンピースを着た4人の女性が、ポアントで左右に揺れる動きを見せる。音楽に合わせるのではなく、戯れる感じ。リズムよりも曲想が動きとなっている。中島の素晴らしい音楽性を改めて確認した。

スタジオカンパニーの育成公演ながら、中島の創作エネルギーがダンサー、観客に伝播、クリエイティブな喜びがホールを満たす。人間としての誠実さ、生活の根っこ、嘘の無さが、小声で可愛らしく伝わる新作だった。

 

貝川鐡夫『神秘的な障壁』@ 新国立劇場「DANCE to the Future 2021 Selection」(11月27, 28日 新国立劇場 中劇場)

クープランの同名曲を使用した女性ソロ作品。3分程の小品ながら、音楽と一体化した華やかな貝川ワールドが出現する。男性ソロの『カンパネラ』同様、バレエ団の女性にとって持ちダンスとなりうる作品。薄明るい空間の上方に、白いスモークが立ち昇る。無音のなか、薄緑のセパレーツに透き通ったガウン(衣裳:植田和子)を羽織った米沢唯が一人佇む。チェンバロと同時に動き始めるその絶妙な間合い。繰り返しながら次々と転調する微妙な曲想が、米沢の微細な動きによって身体化される。チェンバロの弦をはじく濁りのない音と、米沢の意識化された透明な肉体が呼応、雲のような、霊のような、神秘的障壁を描き出した。透明ガウンの扱いまで視野に入れた米沢の緻密な振付解釈と、祈りを捧げる無垢な魂とが融合し、奇跡的なパフォーマンスを生み出したと言える。『カンパネラ』の福岡雄大、『ロマンス』の小野絢子と並ぶ、優れた貝川解釈である。

二日目は貝川作品を多く踊ってきた木村優里。振付の運動性を重視するアプローチで、動きを見ている間に終わってしまった。『Super Angels』ならこれで問題はないが、微妙に揺れ動く音楽と振付の今作では、もう少し繊細な動きが必要だろう。動き自体の情報量があまりに少なく、体の質を変えるべきところを、演技で補っている(これは『Danae』にも言える)。上体を含む身体の意識化をさらに期待したい。

 

髙橋一輝『コロンバイン』@ 新国立劇場「DANCE to the Future 2021 Selection」(11月27, 28日 新国立劇場 中劇場)

池田理沙子にインスパイアされて創った作品。コロンビーヌの連想から、ソルケル・セグルビョルンソンの同名曲を選択したのだろうか。フルートと弦を使用した民族風音楽と、赤、青、黄の民族風衣裳(植田和子)がぴたりと一致。振付はバレエベースに日常的仕草や演技が加わる。ダンサーの個性を生かしたドラマ作りと音楽が渾然一体となった振付で、一つの共同体に近い世界を作り上げた。パ・ド・ドゥを作れる点を含め、メンターであるビントレーに近い作風。スキップでの集合離散は素晴らしく、ビントレーへの明らかなオマージュである。

ダンサーは池田に加え、渡辺与布、玉井るい、趙載範、佐野和輝、髙橋自身。髙橋のダンサーを見抜く力、視野の広さにより、それぞれにふさわしい振付が与えられている。と同時に、他ダンサーも踊れる普遍性、振付の幅があり、貝川作品と同様、レパートリー化が期待される。池田の伸び伸びとした可愛らしさ、渡辺の屈託のない明るさ、玉井のダイナミズムに滲む女らしさ、趙の大きさ、佐野のいじけ具合、そして池田を遊ばせる髙橋の男気をじっくり味わうことができた。

日本バレエ協会「バレエクレアシオン」2021

標記公演を見た(11月13日 メルパルクホール)。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。松崎えり振付『sinine』(25分)、福田圭吾振付『The Overview Effect』(35分)、島地保武振付『思いの果てにある風景』(45分)というプログラム。松崎はキリアン系自然派の動き+即興、福田はバレエベースの完全振付、島地はフォーサイス系原始派の動き+即興と、個性あふれる振付家が揃う充実のプログラムだった。

松崎作品はキム・セジョンを中心に、坂田尚也、赤池悠希の男女デュオ、1人の男性、15人の女性アンサンブルが様々な場を形成。これまで少人数作品しか見てこなかったので、アンサンブルの振付に驚かされた。呼吸を伴う柔らかい動き、互いの気配を感じとる体を、ダンサーたちが嬉々として実践。自分の身体感覚を大切にするコミュニティが形成されている。ミルズ・ブラザーズで踊るピナ・バウシュ風ラインダンスの音楽的振付が素晴らしかった。

リヒター、ペルト等の音楽と無音を組み合わせた音楽構成、ダンサーの出入り、フォーメーションを駆使した空間構成は、松崎の肌感覚と直観的な空間把握に基づいている。呼吸をするようにその自然な流れを見ることができた。鏡にもオブジェにもなる机は空間を規定、白いバランスボール、本は空間を切断するアクセントたり得ている。ただし後半、キムのソロに降ってきた赤い花びらにはやや違和感が。松崎の奥底にある情念の象徴なのだろうか。

キムの神話的肉体は、冒頭の机シークエンスにおいて発揮された。美しい裸体である。後半のソロは恐らく松崎のイメージよりも滑らかに踊られた。荒ぶる神として、もう少し激しさ、空間支配が必要だったのではないか。坂田は狂言廻しの役回り。赤池との男女デュオはあっさりと、むしろキムとの男性デュオに感情の表出があった。キムを見守り支える盟友の雰囲気がある。松崎は以前、バレエダンサーの森本由布子と大嶋正樹に濃密なコンテンポラリー・パ・ド・ドゥを振り付けている。男女デュオを中心とする作品にも期待したい。

福田作品は、平本正宏のオリジナル音楽と高岡真也の映像がダンスと密接に結びついたコンテンポラリーバレエ。福田の意図が汲み尽くされている。表題の『The Overview Effect』(概観効果)とは、「宇宙空間で感じたパラダイムシフトによる意識の変革」とのこと。冒頭は渋谷のスクランブル交差点を歩く米沢唯の映像。そのまま舞台の米沢にフォーカスされ、前半が始まる。雲、星雲、海のダイナミックな映像をバックに、米沢と福岡の小デュオ、米沢と木下嘉人を中心とした男女4組が踊る。マオカラーの白チュニックを着た米沢は、瑞々しく、初々しい。作品解釈が定着する前の無垢な体が舞台に投げ出されている。中村恩恵版『火の鳥』を思い出した。

後半は強烈な原色映像。ラスコーの洞窟絵画、クローズアップされた植物、光のスペクトラムをバックに、福岡が芯となって踊る。地面を叩き、矢を射る振りは原始人を意味するのか。炎に包まれた廣田奈々の鹿踊りなど、原初的な光景、スマホをかざした群舞、スタイリッシュなコンテユニゾンが、映像と音楽に押し出されるように次々と現れる。終幕は冒頭と同じ渋谷の交差点。米沢が佇んでいるところに、現代人の福岡が「お待たせ」とやってきて、二人は楽し気に歩み去る。

宇宙から原始時代までを視野に入れた壮大な構想。映像の情報量が多く、ダンスそのものを見るというよりも、高度なダンスを組み込んだ総合的エンタテインメントの趣である。めくるめく旅をしたという印象だった。映像と音の洪水の中で、米沢と福岡の身体性はやはり突出する。一週間前には上田で『白鳥の湖』を踊ったばかりの二人。主役の気概を見せつけた。

カーテンコールで米沢が振付家呼び出しのフライング。恥ずかしそうにくるりと一回転した米沢を、福岡が背中を叩いて慰める。すると今度はシモテ袖から福田がフライングして、米沢をフォローした。まるでパ・ド・ドゥの出だし。福田の優しさが滲み出る。『雪女』(振付:中原麻里)で見せた熱い男ぶりを生かす男女デュオを見てみたい。

島地作品は、3本のスタンド・ライトによるフラットな明かりと、藤元高輝のギター演奏が時空を形成する。藤本は自曲(即興?)、モーリス・オアナ、バッハ、ヒナステラを自在に奏で、ダンサーを促し、駆り立て、鎮める。その素晴らしさ。時に発話、おりんをチーン。岡本優が笛や発話で加勢する。島地は、バレエダンサーにはフォーサイス節、コンテダンサーには即興と妙な動き(尻叩く、股叩く)、褌ダンサー五十嵐結也には五十嵐の動きを与えている。折に触れて、謡い、摺り足も。バラバラだが決してアナーキーにはならず。多様な体がそのまま肯定されて平等に存在する共同体が出現した。一種のパラダイスだが、一方でダンサーのダンスアプローチ、さらには生き方まで露わになる厳しさを纏う。島地の教師的佇まいゆえか。終盤、客席から島地とミストレスの酒井はなが舞台に駆け上がり、黒づくめのシルエットで離れたデュオを踊った。切れよく、美しく、戯れながら、飛び跳ねながら幕。夫婦のデュオでもストイックなまでに風通しがよい。平等なのだろう。

池田武志とフルフォード佳林のフォーサイス・デュオ、宝満直也と大木満里奈のバレエ・デュオ、五十嵐と岡本の四つん這いデュオ、大宮大奨は摺り足ソロ、猪野なごみ、梶田留以、五島茉佑子、堀江将司は、出入りしてインプロ混じりのソロ(堀江は謡いも)。それぞれカラフルな衣裳で島地ワールドを真剣に楽しんでいる。超個性派の五十嵐は別格として、岡本の軽やかで自在な踊り、宝満の生き生きとした踊り(発話も)が印象深い。カーテンコールでは、古楽と即興に秀でる優れたギタリスト藤元も、島地の指示で踊らされた。

新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』〈新制作〉2021

標記公演を見た(10月23, 24, 30夜, 31日, 11月2, 3日 新国立劇場オペラパレス、11月7日 サントミューゼ上田市交流文化芸術センター 大ホール)。振付・演出はピーター・ライト、共同演出 ガリーナ・サムソワによる1981年初演の名版である(SWRB、マンチェスター、パレスシアター)。バレエ団にとって、98年の K・セルゲーエフ版、06年の牧阿佐美版(セルゲーエフ版による)に続く3つ目の『白鳥の湖』となる。これまでの2版はソ連時代の慣例で悲劇を避けていたが、ライト版は原点に戻り悲劇、しかも死後の世界と現在を同時に描く衝撃の結末である。

本来は吉田都芸術監督が就任した昨シーズンの開幕公演だったが、コロナ禍でコーチ陣の招聘が困難となり、今季に持ち越された。この1年ダンサーを見続けてきた吉田監督による万全の配役である。上田公演では速水渉悟の王子デビューが予定されたが、怪我で降板。初台初日のベンノ、他日のスペイン共々、残念ながら見ることができなかった。ステージングは元バーミンガム・ロイヤルバレエのノーテイター兼レペティトゥールのデニス・ボナー、主役コーチに元バーミンガム・ロイヤルバレエ プリンシパルの佐久間奈緒が招かれ、ライト版の真髄を伝えている。

演出面での大きな特徴は、「ロジカル」(吉田都)な物語展開。プロローグに先王の葬列を配し、王子の結婚、即位の緊急性を裏付ける。伝統に則った緻密なマイムは当然のこととして、舞踊シーンも全て物語に組み込まれ、誰に向かって踊られるのかが明確である。特にベンノと2人のクルティザンヌが王子を巻き込んで踊るパ・ド・トロワ(アンダンテ・ソステヌートは原曲通り)は、高度に演劇的だった。3幕花嫁候補のパ・ド・シスを部分的に復活させた演出も、ライト版の大きな特徴。物語の流れとして自然で、なおかつ舞踊的にも充実する。ハンガリー王女はPDS導入部、ポーランド王女はPDSVa4、イタリア王女は新発見曲Va2で、入り組んだ金細工のようなソロを踊る。4幕和解のパ・ド・ドゥにもPDSVa2が使用され、ブルメイステル、クランコ、ヌレエフによる原曲採用の流れを思わせた。登場人物では、道化はもちろんのこと、家庭教師も登場しないため、王子とベンノの関係性が強調される。終幕、ベンノが王子の遺骸を抱いて湖から上がってくる光景は、二人の幼少期に始まる濃密な歴史を感じさせた。

ライトの振付では3王女のソロが際立つ。ハンガリー王女の東洋的な神秘性、ポーランド王女の躍動感あふれる上体遣い、イタリア王女の細やかな足技、高速回転と、各国の個性がクラシック語彙の複雑な組み合わせによって示される。また宮廷男性陣に対し、クルティザンヌがレース模様のように絡みあう1幕乾杯の踊り、男性のタンバリンを女性が叩くナポリの踊りなど、対話のような振付が目立つ。3幕パ・ド・ドゥでは、アダージョにおけるオディールの跳びつきアラベスクが悪魔性を強調、4幕パ・ド・ドゥでは、アン・ドゥダン・ピルエットから片腕を半円にしてのけぞる特徴的なシークエンスが、オデットの絶望的な嘆きの象徴となった。

吉田監督が就任してから1年、女性ダンサーの踊り方が大きく変化した。今回の『白鳥』ではその最終形を見ることができる。主役から、ソリスト、アンサンブルに至るまで、上体を大きく使い、深く呼吸する吉田指導が徹底されている。統一されたライン美で定評のあった白鳥アンサンブルも、一人一人が自分の呼吸を保ち、意志を持ってフォーメーションを形成。見ているこちら側もゆったりと呼吸し、自分が肯定されている気分に。明日への活力を養うことができた。ファシズム的とも言えるライン美への陶酔の代わりに、生きるエネルギーを観客に与える白鳥アンサンブル。吉田監督の考える国立劇場としての理想の舞台に近づいている。

主役のオデット/オディールは4人。初日、4日目昼(未見)、上田は米沢唯、2日目、4日目夜は小野絢子、3日目(未見)、6日目は柴山紗帆、5日目、初台最終日は木村優里。振付解釈のディレクションが細かく入り、全員が明快な役作りを実現している。グラン・フェッテの旋回が大きくダイナミックになったことも共通点。吉田監督の指導だろうか。2幕グラン・アダージョは対話的、4幕和解のパ・ド・ドゥに感情の表出が求められているように思われる。

米沢は3月吹田とは異なる白鳥造形。相変わらず今を生きる姿勢を貫いている。初日は動きの生成感が強かったが、上田では常に相手と対峙し呼応する緻密な演技が前面に出た。湖畔のマイムに至るまで定型を洗い直している。白鳥は体を殺した求心的佇まい、黒鳥は丹田に力のある弾力的肉体。3幕回転技、フェッテは悪魔の所業風。鋭く完全で、容赦がなかった。

小野は音楽と一致した動きの精度、脚の表情に一段と磨きが掛かった。本人初日はエネルギーがやや弱めだったが、二回目には自らの思い描く白鳥・黒鳥像を生き生きと体現、美しさと力が漲っている。黒鳥の優雅さ、気品は相変わらず。白鳥の獰猛さを緻密に表現していたのが意外な驚きだった。

柴山は雑味のない水のような造形。外面的なライン美ではなく、バレエの体が必然的に生み出す芯の強い美しさが備わっている。基本に則った技術で、振付を力みなく遂行。動きから解釈が透けて見えない点に、肉体の神秘を感じさせる。本調子であれば音楽に身を委ねる無意識の領域まで至っただろう。白鳥らしい白鳥だった。

木村は伸びやかなラインとダイナミックな踊りが持ち味。横浜の『パキータ』にも言えることだが、これまでよりも一つ一つのパに集中しているため、今回は爆発的な脚の表現には至らなかった。あるいは踊り方を改造中なのか。狂気を含む無意識の大きさが木村の長所。改造後の飛躍に期待したい。

ジークフリート王子はそれぞれ、福岡雄大、奥村康祐、井澤駿、渡邊峻郁。初日の福岡は美しく端正な踊りが印象的だったが、上田では米沢オデット/オディールに魅了される王子に変貌を遂げた。憂鬱のソロ、喜びのソロを、初々しい王子となって踊る。グラン・アダージョ、オデットのソロでは、米沢を包み込むようにサポートし、見つめていた。初日全体を覆ったニヒルな硬さが氷を溶かすように消え、豊かな感情にあふれている。ライト版の演劇志向もあるが、米沢との呼吸に促されたのかもしれない。

奥村は1幕の憂鬱の表現、2幕オデットへの寄り添い、ロットバルト魔力の犠牲ぶり、4幕悲劇のニュアンスと、細やかな演技が際立った。道化もこなす芸域の広さだが、メランコリックな色調がよく似合う。丁寧でノーブルな踊りにさらに磨きが掛かり、パートナーを含め、目前の人への誠実さが滲み出る王子だった。

井澤は王子らしい格調高いスタイルが身についている。憂鬱のソロは、音楽、感情、役どころが一致した入魂の踊り。完全にジークフリートと同化していた。ノーブルな踊りもさることながら、エネルギーが爆発する荒事系の踊りも得意なので、ロットバルト(この版は踊らないが)でも見てみたい気がする。

渡邊はノーブルスタイルを身に付けつつある。切れ味鋭い踊りに磨きが掛かり、3幕ソロではトゥール・アン・レールの連続で喜びを爆発させた。二枚目なので王子は適役。マイムの様式性、自然な佇まいなど、演技面でのさらなる進化を期待したい。

王妃は今季からプリンシパル・キャラクター・アーティストとなった本島美和と、バレエ団元ソリスト盤若真美のWキャスト。本島の王妃はリアルな造形。夫を亡くした悲しみ、息子への愛情、臣下への慈愛が、自然なマイム、立ち居振る舞いから滲み出る。さぞ夫から愛されたことだろう。一方盤若は、98年のセルゲーエフ版初演においても王妃を演じている。マイムの様式性が高く、手・腕の表現に切れと強度がある。妃というよりも女王の風格。威厳に満ちた造形で、王妃の典型を示した。

ロットバルト男爵は、貝川鐡夫、中家正博、中島駿野の「時の案内人」トリオ(竜宮)。貝川の茫洋とした存在感、音楽を楽しみながら白鳥たちを指揮する姿に味わいがある。中家は気の漲る演技で、悪魔的存在を的確に描出、踊りがないのは残念だった。中島は人の好さが滲み出て、現段階では人間色が優っている。

ベンノは木下嘉人、福田圭吾、中島瑞生(上田)。木下の華やかで大きい踊りに目を見張る。考え抜かれた演技、学友としての気品が、ベンノのあるべき姿を現前させた。一方、福田は牧版で道化を踊ってきたせいか、ややそちら寄りの造形。王子を献身的に見守り、愛情深く従うベテランの芝居だった。中島は華のあるノーブルタイプ。踊りの質も向上し、今後に期待を抱かせる。

女性ソリスト陣は充実。ベテラン細田千晶のハンガリー王女、チャルダッシュは、クラシカルな気品に満ち溢れ、寺田亜沙子の2羽の白鳥、スペインは、隅々まで行き届いた踊りで後輩の手本となった。ライト版の見せ場であるクルティザンヌ、3王女のソリスト陣は鍛え抜かれている。飯野萌子、五月女遥、池田理沙子、奥田花純による盤石の踊り、廣田奈々、中島春菜の気品、廣川みくりのエネルギー、また新加入の根岸祐衣がゴージャスな踊り、池田紗弥が癖のない清潔な踊りを見せて、今後の配役予想を困難にさせた。また2羽の白鳥、王子友人たちの横山柊子が、生成感の強い踊りで舞台を活気づけている。チャルダッシュ木下の香り高い踊り、ナポリ五月女の相方を促すタンバリン叩き、音感の鋭さも印象深い。

女性陣はお化粧向上のため(?)、男性陣は王子友人を除いて、髭面が多く、本人特定が難しかった。それにも増して、踊りの癖を矯正する強力な指導、技術の底上げが、個人の特定を妨げている。バレエ団はプロ集団としての新たな局面を迎えたと言える。

指揮はポール・マーフィと冨田実里。マーフィの緩やかな指揮により、大編成の東京フィルハーモニー交響楽団はゆったりと演奏(時に管が落ちたり、弦がフラットになるも)。冨田は初台ではフォルテの響きが重かったが、上田の小編成になるとその駆動力が生かされた。白鳥たちは舞台に合わせて、30人から24人に変更。ライト版の本来に戻っている。

 

バレエシャンブルウエスト『シンデレラ』2021

標記公演を見た(10月10日昼 J:COMホール八王子)。演出・振付は今村博明と川口ゆり子。再演を重ねてきた重要なレパートリーである。5月公演『ジゼル』ではマイムの緻密さに驚かされたが、今回も冗長になりがちな1幕の演技が素晴らしかった。継母、義姉妹、父親の的確で味わい深い造形、ピンポイントの芝居の呼吸が、練達の演出によって実現されている。キャラクターに沿いつつ、音楽をくまなく掬い取る円熟の振付と共に、観客をメルヘン風物語の世界へと誘った。

主役パ・ド・ドゥのアクロバティックな難しさは、初演者に由来する。王子、道化のソロも高難度。王子には左右両回転シェネが課されている。3幕世界巡りでは王子と道化が続けて同じ振りを踊る。王子は最後に手を高く差し伸べ、道化は遠くを眺める仕草で終わり、役の違いを楽しく伝えた。なお1幕 仙女のソロに、プロコフィエフ組曲『夏の日』より「朝」、3幕 シンデレラと王子のパ・ド・ドゥに、組曲『冬のかがり火』より「アンダンテ・ドルチェ」が挿入されている(選曲:江藤勝己)。

主役のシンデレラは若手の川口まり(ソワレ:吉本真由美)、王子は藤島光太(ソワレ:橋本直樹)が務めた。共に清潔なクラシック・スタイルを持ち味とする。川口は1幕では自然体の演技、2幕ではアダージョの見せ方にやや硬さが見られたものの、美しいアチチュードでシンデレラの気高さを表現した。3幕では生き生きとした思い出しソロ、丁寧で情感豊かなパ・ド・ドゥを披露。今後は、師匠 川口ゆり子がリフト時に見せる絶対美を、ぜひ受け継いで欲しい。

王子の藤島は美しく明快な脚技が特徴。左右シェネをこなす高い技術を誇る。開放的で鷹揚なノーブルスタイル、大仰でなく的確に相手に応える芝居、前向きの明るさが揃った主役の器である。同じ振りを踊る道化には、井上良太。すべるような滑らかな踊り、愛嬌のあるあっさりとした演技で、藤島王子を軽やかに支えている。

1幕の主役とも言える継母の深沢祥子は、美しくわがままで可愛らしい。娘たちより自分が1番だが、憎めないのは深沢の人徳か。父親の正木亮もオロオロと困ったまま、どうすることもできない。欠点を含め愛しているのだろう。だがその父も、いざとなると妻と連れ子を押しとどめ、シンデレラを王子に「我が娘」として引き渡す。部屋の隅で不安気に佇む父親と、心から娘の幸せを願う父親に一貫性があるのは、正木の肚が決まっているから。全て分かっていて、家族を受け止める大きさがあった。

姉娘オデットの松村里沙はしっかりしていておきゃん、妹娘アロワサの斉藤菜々美は少し控えめで人が好い。カーテンコールまで役を生きていた。妖精の女王には美しく伸びやかなラインの伊藤可南。若手ながら、溌溂とした春の精 荒川紗玖良、おっとりした夏の精 柴田実樹、技巧派コオロギの早川侑希、きびきびとした秋の精 石原朱莉、穏やかな冬の精 河村美希を束ねている。粋なスペインの吉本泰久、貫禄オリエンタルの橋本尚美、スタイリッシュな王子友人 江本拓と、ベテラン勢も活躍。もう一人の王子友人 染谷野委は、芝居と融合した踊りでとぼけた味わいを醸し出した。

女性アンサンブルは同じスクール出身らしく、スタイルがよく揃っている。伸びやかなラインで呼吸深く、ゆったりと踊るため、観客も体が解きほぐされる。練り上げられた演出と相俟って、終演後には晴れ晴れと気持ちの良い後味を残した。

磯部省吾指揮、東京ニューシティ管弦楽団が、たっぷりと豊かな音作りで物語を支えている。

Noism Company Niigata ✕ 小林十市『A JOURNEY~記憶の中の記憶へ』

標記公演GPを見た(10月15日 KAAT 神奈川芸術劇場 ホール)。2ヵ月にわたって開催された「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021」の最終公演である。芸術監督の小林十市と、旧知の間柄である NCN芸術監督の金森穣がタッグを組む。双方に新たな刺激や展開をもたらす好企画と言える。小林がベジャール・バレエ・ローザンヌで活躍していた頃、金森がルードラ・ベジャールローザンヌ・バレエ学校に一期生として入学。金森にとって小林は、留学先で世話になった兄貴に近い存在だという。

作品は2部構成。小林の人生をめぐる旅を描く。音楽はベジャールの好んだマノス・ハジダキス、ユーグ・ル・バールを使用。中間部に金森の映像版『ボレロ』を再構成した舞台版が組み込まれる。冒頭、椅子に座った小林がカバンの中から写真を取り出す、一枚、また一枚。背後に映し出されるベジャール・バレエ時代の写真。「全て終わったこと」と、カバンを持って立ち去ろうとすると、金森が登場(ジル・ロマンや小林が着ていた黒のベストに白Tシャツ、黒ズボン)、小林を踊りへと誘う。肩を組んだギリシャの踊り、嬉しそうな二人。そこに井関佐和子も加わる。金森がシモテに椅子を置き、小林を座らせる。NCN の若手・ベテランによる『ボレロ』を見つめる小林。クライマックスの寸前、小林はシャツの袖をまくり、輪の中へ入る。バックには上からの映像。右腕を差し上げた瞬間、小林は倒れ、皆は立ち去る。(休憩)

2部冒頭、倒れたままの小林。鳥のさえずりで目を覚まし、あたりを見まわす。奥からグレーの制服を着た男女がゾンビのように現れ、ベジャール節で小林をなぶる。井関、ジョフォア・ポブラヴスキー、三好綾音、中尾洸太が、ピエロの衣裳を分割して着用。小林は赤鼻を付ける。ル・バールの奇妙な曲に合わせて、井関たちがひくつく笑い、踊り、リフト。井関と小林がタンゴを踊ったり。小林はピエロの衣裳を着るが、脱ぎ捨ててカバンに入れる。ゾンビたちのユニゾン、正対する小林。そこになぜか仮面をつけた金森が中央に入り、ひと頻り踊って奥へと消える。つられるようにユニゾンに加わる小林。バックはパリ5月革命の映像。男たちにリフトされ、椅子に座らされる小林。椅子の激しいソロ。やがて背景が雲の映像に変わり、元の景色へ。金森が小林に上着を着せ、一枚の写真を渡す。カバンを手に前へ進む小林。見守る金森。

50代に入った小林を、ベジャール様式を踏襲しながら、未来へと促す作品。ダンサー小林の過去と現在を見据え、ベジャール讃歌を謳いあげる 振付家金森の愛が見え隠れする。長い旅を経て再会した兄弟の暖かさに加え、ベジャールの作品が常に「出会う場」だったように、異質がぶつかり合う新鮮さに満ちていた。ただし、直前の同フェス「エリア50代」で小林の鮮やかなソロを見ていたため、少し複雑な心境に。そこには過去の蓄積を十二分に生かし、新たな語彙を取り入れ、50代の現在を生き抜いたダンサーがすでに存在していたからだ。

金森は小林に「道化」を見ているが、ベジャールはさらに進んで、異界との接点としての役割を担わせていたように思う。研ぎ澄まされたクラシック・ダンサーであること、芸道の家に育ったことによる宇宙的な視野の広さから、現世から離れた存在として作品世界を生きていた。今回 金森の世界で新たに見出された資質は、東洋的な佇まい。『ボレロ』を見つめる座り姿勢、終盤の椅子のソロからは、祖父から受け継いだ剣道の血が息づいていた。Noism メソッドが誘い水になったのだろうか。井関と踊るタンゴでは持ち前のノーブルな精神を発揮。カンパニーと踊るスタイリッシュなユニゾンでは、一人異次元にいた。巧さを追求せず、その場で魂を燃やすことに心を傾けている。まさしくベジャールダンサーそのものだった。小林に最も呼応したのは、同じ赤鼻を付けた中尾洸太。小林の自然な佇まいに寄り添い、心を通わせている。