東京シティ・バレエ団「トリプル・ビル 2022」

標記公演を見た(3月10日 東京文化会館 大ホール)。本来は1月、新国立劇場中劇場での公演だったが、関係者のコロナ陽性が確認されたため、場所を変えて3月の開催となった。プログラムは、山本康介振付『火の鳥』、ウヴェ・ショルツ振付『Octet』、パトリック・ド・バナ振付『WIND GAMES』。当初組まれたバランシン振付『Allegro Brillante』は、コロナ禍で指導者の来日が困難となり、ショルツ作品に変更。さらに、ド・バナ作品は2020年7月の上演予定が、緊急事態宣言の影響で延期されたものである。波乱含みの公演ながら、東京文化会館のピットでは、井田勝大指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が、濃厚なストラヴィンスキー、瑞々しいメンデルスゾーン三浦文彰独奏による鮮烈なチャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲を奏で、音楽的充実を印象付けた。

幕開けの山本版『火の鳥』は、夜の森、月明かり、コンビナート爆発、監視塔といった不穏な映像(笹口悦民)から始まる。幕が上がると、中央にはきのこ雲のような林檎の木。民話の素朴な味わいよりも、ホラー系の雰囲気が漂う。衣裳(桜井久美)は、火の鳥の赤チュチュを除くとモダン路線。ただし最後は全員白い着物を羽織って終わる。王子が火の鳥に貰った日本刀でカッチェイを切り殺すという、和風の設定ゆえだろうか。暗雲の垂れ込めるような映像に対し、衣裳はキッチュなまでに華やか。視覚的統一よりも相互作用を求めたのだろう。

振付は、フォーキン原振付やマイムに、姫と王子のパ・ド・ドゥ、侍女や手下の躍動的なアンサンブルを加えたクラシック・スタイル。和風の動きは採用せず。物語バレエとシンフォニックバレエを合わせたような味わいだが、山本の小品に見られる抒情的で繊細な音楽性は後退している。物語の骨格を考えたせいだろうか。山本の長所は音楽を細かく腑分けし、そこからドラマを立ち上げる点にある。再演に向けてさらなる音楽的アプローチを期待したい。

火の鳥の中森理恵は硬質な踊り。野性味や奔放さはなく、美しいラインを誇る火の鳥だった。対するイワンの濱本泰然はノーブルな造形。カッチェイを刀で切るという単刀直入さとは相容れなかったが。カッチェイの内村和真、王女の清田カレンは適役、元気のよい手下と侍女をそれぞれ率いた。

2つ目は再演を重ねるショルツ作品『Octet』。東京シティ・フィルの瑞々しい弦楽八重奏に乗って、快調に滑り出した。繰り返しシークエンスの懐かしさ、いきなりアラベスク、いきなり膝抱え、いきなりルルヴェの楽しさ。動きの流れが気持ちよいのは、全て音楽から生み出されているから。木村規予香指導の下、新キャストも加わり、バレエ団は生き生きとしたパフォーマンスを繰り広げた。3楽章の福田建太は幼さが抜け、男性の色気が備わってきた。独自の音取りと動きに面白さがある。

最後のド・バナ作品『WIND GAMES』は、ド・バナがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴き「平原を駆け抜け鷹を放って狩猟する遊牧民の姿が浮かんだ」ことから創作された。明確な物語はなく、植田穂乃香とキム・セジョンのデュオを中心に、吉留諒のソロ、4人の女性、2人の女性、4人の男性が様々な関係性を紡ぎ出す。植田は赤のロマンティック・チュチュ、女性4人は白のロマンティック・チュチュに細い2本の三つ編みが顔を跳ねる。男性陣は上半身裸で、黒ズボンという衣裳。振付はコンテンポラリーの語彙を基盤に、正座やフラダンス風動きなど、民族舞踊のニュアンスが加わる。動きが内面から生まれる点、ダンサーを巻き込むパトスの強さを含め、やはりベジャールを思い出させる。

ソリスト吉留の情熱的で鮮やかなコンテの動きに驚かされた(これまでクラシックしか見てこなかった)。ベジャールダンサー首藤康之の系統だったのか。キムは均整の取れた美しい肉体を駆使し、重厚な存在感を、植田は堂々とした立ち姿に風格を漂わせた。ダンサーたちはド・バナの熱い肉体を通したチャイコフスキーに、持てるエネルギーの全てを投入、全身全霊でド・バナの愛情に応えている。

国内外の振付家作品を踊る意欲的なトリプル・ビル。音楽的にも変化に富んだ組み合わせだったが、一方で、所属振付家作品を踊る機会が減っている。そのうちの一人、中島伸欣の作品評を以下に再掲する。昨年東京シティ・バレエ団「シティ・バレエ・サロン vol.10」で上演されたスタジオカンパニーによる『Movement In Bach』である。

中島曰く「創作する時は絵コンテを描くが、今回は音楽のみで創った」。20年はコロナ禍の人々を描く問題作、19年は今回と同じく音楽のみの作品だった。以下はその時の評

中島作品『セレナーデ』は、ドヴォルザークの「弦楽セレナーデホ長調」を使用。ネオクラシカルなスタイルで、中島らしい諧謔味があちこちに付される。特にフレックスの足技が可愛らしい。背中を丸める、膝を曲げるなど、体のアクセントも面白く、明るく晴れやかな音楽性が横溢する。バランシンの引用もあるが、オマージュと同時に、捻りを加えて楽しんでいる様子あり。愛のアダージョは例によって対話のごとく雄弁だった。音楽から汲み取ったものが余さず形になった、瑞々しく機嫌のよいシンフォニックバレエ。レパートリー保存を期待する。(19/12/20)

今回はバッハの「ヴァイオリン協奏曲第1番」「2台のヴァイオリンのための協奏曲」を使用。冒頭、黒いスポーツウェアに煉瓦色タイツ、黒サングラスの女性たちが無音で動き始める。音楽が入ると、楽器と呼応して三々五々、ステップはなく、両腕のみでクネクネと動く。なぜバッハでこの動き、と思うが、確信に満ちた振付。続いて奥から男女が出現。男は白シャツに白ズボン、女はピンクワンピースにピンクタイツ。極めて音楽的なパ・ド・ドゥである。見る側も、音楽、動きと共に体がほぐれ、暖かくプリミティヴな喜びが胸一杯に広がった。男の両耳を後ろからつまむ女、男の胸をツンと突く可愛らしさ。肉体から逸脱しない愛の形、美しく声高でない、中島にしか作れない愛のパ・ド・ドゥだった。続く「2台の」では水色と藤色のワンピースを着た4人の女性が、ポアントで左右に揺れる動きを見せる。音楽に合わせるのではなく、戯れる感じ。リズムよりも曲想が動きとなっている。中島の素晴らしい音楽性を改めて確認した。

スタジオカンパニーの育成公演ながら、中島の創作エネルギーがダンサー、観客に伝播、クリエイティブな喜びがホールを満たす。人間としての誠実さ、生活の根っこ、嘘の無さが、小声で可愛らしく伝わる新作だった。(11月6日 豊洲シビックセンタホール)

ぜひバレエ団員にも踊って欲しい。

長谷川六先生を偲ぶ2022

昨年3月30日に亡くなられた長谷川六先生を偲び、これまで書いたダンス評をまとめて掲載する。表題(緑太字)前の日付はブログ掲載日。

 

2012-01-15

長谷川六の踊り

実演者として、批評家として、プロデューサー(教育者)として、特異な歴史を刻んでいる長谷川六氏。氏の舞踊公演について昨年と一昨年のものをアップする。

「自由であれ」                            

 長谷川六の『櫻下隅田川』を見た。客電が落ちても、客席は落ち着かない。後方で紙をめくる大きな音、携帯音が鳴り、通路では遅れてきた親子連れの声、「あ、六さんだ!」。そうしたざわめきを物ともせず、長谷川は悠然と舞う。清濁あわせ呑む風でもなく、無関心でもなく、ただ一期一会を貫いている。

 舞台は空間的にも時間的にも厳密に構成されていた。助演の中西晶大にはおそらく細かな指示が出されているだろう。二人の動きの質的変化は徹底してコントロールされている。しかしその場で実際感じられるのは、セッション感覚、何も前提としない究極の自由である。来る局面ごとに長谷川の体が反応し、動いているように見える。しかもその反応は深部に生じて、肉体は力みなく静かに漂っている。これまで見せてきた地母神のようなパワー、気の漲り、エロスの横溢は消え、消えたこと自体も想起させない新たな境地だった。

 助演の中西はモノとして存在する能力を持つ。亡霊のように、あるいは精霊のように狂母の傍らに佇む。仄暗い照明を浴びて蹲る姿は、石仏かイコンのような聖性を帯びていた。長谷川の空間で生きることのできる、自立した踊り手である。

 能を基に身体を使った作品だが、受ける感触は音楽に近い。刻々と変わる微細な動きが、快楽を伴って感覚を刺激する。ただし動きの解釈は拒絶され、思考は麻痺したままだ。ベケットのような空間、または能のエッセンスを抽出したような舞台。メッセージは常に「自由であれ」である。(2011年7月7日 シアターX)

     * * *

「鎮魂の舞」

 長谷川六が『薄暮』の2010年版を上演した。87年の初演。能の形式を採り、前後二場を長谷川のソロ、間狂言はその都度変わる。今回は韓国現代ダンスの南貞鎬(ナム ジュンホ)が務めた。この作品は「天声人語」(朝日新聞)に書かれた沖縄の一人の老女から、インスピレーションを得ている。神山かめは夫をニューギニア、長男をスマトラ、次男を沖縄で失う。以来、膏薬を体に貼りながら反戦行進を続けてきた。長谷川はこの老女の慟哭を身体化し、能の形式を用いて老女に救いを与えている。

 作品は例によって長谷川の美意識の具現だった。カミ手にギターを持つマカオが登場する。生演奏と歌に同時録音のエコーをかぶせ、ブルースの感触とミニマルな現代性を行き来する。その傍らで長谷川は土色の長衣を身につけ、狂女のように髪を逆立てて佇む。音楽とは交感のようなセッション。音楽によって長谷川の体が劇的に変わることはないが、集中が増し、体の統一が促される。老女神山となった長谷川は、夫への想い、子への愛情を少ない動きで表現、ほの暗い照明の中で己の肉体との対話を続けた。

 長谷川の横の動きは美的。日本刀のような厳しさを帯びた右腕と、微細な手の動きが尋常ならざる美しさである。一方、前後の動きは危機を孕む。世界が瓦解するのではと思わせる危うい歩行。舞踏を経由した果ての現在のすり足なのだろう。かつては今よりもポジティヴな気のみなぎる神山かめだったかもしれない。現在は静か。しかしこれを衰えと思わせないのは、長谷川の肉体の探求が継続しているからである。

 間狂言を挿んでの後半は一面海の底だった。鬱金色の鉢巻きに水色の長衣、クリーム色の打ち掛けを着た長谷川は、鳥のように両手を広げてたゆたう。海の底で神山かめは長谷川によって救いを与えられる。膏薬を貼って歩き続けた神山への、まさに鎮魂の舞だった。

 間狂言の南は黒い袖無しTシャツ、クリーム色の柄物スカート、黒いベタ靴という日常的な装いに、赤い紅を両頬に丸く塗って滑稽味を添えた。相方はベースの斉藤徹。南が「斉藤さーん」と呼んで掛け合いが始まる。圧倒的な美意識を誇る長谷川の空間とは異なり、南の空間は日常性から発するコミュニケーションの場である。互いの即興に耳を傾け、動きを見守る。南の韓国舞踊に由来するエレガンスと暖かさ、内側からスパイラルに広がる肉体がすばらしい。斉藤の音もいつしか韓国太鼓のように響いた。どんなリズムでも三拍子を拾う南の軽やかな足踏み。踊りの愉楽と、無垢でユーモラスな対話が横溢した空間だった。

 南の間狂言を入れたことで改めて、長谷川の演劇と美術への傾斜が明らかになった。実演者として批評家として、日本ダンスシーンに多くの栄養を注ぎ込んできた歴史を思った。(2010年7月7日 シアターX)

 

2012-07-11

長谷川六最新ソロを見る

批評家、ダンサー、プロデューサー、教師として、日本ダンス界で独自の地位を築く長谷川六のソロを見た(7月10日 キッド・アイラック・ホール)

長谷川は、日本画家間島秀徳による巨大な円筒二基の間で、湯浅譲二の40年前の曲をバックに踊った、と言うか、居た。円筒が陰になってほとんど見えない位置(私)。時々長谷川の研ぎ澄まされた美しい手がぬっと出てくる。ガラス玉をばらばらと落とす音が、食べ物をこぼすようにユーモラスに聞こえる。円筒にしゃぶりついたり(ほんとはいけないこと、絵の具が落ちる)、左右の椅子を行ったり来たりして見た。左の女性はすごく迷惑そうにしていた。集中できないからか。でも見えないことに怒っている風も。

湯浅の音楽はノイズ風で、アフタートークの時、音量が足りないとの湯浅の苦言あり。長谷川が使用する音とは違って、生の荒々しさがある。そのため、いつもの美的に洗練された空間とは異なる破れ目、裂け目が生じた。踊り自体も音に立ち向かっているような、対話しているような切迫感があった。キュレーションの面白さだろう。

こういう事故的パフォーマンスだったが、と書いて思い出したのが、終盤の長谷川。若い男の子二人にガラス玉を拾うよう命令、また正座で見ていた女の子に立つように促した。しかしその子は足が痺れて立てない。生まれたばかりの子鹿のように、長谷川の手につかまり、ようやく立ち上がった、その初々しさ。長谷川の慈母のような肉体を招き寄せた。

帰り道はいつものように体がほぐれ、細胞が解放された。長谷川の気が空間に充満し、客の体を通り過ぎたからだ。このように、踊りを見て、自分が肯定(解放)されることはほとんどない。神事のような踊り、本来の踊りである。だからダンサーの才能を評価しようとするスケベ根性は出てこない。

 

2013-04-27

長谷川六パフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ

長谷川六のパフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ』を見た(4月26日 森下スタジオ)。

長谷川の主宰するPAS東京ダンス機構による新作公演シリーズ「ピタゴラス2」の一環。今回は上野憲治との共演。両手奥それぞれに書見台を置き、原民喜『夏の花』の一節を交互に読み、交互にソロを踊る。

長谷川は黒いプリーツのソフトジャケットに黒のロングスカートで登場。「大の字」に立つと、黒子役の女性(後に衣装デザイナーと分かる)が、置いてあった赤い衣装と冠を長谷川に着せる。衣装は細かく切れ目が入り、体全体を覆う筒状のもの。同じ赤い布で作られた冠は、四角い底辺に山型の屋根を持ち、紐で固定する。シルエットは能衣装、赤いビラビラは原爆の業火を身に纏っているように見える。

上野が原民喜の言葉を読んでいる間、長谷川は研ぎ澄まされたフォルムで、空間を作る。「立つ」、それだけでスタジオを異化する。身体のあり方は能に近く、背後に無数のフォルムを感じさせる。両足で立つと左脚の曲りが深い。長谷川の表徴。手足は苦行僧のように極限の様相を帯びて、節があるのに優雅で美しい。このような能、または神事に関わる身体に加え、今回初めて太極拳の型と、気の放出を見せた。

赤い衣装を脱いだ後、『夏の花』の朗読へ。上野は美丈夫だが、まだ拮抗できる体ではない。長谷川は朗読を終えると、メガネを付けたまま奥の立ち位置へ行く。どうするのかと見ていると、何事もなかったようにメガネを置きに書見台へ戻った。以前シアターXの公演で、時計を付けたまま舞台に出たことがあるが、そんなことはどうでもよいのだ。

徹底したモダニズム美意識と、能、神事、武術の体の融合、そこに何でもありの精神が加わった踊り手。そして自分にとっては舞踊批評の唯一の師匠である。

 

2013-09-13

長谷川六『曼荼羅

標記公演を見た(9月12日 ストライプスペースM&B)。

今井紀彰の曼荼羅のようなコラージュ作品と、柳田郁子の赤と生成りの布造形作品が置かれた空間でのダンス公演。前半は坂本知子の構成で、坂本と加藤健廣、上野憲治が、走り回り、ぶつかり合い、ころげ回り、踊る。坂本の緻密な肉体の輝き、一秒たりとも躊躇を見せない集中した動きが素晴らしい。加藤は肉体の虚ろな部分が他者との接点になっている。上野は感じはよいが、まだ見られる体とは言えない。

後半は長谷川のソロ。黒いジャージ地のロングドレスで、ギャラリー前方部分中央に位置をとる。たちまち長谷川の気が空間に満ちて、見る側の身体が自由になる。両足を踏ん張り、やや前傾、掌を上に両腕を前方下に差し伸ばし、少しづつ動く長谷川。ロマン派をくすませたような不思議なピアノ曲の高まりと共に、右回りに空間に入り込んだ。曲はグルジェフアルメニア生まれの思想家、精神指導者で、グルジェフ・ムーヴメントと呼ばれる舞踏を残す)の弾く瞑想のための音楽とのこと。メロディに身を委ねるロマン派的な熱さは、これまで感じたことがなかった。終盤、柳田郁子自らが長谷川の体に、生成りのビラビラした布を付けていく。微動し続ける長谷川、布の形を直し続ける柳田。最後にビラビラで完全に顔を隠した。ケイタケイが服をめでたく重ね着するのとは違って、得体のしれない豪華な異人(貴人)が突っ立っている。柳田の愛、柳田に肉体を差し出す長谷川の愛の一致だった。

 

2013-10-11

長谷川六@ヒグマ春夫

長谷川六がヒグマ春夫の空間に存在するのを見た(10月9日 キッド・アイラック・アートホール5階ギャラリー)。「連鎖する日常あるいは非日常の21日間・展」の一環である。

開演30分前にすでに長谷川は、白い布でぐるぐる巻きにされて椅子に座っていた。道路に向かって開放された大きな窓に、ほぼ正方形の部屋。中央に立方体の木枠が組まれ、半透明の白レースが上と窓方向に張られている。さらに窓にも揺れる白レースのカーテンが。木枠のレースと窓のカーテンにヒグマの映像がノイズ音と共に映し出される。焦点の合っていないシミだらけの車窓風景が飛ぶように過ぎて、時折深海魚の燻製が風景にかぶさる。カーテンに映される二重の映像は、風に揺らめいて外界へと消えていく。骨だけの傘が浮かぶ天井には、波飛沫の映像。隅にはミイラのような長谷川の体。三々五々人が集まるなか、30分間、長谷川と共にその空間に身を浸した。

開演時間になると、長谷川がぬーっと立ち上がり、布を内側から広げて体を現した。左腕には腕時計。木綿の紐を持って水平に伸ばし、肩幅に繰り、弓のように引き絞る。木枠と窓の間で動くので、途中からレース布で遮られ見えなくなった。昨年のパフォーマンスでもインスタレーションで、ほとんど体が見えなかった。キッド・アイラックでは見えないことになっているのか。

布を取った長谷川は、ツナギの上だけみたいな赤い作業着を身に着けている。これが着たかったとのこと。高橋悠治とヒグマ春夫のサインが背中に入っている。いつものような気の漲りがなかったのは、30分間布に入っていたせいだろうか。終演後の挨拶で「呼吸ができないし、暑いし」と言っていた。布の中ではどういう体だったのだろうか。瞑想状態? 人の声だけが聞こえる。音で人を判別していたのだろうか。長谷川ミイラの並びに座ってヒグマのぼんやりした映像を見るという、夢に近い体験だった。

 

2014-07-19

長谷川六パフォーマンス『素数に向かうM』『透明を射る矢M』

六本木ストライプハウスでの「TOKYO SCENE 2014」の一環。米人報道写真家トーリン・ボイドの日本風景をバックに飾ったパフォーマンス企画である(企画・制作:PAS東京ダンス機構、後援:ストライプハウス、助成:PAS基金)。『素数に向かうM』(7月16日昼)は、深谷正子の構成・振付で長谷川がソロを踊る。『透明を射る矢M』(7月18日)はヒロシマをテーマにした連作で、上野憲治とのダブル・ソロ。両作ともストライプハウスの中地下ギャラリーで行われた。芋洗坂に面した幅広い窓から、昼間は陽光が、夜は街灯が降り注ぐ。道行く人の顔も。(もう一作『そこからなにか』というソロ作品もあったが、見ることができなかった。)

素数』は深谷の構成が入ったかっちりした作品。外光が入るので弛緩するかと思ったが、もちろん長谷川の身体は外部条件とは無関係にそこに存在する。4つの背の高いティーテーブルの上に、折り畳み式鏡が横向きに置かれている。長谷川も鏡を持って登場。両手で鏡をまさぐりながら佇む。左手首にはいつものように時計。両脇に袋状のポケットが着いた黒い麻のワンピース。脹脛と足が見える。その足に惹きつけられた。右足には土踏まずあり。左足は外反母趾で土踏まずが中にめり込んでいる。その不具合は個性を突き抜けて、絶対的フォルムにまで昇華している。左右の足が生み出す密やかなステップ―太極拳の弓歩のような柔らかさ―を凝視してしまった。

途中、両脚を肩幅に立ち、両手で胸を押さえ、次に頭を押さえ、顔の前で両肘下腕をくっつけ、そうして両肘を脇に引きつけてから、思い切り息(気)を飛ばすシークエンスが繰り返された。「ハッ」。その度に長谷川の気がギャラリーに充満し、愉快な気分に。深谷の振付とのことだが、長谷川の武術に馴染んだ体が生かされていた。最後はエラ・フィッツジェラルドの弾力のある歌に合わせて、体を揺らす。観客席のみやたいちたろう君(1歳)に手を振りながら、機嫌よく終わった。剣道(?)、モダンダンス、能、舞踏、オイリュトミー、太極拳、バレエ他が混淆された肉体。その運用を見るだけで喜びを感じる。

『透明』の方は、今回『夏の花』(原民喜)を読む場面がなかった。バッハ、忌野清志郎、ビリー・ホリディを長谷川がCDで流す。上野とは絡まず、それぞれがヒロシマを思いながら動きを見出していく(泳ぐ動きは共通していた)。上野は分節化された肉体ではないが、生の、豪華な存在感がある。少し長谷川を見過ぎていたのが残念。長谷川があまり既製のダンサーと組まないのは、生の味が欲しいからだろうか。

長谷川の演出は、作品と言うよりも「場」を作ったという印象。そのため、地下で行われる次の公演の観客が、窓を覗きながら建物に入ってくるのが、よく見えた。全体に小ぎれいな女性が多い。うなじの美しい女性が窓の向こうで人待ちしているのと、直下で行われているパフォーマンスを同時に見ることになる。舞踊評論家山野博大氏も通行人の中に。外に開かれたギャラリー公演ならではの面白さだった。

 

2015-07-12

長谷川六『闇米伝承』2015(追記あり

標記公演を見た(7月10日 ストライプハウスM)。東京ダンス機構主催「TOKYO SCENE 2015」の一環である。作・演出・装置・出演は長谷川六。衣装(装置としての衣服)製作は奥野政江。照明はカフンタ。と書いて、照明に気付かなかったことに気付いた。照明効果は無意識に刷り込まれている。あるべき照明の姿。

昨年は、道路に面した半円を描く大ガラス窓を背景にし、行き交う人々が見える舞台設定だったが、今回はギャラリー中央にある階段がバック。壁には高島史於による70年代の写真が並ぶ。花柳寿々紫、藤井友子、三浦一壮、矢野英征、畑中稔の霊に囲まれて踊る形。

カミテ通路から長谷川が登場。留袖をリフォームした長い衣装、右手には杖、ではなく竹刀、左手には紫の花束。盲目のオイディプスか、能役者の佇まい。竹刀がよく似合っている。ついさっきまで受付でにこやかに微笑んでいたのが、一瞬で本来の体に統一される。つまりどこでも集中できるということ。足袋のような白い靴下をはき、地面を選びながら静かに動く。床の中央には三枚の畳んだ着物。その前で、長谷川は体と対話しつつ、フォルムを変えていく。竹刀を斜めにしたり、両の手で捧げ持ったり。その腕の美しさ(左前腕裏には丸い痣がある)。様々な身体技法を経てきた果てに獲得された美しさである。一瞬一瞬フォルムを切り取り、体の位相を変える手法は、能に由来するのだろうか。気の漲りは穏やかだが、見る者の中に確実に堆積して、ふと気が付くと涙が流れていた。

『闇米伝承』という題の下に、「母親の箪笥から着物が一枚、また一枚消え、四人の子供のいのちを繋いだ」とある(ちらし)。母の着物を思い、父の竹刀を使った舞。そこにバッハの無伴奏チェロ組曲を流すところが、モダニスト長谷川。一方、張りつめた神事のような瞬間ののち、それを破壊するかのごとく、母の着物を両腕に巻きつけてぶん回すのが、ポストモダニスト長谷川。最後は『ケ・サラ』を「70年代を思って歌い」、終わりとなった。

「昨日膝を痛めて歩きづらいので、父と祖父の使った竹刀(剣道の師範だった)を杖に使いました」と挨拶。花束も「今朝頂いたもの」だった。完全な自由を垣間見られる時間。人間は自由なのだと思い出させるパフォーマー

*長谷川六氏より「着物を振り回すのは、乱拍子、唄を歌ったのは、シテは謡うので」とのご指摘を頂いた。全て能にある要素で創られていたということ。

 

以上がこれまで書いたダンサー長谷川六評。以下は、今年3月6日にシアターX で行われた山野博大・長谷川六追悼公演「舞踊と批評の60年」のプログラムに寄せた追悼文である。

 

六先生のこと

長谷川六先生とは、教師と生徒、編集者と書き手、ダンサーと批評家、という三重の関係だった。初めてお会いしたのが98年の森下スタジオ。先生の「舞踊学」の講座を受講し、現代ダンスの歴史や公演評の実践的な書き方を教わった。記憶に残っている言葉は「批評を書く者はプログラムに書いてはいけない」。ご自身も能藤玲子の評伝以外、プログラムに書かれていない。

最初に公演評を書くよう依頼して下さったのも先生だった。『ダンスワーク』での公演評や年間総括、「山崎広太論」、さらにインタビュー集『舞台の謎』の出版まで面倒を見て頂いた(当時はその有難さが分からなかった)。

ダンサーとしては、武道、能、舞踏、バレエ、オイリュトミーを経過した、誰とも似ていない体で、一気に異次元を現出させた。先程まで受付で観客の応対をされていたのに。ダンスにおいても日常においても人を魅了する、その繊細で知的な手の動きは、ダンサー長谷川の表徴である。それはまた、酔った山崎広太の吐しゃ物を掬う愛の手でもあった。

 

六先生、ありがとうございました。

 

 

日本バレエ協会『ラ・エスメラルダ』2022【追記あり】

標記公演を見た(3月5日, 6日夜 東京文化会館 大ホール)。都民芸術フェスティバル参加公演である。ペロー原振付(1844年)、プティパ改訂振付(1866~99年)、ユーリ・ブルラーカ復元振付・演出の『ラ・エスメラルダ』は、2009年ボリショイ・バレエで初演された。4幕構成・3時間半に及ぶ大作(アンナ・ゴルディーワ、訳・宇都宮亜紀、『ダンスマガジン』新書館、2010年4月号)だが、今回は3幕構成・3時間10分にまとめられている。その中身は、ロマンティックバレエと古典バレエのせめぎ合いに、ソ連時代の追加振付、さらに男性群舞(1、3幕)の新振付を加えた、言わば「見るバレエ史」である。ゴルディーワによると「作者たち(ブルラーカ、メドヴェジェフ他)はこの新しい作品を、1844年から1935年までのバレエ『エスメラルダ』の変遷に対する演出チームの見解と捉えてほしいと考えている」(同上)。

1幕「奇跡の広場」「エスメラルダの家」、3幕「エスメラルダの家」「グレーブ広場」はロマンティックバレエ寄り。物語に沿った踊りが繰り広げられ、マイムも多く残されている(全員での縛り首マイムの楽しさ)。壺割り、ロマの占いなど、ユーゴ―原作由来の風俗も味わい深い。闊達な男女乞食・民衆アンサンブルは『ドン・キホーテ』やブルノンヴィル作品を、エスメラルダがフェビュスのスカーフを貰って喜ぶ場面は『ラ・シルフィード』、カジモドに水を飲ませる場面やフロロとの対峙は『ラ・バヤデール』、3幕の虚脱状態、尼僧アンサンブル(聖歌隊)をパ・ド・ブレで回る姿は『ジゼル』を想起させる。3幕「悲しみの行進」途中、判事が縛り首マイムをして、エスメラルダに紫のベールをかける場面は印象的だった。

一方、2幕「アロイーザの館」におけるフルール・ド・リとフェビュスの結婚を控えた宴は、古典様式で始まる。『ラ・バヤデール』の「婚約式」(現行)のようなクラシック・チュチュでのグラン・パ。フェビュスとフルール、友人男女2組、花籠アンサンブル(『海賊』の「活ける花園」を想起)が、ソロ、デュオを交えて古典舞踊を踊る。エスメラルダの感情豊かな踊りに対し、フルールの古典様式が際立つ場面である。

続いて貴族たちの歴史舞踊、さらにワガノワが本作を改訂した際、宴の余興として取り入れた「ダイアナとアクテオン」(1935年)も加えられた。プティパの『カンダウル王』の「パ・ド・ダイアナ」(ダイアナ、エンディミオン、サチュロスのトロワ)を、ダイアナとアクテオンのパ・ド・ドゥに変更したもので(The Marius Petipa Society)、悲劇的結末を感じさせない牧歌的なパ・ド・ドゥである。古風なニンフ・アンサンブルも、清涼な神話の雰囲気を高めている。

2幕最後は二人の結婚を祝うため、ロマの踊り子たちが迎え入れられる。エスメラルダ、別室夫婦となったグランゴワール、エスメラルダの友人4人(パ・ド・シス)。エスメラルダは型通りの手相見でフルール・ド・リを祝福し、グランゴワールとのブリゼ・ユニゾンを含む華やかなアントレを踊る。直後、フルールの相手がフェビュスと分かり、絶望の淵に。グランゴワールに促され、支えられて、脱力のアダージョを踊り始める(現行「パ・ド・シス」はワガノワ改訂振付で、グランゴワール・ソロはアクテオン同様、チャブキアーニ振付とのこと)。踊りが終わり、エスメラルダがフェビュスに貰ったスカーフを身に着けると、フルールが見咎める。彼女の贈り物だったのだ。婚約は破棄、フェビュスはエスメラルダの後を追い、フルールは指輪を投げつける。

2幕では、古典の薫り高いグラン・パ、パダクションに近いパ・ド・シス、『ラ・バヤデール』『ラ・シルフィード』を想起させる芝居が並列され、19世紀バレエの様式の変遷を思わされた。作品の結末はペローの台本通り、フェビュスが刑場に走り込んできて、真犯人のフロロを告発。エスメラルダとフェビュスが結ばれるハッピーエンドである。フロロの最期は、養い子のカジモドにセーヌ川へ突き落される演出となっている。

主役のエスメラルダは、1幕の足技、回転技多用の踊り、2幕の抒情的な踊り、3幕のダイナミックなアダージョを踊る技術と、雄弁なマイム・芝居の技量が要求される。今回は新国立劇場バレエ団の米沢唯、元東京バレエ団の川島麻実子、元Kバレエカンパニーの白石あゆ美が配された。そのうち初日と二日目ソワレを見た。

米沢のエスメラルダは登場した瞬間から、旋風を巻き起こす。動きは俊敏、誰の手も届かない悪戯っぽい妖精の雰囲気。目にも止まらない足技の数々を、息をするように踊り、瞬く間に消えてしまう。鮮やかな踊りもさることながら、役作りの深さに驚かされた。グランゴワールへの同情とからかい、フェビュスへの恋心と恥じらい、カジモドへの情け深さが、手に取るように伝わってくる。ペロー版初演者のカルロッタ・グリジは、ユーゴ―原作を読み込んでいると評されたが(Ivor Guest, The Romantic Ballet in England, Pitman, 1972, p.105)、米沢も同様だろう。2幕の虚脱状態、3幕の白衣での狂乱は、米沢の本領と言える。

フェビュスは中家正博。美しいラインにノーブルな佇まい、ゆったりとしたサポートで、ワガノワの正統派ノーブルスタイルを体現した。2幕ソロも気品のあるマズルカ。終幕は米沢を大きく支えて、晴れやかなアダージョを演出した。

グランゴワールは木下嘉人、究極のはまり役だった。詩人の知性、乞食集団の仲間に入る自由さ、ロマンティックで清潔な踊りが揃う。『マノン』のレスコー役で証明した作品解釈、役理解の深さ、それを実行に移す芝居の巧さと技術を、惜しみなくグランゴワールに注いでいる。エスメラルダへの言い寄り方、宴での愛情深いサポート、エスメラルダのフェビュスへの愛を理解し祝福する心の広さなど、複雑な詩人像をこれほど的確に表現できるダンサーは他にいないだろう。

最終回のエスメラルダを踊った白石も、米沢同様、高度な技術の持ち主だった。これ見よがしのない踊りに、ジゼルのような佇まいで、身寄りのない美少女を造形する。初幕から終幕まで一貫してリリカルなアプローチだった。2幕脱力のアダージョも密やかである。3幕フロロへの拒絶は、悲しそうにフロロの十字架に触れるため、フロロの怒りが空回りに見えるほど。白石のロマンティック・バレエ解釈が底辺にあるのだろう。原作本来の悲劇的結末の方が似合うタイプかもしれない。

フェビュスは橋本直樹。ボリショイ系のりりしいダンス―ル・ノーブルである。2幕ソロも美しく勇壮。だが本領は人柄を反映した誠実なマナーにある。終幕のアダージョでは、白石を包み込む暖かい踊りを見ることができた。グランゴワールは清水健太。本来はフェビュス・タイプながら、軽めのコミカルな演技で芸域を広げている。パ・ド・ドゥでの厚みのある存在感は健在。ソロも重厚で、主役を歴任してきた蓄積を感じさせた。

フロロ初日の遅沢佑介ははまり役。暗い情念を立ち姿のみで表現、登場するとたちまち不穏な空気が漂う。カジモドの扱いも腹に入っていた。丹田に意識のある佇まいが、熊川哲也版『蝶々夫人』のボンゾウを思い出させる。最終回の小林貫太は、小林恭版『ノートル・ダム・ド・パリ』でも父の当たり役フロロを演じている。聖職者であることと欲望との葛藤をリアルに表現。本来はグランゴワール・タイプだろうか。所々人の好さが垣間見えるフロロだった。

カジモドは全日ベテランの奥田慎也。背中に瘤のある脚の不自由な男を、終始蹲るようにして演じた。鐘番のため耳が聞こえなくなったが、エスメラルダのタンバリンは聞こえるようだ。彼女への憧れ、フロロへの複雑な愛情を体全体で表す。終幕、エスメラルダを殺そうとしたフロロを、セーヌ河へと追い込み突き落す後ろ姿に、養い親を殺す悲痛な思いが滲み出た。

フルール・ド・リ初日の玉井るいは、伸びやかでややモダンな趣、最終回の渡久地真理子は、古典のスタイル、踊りの技術、感情のこもったマイムの三拍子が揃い、グラン・パを華やかにまとめ上げた。母親アロイーザは気品と風格のあるテーラー麻衣、貧民窟の頭目クロパンは、共に切れ味鋭い荒井英之、小山憲、ロマの女将メゲーラは包容力のある金田あゆ子、判事は味のある大ベテラン 岡田幸治が務めている。

コンサート・ピースでもある「ダイアナとアクテオン」は、初日が飯塚絵莉と牧村直紀、最終回は古尾谷莉奈と藤島光太。共に伸びやかで大きな踊りを見せた飯塚と古尾谷は、アクセントや体の角度がほぼ同じ。指導者の薫陶を感じさせた。一方男性二人は対照的。牧村は大らかな踊りに献身的なサポートで、温かみのあるアクテオン、藤島は所属団体のノーブルスタイルを遵守しつつ、アメリカ仕込みの華やかな技巧を駆使して、覇気あふれるアクテオンを造形した。

エスメラルダ、フルール、フェビュスのそれぞれ友人たち、道化たちを始め、広場の男女アンサンブル、花かごアンサンブル、ニンフアンサンブル、貴族や聖歌隊の立ち役に至るまで、血の通った舞台。特に広場のアンサンブルは躍動感にあふれる。コロナ禍等の諸般の事情で、ブルラーカ、振付補佐のフョードル・ムラショフはリモート指導とのこと。バレエ・ミストレス 佐藤真左美、角山明日香の渾身の指導が、質の高い生きた舞台を作り上げたと言える。

録音音源での上演ながら、プーニ(ドリゴを含む)の音楽の素晴らしさが伝わってきた。次回はオーケストラによる生演奏を期待したい。

追記】オペラ史研究家の岸純信氏によると、ユゴー自身が台本を書いたオペラ『ラ・エスメラルダ』(作曲:ルイーズ・ベルタン)の終幕は、フェビュスが現れてエスメラルダの無実を証言し、その後絶命するとのこと(『オン★ステージ新聞』2022.5.1号)。二人が結ばれるのはバレエ仕様ということか。

 

2月に見た公演 2022 【訂正あり】

2月に見た公演について、メモしておきたい。

 

関かおり PUNCTUMUN『こもこも けなもと』(2月6日 吉祥寺シアター

振付・演出は関かおり。出演は、内海正孝、大迫健司、北村思綺、後藤ゆう(振付助手も)、佐々木実紀、清水俊、髙宮梢、真壁遥。以下は公演当日に書いた感想メモ。

面白い。埋め草がなかった。構成を考えてというよりも、自然発生的に作り上がっている感じ。音は無音がほとんどだが、時折、鳥の声、人の声、機械音、風の音、波の音が入る。中盤『瀕死の白鳥』がチェロから次第に人声で歌われる。この時の振付は、両腕を横に伸ばしてぐるぐる回す。クラリネットオーボエも概ね自然音に近い。ダンサーが立って客席を見る時は、客電が付く。客も見られている。ダンサーは薄ら笑い。

以前見たときは、四つん這いが多かったが、今回は様々な体を見ることができた。膝曲げひょこひょこ歩き(爺さん歩き)、前屈して片足を前に振って踏む前進など。ダンサーは自分をモノ化することができる。同時に個性も発揮できる(← 不思議)。ずっと見ていられるのは、全てに関の思考が行き渡っているから。ユーモアもある。自然な環境での動きの追求は、自分にとってはエンタテイニング。原始的な物語はある。

関は誰とも似ていない。誰の影響も受けていない。独力。明るい実験工房。前衛風の退廃はなく、これ見よがしなく、気持ちよく見た。

内海は長身で原始的な大きさ。大迫は滋味、受容力あり。北村はドラマを含んだ顔、体も美しく、よく磨かれている。後藤は風が吹くような体、意識化されている。終盤のソロは目が離せなかった。佐々木はオカッパで三転倒立。清水は人の好さ。髙宮はショートで小野絢子似。すっきりしている。真壁はボソッとした個性。

 

水越朋✕力石咲『エコトーン ECHO-TONE』(2月12日 吉祥寺シアター

吉祥寺ダンス LAB. vol.4 。vol.1 は、北尾亘✕ASA-CHANG『シノシサム』、vol.2 は、岩淵貞太✕額田大志『サーチ』、vol.3 は、かえるP『PAP PA-LA PARK/ぱっぱらぱーく』と、異ジャンルと絡む実験色の強い企画である。今回はダンサーの水越朋、ニットで創作する美術家の力石咲の組み合わせだった。劇場入口からニット玉のインスタレーションが観客を出迎える。舞台では、シモテ前上方に赤いニット玉が吊られ、そこから一本のロープ状毛糸が丸い穴へと垂れ下がっている。カミテには、奥に向かって高くなる巨大な釘の列が整然と並ぶ。編み機のようだ。

上演時間は1時間20分。その前半部はニット玉がほぐれる時間だった(奥壁で生中継映像あり)。むくりむくりとロープ状の毛糸がほどける映像を見ていると、何とも言えぬ快感がある。実物の方は、ほどける度にぶるっと震える。まるで生き物を見るようだった。こうした空間の中、水越はつま先立ちでスロー歩行した後、毛糸玉と共にほどける体となった。くねりくねりと動く体とむくりむくりほどける毛糸玉の呼応、面白かった。

後半は毛糸を編む時間。力石が一人黙々と巨大編み機でジグザグ模様を編んでいく。その間、中空では二つのニット玉モビールが流動する。互いに追いつきそうで追いつけない絶妙な間合い。空間をゆっくりと撹拌し、観客の体を催眠術のようにほぐしていく。音楽は、音階、動物の鳴き声、鐘の音、鼓動など。ダンス LAB にふさわしい空間体験だった。水越のダンスは後半やや強度を落としたが、意図したものだろうか。

 

谷桃子バレエ団「Love Stories in Ballet」(2月23日 玉川区民会館・ホール)

バレエ団の主役級が6つの愛を踊り継ぐバレエコンサート。客席には親子連れが多く、童話の世界から濃厚な愛の情景までを、近距離で楽しんでいた。演出・振付は伊藤範子。これまでチャコット主催の普及公演でも、細やかな美意識に則ったバレエコンサートを演出している。今回も衣裳の選択に始まり、的確な選曲、適材適所の配役、音楽的で難度の高い振付を見ることができた。ダンサーへの要求もいつもながら厳しく、作品に応じた演技と舞踊スタイルが徹底されている。

プロローグはヴェネツィアの星空の下、仮面を付けた黒い衣裳の女性クラウンたちが、マンドリン曲をバックに、6人の女性主人公を次々と導いていく。クラウンたちは言わば狂言回しで、大きな白い木枠を動かしては場面転換させ、時にアンサンブルとして踊りに参加した(最初はクラウンと思わず、愛のキューピッドなのに黒い服?と思ったりも)。

1つ目の愛は『白雪姫』― 慈しみの愛。可憐な白井成奈が、7人の小人と可愛らしく交流する。2つ目の愛は『くるみ割り人形』― 憧れの愛。樅の森で、前原愛里佳の瑞々しいクララと、行儀のよい王子 土井翔也人が、初々しいパ・ド・ドゥを披露した。

3つ目の愛は『シンデレラ』― 切ない愛。舞踏会での出会いと別れを、木枠を駆使して演出。ラピスラズリのドレスを身に着けたシンデレラ 山口緋奈子は、演技派。王子 市橋万樹との出会いを情感豊かに演じた。市橋は踊りも凛々しく、礼儀正しく山口をサポートする。踊りもさることながら、二人の演技の細やかさに目を奪われた。

4つ目は『ロメオとジュリエット』― 燃えるような愛。グラン・リフトのあるドラマティックなバルコニー・パ・ド・ドゥを、齊藤耀と牧村直紀が踊る。齊藤の可愛らしさ、豊かな音楽性と、牧村の暖かい包容力が響き合い、生き生きとした喜び、瑞々しい愛に満ちたパ・ド・ドゥとなった。終盤、二人が同じ振付をカノンで踊るシークエンスは、まるで対話のよう。微笑ましかった。

5つ目の愛は『千夜一夜物語』― 魅惑的な愛。【以下訂正文】シェヘラザードとシャフリヤール王を、馳麻弥と三木雄馬が踊る。紫のハーレムパンツを身に着けた馳は、濃厚で強い存在感。持ち前の強靭な動きに繊細さが加わり、王を誘う姿に煌めくような艶やかさを漂わせた。対する三木は考え抜かれた演技と踊り。しなやかで分厚い肉体、ベールを含めたサポートも万全。馳を自由に踊らせた。艶めかしくエロティックなパ・ド・ドゥに、客席の子供たちがどう思ったかという心配も。

6つ目の愛は『ドン・キホーテ』― ハッピーエンドの愛。ソリスト、アンサンブルを加えたグラン・パを、技巧派の竹内菜那子と田村幸弘が踊る。竹内の決めが鋭くメリハリある 江戸っ子のような踊りが素晴らしい。正確な技術はもちろんのこと、全てに神経を行き届かせた目の覚めるようなキトリだった。テクニシャン田村も、少し気圧され気味ながら、高い技術と覇気で応戦した。高谷麗美、奥山あかりのヴァリエーションも見応えがある。

フィナーレはレハールの『メリーウイドウ』(舞踏会の妖精たち)で全員が登場、6組が同じアラベスクを見せるシーンは壮観だった。童話に始まり、若い愛から成熟した愛、さらに古典の頂点に至る、バレエへの愛に満ちた公演だった。

 

 

1月に見た公演2022

1月に見た公演について、メモしておきたい。

 

島地保武『藪の中』(1月13日 セルリアンタワー能楽堂

本作は「伝統と創造シリーズ」として、2012年に同能楽堂で初演された。演出・振付の島地保武は、当時ザ・フォーサイス・カンパニーに所属しており、全体にフォーサイスの影響が濃厚だった印象がある。今回は初演と同じダンサーを起用しながらも、完全に島地の作品だった。フォーサイスの影響と折り合いをつけつつ、自分の体で考えてきた結果と言える。配役は、多襄丸:島地、真砂:酒井はな、金沢武弘:小㞍健太、木樵:東海林靖、検非違使・巫女:津村禮次郎。

芥川龍之介の原作に沿い、個々の体験を描いていく構成・演出。時系列の巻き戻しが説明的にはならず、重層的に重なっていく。島地と酒井によるフラダンス風脱力ユニゾンや、小㞍と東海林による切戸口と貴人口を使ったぐるぐる回り(長過ぎる)など、島地らしさを見せるものの、緻密な構成が前面に出る正攻法の作品である。振付はコンテンポラリーダンスをベースに、能の摺り足、床踏み、切るような直線的腕使い、空手の型、伸びやかなバレエライン、膝を緩めた中腰、よろけ、突っつき、耳つまみ(松つまみ)を組み合わせている。空手は予想外だった。

音楽には熊地勇太を起用。酒井のソロに使われた唯一の既成曲、バッハ『ゴールドベルク変奏曲』の弱音から通常音に至る微妙なあわいが素晴らしかった。全体的には、笙、琴、太鼓、おりん、虫の音、かじかの声、鶯、燕の鳴き声を組み合わせ、音の強弱、切り替えにより、装置のない能舞台に次々と日本の自然を感じさせる空間を生み出した。

真砂役 酒井の妖艶さ、華やかさ、「いる」ことの強さ。これまで培ってきた身体技法が全て生かされている。酒井に充てられた奇妙で可愛い振付は、島地の愛である。対するダンサー島地は野性的な大きさを発揮、酒井を手籠めにする説得力を示した。終盤で聞かせたバリトンの台詞回しは、演劇との親和性を感じさせる。岡田利規とソロが作れそうな気がする。小㞍の品の良いすっきりとした踊り(小心者のソロでさえスタイリッシュな美しさがある)、東海林の軽妙さ、野性的勘のよさが、的確な座組を物語る。さらに謡と舞を担当する津村にも、コンテの語彙、‟喃語”の謡を振り付けて、能とコンテンポラリーの真に有機的な結合を実現させた。島地のメルクマールとなる作品である。

 

新国立劇場バレエ団「New Year Ballet」(1月14, 15日 新国立劇場 オペラパレス)

本来はアシュトン版『夏の夜の夢』(新制作)とバランシン振付『テーマとヴァリエーション』だった。コロナ禍で指導者招聘が叶わず、『テーマとヴァリエーション』はそのままに、昨年オンライン配信(コロナ陽性者のため)されたビントレー振付『ペンギン・カフェ』が上演された。『夏の夜の夢』は吉田監督にとって特別な作品で、初演者のアンソニー・ダウエル、アントワネット・シブリーに直々に教わったとのこと。上演が待たれる。

『テーマとヴァリエーション』(47年)は、米沢唯と奥村康祐(速水渉悟の故障降板で代役)、柴山紗帆と渡邊峻郁のWキャスト。初日の米沢と奥村は晴れやかな組み合わせだった。米沢の柔らかい輝くようなオーラ、丁寧なパの連続と、奥村のノーブルかつ思い切りのよい踊りで、観客を祝福する気持ちのよい舞台を作り上げた。一方、柴山と渡邊はすっきりとした組み合わせ。柴山のポール・ド・ブラ、エポールマンの端正、脚技(パ・ド・シャ、ガルグイヤード)の美しさは、団内でも抜きん出ている。音楽との一体化を含め、理想的なバランシンダンサーと言えるだろう。ただし、直前のミスをアダージョまで引きずったのは残念。対する渡邊は献身的なサポート、覇気あふれるソロで、美しい王子役を体現した。男性二人の騎士然とした佇まいは、高岸直樹効果か。男女ソリストは技術あり、アンサンブルもライン美ではなく動きの質を重視している。

ペンギン・カフェ』はビントレー初期の傑作(88年)。絶滅危惧種の動物たちが人間と共に、様々な民族風音楽で楽し気に踊る。背後にある人間の環境破壊、気候変動への痛烈な批判は、直截にではなく詩的に提示される。いかにもビントレーらしい。

昨年と同じペンギンの広瀬碧が役作りを深め、終幕の無邪気な立ち姿に哀感を忍ばせた。奥村の高貴なシマウマ、福岡雄大のはじけるサンバモンキー、福田圭吾の可愛らしい脱力ネズミは はまり役。例によって熱帯雨林の本島美和と貝川鐡夫が、無意識で結ばれる夫婦を現出させた。今回 米沢(オオツノヒツジ)と本島の作品理解が、ビントレー本来の世界を立ち上げることに大きく寄与。二人の真摯な姿勢に、誠実さを旨とするビントレーの芸術観が浮かび上がった。

東京交響楽団率いる指揮の冨田実里は、珍しく踊りとの齟齬を感じさせた。最終日には調整されたと思うが、ダンサーへの強いシンパシーが原因か。

 

谷桃子バレエ団『ジゼル』(1月16日 東京文化会館 大ホール)

創立者 谷桃子の代名詞と言われた作品。57年団初演以降の演出の変遷、今回の演出意図が、髙部尚子芸術監督によってプログラムに記されている。現行版はボリショイ版を基に、谷、望月則彦の手が加わっているとのこと。7年ぶりの今回、髙部監督は特に「ジゼルの身体のラインと感情面の連動」を重視したと述べている。

ジゼルは初日が馳麻弥、二日目が佐藤麻利香。今回で全幕が最後という佐藤を見た。7年前のジゼルからは大きく成長、円熟の域に達している。前公演の『オセロ』でも、鮮やかな技術、的確かつ細やかな演技で、磨き抜かれたデズデモーナを造形したが、ジゼルも同様だった。高い技術はもちろんのこと、感情を豊かに出しながら、日本的な控えめ、慎ましさを体現する。一つ一つのパに心が宿る、谷桃子バレエ団のプリマらしいジゼルだった。全てがコントロールされた緊密な体、心のこもった的確な演技が揃うベテランの境地にある。

対するアルブレヒトは、前回『ジゼル』と同じ組み合わせの檜山和久。少しニヒルな味わいのノーブルダンサーで、『オセロ』での華やかなキャシオー像が記憶に新しい。今回も地を生かしたアプローチ。感情表出もよく考えられているが、古典ならではのマイムの音楽性、様式性が弱く、立ち姿も少しカジュアルに見える。バレエ団には齊藤拓というお手本がいるので、伝統を継承して欲しい。アルブレヒトのみならず、1幕のヒラリオン(田村幸弘)、ベルタ(尾本安代)、バチルド姫(日原永美子)、ウィルフリード(吉田邑那)も優れたダンサーながら、マイムが弱く、バレエ団伝統の演劇性を立ち上げるには至らなかった。クーランド大公のベテラン内藤博のみが、かつての雰囲気を護っている。マイムよりも生の演技を優先する演出なのだろうか。

打って変わって、舞踊で物語る2幕はドラマティックだった。ミルタの竹内菜那子は激しい気性。クイッとした動きは動物的でさえある。躍動感にあふれ、霊的というよりも人間的な肚を感じさせる鮮やかなミルタだった。永井裕美、北浦児依の美しいドゥ・ウィリ、娘らしいウィリ・アンサンブル共々、バレエ団の伝統がよく生かされている。

指揮の渡邊一正は、シアター オーケストラ トーキョーから、メロディのよく聞こえる実質的な音を引き出している。ジゼル佐藤とは阿吽の呼吸。ジゼルの心情に寄り添う暖かな音楽は、佐藤の全幕花道を飾る大きな支えとなった。

 

Kバレエカンパニー『クラリモンド~死霊の恋~』全編他(1月29日 Bunkamura オーチャードホール)【追記あり

標記公演を中心としたトリプル・ビルの幕開けは、芸術監督 熊川哲也振付の『Simple Symphony』(13年)。ブリテンの同名曲に振り付けたシンフォニックバレエである。幾何学模様の美術、チョーカー付きのシックな黒チュチュが美しい。振付はアシュトンの影響下にあるが、熊川にしか出せないステップの切り替え、無垢な喜びにあふれる。鋭い足技、超絶回転技、変則トゥール・アン・レール、リフト時の急なアラベスクなど、火花を散らすバレエ技法の連続に、息つく暇もなかった。英国らしい感触を残しつつ、自らの音楽性を突き詰めたクリティカルな作品である。成田紗弥の繊細で切れのよい体捌き、髙橋裕哉の優美なスタイル、小林美奈の暖かさ、山田夏生の鮮やかさ、杉野慧、吉田周平の控えめなパートナーぶりが印象深い。

続く『FLOW ROUTE』(18年)は、舞踊監督 渡辺レイ振付のコンテンポラリー作品。ベートーヴェンの3つの音楽を使用し、オーケストラ演奏で踊られる。コンテ色満載の1、3景は、ダンサーにとってチャレンジングな振付だが、振付家の個性は、むしろ2景のアダージョで発揮された。熊川の『Simple Symphony』と呼応する妙味がある。熊川作は3組の男女で出入りなし、渡辺作は4組で出入りありと異なるが、続けて上演されることで、似たような質感(影響関係)を感じさせた。飯島望未の柔らかいコケティッシュな体、山本雅也のデモーニッシュな色気が、作品を突き抜けた世界を作り上げる。よい組み合わせだった。

最後の『クラリモンド~死霊の恋~』は、2018年初演作(コチラ)を2幕に拡大した全編版。ゴーティエの原作に沿い、ショパンのピアノ協奏曲1、2番、同ピアノ曲オーケストレーションを組み合わせて、一つの流れを作っている(音楽監修:井田勝大、編曲:横山和也)。今回は衣裳デザインにセリーヌ・ブアジズが加わり、19世紀ドゥミ・モンドを華やかに描き出した。1幕は修道院、夜の街、娼館、2幕はロミュオーの部屋(初演版の場)という構成。それぞれ古風な紗幕で区切られる。

1幕の修道院、娼館での音楽的で多彩な踊りもさることながら、クラリモンドとロミュオーの2つのアダージョが、熊川の円熟を示している。1幕では協奏曲2番で、高級娼婦と若い神学生の『椿姫』を思わせる愛のパ・ド・ドゥ(その後クラリモンドは結核で亡くなる)、2幕では協奏曲1番で、ヴァンパイアと背徳の神父による愛のパ・ド・ドゥが踊られる。愛の形は異なるが、いずれもきめ細かい音楽性、豊かな語彙、精緻な振付が揃う優れたパ・ド・ドゥだった。

演出面では、死霊のクラリモンドが夢うつつでロミュオーの首に嚙みついた後、ロミュオーが彼女の形をなぞると、人間味を帯びてくる場面、ロミュオーが自らの手首を切って、クラリモンドに血を吸わせる歓喜の場面、クラリモンドがロミュオーの愛に打たれて、十字架に身をさらし、銀色の破片となって飛び散る場面に、熊川らしい愛の考察が感じられる。【追記】映像で確認したところ、今回は銀色の破片はなし、ドレスのみが残されていた。

主役のクラリモンドには日髙世菜。1幕のゴージャスな高級娼婦はやはりマルグリットを思わせる。結核を患いながらも闊達な踊りで場をさらい、若いロミュオーの純愛に鷹揚に応える。この時はまだヴァンパイアの血筋であることを知らず、ロミュオーを連れ戻しに来た修道院長を、自らの力で退散させたことに驚く場面も。マダム・バーバラの腕の中で息絶えるはかなさは、マルグリットそのものだった。死霊となってからはミルタのような趣。ロミュオーの首筋に噛みつき、血をなめて生き生きと蘇る場面から、彼の愛に打たれ自死するまでの怒涛のような感情の流れを、全身で表現した。脚の雄弁さもこれ見よがしでなく、役に収まっている。1、2幕の繊細な演じ分けに加え、出てくるだけで濃厚なドラマを立ち上げる存在感の素晴らしさ。まさしくプリマの舞台だった。

対するロミュオーは初演者の堀内將平。神学生らしい純粋さ、美しく清潔な踊りで、自己犠牲の愛に説得力を与えている。友人のセラピオンには同じく初演者の石橋奨也。初演時よりも役作りが深まり、真面目さの上に成熟した包容力が加わった。今回新たに作られたバーバラには、初演時のクラリモンド浅川紫織が配された。娼館のマダムらしく酸いも甘いも嚙み分けた風情。そこに人の好さの滲み出る点が浅川らしい。2幕を日髙に指導したこともあり、二人の交流には暖かさがあった。ロートレックの関野海斗、修道院長のグレゴワール・ランシエも適役。両者とも切れのよい鮮やかなソロを披露した。

井田勝大指揮、シアター オーケストラ トーキョー、さらにピアノ独奏の塚越恭平は、カンパニーらしい舞台との一体感を実現。塚越の美しい音も忘れ難い。

 

 

 

 

12月に見た公演 2021

昨年12月に見た公演について、メモしておきたい。

 

「DaBY パフォーミングアーツ・セレクション」(12月10日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

Dance Base Yokohama で過去2年間創作された7作品を、5つのトリプル・ビルに組んだセレクション。その初回を見た。プログラムは、①『瀕死の白鳥』+『瀕死の白鳥 その死の真相』、②『BLACK ROOM』+『BLACKBIRD』よりソロ、➂『When will we ever learn?』。①についてはコチラ。②は横浜でのトライアウトを見ている

愛知での本公演を経た中村恩恵の『BLACK ROOM』は、よりソリッドな作品に。中村の体も試行錯誤の柔らかさが抜け、隅々まで意識の及ぶ舞台の体となっていた。動きの切れが増し、手のフォルムが研ぎ澄まされている。黒い部屋にどんどん入り込んでいく孤独の色が、さらに濃厚になった。一方キリアン作『BLACKBIRD』よりソロは、トライアウトでのバレエ系からフォークロアへと印象が変わった。グランプリエの力強さ。キリアンとの歴史を感じさせる。NDT 時代、中村のキリスト教的内省は、キリアンの美的世界に実存の深さを加えていたのではないか。

➂は鈴木竜振付。出演は鈴木、飯田利奈子、柿崎麻莉子、中川賢の実力派が揃った。同じシークエンス(ダンサーが縦1列に並んでから、集団フォルムを作り、鈴木を仰向けリフトしてから、鈴木を中心にポーズを決める)を繰り返し、その都度状況を変えていく。最初は男が女を虐待、または愛の行為と思われたものが、最後は女と男が逆転、さらに男同士、女同士にもなる。暴力とエロスにジェンダーが絡む骨太の作品だった。カントリーウエスタンで肩を振って踊るゴーゴーのような踊り、男女が抱き合って、女の腹に男の頭を押し付けると、女が押し返す愛の形が印象深い。これを踊った柿崎の自然さ、肚の決まり方が尋常ではなかった。柿崎が作品のドライブになっている。また中川がこれ程までに個性を消し去るのを初めて見た。捧げ切っている。ダンサー鈴木の印象は上体の大きさ。つまりパトスが強い。作品も同様。反対に足元を見る(内省する)ダンスを作るとどうなるだろうか。

このトリプル・ビルの隠れコンセプトは、①白鳥(酒井)、②黒鳥(中村)、➂ロットバルト(鈴木)?

 

スターダンサーズ・バレエ団『ドラゴンクエスト(12月17日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

95年初演の重要なレパートリーの一つ。今回の舞台は昨年亡くなったすぎやまこういち(音楽)に捧げられた。演出・振付は鈴木稔、舞台美術・衣裳はディック・バード(18年~)による。当日のキャストは、白の勇者が林田翔平、黒の勇者が池田武志、王女が渡辺恭子というベストトリオ。魔王:大野大輔、賢者:福原大介、戦士:西原友衣菜、武器商人:鴻巣明史、伝説の勇者:久野直哉、聖母:角屋みづきも、適材適所の配役だった。

バードの美術・衣裳に変わったことで、バレエ作品としてより普遍的な外観が整い、海外公演も果たすことができた。その一方、日本人の琴線に触れる浪花節的な感情の発露が、これまでよりも後退しているのが気になる。黒の勇者の最期は、自分の出自(白の勇者と双子)を知った衝撃と、育ての親である魔王への愛情に引き裂かれ、魔王を道連れに崖から身を投じるという自己犠牲を伴う死である。そこに感動があったのだが、今回はそうした演出を感じることができなかった。勧善懲悪的な物語に方向転換したのだろうか。新村純一の陰影深い黒の勇者が思い出される。

 

井上バレエ団『くるみ割り人形(12月19日 メルパルクホール

振付は関直人、美術・衣裳はピーター・ファーマーによるバレエ団伝統の版。主役はWキャストで、当日の金平糖の精は若手の齊藤絵里香、王子はゲストの浅田良和が務めた。齊藤は磨き抜かれた様式性を体現、バレエ団の伝統を継承している。体の向き、視線、腕の置き方、頭の傾げ方、ふんわりと丸い腕の形、まろやかな全体のフォルム。かつてのプリマ藤井直子を想起させる。舞台に捧げる強度も素晴らしく、カーテンコールに至るまで精神性が滲み出ていた。一方の浅田は絶好調の踊り。伸びやかで極限まで体を使っている。柔らかい体捌き、美しい脚技、献身的なパートナリングは健在。フリッツの利田太一も師匠同様、美しく柔らかい踊りを披露した。

ドロッセルマイヤーは大ベテラン堀登から佐藤崇有貴にバトンタッチ。全体に関時代のあっさりとしたマイムから、華やかなマイムへと変わっている。おとうさんの原田秀彦は少しコミカルになったが、二枚目のままでよいのではないか。関が19年に急逝し、以降は複数の演出陣が指導を行なってきた。バランシンに影響を受けた関の祝祭的音楽性は、微妙なニュアンスの違いで再現が難しくなる。雪片のワルツは昨年よりも改善されたが、やはり関生前のような音楽の高揚感を醸すには至らなかった。

ロイヤルチェンバーオーケストラ率いる御法川雄矢の豊かな音楽性を堪能。師匠堤俊作が編曲したフィナーレのクリスマスソングを、楽しそうに指揮していた。

 

新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形(12月18日昼夜、21日、31日 新国立劇場 オペラパレス)

ウェイン・イーグリング版。2幕冒頭など分かりにくい場面もあるが、全体に子供の心情に寄り添った優れたファミリー・バレエになっている。子役への振付が高度(特に小クララのソロ)。また1幕1場の可愛らしい少女たちが、2場ではブーツを履いたファンキーな小ねずみたちとなって踊る。クラシカルとコンテンポラリーの両刀使いは、現代では必須か。イーグリング振付は、踊りとドラマが合致する時に最も発揮されるようだ。詩人、青年、老人、姉ルイーズによる恋の鞘当て劇中舞踊(通常自動人形の場面)、グロスファーターの世代継承シーン(杖と補聴器が若夫婦に渡る)の素晴らしさ。後者は振付の鮮やかさに見惚れると同時に、心もじんわりと暖かくなる。

今回、樅の森のアダージョが強力にブラッシュアップされた。これまで暗幕の前(なぜ?)で淡々と振付をこなしていたのが、クララと王子の濃やかな愛の対話となっている。吉田マジックだろうか。大晦日、正月三が日公演を実行に移し、ねずみの王様を分担させるなど、そこかしこに吉田監督の息吹が感じられた。さらに今回はアレクセイ・バクランの指揮が加わっている。バクランの『くるみ割り人形』に対する特別な思いは次の通り。

くるみ割り人形』には、非常に精神性の高い曲が散りばめられています。だから、音楽家や指揮者は、心に偽りや不誠実があると弾けません。序曲や第1曲は子どもの世界を描いた曲です。子どもは心がとても清らか。ですから我々大人も、子どものようなピュアな心で演奏しなければいけません。(『The Atre』2016年1月号)

振付のパ数の多さを感じさせないベテランの味、持ち前のバレエ愛、全身全霊を傾けた爆発的エネルギーで、舞台を牽引した。

今回のキャスト表では、役デビューに★印が付いている。見た順に、中島春菜のおっとりした花のワルツ、中島駿野の子供の扱いに長けた品のあるドロッセルマイヤー、渡邊拓朗の荒々しいねずみの王様、中島瑞生のノーブルなスペイン(中島が3人いる)、廣川みくりのきびきびとした花のワルツ、柴山紗帆の涼やかなクララ/金平糖の精(金平糖は2回目)、飯野萌子の芝居心あるルイーズ/踊りの巧い蝶々、小柴富久修の美脚なのに仕草が一々面白いねずみの王様、上中佑樹の情熱的な青年/騎兵隊長。初役ながらそれぞれが個性を発揮した。

晦日のカーテンコール時、中家正博ドロッセルマイヤーが進み出て、魔法の杖で雪の結晶の世界へと観客を誘う。すると突然、舞台両袖からクラッカーがバンと鳴り響き、金銀テープが客席に降り注いだ。小野絢子、福岡雄大を中心に、バレエ団のお礼の挨拶で1年が締めくくられた。当日の観客には、『シンデレラ』(小野=福岡、米沢唯)と『くるみ割り人形』(雪片アンサンブル)が表紙の罫線なしノートがプレゼントされた。

 

バレエ団ピッコロ『Letter from the sky ~ 愛しのメアリー ~』(12月25日 練馬文化センター 大ホール)

バレエ団恒例のクリスマス公演。コロナ禍のため2年ぶりとなる。最初に松崎えり振付『L'adieu』(演出協力:松本大樹)が上演された。松崎自身とキム・セジョンによる男女の愛と別れを、ゆったりとした透明感あふれる動きと呼吸で綴る。体の声に耳を澄ます自然派コンテンポラリーダンスである。「バレエクレアシオン」(日本バレエ協会)出品作では、群舞に極めて音楽的な振付を施していたので、バレエ団ジュニアへの振付も期待したい。

『Letter from the sky』は70年代から続くバレエ団の貴重なレパートリー。演出・振付は松崎すみ子。映画『メアリー・ポピンズ』の音楽を核とするパンチの効いた音楽構成が楽しい。松崎の音楽的で多彩なムーブメント、次々と新たな世界が現れる手作り感満載の演出が、子供の心を掴んで離さない。「不思議なひと」などのクリエイティヴなアクセントに、振付家松崎の自由な精神が感じられる。

主役のメアリーははまり役の下村由理恵。いつにも増して動きの正確な美しさ、練り上げられた演技で舞台を牽引した。傘を差して空に昇る凛とした姿に、いつも胸が熱くなる。バートの橋本直樹は、持ち味のダイナミックな踊りを役の内に収め、物語を生き抜いている。子供たちとの交流も暖かく自然だった。団員の小原孝司(バンクス氏)、菊沢和子(バンクス夫人)、山口裕美(お手伝いさん)、北原弘子(6人目のお手伝いさん)はもちろんのこと、ゲストの小出顕太郎(不思議な人)、堀登(銀行頭取)、大神田正美、井上浩一、水内宏之、大石丈太郎(銀行役員)の常連組一人一人が、子供たちを包み込む松崎ワールドを全力で支えている。子供たちも大人の真剣な演技に守られて、真っ直ぐで元気な踊りを見せた。振付指導は松崎えり。レパートリー保存の大きな要となった。

 

牧阿佐美バレヱ団『くるみ割り人形(12月26日 メルパルクホール東京)

創立者の牧阿佐美が亡くなって初めての公演。会場の都合で、美術を前版のモッシェ・ムスマンに戻している。期せずして『くるみ割り人形』にふさわしいノスタルジーが醸し出された。演出・改訂振付は三谷恭三。トリプル・キャストの最終回は、金平糖の精に上中穂香、王子に水井俊介、雪の女王に西山珠里、クララは宇佐美心葉が務めた。舞台は全体に明るさがあり、大黒柱を失った悲しみを、バレエ団が一丸となって乗り越えようとしているかに見える。ジュニアを含め男性ダンサーの踊りが伸びやかになったのは、アシスタント・バレエマスターに入った菊地研の効果か。

金平糖の上中は、アダージョでやや硬さが見られたものの、ヴァリエーション、コーダでは実力を発揮し、堅実に初役を務め上げた。対する水井は鮮やかな踊り。ヴァリエーションの美しさに目を奪われる。ただもう少しパートナーへの集中を期待したい。京當侑一籠の穏やかなシュタールバウム氏、甥(阿久津丈二)を従えたドロッセルマイヤーの菊地が、ベテランの包容力を見せた。また花のワルツソリスト、中川郁のほんわかした味わいには、いつもながら心が晴れる思い。末廣誠の熟練の指揮が、東京オーケストラMIRAI からゆったりと大きい音楽を引き出している。

 

 

山崎広太 @ Whenever Wherever Festival 2021

標記フェスを見た(12月23, 25, 26日 青山スパイラルホール)。今回の WWFesは、最初の二日間が「Mapping Aroundness ―〈らへん〉の地図」、残りの二日間が「Becoming an Invisible City Performance Project 青山編 ― 見えない都市」という表題。スパイラルホール、同ホワイエ、同控室、7days 巣鴨店を舞台に、多彩なプログラムが組まれた。造形・映像作品の展示、オンライン・プログラム、プレワークショップも加わり、ダンス・演劇・映像・美術を跨ぐ一大イヴェントに発展している(キュレーター:西村未奈、Aokid、福留麻里、村社祐太朗、七里圭、岩中可南子、沢辺啓太朗、いんまきまさこ、山崎広太、木内俊克、山川陸)。

ホールのプログラムは全て続けて上演される。いわば美術館のような鑑賞法である。初日は13時から20時、3日目は13時から15時、4日目は12時から13時と16時50分から18時のプログラムを見た。初日の「Mapping Aroundness」は、ホールとホワイエで同時刻の上演があったため、出たり入ったりしながら。3日目と4日目の「Becoming an Invisible City Performance Project 青山編 」は、山崎が全振付・演出を担当。本来13時間続けて見るべきプログラムだった。そんなことは思いもよらず、タイムラインが出たのが直前の19日ということもあり、他公演との兼ね合いからぶつ切り状態で見ることになった。返す返すも残念である。結果として、初日の即興公演と併せ、山崎振付の群舞ばかりを見た印象で終わった。

初日の最終演目、2時間の完全即興『ダサカッコワルイ・ダンス』は、Aokid、山崎広太(島地保武の故障降板で代役)、小暮香帆、後藤ゆう、鶴家一仁、宮脇有紀、モテギミユ、山口静の出演。表題は、郡司ペギオ幸夫著『やってくる』(2020年 医学書院)中の概念「ダサカッコワルイ」から採られている。

ダサカッコワルイは、「ダサイ」かつ「カッコワルイ」ものではなく、「ダサイ」と「カッコワルイ」があたかも共鳴したかのように、新たな「スゴクカッコイイ=アメイジング」なものを実現するのです。もちろんそれは常に実現されるわけではない。外部から呼び込むのですから、ある意味で賭けです。しかし、まったくの偶然に任せ、水たまりに釣り糸を垂らして待つように、外部が飛び込む(魚がかかる)のを待っているわけでもない。漁師が仕掛けや潮流、天気に気を配るように、来るべくして来るものを待ち、賭けに出る。それが罠を仕掛けるということです。だから「ダサカッコワルイ」は、不安定で不徹底で未完成なものではなく、逆に「アメイジング」なものとして存在し得るのです。(pp. 164-5)  参考イラスト:西村未奈

ダンサーたちはこのような身体で即興に臨んだのだろう。最初は円陣を作り、山崎主導のウォーミングアップ、声出し、体動かし。それから無音で動き始める。鶴家が「ハハハハ」と奇声を上げると、山崎がポカンと眺める。個々の音楽指定があるらしく、小暮が急に踊り始めると、山崎が「言わないと掛けてくれないよ」、小暮「そーなんですか」とのやり取りも。山崎はチャイコフスキーくるみ割り人形』の花のワルツを得意げに。周囲は3拍子に戸惑うも、山崎は悠然とワルツを自踊りに変換する。吹奏楽指揮、井上バレエ団出演経験は知識として知っていたが、改めて山崎の優れた音楽性を確信した。

宮脇、山口、後藤、モテギの成熟した美女軍団、よく動くパワフル男でリフトもできる鶴家、かつての島田衣子・森山開次を思わせるネオテニー・デュオの小暮とAokid。即興なので構成はないが、ダンサーの座組が構成の代わりになっている。山崎の頭の中には大まかな動きのイメージがあるのだろう。山崎は全体を見渡しながら、時に活を入れ(いきなり鶴家に飛び掛かり、横抱きさせたり)、まとめていく。終盤、自分の中で一旦終わったのか「お客さんは帰っていいですよ」と言い放った。が、もう一度確認するように動き始める。椅子の上にいた後藤をトントンと叩いて呼びよせ、ダンサー全員が大きな塊となって終わった。ダンサー自身が音楽のきっかけを出す完全即興2時間は予測不能。楽しかった。

3日目は冒頭の2時間を見た。『折口信夫著〈死者の書〉をモチーフに、青山の地下に眠る無意識の身体の表出』と『室伏鴻土方巽をつなぐものは芦川羊子なのか?』のプログラム。客席を取り払った体育館のようなスパイラルホールに、17人のダンサーたちが横たわっている。観客は三方をぐるりと取り囲む。轟音のなか、身じろぎ一つしない肉体の連なりを見るだけで何か荘厳な気分に。二上山ならぬ青山の地下深くに眠る死者たちなのだ。しばらくすると目の前の死体の筋肉がピクリと動く。動きの微細な萌芽。一人がむっくり起き上がり、思い出したように再び横たわる。山崎は時々傍に行って死体に指示を与えるが、すでに膨大な量の言葉がダンサーたちに注ぎ込まれているのが分かる。

正面スクリーンには男女6人の寝顔。耳にイヤホンを突っ込み、互いの寝息を聞きながら眠っている(映像:ミルク倉庫+ココナッツ)。そこにピスタチオやヒキガエルについての断片的な発話が被さり、呆けたような身体感覚を観客にもたらす。地中に響くギター(竹下勇馬)の音も加わり、ホール全体が巨大な棺桶に。死体たちは徐々に蘇り、他人の上に乗っかったり、突っ張っては跳ね返ったり(室伏風)。あちこちで無意識の動きが入り乱れるなか、トリックスターの八木光太郎が「アー」と叫びながら、テッポウ、四股風足踏みで場を撹乱した。観客は目の前の死体を注視し、そのエネルギーを浴びる。ホールは生者と死者の交感の場となった。

ペルトのようなピアノ、サックス(舩橋陽)、鳥の声、太棹のビーンという音で、舞踏モードに。芦川は山野邉明香、土方は木原浩太か(モダンダンス出自)。後藤ゆうと小暮香帆のデュオも。山崎のグニャグニャ動きを全員で踊る迫力あふれるユニゾンは、傑作『ショロン』を思い出させた。最後は宮脇有紀の正統派舞踏で締めくくられる。山崎の舞踏についての考察が、若いダンサーたちに余さず伝えられた印象だった。

最終日の始まりも前日と同じ。17(だと思う)の死体が床に横たわっている。筋肉の蠢きに始まる動きの萌芽が、徐々に立ち上がる。室伏風の「突っ張ってはね返る」は前日と同じ。いびきの映像も。だがプログラム名は『身体の70%は水分』。ダンサーたちは前日の13時から20時まで、入れ替わりもありつつだが踊り続けている。まるでダンスの「虎の穴」。山崎が「蜷川幸雄」に思われてくる。

最後は『Non Stop Moving』と『大谷能生の DJ による80年代歌謡曲オンパレード~クラブミュージックファイナル・ダンスパーティ』。『Non Stop Moving』は同じ隊列フォーメーションで、全員がずっと踊り続ける。時折一人にスポットライトが当たるが、脇目も振らず真っすぐに踊るダンサーたちのエネルギーが素晴らしい。山崎も端っこで飄々と自在な踊り。小暮の火花を散らすような激しいソロ、山中芽衣の伸びやかで自然な踊りが目を引く。『ファイナル・ダンスパーティ』はランダムに。時折消毒液を手にすりこませながら、体対体でお喋りする。西村未奈、渡辺好博も加わり、華やかな打ち上げとなった。西村の明るく透き通った存在感、渡辺の会う人全てを幸せにする無垢な魂は、山崎ワールドの一翼を担っている。