1月に見た公演2022

1月に見た公演について、メモしておきたい。

 

島地保武『藪の中』(1月13日 セルリアンタワー能楽堂

本作は「伝統と創造シリーズ」として、2012年に同能楽堂で初演された。演出・振付の島地保武は、当時ザ・フォーサイス・カンパニーに所属しており、全体にフォーサイスの影響が濃厚だった印象がある。今回は初演と同じダンサーを起用しながらも、完全に島地の作品だった。フォーサイスの影響と折り合いをつけつつ、自分の体で考えてきた結果と言える。配役は、多襄丸:島地、真砂:酒井はな、金沢武弘:小㞍健太、木樵:東海林靖、検非違使・巫女:津村禮次郎。

芥川龍之介の原作に沿い、個々の体験を描いていく構成・演出。時系列の巻き戻しが説明的にはならず、重層的に重なっていく。島地と酒井によるフラダンス風脱力ユニゾンや、小㞍と東海林による切戸口と貴人口を使ったぐるぐる回り(長過ぎる)など、島地らしさを見せるものの、緻密な構成が前面に出る正攻法の作品である。振付はコンテンポラリーダンスをベースに、能の摺り足、床踏み、切るような直線的腕使い、空手の型、伸びやかなバレエライン、膝を緩めた中腰、よろけ、突っつき、耳つまみ(松つまみ)を組み合わせている。空手は予想外だった。

音楽には熊地勇太を起用。酒井のソロに使われた唯一の既成曲、バッハ『ゴールドベルク変奏曲』の弱音から通常音に至る微妙なあわいが素晴らしかった。全体的には、笙、琴、太鼓、おりん、虫の音、かじかの声、鶯、燕の鳴き声を組み合わせ、音の強弱、切り替えにより、装置のない能舞台に次々と日本の自然を感じさせる空間を生み出した。

真砂役 酒井の妖艶さ、華やかさ、「いる」ことの強さ。これまで培ってきた身体技法が全て生かされている。酒井に充てられた奇妙で可愛い振付は、島地の愛である。対するダンサー島地は野性的な大きさを発揮、酒井を手籠めにする説得力を示した。終盤で聞かせたバリトンの台詞回しは、演劇との親和性を感じさせる。岡田利規とソロが作れそうな気がする。小㞍の品の良いすっきりとした踊り(小心者のソロでさえスタイリッシュな美しさがある)、東海林の軽妙さ、野性的勘のよさが、的確な座組を物語る。さらに謡と舞を担当する津村にも、コンテの語彙、‟喃語”の謡を振り付けて、能とコンテンポラリーの真に有機的な結合を実現させた。島地のメルクマールとなる作品である。

 

新国立劇場バレエ団「New Year Ballet」(1月14, 15日 新国立劇場 オペラパレス)

本来はアシュトン版『夏の夜の夢』(新制作)とバランシン振付『テーマとヴァリエーション』だった。コロナ禍で指導者招聘が叶わず、『テーマとヴァリエーション』はそのままに、昨年オンライン配信(コロナ陽性者のため)されたビントレー振付『ペンギン・カフェ』が上演された。『夏の夜の夢』は吉田監督にとって特別な作品で、初演者のアンソニー・ダウエル、アントワネット・シブリーに直々に教わったとのこと。上演が待たれる。

『テーマとヴァリエーション』(47年)は、米沢唯と奥村康祐(速水渉悟の故障降板で代役)、柴山紗帆と渡邊峻郁のWキャスト。初日の米沢と奥村は晴れやかな組み合わせだった。米沢の柔らかい輝くようなオーラ、丁寧なパの連続と、奥村のノーブルかつ思い切りのよい踊りで、観客を祝福する気持ちのよい舞台を作り上げた。一方、柴山と渡邊はすっきりとした組み合わせ。柴山のポール・ド・ブラ、エポールマンの端正、脚技(パ・ド・シャ、ガルグイヤード)の美しさは、団内でも抜きん出ている。音楽との一体化を含め、理想的なバランシンダンサーと言えるだろう。ただし、直前のミスをアダージョまで引きずったのは残念。対する渡邊は献身的なサポート、覇気あふれるソロで、美しい王子役を体現した。男性二人の騎士然とした佇まいは、高岸直樹効果か。男女ソリストは技術あり、アンサンブルもライン美ではなく動きの質を重視している。

ペンギン・カフェ』はビントレー初期の傑作(88年)。絶滅危惧種の動物たちが人間と共に、様々な民族風音楽で楽し気に踊る。背後にある人間の環境破壊、気候変動への痛烈な批判は、直截にではなく詩的に提示される。いかにもビントレーらしい。

昨年と同じペンギンの広瀬碧が役作りを深め、終幕の無邪気な立ち姿に哀感を忍ばせた。奥村の高貴なシマウマ、福岡雄大のはじけるサンバモンキー、福田圭吾の可愛らしい脱力ネズミは はまり役。例によって熱帯雨林の本島美和と貝川鐡夫が、無意識で結ばれる夫婦を現出させた。今回 米沢(オオツノヒツジ)と本島の作品理解が、ビントレー本来の世界を立ち上げることに大きく寄与。二人の真摯な姿勢に、誠実さを旨とするビントレーの芸術観が浮かび上がった。

東京交響楽団率いる指揮の冨田実里は、珍しく踊りとの齟齬を感じさせた。最終日には調整されたと思うが、ダンサーへの強いシンパシーが原因か。

 

谷桃子バレエ団『ジゼル』(1月16日 東京文化会館 大ホール)

創立者 谷桃子の代名詞と言われた作品。57年団初演以降の演出の変遷、今回の演出意図が、髙部尚子芸術監督によってプログラムに記されている。現行版はボリショイ版を基に、谷、望月則彦の手が加わっているとのこと。7年ぶりの今回、髙部監督は特に「ジゼルの身体のラインと感情面の連動」を重視したと述べている。

ジゼルは初日が馳麻弥、二日目が佐藤麻利香。今回で全幕が最後という佐藤を見た。7年前のジゼルからは大きく成長、円熟の域に達している。前公演の『オセロ』でも、鮮やかな技術、的確かつ細やかな演技で、磨き抜かれたデズデモーナを造形したが、ジゼルも同様だった。高い技術はもちろんのこと、感情を豊かに出しながら、日本的な控えめ、慎ましさを体現する。一つ一つのパに心が宿る、谷桃子バレエ団のプリマらしいジゼルだった。全てがコントロールされた緊密な体、心のこもった的確な演技が揃うベテランの境地にある。

対するアルブレヒトは、前回『ジゼル』と同じ組み合わせの檜山和久。少しニヒルな味わいのノーブルダンサーで、『オセロ』での華やかなキャシオー像が記憶に新しい。今回も地を生かしたアプローチ。感情表出もよく考えられているが、古典ならではのマイムの音楽性、様式性が弱く、立ち姿も少しカジュアルに見える。バレエ団には齊藤拓というお手本がいるので、伝統を継承して欲しい。アルブレヒトのみならず、1幕のヒラリオン(田村幸弘)、ベルタ(尾本安代)、バチルド姫(日原永美子)、ウィルフリード(吉田邑那)も優れたダンサーながら、マイムが弱く、バレエ団伝統の演劇性を立ち上げるには至らなかった。クーランド大公のベテラン内藤博のみが、かつての雰囲気を護っている。マイムよりも生の演技を優先する演出なのだろうか。

打って変わって、舞踊で物語る2幕はドラマティックだった。ミルタの竹内菜那子は激しい気性。クイッとした動きは動物的でさえある。躍動感にあふれ、霊的というよりも人間的な肚を感じさせる鮮やかなミルタだった。永井裕美、北浦児依の美しいドゥ・ウィリ、娘らしいウィリ・アンサンブル共々、バレエ団の伝統がよく生かされている。

指揮の渡邊一正は、シアター オーケストラ トーキョーから、メロディのよく聞こえる実質的な音を引き出している。ジゼル佐藤とは阿吽の呼吸。ジゼルの心情に寄り添う暖かな音楽は、佐藤の全幕花道を飾る大きな支えとなった。

 

Kバレエカンパニー『クラリモンド~死霊の恋~』全編他(1月29日 Bunkamura オーチャードホール)【追記あり

標記公演を中心としたトリプル・ビルの幕開けは、芸術監督 熊川哲也振付の『Simple Symphony』(13年)。ブリテンの同名曲に振り付けたシンフォニックバレエである。幾何学模様の美術、チョーカー付きのシックな黒チュチュが美しい。振付はアシュトンの影響下にあるが、熊川にしか出せないステップの切り替え、無垢な喜びにあふれる。鋭い足技、超絶回転技、変則トゥール・アン・レール、リフト時の急なアラベスクなど、火花を散らすバレエ技法の連続に、息つく暇もなかった。英国らしい感触を残しつつ、自らの音楽性を突き詰めたクリティカルな作品である。成田紗弥の繊細で切れのよい体捌き、髙橋裕哉の優美なスタイル、小林美奈の暖かさ、山田夏生の鮮やかさ、杉野慧、吉田周平の控えめなパートナーぶりが印象深い。

続く『FLOW ROUTE』(18年)は、舞踊監督 渡辺レイ振付のコンテンポラリー作品。ベートーヴェンの3つの音楽を使用し、オーケストラ演奏で踊られる。コンテ色満載の1、3景は、ダンサーにとってチャレンジングな振付だが、振付家の個性は、むしろ2景のアダージョで発揮された。熊川の『Simple Symphony』と呼応する妙味がある。熊川作は3組の男女で出入りなし、渡辺作は4組で出入りありと異なるが、続けて上演されることで、似たような質感(影響関係)を感じさせた。飯島望未の柔らかいコケティッシュな体、山本雅也のデモーニッシュな色気が、作品を突き抜けた世界を作り上げる。よい組み合わせだった。

最後の『クラリモンド~死霊の恋~』は、2018年初演作(コチラ)を2幕に拡大した全編版。ゴーティエの原作に沿い、ショパンのピアノ協奏曲1、2番、同ピアノ曲オーケストレーションを組み合わせて、一つの流れを作っている(音楽監修:井田勝大、編曲:横山和也)。今回は衣裳デザインにセリーヌ・ブアジズが加わり、19世紀ドゥミ・モンドを華やかに描き出した。1幕は修道院、夜の街、娼館、2幕はロミュオーの部屋(初演版の場)という構成。それぞれ古風な紗幕で区切られる。

1幕の修道院、娼館での音楽的で多彩な踊りもさることながら、クラリモンドとロミュオーの2つのアダージョが、熊川の円熟を示している。1幕では協奏曲2番で、高級娼婦と若い神学生の『椿姫』を思わせる愛のパ・ド・ドゥ(その後クラリモンドは結核で亡くなる)、2幕では協奏曲1番で、ヴァンパイアと背徳の神父による愛のパ・ド・ドゥが踊られる。愛の形は異なるが、いずれもきめ細かい音楽性、豊かな語彙、精緻な振付が揃う優れたパ・ド・ドゥだった。

演出面では、死霊のクラリモンドが夢うつつでロミュオーの首に嚙みついた後、ロミュオーが彼女の形をなぞると、人間味を帯びてくる場面、ロミュオーが自らの手首を切って、クラリモンドに血を吸わせる歓喜の場面、クラリモンドがロミュオーの愛に打たれて、十字架に身をさらし、銀色の破片となって飛び散る場面に、熊川らしい愛の考察が感じられる。【追記】映像で確認したところ、今回は銀色の破片はなし、ドレスのみが残されていた。

主役のクラリモンドには日髙世菜。1幕のゴージャスな高級娼婦はやはりマルグリットを思わせる。結核を患いながらも闊達な踊りで場をさらい、若いロミュオーの純愛に鷹揚に応える。この時はまだヴァンパイアの血筋であることを知らず、ロミュオーを連れ戻しに来た修道院長を、自らの力で退散させたことに驚く場面も。マダム・バーバラの腕の中で息絶えるはかなさは、マルグリットそのものだった。死霊となってからはミルタのような趣。ロミュオーの首筋に噛みつき、血をなめて生き生きと蘇る場面から、彼の愛に打たれ自死するまでの怒涛のような感情の流れを、全身で表現した。脚の雄弁さもこれ見よがしでなく、役に収まっている。1、2幕の繊細な演じ分けに加え、出てくるだけで濃厚なドラマを立ち上げる存在感の素晴らしさ。まさしくプリマの舞台だった。

対するロミュオーは初演者の堀内將平。神学生らしい純粋さ、美しく清潔な踊りで、自己犠牲の愛に説得力を与えている。友人のセラピオンには同じく初演者の石橋奨也。初演時よりも役作りが深まり、真面目さの上に成熟した包容力が加わった。今回新たに作られたバーバラには、初演時のクラリモンド浅川紫織が配された。娼館のマダムらしく酸いも甘いも嚙み分けた風情。そこに人の好さの滲み出る点が浅川らしい。2幕を日髙に指導したこともあり、二人の交流には暖かさがあった。ロートレックの関野海斗、修道院長のグレゴワール・ランシエも適役。両者とも切れのよい鮮やかなソロを披露した。

井田勝大指揮、シアター オーケストラ トーキョー、さらにピアノ独奏の塚越恭平は、カンパニーらしい舞台との一体感を実現。塚越の美しい音も忘れ難い。

 

 

 

 

12月に見た公演 2021

昨年12月に見た公演について、メモしておきたい。

 

「DaBY パフォーミングアーツ・セレクション」(12月10日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

Dance Base Yokohama で過去2年間創作された7作品を、5つのトリプル・ビルに組んだセレクション。その初回を見た。プログラムは、①『瀕死の白鳥』+『瀕死の白鳥 その死の真相』、②『BLACK ROOM』+『BLACKBIRD』よりソロ、➂『When will we ever learn?』。①についてはコチラ。②は横浜でのトライアウトを見ている

愛知での本公演を経た中村恩恵の『BLACK ROOM』は、よりソリッドな作品に。中村の体も試行錯誤の柔らかさが抜け、隅々まで意識の及ぶ舞台の体となっていた。動きの切れが増し、手のフォルムが研ぎ澄まされている。黒い部屋にどんどん入り込んでいく孤独の色が、さらに濃厚になった。一方キリアン作『BLACKBIRD』よりソロは、トライアウトでのバレエ系からフォークロアへと印象が変わった。グランプリエの力強さ。キリアンとの歴史を感じさせる。NDT 時代、中村のキリスト教的内省は、キリアンの美的世界に実存の深さを加えていたのではないか。

➂は鈴木竜振付。出演は鈴木、飯田利奈子、柿崎麻莉子、中川賢の実力派が揃った。同じシークエンス(ダンサーが縦1列に並んでから、集団フォルムを作り、鈴木を仰向けリフトしてから、鈴木を中心にポーズを決める)を繰り返し、その都度状況を変えていく。最初は男が女を虐待、または愛の行為と思われたものが、最後は女と男が逆転、さらに男同士、女同士にもなる。暴力とエロスにジェンダーが絡む骨太の作品だった。カントリーウエスタンで肩を振って踊るゴーゴーのような踊り、男女が抱き合って、女の腹に男の頭を押し付けると、女が押し返す愛の形が印象深い。これを踊った柿崎の自然さ、肚の決まり方が尋常ではなかった。柿崎が作品のドライブになっている。また中川がこれ程までに個性を消し去るのを初めて見た。捧げ切っている。ダンサー鈴木の印象は上体の大きさ。つまりパトスが強い。作品も同様。反対に足元を見る(内省する)ダンスを作るとどうなるだろうか。

このトリプル・ビルの隠れコンセプトは、①白鳥(酒井)、②黒鳥(中村)、➂ロットバルト(鈴木)?

 

スターダンサーズ・バレエ団『ドラゴンクエスト(12月17日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

95年初演の重要なレパートリーの一つ。今回の舞台は昨年亡くなったすぎやまこういち(音楽)に捧げられた。演出・振付は鈴木稔、舞台美術・衣裳はディック・バード(18年~)による。当日のキャストは、白の勇者が林田翔平、黒の勇者が池田武志、王女が渡辺恭子というベストトリオ。魔王:大野大輔、賢者:福原大介、戦士:西原友衣菜、武器商人:鴻巣明史、伝説の勇者:久野直哉、聖母:角屋みづきも、適材適所の配役だった。

バードの美術・衣裳に変わったことで、バレエ作品としてより普遍的な外観が整い、海外公演も果たすことができた。その一方、日本人の琴線に触れる浪花節的な感情の発露が、これまでよりも後退しているのが気になる。黒の勇者の最期は、自分の出自(白の勇者と双子)を知った衝撃と、育ての親である魔王への愛情に引き裂かれ、魔王を道連れに崖から身を投じるという自己犠牲を伴う死である。そこに感動があったのだが、今回はそうした演出を感じることができなかった。勧善懲悪的な物語に方向転換したのだろうか。新村純一の陰影深い黒の勇者が思い出される。

 

井上バレエ団『くるみ割り人形(12月19日 メルパルクホール

振付は関直人、美術・衣裳はピーター・ファーマーによるバレエ団伝統の版。主役はWキャストで、当日の金平糖の精は若手の齊藤絵里香、王子はゲストの浅田良和が務めた。齊藤は磨き抜かれた様式性を体現、バレエ団の伝統を継承している。体の向き、視線、腕の置き方、頭の傾げ方、ふんわりと丸い腕の形、まろやかな全体のフォルム。かつてのプリマ藤井直子を想起させる。舞台に捧げる強度も素晴らしく、カーテンコールに至るまで精神性が滲み出ていた。一方の浅田は絶好調の踊り。伸びやかで極限まで体を使っている。柔らかい体捌き、美しい脚技、献身的なパートナリングは健在。フリッツの利田太一も師匠同様、美しく柔らかい踊りを披露した。

ドロッセルマイヤーは大ベテラン堀登から佐藤崇有貴にバトンタッチ。全体に関時代のあっさりとしたマイムから、華やかなマイムへと変わっている。おとうさんの原田秀彦は少しコミカルになったが、二枚目のままでよいのではないか。関が19年に急逝し、以降は複数の演出陣が指導を行なってきた。バランシンに影響を受けた関の祝祭的音楽性は、微妙なニュアンスの違いで再現が難しくなる。雪片のワルツは昨年よりも改善されたが、やはり関生前のような音楽の高揚感を醸すには至らなかった。

ロイヤルチェンバーオーケストラ率いる御法川雄矢の豊かな音楽性を堪能。師匠堤俊作が編曲したフィナーレのクリスマスソングを、楽しそうに指揮していた。

 

新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形(12月18日昼夜、21日、31日 新国立劇場 オペラパレス)

ウェイン・イーグリング版。2幕冒頭など分かりにくい場面もあるが、全体に子供の心情に寄り添った優れたファミリー・バレエになっている。子役への振付が高度(特に小クララのソロ)。また1幕1場の可愛らしい少女たちが、2場ではブーツを履いたファンキーな小ねずみたちとなって踊る。クラシカルとコンテンポラリーの両刀使いは、現代では必須か。イーグリング振付は、踊りとドラマが合致する時に最も発揮されるようだ。詩人、青年、老人、姉ルイーズによる恋の鞘当て劇中舞踊(通常自動人形の場面)、グロスファーターの世代継承シーン(杖と補聴器が若夫婦に渡る)の素晴らしさ。後者は振付の鮮やかさに見惚れると同時に、心もじんわりと暖かくなる。

今回、樅の森のアダージョが強力にブラッシュアップされた。これまで暗幕の前(なぜ?)で淡々と振付をこなしていたのが、クララと王子の濃やかな愛の対話となっている。吉田マジックだろうか。大晦日、正月三が日公演を実行に移し、ねずみの王様を分担させるなど、そこかしこに吉田監督の息吹が感じられた。さらに今回はアレクセイ・バクランの指揮が加わっている。バクランの『くるみ割り人形』に対する特別な思いは次の通り。

くるみ割り人形』には、非常に精神性の高い曲が散りばめられています。だから、音楽家や指揮者は、心に偽りや不誠実があると弾けません。序曲や第1曲は子どもの世界を描いた曲です。子どもは心がとても清らか。ですから我々大人も、子どものようなピュアな心で演奏しなければいけません。(『The Atre』2016年1月号)

振付のパ数の多さを感じさせないベテランの味、持ち前のバレエ愛、全身全霊を傾けた爆発的エネルギーで、舞台を牽引した。

今回のキャスト表では、役デビューに★印が付いている。見た順に、中島春菜のおっとりした花のワルツ、中島駿野の子供の扱いに長けた品のあるドロッセルマイヤー、渡邊拓朗の荒々しいねずみの王様、中島瑞生のノーブルなスペイン(中島が3人いる)、廣川みくりのきびきびとした花のワルツ、柴山紗帆の涼やかなクララ/金平糖の精(金平糖は2回目)、飯野萌子の芝居心あるルイーズ/踊りの巧い蝶々、小柴富久修の美脚なのに仕草が一々面白いねずみの王様、上中佑樹の情熱的な青年/騎兵隊長。初役ながらそれぞれが個性を発揮した。

晦日のカーテンコール時、中家正博ドロッセルマイヤーが進み出て、魔法の杖で雪の結晶の世界へと観客を誘う。すると突然、舞台両袖からクラッカーがバンと鳴り響き、金銀テープが客席に降り注いだ。小野絢子、福岡雄大を中心に、バレエ団のお礼の挨拶で1年が締めくくられた。当日の観客には、『シンデレラ』(小野=福岡、米沢唯)と『くるみ割り人形』(雪片アンサンブル)が表紙の罫線なしノートがプレゼントされた。

 

バレエ団ピッコロ『Letter from the sky ~ 愛しのメアリー ~』(12月25日 練馬文化センター 大ホール)

バレエ団恒例のクリスマス公演。コロナ禍のため2年ぶりとなる。最初に松崎えり振付『L'adieu』(演出協力:松本大樹)が上演された。松崎自身とキム・セジョンによる男女の愛と別れを、ゆったりとした透明感あふれる動きと呼吸で綴る。体の声に耳を澄ます自然派コンテンポラリーダンスである。「バレエクレアシオン」(日本バレエ協会)出品作では、群舞に極めて音楽的な振付を施していたので、バレエ団ジュニアへの振付も期待したい。

『Letter from the sky』は70年代から続くバレエ団の貴重なレパートリー。演出・振付は松崎すみ子。映画『メアリー・ポピンズ』の音楽を核とするパンチの効いた音楽構成が楽しい。松崎の音楽的で多彩なムーブメント、次々と新たな世界が現れる手作り感満載の演出が、子供の心を掴んで離さない。「不思議なひと」などのクリエイティヴなアクセントに、振付家松崎の自由な精神が感じられる。

主役のメアリーははまり役の下村由理恵。いつにも増して動きの正確な美しさ、練り上げられた演技で舞台を牽引した。傘を差して空に昇る凛とした姿に、いつも胸が熱くなる。バートの橋本直樹は、持ち味のダイナミックな踊りを役の内に収め、物語を生き抜いている。子供たちとの交流も暖かく自然だった。団員の小原孝司(バンクス氏)、菊沢和子(バンクス夫人)、山口裕美(お手伝いさん)、北原弘子(6人目のお手伝いさん)はもちろんのこと、ゲストの小出顕太郎(不思議な人)、堀登(銀行頭取)、大神田正美、井上浩一、水内宏之、大石丈太郎(銀行役員)の常連組一人一人が、子供たちを包み込む松崎ワールドを全力で支えている。子供たちも大人の真剣な演技に守られて、真っ直ぐで元気な踊りを見せた。振付指導は松崎えり。レパートリー保存の大きな要となった。

 

牧阿佐美バレヱ団『くるみ割り人形(12月26日 メルパルクホール東京)

創立者の牧阿佐美が亡くなって初めての公演。会場の都合で、美術を前版のモッシェ・ムスマンに戻している。期せずして『くるみ割り人形』にふさわしいノスタルジーが醸し出された。演出・改訂振付は三谷恭三。トリプル・キャストの最終回は、金平糖の精に上中穂香、王子に水井俊介、雪の女王に西山珠里、クララは宇佐美心葉が務めた。舞台は全体に明るさがあり、大黒柱を失った悲しみを、バレエ団が一丸となって乗り越えようとしているかに見える。ジュニアを含め男性ダンサーの踊りが伸びやかになったのは、アシスタント・バレエマスターに入った菊地研の効果か。

金平糖の上中は、アダージョでやや硬さが見られたものの、ヴァリエーション、コーダでは実力を発揮し、堅実に初役を務め上げた。対する水井は鮮やかな踊り。ヴァリエーションの美しさに目を奪われる。ただもう少しパートナーへの集中を期待したい。京當侑一籠の穏やかなシュタールバウム氏、甥(阿久津丈二)を従えたドロッセルマイヤーの菊地が、ベテランの包容力を見せた。また花のワルツソリスト、中川郁のほんわかした味わいには、いつもながら心が晴れる思い。末廣誠の熟練の指揮が、東京オーケストラMIRAI からゆったりと大きい音楽を引き出している。

 

 

山崎広太 @ Whenever Wherever Festival 2021

標記フェスを見た(12月23, 25, 26日 青山スパイラルホール)。今回の WWFesは、最初の二日間が「Mapping Aroundness ―〈らへん〉の地図」、残りの二日間が「Becoming an Invisible City Performance Project 青山編 ― 見えない都市」という表題。スパイラルホール、同ホワイエ、同控室、7days 巣鴨店を舞台に、多彩なプログラムが組まれた。造形・映像作品の展示、オンライン・プログラム、プレワークショップも加わり、ダンス・演劇・映像・美術を跨ぐ一大イヴェントに発展している(キュレーター:西村未奈、Aokid、福留麻里、村社祐太朗、七里圭、岩中可南子、沢辺啓太朗、いんまきまさこ、山崎広太、木内俊克、山川陸)。

ホールのプログラムは全て続けて上演される。いわば美術館のような鑑賞法である。初日は13時から20時、3日目は13時から15時、4日目は12時から13時と16時50分から18時のプログラムを見た。初日の「Mapping Aroundness」は、ホールとホワイエで同時刻の上演があったため、出たり入ったりしながら。3日目と4日目の「Becoming an Invisible City Performance Project 青山編 」は、山崎が全振付・演出を担当。本来13時間続けて見るべきプログラムだった。そんなことは思いもよらず、タイムラインが出たのが直前の19日ということもあり、他公演との兼ね合いからぶつ切り状態で見ることになった。返す返すも残念である。結果として、初日の即興公演と併せ、山崎振付の群舞ばかりを見た印象で終わった。

初日の最終演目、2時間の完全即興『ダサカッコワルイ・ダンス』は、Aokid、山崎広太(島地保武の故障降板で代役)、小暮香帆、後藤ゆう、鶴家一仁、宮脇有紀、モテギミユ、山口静の出演。表題は、郡司ペギオ幸夫著『やってくる』(2020年 医学書院)中の概念「ダサカッコワルイ」から採られている。

ダサカッコワルイは、「ダサイ」かつ「カッコワルイ」ものではなく、「ダサイ」と「カッコワルイ」があたかも共鳴したかのように、新たな「スゴクカッコイイ=アメイジング」なものを実現するのです。もちろんそれは常に実現されるわけではない。外部から呼び込むのですから、ある意味で賭けです。しかし、まったくの偶然に任せ、水たまりに釣り糸を垂らして待つように、外部が飛び込む(魚がかかる)のを待っているわけでもない。漁師が仕掛けや潮流、天気に気を配るように、来るべくして来るものを待ち、賭けに出る。それが罠を仕掛けるということです。だから「ダサカッコワルイ」は、不安定で不徹底で未完成なものではなく、逆に「アメイジング」なものとして存在し得るのです。(pp. 164-5)  参考イラスト:西村未奈

ダンサーたちはこのような身体で即興に臨んだのだろう。最初は円陣を作り、山崎主導のウォーミングアップ、声出し、体動かし。それから無音で動き始める。鶴家が「ハハハハ」と奇声を上げると、山崎がポカンと眺める。個々の音楽指定があるらしく、小暮が急に踊り始めると、山崎が「言わないと掛けてくれないよ」、小暮「そーなんですか」とのやり取りも。山崎はチャイコフスキーくるみ割り人形』の花のワルツを得意げに。周囲は3拍子に戸惑うも、山崎は悠然とワルツを自踊りに変換する。吹奏楽指揮、井上バレエ団出演経験は知識として知っていたが、改めて山崎の優れた音楽性を確信した。

宮脇、山口、後藤、モテギの成熟した美女軍団、よく動くパワフル男でリフトもできる鶴家、かつての島田衣子・森山開次を思わせるネオテニー・デュオの小暮とAokid。即興なので構成はないが、ダンサーの座組が構成の代わりになっている。山崎の頭の中には大まかな動きのイメージがあるのだろう。山崎は全体を見渡しながら、時に活を入れ(いきなり鶴家に飛び掛かり、横抱きさせたり)、まとめていく。終盤、自分の中で一旦終わったのか「お客さんは帰っていいですよ」と言い放った。が、もう一度確認するように動き始める。椅子の上にいた後藤をトントンと叩いて呼びよせ、ダンサー全員が大きな塊となって終わった。ダンサー自身が音楽のきっかけを出す完全即興2時間は予測不能。楽しかった。

3日目は冒頭の2時間を見た。『折口信夫著〈死者の書〉をモチーフに、青山の地下に眠る無意識の身体の表出』と『室伏鴻土方巽をつなぐものは芦川羊子なのか?』のプログラム。客席を取り払った体育館のようなスパイラルホールに、17人のダンサーたちが横たわっている。観客は三方をぐるりと取り囲む。轟音のなか、身じろぎ一つしない肉体の連なりを見るだけで何か荘厳な気分に。二上山ならぬ青山の地下深くに眠る死者たちなのだ。しばらくすると目の前の死体の筋肉がピクリと動く。動きの微細な萌芽。一人がむっくり起き上がり、思い出したように再び横たわる。山崎は時々傍に行って死体に指示を与えるが、すでに膨大な量の言葉がダンサーたちに注ぎ込まれているのが分かる。

正面スクリーンには男女6人の寝顔。耳にイヤホンを突っ込み、互いの寝息を聞きながら眠っている(映像:ミルク倉庫+ココナッツ)。そこにピスタチオやヒキガエルについての断片的な発話が被さり、呆けたような身体感覚を観客にもたらす。地中に響くギター(竹下勇馬)の音も加わり、ホール全体が巨大な棺桶に。死体たちは徐々に蘇り、他人の上に乗っかったり、突っ張っては跳ね返ったり(室伏風)。あちこちで無意識の動きが入り乱れるなか、トリックスターの八木光太郎が「アー」と叫びながら、テッポウ、四股風足踏みで場を撹乱した。観客は目の前の死体を注視し、そのエネルギーを浴びる。ホールは生者と死者の交感の場となった。

ペルトのようなピアノ、サックス(舩橋陽)、鳥の声、太棹のビーンという音で、舞踏モードに。芦川は山野邉明香、土方は木原浩太か(モダンダンス出自)。後藤ゆうと小暮香帆のデュオも。山崎のグニャグニャ動きを全員で踊る迫力あふれるユニゾンは、傑作『ショロン』を思い出させた。最後は宮脇有紀の正統派舞踏で締めくくられる。山崎の舞踏についての考察が、若いダンサーたちに余さず伝えられた印象だった。

最終日の始まりも前日と同じ。17(だと思う)の死体が床に横たわっている。筋肉の蠢きに始まる動きの萌芽が、徐々に立ち上がる。室伏風の「突っ張ってはね返る」は前日と同じ。いびきの映像も。だがプログラム名は『身体の70%は水分』。ダンサーたちは前日の13時から20時まで、入れ替わりもありつつだが踊り続けている。まるでダンスの「虎の穴」。山崎が「蜷川幸雄」に思われてくる。

最後は『Non Stop Moving』と『大谷能生の DJ による80年代歌謡曲オンパレード~クラブミュージックファイナル・ダンスパーティ』。『Non Stop Moving』は同じ隊列フォーメーションで、全員がずっと踊り続ける。時折一人にスポットライトが当たるが、脇目も振らず真っすぐに踊るダンサーたちのエネルギーが素晴らしい。山崎も端っこで飄々と自在な踊り。小暮の火花を散らすような激しいソロ、山中芽衣の伸びやかで自然な踊りが目を引く。『ファイナル・ダンスパーティ』はランダムに。時折消毒液を手にすりこませながら、体対体でお喋りする。西村未奈、渡辺好博も加わり、華やかな打ち上げとなった。西村の明るく透き通った存在感、渡辺の会う人全てを幸せにする無垢な魂は、山崎ワールドの一翼を担っている。

 

酒井はな✕岡田利規『瀕死の白鳥 その死の真相』2021

標記作品を見た(12月10日 KAAT大スタジオ)。演出・振付は岡田利規、出演は酒井はな、編曲・チェロは四家卯大。愛知県芸術劇場 & Dance Base Yokohama 主催「TRIAD DANCE PROJECT ダンスの系譜学」の一角を形成する作品で、フォーキンの『瀕死の白鳥』に続けて上演される。中村恩恵の踊るキリアン振付『BLACKBIRD』よりソロ+自作『BLACK ROOM』*、安藤洋子の踊るフォーサイス振付『Study #3』よりデュオ+自作『MOVING SHADOW』**と共に、「振付の原点」+「振付の継承/再構築」というコンセプトで創作された。

今回は、8月の横浜トライアウト公演(Dance Base Yokohama)、10月の愛知県芸術劇場での本公演を経て、「DaBY パフォーミングアーツ・セレクション 2021」(YPAM 共催)での上演。酒井、中村、安藤(デュオをフォーサイス振付『失われた委曲』よりソロに変更)に、鈴木竜振付の3作品、橋本ロマンス✕やまみちやえの1作品を組み合わせ、5つのトリプル・ビルが作られている。当日は、中村によるキリアン+自作、鈴木作品『When will we ever learn?』との組み合わせだった(因みに、本作の横浜トライアウト公演最終日は関係者のコロナ陽性の疑いで中止となった―後に陰性と判明。今回が初見になる)。

本作に先立ち、フォーキン作、酒井はな改訂による『瀕死の白鳥』が、酒井によって踊られた。岡田が「情報量の多い体」と評した濃厚な肉体である。細かく割れた筋肉が可能にする緻密な振付解釈と、過剰なまでのパトスが自然に同居する。かつての座敷舞のようなオデットを思い出した。『瀕死』が密な体なら、『その死の真相』は密な体をほどく作業。白鳥が死んだ後、酒井はそのままシモテに向かい、白レースで飾られたマイクを装着する。岡田弁のダラダラ喋りで『瀕死』を分解、考えながら(もちろんテクストあり)動きを反芻する。「果たしてこの冒頭は死ぬと分かっているのか、解釈が分かれるが、私としては個人的には、ある程度死ぬのではないかと察している‟てい”で、着水します。何が原因で死ぬのか、何も分からないまま、私は死んでいく」。チェロの四家卯大も、酒井の考察に付き合う。頷いたり、酒井のフォーキン立ち返りに、瞬時に演奏で応じたり。

中盤、酒井がプラスティックの小玉をポアントで蹴ったのをきっかけに、なぜ白鳥が死んだのか、その真相が明らかになる。「水色とかピンクとか、鳥は色盲なので科学的ではないけど、ゴクンして素嚢に送り込んで、消化されることなく、蓄積して」と語ると、苦しそうにのどを押さえ、よろける。急に「オェー」とえづき出し、壁に手をついて「ゲー」、四家の傍で「ゲー」。横たわり倒れると、再び身を起こして、「死後解剖されて、体から玉がざくざく出てきて、写真が公表されて、丸いカラフルな玉がダレーと。これ全部一羽の白鳥から出て、そういう系のビジュアル。全身原油にまみれたヒト(トリ)はインパクトがあって、レジェンドに。私もそれなりにバズってバズって、欧米中心ですけど」。さらに、小学生のころ飼っていたオカメインコのチコちゃんが、最期は体をぶつけるようにしていたので、私も強く羽ばたくようにしている、と語り、片脚で立った後、後脚を伸ばして座り、それを前方に回して、徐々に前傾する。両手を口ばしのように「折り目正しく」合わせて、静かになった。

酒井は真っすぐに、淡々と、感情を込めることなく岡田の言葉を喋る。が、そこに仕込まれた‟無意識”を理解し、体に落とし込んでいる。現実と切り結ぶ岡田の批評的テクストを身体化できるプリマバレリーナは他にいないだろう。厚みのある濃厚な肉体、言葉の微妙なニュアンスと差異の表出、淡々としたユーモア、その背後にある慄然とさせられる現実が渾然一体となった、衝撃的なパフォーマンスだった。‟えづき”はシュプックやゲッケを踊った酒井にしかできない技。岡田のテクストはとても再現できない。天才としか言いようがない。

【参考までに「The 1st Proud & Hopes of Japan Dance Gala 2008」公演評を掲載する】

 横浜と東京の二公演に海外で活躍する日本人ダンサーが勢揃いした。出演順にABTソリストの加治屋百合子、スペイン国立ダンスカンパニープリンシパルの秋山珠子、モンテカルロバレエ団ソリストの小池ミモザドレスデンバレエ団プリンシパル竹島由美子、バーミンガム・ロイヤルバレエ団の厚地康雄他、門沙也香、留学生の大巻雄矢や桑名航平等が、レパートリーを含めた自らの現在を生きいきと披露している。

 秋山のドゥアト作『Arcangelo』と、竹島のドーソン作『on the nature of daylight』は好対照の作品。前者が女性を美しく見せる極めて美的なパ・ド・ドゥであるのに対し、後者は暖かく胸に沁み入るような対話としてのパ・ド・ドゥである。秋山と竹島、それぞれのパートナーの資質もこれに沿っていた。

 小池の『Amenimo』は『雨にも負けず』の詩句と打ち込みを使った自作コンテンポラリー。小池の高度にコントロールされた体が印象深い。

 全体を通して抜きん出たレヴェルを示したのは、現在日本在住の二人、元NDTダンサーの中村恩恵新国立劇場バレエ団の酒井はなである。

 中村の『ブラックバード』は初演時よりも研ぎ澄まされていた。体が熟す一方で油が抜け、たくましくも静かな肉体に変化している。身体コントロールは目に見えないほど細かく、鋭い。思索を重ねて肉体を自分の物にしており、東洋武術の名手といった風情だった。

 一方の酒井はシュプックの有名な『グラン・パ・ド・ドゥ』、古典バレエへの変形オマージュである。黒縁メガネに赤のハンドバッグを離さないコミカルなプリマ役だが、あらゆる古典の主役を踊った者にしかできない真のプリマのためのパ・ド・ドゥである。酒井は優美なラインと素の肉体を楽々と行き来し、コメディエンヌとしての才能を爆発させた。

 終幕のデフィレもシュプック。若手からヴェテランまで、沸き立つような明るい振付を踊って幕となった。夏定番のガラ公演となるのか、今後に期待したい。(8月15日 めぐろパーシモンホール) *『音楽舞踊新聞』初出

2021年公演総括

2021年の洋舞公演を振り返る(含2020年12月)。

コロナ禍は依然として続いているが、昨年とは異なり、劇場が閉鎖されることはなかった。前半期は緊急事態宣言による公演中止や無観客公演、コロナ陽性者による公演中止等を経験。後半期は新規感染者数が減少したため、感染拡大予防策を講じつつ、ほぼ通常の公演状況に戻った。公演の配信も増加傾向にある。新国立劇場バレエ団は「ニューイヤー・バレエ」のコロナ陽性者による公演中止と、『コッペリア』の緊急事態宣言による公演中止を、急遽無料配信に転換した。吉田都芸術監督の英断である。次善の策としての無観客による公演配信は、実演者と観客が同じ空間を共有することの意味を再確認するきっかけとなった。その一方で『コッペリア』の全キャスト無料配信が、16万人超の視聴者を獲得するという思いがけない結果をもたらした。直接劇場に足を運べない地方の人々にも、高レヴェルの舞台芸術に触れる機会を提供できたと言える。

洋舞界では今年、舞踊評論家の山野博大(2月5日没、84歳)、舞踊家、舞踊評論家、『ダンスワーク』編集長の長谷川六(3月30日没、86歳)、舞踊家振付家で、松山バレエ団を設立した松山樹子(5月22日没、98歳)、舞踊家振付家、指導者で、牧阿佐美バレヱ団を設立、新国立劇場バレエ団の芸術監督を務めた牧阿佐美(10月20日没、87歳)を失った。表舞台から遠ざかっていた松山氏の訃報は、ある種の感慨を催すものだったが、直接面識のあった山野氏、長谷川氏、牧氏の訃報には、強い衝撃を受けた。

舞踊全般の公演でお見掛けした山野氏の最後の原稿は、日本バレエ協会「創造されたバレエの夢」(2/1~11 ユーロライブ)のパンフレットに掲載された「日本バレエ創作の軌跡をたどる」である。同協会の「Ballet クレアシオン」で発表された創作の記録映像会には、ご本人も出席される予定だったが叶わなかった。日本バレエ創作の歴史を細かく辿り、再演の意義とアーカイヴ創設への強い望みを訴えられている。誰がこのような文章を書けるだろうか。同文は今年の「Ballet クレアシオン」プログラムに再掲されている。

長谷川氏は恩師である。訃報は5ヵ月後にSNSを通して知った。長谷川氏らしい最期と言える。何もかも与えて下さった。一周忌にはこれまで書いたダンサー長谷川評をまとめて掲載する。

牧氏の追悼文を山野氏が書けなかったのは残念という他ない。一評論家の死は巨大なアーカイヴの消滅だった。牧氏は舞踊家、教育者、経営者、芸術監督であったが、第一には振付家だったような気がする。様々なムーヴメントへの好奇心、ダンサーの好みなど。最後に『トリプティーク』、『角兵衛獅子』第2幕、『フォー・ボーイズ・ヴァリエーション』、『ライモンダ』を見ることができてよかった。物語ることよりも、音楽性に秀でた振付家だった。最後にお見掛けしたのは、8月31日の「第19回牧阿佐美ジュニアバレヱトゥループ A.M.ステューデンツ公演」。福田一雄指揮、シアターオーケストラトーキョー演奏で、ダニロワ版『コッペリア』第3幕の牧改訂振付を見た。関直人と共に、バランシンの子供。ムーヴメントの音楽性、祝祭性が際立っている。

 

バレエ振付家

国内振付家では、関直人『ゆきひめ』『クラシカル・シンフォニー』(井上バレエ団)、牧阿佐美『ライモンダ』(新国立劇場バレエ団)、早川惠美子『スラブ舞曲』(日本バレエ協会)、佐々保樹『火の鳥』(国際バレエアカデミア)、今村博明・川口ゆり子『ジゼル』改訂(バレエシャンブルウエスト)、中島伸欣『Movement in Bach』(東京シティ・バレエ団)、中原麻里『コレ』(ラダンスコントラステ)。新国立劇場バレエ団系では、山本隆之『白鳥の湖』改訂(吹田市民劇場)、貝川鐡夫『カンパネラ』『Danae』『神秘的な障壁』(新国立)、福田圭吾『The Overview Effect』(日本バレエ協会)、宝満直也『美女と野獣』(大和シティ・バレエ)、髙橋一輝『コロンバイン』(新国立)。谷桃子バレエ団系では、髙部尚子『12人の踊る姫君』(日本バレエ協会)、石井竜一『Mozartiana』(Iwaki Ballet Company)、岩上純『Twilight Forest』(谷桃子バレエ団)、日原永美子『OTHELLO』(谷桃子)。それぞれビントレー、谷桃子振付家育成を推進した結果である。若手では関口啓『Holic』(スターダンサーズバレエ団)。番外は、DDD@YOKOHAMA芸術監督の小林十市と、「舞踊の情熱」(DDD@YOKOHAMA)を構成・演出した山本康介。

海外振付家では、アシュトン(牧阿佐美、小林紀子バレエ・シアター)、ロドリゲス(小林紀子)、マクミラン小林紀子)、P・ライト(スターダンサーズ、新国立)、ビントレー『ペンギン・カフェ』(新国立)『スパルタクス』pdd(DDD@YOKOHAMA)、ヨハン・コボー(NBAバレエ団)と、英国(+デンマーク)系が多い。モダンバレエでは、W・ダラー(牧阿佐美)、チューダー(スターダンサーズ)、R・プティ(牧阿佐美)、ベジャール東京バレエ団)、シンフォニックバレエでは、バランシン(スターダンサーズ)、ショルツ(東京シティ)。ロシア系では『海賊』改訂のアリーエフ(谷桃子)。

 

モダン&コンテンポラリーダンス振付家

モダンでは、正田千鶴『ヴィブラート』(東京新聞)、上原尚美『光澄む地にて』(東京新聞)。舞踏・フォーサイス系では、笠井叡『櫻の樹の下には~笠井叡を踊る~』(天使館)、山崎広太・西村未奈『幽霊、他の、あるいは、あなた』(DaBY)、島地保武『In other words』(日本バレエ協会)『Corrente』(音楽×空間×ダンス)『かそけし』(新国立)『思いの果てにある風景』(日本バレエ協会)、安藤洋子『MOVING SHADOW』(DaBY)、フォーサイス『ステップテクスト』(スターダンサーズ)『Study#3』よりデュオ(DaBY)。コンテンポラリーでは、遠藤康行『Little Briar Rose』(日本バレエ協会)、金森穣『残影の庭~Traces Garden』(Noism Company Niigata)、中村恩恵『BLACK ROOM』(DaBY)、松崎えり『sinine』(日本バレエ協会)、福田紘也『Life-Line』(大和シティ)。若手では橋本ロマンス『パン』(SICF)、中川絢音『my choice, my body,』(水中めがね∞)。番外は、岡田利規の『未練の幽霊と怪物』(KAAT)『瀕死の白鳥 その死の真相』(DaBY)。

 

女性ダンサー】

上演順に、小野絢子(宝満直也)、米沢唯のパキータ、佐藤麻利香のメドーラ、酒井はな(島地保武)、佐合萌香(ショルツ)、野久保奈央のシンデレラ、西村未奈(山崎広太・西村)、小野のオーロラ、木村優里(遠藤康行)、日髙有梨(ダラー)、米沢のオデット=オディール、日髙世菜のオデット=オディール、小野のスワニルダ、日髙世菜のキトリ、川口まり(平田友子)、野久保のキトリ、本島美和のドリ伯爵夫人、石橋静河岡田利規)、塩谷綾菜のスワニルダ、中川郁のリーズ、伝田陽美(ベジャール)、井関佐和子(金森穣)、池田理沙子の亀の姫、細田千晶(佐藤崇有貴)、菅井円加(ノイマイヤー)、酒井(岡田利規、コロナ関係中止で12月所見)、齊藤耀(岩上純)、佐藤(日原永美子)、佐久間奈緒(ビントレー)、青山季可(プティ)、大橋真理(ベジャール)、飯島望未(池上直子)、小野のオデット=オディール、柴山紗帆のオデット=オディール、沖香菜子(キリアン)、池田(髙橋一輝)、米沢(貝川鐡夫)。番外は片桐はいり岡田利規)。

 

男性ダンサー

上演順に、福岡雄大(宝満直也)、福岡(貝川鐡夫)、速水渉悟のパキータ・トロワ、福岡のコンラッド、福田建太(ショルツ)、大植真太郎(笠井叡)、山崎広太(山崎)、金森穣(金森)、島地保武(島地)、渡邊峻郁(遠藤康行)、水井駿介(牧阿佐美)、近藤悠歩(ダラー)、髙橋裕哉のジークフリード、グレゴワール・ランシエのロットバルト、山本隆之のコッペリウス、芳賀望のアルブレヒト、井澤駿のジャン・ド・ブリエンヌ、中家正博のアブデラクマン、元吉優哉のコーラス、大塚卓のロミオ、奥村康祐の浦島太郎、マチアス・エイマン(ブルノンヴィル)、福岡(福田紘也)、厚地康雄(ビントレー)、小㞍健太(C・パイト)、小林十市(アブー・ラグラ)、伊藤キム(BOXER&Hagri)、島地(フォーサイス)、林田翔平(友杉洋之)、藤島光太のシンデレラ王子、正木亮のシンデレラ父、小林(金森穣)、福岡のジークフリード、木下嘉人のベンノ、大塚の中国の役人。

11月に見たダンサー・振付家 2021

大塚卓東京バレエ団中国の不思議な役人』(11月6日 東京文化会館

同団7月公演「HOPE JAPAN」の『ロミオとジュリエット』より pdd を見て驚いた。知らない間にスターが誕生していたからだ。当時のツイッターには「技術の高さ、振付解釈、情熱的なサポート。同世代でも抜きん出た王子役ダンサー。今後が楽しみ」と書いている。今回も同じベジャール作品だが、 期待を裏切らなかった。「中国の役人」の薄気味悪さはあまり出せなかったものの、動きのしなやかさ、踊りの巧さ、振付解釈、音楽性(踊りから音楽が聞こえる)、パトスが揃っている。首藤康之を継ぐボレロ・ダンサーになる予感がする。

公演は、ベジャール中国の不思議な役人』、キリアン『ドリーム・タイム』、金森穣『かぐや姫』第1幕(初演)という、何か金森を挟んで親戚関係のようなトリプル・ビル。バルトーク武満徹ドビュッシーの組み合わせもよく、生演奏で見たい気がする(ドビュッシーは音源にバラつきあり)。キリアン作品は沖香菜子の叙情性が際立つも、全体の動きに金森指導が入ればと思った。『かぐや姫』は全幕完成の途上にある。かぐや姫がまだ幼いため、パ・ド・ドゥよりも、ベジャールへのオマージュと言えるアンサンブルの方が印象に残る。かぐや姫を都まで案内する「秋見」は、伝田陽美(あきみ)から取られている(としか思えない)。金森も伝田の気の漲る体、エネルギーの強さを認めたのだろう。伝田の『ボレロ』も見てみたい。

 

中島伸欣『Movement In Bach』@東京シティ・バレエ団「シティ・バレエ・サロン vol.10」(11月6日 豊洲シビックセンタホール)

中島曰く「創作する時は絵コンテを描くが、今回は音楽のみで創った」。20年はコロナ禍の人々を描く問題作、19年は今回と同じく音楽のみの作品だった。以下はその時の評。

中島作品『セレナーデ』は、ドヴォルザークの「弦楽セレナーデホ長調」を使用。ネオクラシカルなスタイルで、中島らしい諧謔味があちこちに付される。特にフレックスの足技が可愛らしい。背中を丸める、膝を曲げるなど、体のアクセントも面白く、明るく晴れやかな音楽性が横溢する。バランシンの引用もあるが、オマージュと同時に、捻りを加えて楽しんでいる様子あり。愛のアダージョは例によって対話のごとく雄弁だった。音楽から汲み取ったものが余さず形になった、瑞々しく機嫌のよいシンフォニックバレエ。レパートリー保存を期待する。(19/12/20)

今回はバッハの「ヴァイオリン協奏曲第1番」「2台のヴァイオリンのための協奏曲」を使用。冒頭、黒いスポーツウェアに煉瓦色タイツ、黒サングラスの女性たちが無音で動き始める。音楽が入ると、楽器と呼応して三々五々、ステップはなく、両腕のみでクネクネと動く。なぜバッハでこの動き、と思うが、確信に満ちた振付。続いて奥から男女が出現。男は白シャツに白ズボン、女はピンクワンピースにピンクタイツ。極めて音楽的なパ・ド・ドゥである。見る側も、音楽、動きと共に体がほぐれ、暖かくプリミティヴな喜びが胸一杯に広がった。男の両耳を後ろからつまむ女、男の胸をツンと突く可愛らしさ。肉体から逸脱しない愛の形、美しく声高でない、中島にしか作れない愛のパ・ド・ドゥだった。続く「2台の」では水色と藤色のワンピースを着た4人の女性が、ポアントで左右に揺れる動きを見せる。音楽に合わせるのではなく、戯れる感じ。リズムよりも曲想が動きとなっている。中島の素晴らしい音楽性を改めて確認した。

スタジオカンパニーの育成公演ながら、中島の創作エネルギーがダンサー、観客に伝播、クリエイティブな喜びがホールを満たす。人間としての誠実さ、生活の根っこ、嘘の無さが、小声で可愛らしく伝わる新作だった。

 

貝川鐡夫『神秘的な障壁』@ 新国立劇場「DANCE to the Future 2021 Selection」(11月27, 28日 新国立劇場 中劇場)

クープランの同名曲を使用した女性ソロ作品。3分程の小品ながら、音楽と一体化した華やかな貝川ワールドが出現する。男性ソロの『カンパネラ』同様、バレエ団の女性にとって持ちダンスとなりうる作品。薄明るい空間の上方に、白いスモークが立ち昇る。無音のなか、薄緑のセパレーツに透き通ったガウン(衣裳:植田和子)を羽織った米沢唯が一人佇む。チェンバロと同時に動き始めるその絶妙な間合い。繰り返しながら次々と転調する微妙な曲想が、米沢の微細な動きによって身体化される。チェンバロの弦をはじく濁りのない音と、米沢の意識化された透明な肉体が呼応、雲のような、霊のような、神秘的障壁を描き出した。透明ガウンの扱いまで視野に入れた米沢の緻密な振付解釈と、祈りを捧げる無垢な魂とが融合し、奇跡的なパフォーマンスを生み出したと言える。『カンパネラ』の福岡雄大、『ロマンス』の小野絢子と並ぶ、優れた貝川解釈である。

二日目は貝川作品を多く踊ってきた木村優里。振付の運動性を重視するアプローチで、動きを見ている間に終わってしまった。『Super Angels』ならこれで問題はないが、微妙に揺れ動く音楽と振付の今作では、もう少し繊細な動きが必要だろう。動き自体の情報量があまりに少なく、体の質を変えるべきところを、演技で補っている(これは『Danae』にも言える)。上体を含む身体の意識化をさらに期待したい。

 

髙橋一輝『コロンバイン』@ 新国立劇場「DANCE to the Future 2021 Selection」(11月27, 28日 新国立劇場 中劇場)

池田理沙子にインスパイアされて創った作品。コロンビーヌの連想から、ソルケル・セグルビョルンソンの同名曲を選択したのだろうか。フルートと弦を使用した民族風音楽と、赤、青、黄の民族風衣裳(植田和子)がぴたりと一致。振付はバレエベースに日常的仕草や演技が加わる。ダンサーの個性を生かしたドラマ作りと音楽が渾然一体となった振付で、一つの共同体に近い世界を作り上げた。パ・ド・ドゥを作れる点を含め、メンターであるビントレーに近い作風。スキップでの集合離散は素晴らしく、ビントレーへの明らかなオマージュである。

ダンサーは池田に加え、渡辺与布、玉井るい、趙載範、佐野和輝、髙橋自身。髙橋のダンサーを見抜く力、視野の広さにより、それぞれにふさわしい振付が与えられている。と同時に、他ダンサーも踊れる普遍性、振付の幅があり、貝川作品と同様、レパートリー化が期待される。池田の伸び伸びとした可愛らしさ、渡辺の屈託のない明るさ、玉井のダイナミズムに滲む女らしさ、趙の大きさ、佐野のいじけ具合、そして池田を遊ばせる髙橋の男気をじっくり味わうことができた。

日本バレエ協会「バレエクレアシオン」2021

標記公演を見た(11月13日 メルパルクホール)。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。松崎えり振付『sinine』(25分)、福田圭吾振付『The Overview Effect』(35分)、島地保武振付『思いの果てにある風景』(45分)というプログラム。松崎はキリアン系自然派の動き+即興、福田はバレエベースの完全振付、島地はフォーサイス系原始派の動き+即興と、個性あふれる振付家が揃う充実のプログラムだった。

松崎作品はキム・セジョンを中心に、坂田尚也、赤池悠希の男女デュオ、1人の男性、15人の女性アンサンブルが様々な場を形成。これまで少人数作品しか見てこなかったので、アンサンブルの振付に驚かされた。呼吸を伴う柔らかい動き、互いの気配を感じとる体を、ダンサーたちが嬉々として実践。自分の身体感覚を大切にするコミュニティが形成されている。ミルズ・ブラザーズで踊るピナ・バウシュ風ラインダンスの音楽的振付が素晴らしかった。

リヒター、ペルト等の音楽と無音を組み合わせた音楽構成、ダンサーの出入り、フォーメーションを駆使した空間構成は、松崎の肌感覚と直観的な空間把握に基づいている。呼吸をするようにその自然な流れを見ることができた。鏡にもオブジェにもなる机は空間を規定、白いバランスボール、本は空間を切断するアクセントたり得ている。ただし後半、キムのソロに降ってきた赤い花びらにはやや違和感が。松崎の奥底にある情念の象徴なのだろうか。

キムの神話的肉体は、冒頭の机シークエンスにおいて発揮された。美しい裸体である。後半のソロは恐らく松崎のイメージよりも滑らかに踊られた。荒ぶる神として、もう少し激しさ、空間支配が必要だったのではないか。坂田は狂言廻しの役回り。赤池との男女デュオはあっさりと、むしろキムとの男性デュオに感情の表出があった。キムを見守り支える盟友の雰囲気がある。松崎は以前、バレエダンサーの森本由布子と大嶋正樹に濃密なコンテンポラリー・パ・ド・ドゥを振り付けている。男女デュオを中心とする作品にも期待したい。

福田作品は、平本正宏のオリジナル音楽と高岡真也の映像がダンスと密接に結びついたコンテンポラリーバレエ。福田の意図が汲み尽くされている。表題の『The Overview Effect』(概観効果)とは、「宇宙空間で感じたパラダイムシフトによる意識の変革」とのこと。冒頭は渋谷のスクランブル交差点を歩く米沢唯の映像。そのまま舞台の米沢にフォーカスされ、前半が始まる。雲、星雲、海のダイナミックな映像をバックに、米沢と福岡の小デュオ、米沢と木下嘉人を中心とした男女4組が踊る。マオカラーの白チュニックを着た米沢は、瑞々しく、初々しい。作品解釈が定着する前の無垢な体が舞台に投げ出されている。中村恩恵版『火の鳥』を思い出した。

後半は強烈な原色映像。ラスコーの洞窟絵画、クローズアップされた植物、光のスペクトラムをバックに、福岡が芯となって踊る。地面を叩き、矢を射る振りは原始人を意味するのか。炎に包まれた廣田奈々の鹿踊りなど、原初的な光景、スマホをかざした群舞、スタイリッシュなコンテユニゾンが、映像と音楽に押し出されるように次々と現れる。終幕は冒頭と同じ渋谷の交差点。米沢が佇んでいるところに、現代人の福岡が「お待たせ」とやってきて、二人は楽し気に歩み去る。

宇宙から原始時代までを視野に入れた壮大な構想。映像の情報量が多く、ダンスそのものを見るというよりも、高度なダンスを組み込んだ総合的エンタテインメントの趣である。めくるめく旅をしたという印象だった。映像と音の洪水の中で、米沢と福岡の身体性はやはり突出する。一週間前には上田で『白鳥の湖』を踊ったばかりの二人。主役の気概を見せつけた。

カーテンコールで米沢が振付家呼び出しのフライング。恥ずかしそうにくるりと一回転した米沢を、福岡が背中を叩いて慰める。すると今度はシモテ袖から福田がフライングして、米沢をフォローした。まるでパ・ド・ドゥの出だし。福田の優しさが滲み出る。『雪女』(振付:中原麻里)で見せた熱い男ぶりを生かす男女デュオを見てみたい。

島地作品は、3本のスタンド・ライトによるフラットな明かりと、藤元高輝のギター演奏が時空を形成する。藤本は自曲(即興?)、モーリス・オアナ、バッハ、ヒナステラを自在に奏で、ダンサーを促し、駆り立て、鎮める。その素晴らしさ。時に発話、おりんをチーン。岡本優が笛や発話で加勢する。島地は、バレエダンサーにはフォーサイス節、コンテダンサーには即興と妙な動き(尻叩く、股叩く)、褌ダンサー五十嵐結也には五十嵐の動きを与えている。折に触れて、謡い、摺り足も。バラバラだが決してアナーキーにはならず。多様な体がそのまま肯定されて平等に存在する共同体が出現した。一種のパラダイスだが、一方でダンサーのダンスアプローチ、さらには生き方まで露わになる厳しさを纏う。島地の教師的佇まいゆえか。終盤、客席から島地とミストレスの酒井はなが舞台に駆け上がり、黒づくめのシルエットで離れたデュオを踊った。切れよく、美しく、戯れながら、飛び跳ねながら幕。夫婦のデュオでもストイックなまでに風通しがよい。平等なのだろう。

池田武志とフルフォード佳林のフォーサイス・デュオ、宝満直也と大木満里奈のバレエ・デュオ、五十嵐と岡本の四つん這いデュオ、大宮大奨は摺り足ソロ、猪野なごみ、梶田留以、五島茉佑子、堀江将司は、出入りしてインプロ混じりのソロ(堀江は謡いも)。それぞれカラフルな衣裳で島地ワールドを真剣に楽しんでいる。超個性派の五十嵐は別格として、岡本の軽やかで自在な踊り、宝満の生き生きとした踊り(発話も)が印象深い。カーテンコールでは、古楽と即興に秀でる優れたギタリスト藤元も、島地の指示で踊らされた。